古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

天王山

2007-10-16 | 旅行
 15、16日と労組時代の仲間と琵琶湖周辺の旅に出かけました。15日小牧駅に8時40分、Mさんの車に同乗し、東名・名神経由米原ICで降りて米原駅に。東海道本線にトラブルがあったらしく列車が遅れ、待ち合わせ時間は7,8分遅れたが無事Sさん、Hさんと合流できた。
 今日は、お天気が良ければ天王山、秀吉と明智光秀の古戦場、に登ろうという話になっていた。絶好の天候です。早速、彦根から名神に上がる。
 「大山崎ICの傍だって言ってたね」、「地図みても東名に大山崎ICってないよ?」。
 Mさんが「米原駅で待ってた時タクシーの運ちゃんに聞いたら、京滋バイパスの方が近いと言っていたから、そちら行こうか」と言う。そうしようと、瀬田東からバイパスに入る。地図を覗き込んだHさん「巨椋池って何と読むの?、これを過ぎたあたりで高速を降りた方が良い」。
 「おぐらいけ」と読むのじゃない?と小生。まもなく巨椋ICに来る「OGURA}とローマ字表記がある。「当たってたね」。暫く行くと、「枚方方面」、「吹田方面」との分岐に来た。「どちらへ行く」、「吹田へ行ったらダメじゃない?」、「じゃ、枚方方向に行こうか」。
 後で分かったが、これが間違い。吹田方面とは、名神に合流して吹田方面に向かうの意味で、その合流地点が大山崎ICだった。つまり、名神をそのまま走れば良かったのだが、運ちゃんの言うのは「名神は混雑が多くて、バイパスの方が空いていることが多い」の意味だったのだ。
 なお、この大山崎ICが出来たのは2003年で、私たちの見ていた地図は2001年発行だった。
 次のICで出口へ。出口で「大山崎はどちら?」と聞くと「料金を頂いてから」。料金を受け取って、彼「あそこでUターンしてもう一度高速に入ってください」。
 Uターンして入り口に戻ると、高速の入り口の横に高架の下を走る道がある。「この道でも行けると違う?」とそちらを走る。間もなく大山崎町に出た。町役場に出たのでHさん「地図を貰って行こう」。車を止めた。Hさんが役場に入っている間に路傍の看板を見ると「乙訓の街・・・」とある。「これは何と読むのかな?」、小生「おとくにじゃない?」。歩行者に「これ、何と読むのですか?」、「おとくに」。正解でした。乙訓郡という地名です。
 JRの山崎駅の近くに天王山登山口があり、町営の駐車場がありました。ここで車を止め近くのコンビニでお握りお茶など調達して登りはじめました。1時頃です。
 山頂は標高270mという。たいした高さではないのだが、上り始めはかなり急勾配だ。宝積寺という寺が最初にあった。三重の塔が目を惹く。
 解説のパンフに「牛頭天王を祀ったところから天王山と呼ばれる」とある。「牛頭はなんと読むの?」Hさんは今日は読みにこだわる。「”ごず”です。」と小生。登って行くと、密集した竹林が多い。
 「旗立松展望台」に来た。山崎合戦で、秀吉の「馬印」を松の梢に掲げたと伝えられる。
 秀吉、光秀他諸将の陣立て配置の絵が掲げられ、眼下の風景と比較できる。明智勢が横に鶴翼の陣なのに対し、秀吉側は縦に幾層も陣を配置している。兵力の差でこうなったのだろう。 
 「秀吉軍3万数千、光秀軍1万5千余と敵の半分の兵数で戦う、光秀はそんなに戦が下手だった?」とHさん。小生「いや、もっと援軍が来ると思ってたんでしょう」。
 堺屋太一さん監修の合戦説明を焼き付けた陶板画の一枚が(登山道全部で6枚)設置されていたが、陶板のタイトルにも、「援軍来たらず」、堺屋さんも言っている。
 2時、山頂に着き、遅い昼食を取りました。小憩後、記念写真を撮り下山を始める。
 「17烈士の墓」というのが見えた。「17烈士って明智方?」とHさん。傍の説明文を見ると「禁門の変で・・・」、「いや幕末の話らしいよ」と小生。「真木和泉以下の勤皇の志士が自刃した場所らしい」。
 下山の後、3時半過ぎ帰途に着いて、帰りは大山崎ICから東名、竜王インターから8号線で近江八幡へ。国民休暇村の宿舎には5時前到着しました。(つづく)