古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

賤ヶ岳

2007-10-18 | 旅行
 16日は、賤ヶ岳に登ろうということになった。8時半過ぎホテルを出る。
「彦根インターから高速に乗ろうか」、「いや、湖岸道路を木の本まで走った方が、景色も良いし時間も30分と違わないよ」ということで、湖岸道路を北上する。通称”さざなみ街道”、「・・・さざなみの志賀の都よ いざさらば」と歌にある”さざなみ”です。
 この道路は、まことに車の流れがスムーズで、高速並みに走れます。彦根、米原を過ぎて長浜に入り、間もなく長浜城が見える。秀吉が最初の城主になった城で、山内一豊もここの城主になったことは大河ドラマでご存知と思います。徳川の世になって、彦根城が出来てこの城は廃城になりましたが、天守閣が湖岸道路に勇姿を見せています。長浜の町づくりをした秀吉の人気で、長浜市は天守の再建をしたようです。
 1時間ほどで木ノ本町大音(おおと)に着く。ここに山頂に上がるリフトがある。乗り場の駐車場に車を置いてリフトに乗ることにする。料金¥400でした。リフトを降りて少し急勾配の坂道を上がると山頂、標高421m(麓から330m)です。
 山頂からは南に琵琶湖、北に羽衣伝説の余呉湖の二つの湖が見えます。伊吹山、霊仙山、姉川、竹生島など360度の展望を楽しむことが出来ました。もちろん、古戦場ですから、解説の掲示板が設置されています。1583年春、羽柴秀吉勢5万と柴田勝家勢3万の決戦場。大垣で織田信孝と対峙していた秀吉は、佐久間盛政(柴田の武将)が動いたとの報に接し、賤ヶ岳に駆けつけます。50kmを5時間で駆けつけたと伝えられる。市民マラソン並みのスピードです。マラソンは荷物なしですが、甲冑に身を固めて走るのはたいへんだった?もっとも侍大将は馬ですが。
 「先日、NHKでやっていたばかりだネ」とHさん「前田利家が戦線離脱して、これが戦局を決めた」
 山崎の合戦も光秀の迎撃体制が整わないうちに備中(岡山県)から山崎まで駆けつけた!いわゆる中国大返し。大兵力を一挙に移動させるというのが、当時の秀吉の得意手だったらしい。
 賤ヶ岳古戦場の碑を横にして、ここまで来た記念写真を撮り、お茶にした後、下山コースにつきました。
森林浴を楽しみながら、小一時間かけてゆっくりリフトの乗り場に降りる。
 「帰りはどのコースにする?」、「湖岸道路を戻りながら、適当なレストランを見つけよう」ということになって、11時半ごろ賤ヶ岳を後にしました。
 ところが、この辺りは火曜休日の店が多い。結局、米原駅の近くに来てから、並みの食堂に入って、食事でした。
 1時、米原駅前でHさん、Sさんを降ろして再会を約しました。小牧駅までMさんの車で送ってもらい、3時前には帰宅できました。
 以上、秀吉、光秀、勝家の古戦場めぐりの旅を終えました。
 
追伸:賤ヶ岳山上からの眺めは次のサイトでご覧になれます。
http://www.ohmitetudo.co.jp/shizugatake/