古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

銅メダルを取った!

2005-05-26 | 水泳
 12時が過ぎていたので弁当を広げてお握りを頬張る。個人メドレーを終えたT女
史が上がって来て「今日はメダルなし!」と残念そう。いつもバタフライを泳ぐのだ
が、今回は個人メドレーに挑戦したのが裏目になった?H女史も来た。小生の次の種
目は100m平泳ぎ,3時ぐらいの予定。フリーリレイはその後3時半頃だ。
 速報掲示を見に行ったMさんが、「貰えた!」と、銅メダルを手に戻ってきた。2
5m平泳ぎを21秒で泳いで65~69歳で堂々3位。拍手!
 3時ごろ100m平泳ぎ1組8コースで泳いだが、2分12秒と平凡なタイム、今
日は水温が高いので記録は出ないと思った。そのまま、召集所の近くに台に腰を下ろ
して坐っていたら、「召集だ」とMさんに呼ばれた。召集時刻が迫るのに、私のいる
場所がわからなくて探したらしい。召集所の近くにいれば直ぐ分かってくれると思っ
ていたのだが、あまりにも混雑していて分からなかったようだ。
 今度は、8コースでスタート側にMさんと。先頭はダイナミックな泳ぎのMさん、
次は華麗なフォームで泳ぐH女史,飛び込み台からタッチを確認して私が飛び込ん
だ。今度もノーブレで手を回す。大歓声が水中の耳にもがんがん響いてくる。タッチ
!T女史が飛び込んだ!
 でも、リレーは一寸他チームとレベルが違いすぎた。先行の泳者に15秒離された
1分25秒で最下位、残念!
 控え室に戻っていると、100m背泳に出たH女史、なんと金メダルを手に戻って
きた。2分8秒で70~74歳でトップだった。大金星!
 女性組はレースが終ったが、Mさんの50m平は5時ごろ,私の50mバタは5時
半になる。プログラムを見ていたT女史が、「NOZUEさん、3人だから銅は確定
よ。うまく行けば銀かも?一人は申告タイムが45秒だから、この人が金。もう一人
が58秒だから、頑張れば銀かも」と言う。私の申告タイムは61秒。何たる幸運!
日本マスターズでメダルを取れるとは夢にも思ってなかった。
「もう帰る!」と後片付けを始めたT女史,「どうぞどうぞ」とメダリストの余裕
で、H女史とMさんはニコニコしている。「NOZUEさん、頑張りゃーよ!水温が
高いなんて言わずに」の言葉を残して帰っていった。
 さて、50mバタフライ。ほぼ予定の5時半頃だった。59秒44でフィニッシュ
した。やはり銅だった。2位が53秒で泳いでいたからいくら頑張っても銀は無理
だった。結果が出で、メダルを手にするまで、MさんもH女史も待っていてくれた。
メダルは「2005JAPAN MASTERS SWIMMING 
shortcourse」の文字がすっきりしたデザインで入っていた。
 帰りはMさんが、「車できているから送りましょう」と言う。H女史と小生、お言
葉に甘えて同乗させてもらった。Mさんもメダルを貰えてご機嫌だ。リレーは惨敗し
たが、チーム全体で、金1、銅2なら立派な成績! かくて、日本マスターズ水泳短
水路大会愛知会場を終了しました。
 

日本マスターズ

2005-05-26 | 水泳
 22日は小雨模様。10時、地下鉄亀島駅の改札口を出ようとすると,リュックを
背負った小太りの中年女性が駅員に声をかけていた。「ノリタケの森はどちら方向
?」、ああこの人も水泳大会、日本マスターズ短水路水泳大会は、ノリタケの森の
東、愛知女子商業のプールで、9時から始まっているはずだ。
 「水泳大会の方ですか?」と、私は声をかけた。
 「ええ、でも私、出番が遅いから、先にノリタケの森を見て来ようと思って」、は
じけるような笑顔を見せる。一緒に並んで歩き始める。
 「今朝,東京から新幹線できました。一泊して万博みて帰るつもりです。」
 「何を泳がれます?」、「バタフライ」
 「私もバッタの50m泳ぎます」。「私、50mも泳ぐ。」と言う。すぐ、ノリタ
ケの森の正門前に来た。「じゃ,後で」と別れた。
 会場の愛女商プールは超満員だった。プールサイドは勿論、控え室も更衣室も人,
人人。
 アップの練習をするプールもないので、「いきなり本番で飛び込むことになる」よ
うだ。リレーの仲間はどこにいるかな?「受付に30分前に集まろう。」と約束した
が、来てみると、2階の「チーム受付」と入口の「受付」がある。とりあえず、2階
に上がっていようと、二階受け付けに向かうと声をかけられた。バックのスペッシャ
リストのOさんだ。今日は200m自由形に挑戦。「もう終った!」と言う。「何分
で入った?」と聞くと「3分2秒」、さーすが!その後,着替えしてからもう一度2
階受け付けに上って待っていたら、朝の中年女性が来た。「もうノリタケ見てきたの
!」、立ち話「前島さんという名前を覚えた。平泳ぎ25mの始まるアナウンスが聞
こえたので、仲間のMさんが出るはずと地下のプールに下りた。
 泳ぎ終わったMさんが直ぐ上がってきた。話をしていると、T,Hの女性組もやっ
てきた。揃って召集所へ行き、確認を受けた。それにしても混雑がひどい。一寸油断
すると、人が間に入ってきて、チームの相棒を見失なっちゃう。「アッチアッチ、M
さんの後ついてって!」とT女史が背中を押す。スタートだ。Mさんと4コースの南
側へ回る。
 混合メドレー(260~279歳)スタートはバックのH女史、2番手は平のMさ
んがスタート台で待ち構える。飛び込んだ。今度は自分と台に上がる。バタフライの
T女史が腕を大きく回して近づく。タッチを目視確認し飛び込んだ。呼吸時間も省こ
うとノー・ブレッシングで腕を回す。フィニッシュ!タッチ板を叩いたら、ピーと次
の組の飛び込み台に乗る合図の笛。「ドベだったか!」。大混雑で予定が遅れている
ので,最終泳者のタッチを待ちかねるように、直ぐ次の組の笛を鳴らすのだ。(タイ
ムは1分38秒だった。)
 プールから上がって腕を見て「あれれ!」。腕時計がある!大混雑にオタオタして
いて時計をはずすのを忘れて泳いじゃった。審判も見落としたらしく何の注意もな
かった。「これだけ次から次では、審判が見落としても仕方ないか!」。時計は安物
に見えて(実際に安物だが)50m水圧に耐えるものだから壊われることはない!
 Mさんに案内してもらって二階のチームの控え室へ行く。T女史が朝早く良い場所
を確保してくれた。
 「昨日、東京に行っててね。帰りが夜の12時だったから、朝のアップに間に合わ
なかった」と言うと、Mさん「早く来ても一緒!僕は駐車場が開くのを待って入った
の。でも、プールは芋を洗うみたいでとても泳げなかった!」
「折角、全国から来てくれるのにどうしてもっと広いプールでやらんのだろう?レイ
ンボーの25mプール使えばいいのに!」と言ったらHさんも肯く。(続く)

リトルワールドへ、そして旅立ち

2005-05-26 | 素晴らしき仲間たち
リトルワールドへ

 「ジョンに外国の衣装を着せたら面白い」とリトルワールドへ行ってきました。

最初に中国です。身長は190cmのジョンの凛々しい事。娘も嫁も一緒に変装しました。
その後はイタリア。まるでスタッフの様に ピッタリです。笑顔が素晴らしいでしょう。

彼も上機嫌になり 孫とホークダンスを演じたり 歌を唄うしぐさをしたり 愉快でした。

それにしても嫁の英語はたいしたものでした。親切なガイドさんのようでした。
夕方には嫁達は東京へ帰りました。しばらくすると婿が仕事は早目に切りがついたので 参じてくれた。最後の夕食はブロンコビリーヘ行きステーキとした。「日本に来て何度目のステーキですか」の問いには・・・「初めてです」予算の関係上 朝はバナナ1本。昼はバナナ2本。夜はバナナ3本と言う日が何日もあった暮らしをしていて いつもハングリィ。 とてもステーキなど食べる余裕はなかったと喜んでくれました。

そして最終日には 家内の用事で名古屋へ行く予定があったので ジョンも一緒に行き 用事先の近くに住む病床の私の兄の家に突然寄りました。

彼のこれまでの人生で外人と直接話し合った事は 多分なかろうと思ったのです。またこの楽しさを少しお裾分けしようと思ったのです。ジョンがヒッチハイクした東北地方の話になり 東北には何度も行った事がある兄と意気投合して話し合いました。彼は英語・兄貴は日本語 それでも共通した話題だから結構通じました。兄貴とっては考えられない珍しい死に土産になった事でしょう。

ジョンの良さ

ジョンの父親は昨年がんで亡くなられたが 生前はケンブリッチ大学教授で 数年前京都に来た時 京都大学教授に大変お世話になった。数年後娘さんがイギリス留学された時 ジョンがなにかと面倒を見た。その縁で 京都を足がかりにして 昨年12月日本に来た。その時の日本は東京・大阪・広島など都会を見物した。今回はローカルの見物とした。


彼は詳しく説明してくれたが イギリスの学業のシステムを知らない私達には どうしても理解出来なかったが 簡単に言えば飛び級に合格して 1年早く高校を卒業して エンジョイしている。頭がとても柔らかくて 会話に包容力があり こちらの身になって聞いてくれて 会話をひろげてくれるのです。

こんなことがありました。私は69才である事は 伝えてあります。

私の自慢の水泳で 2年前65~69才の部で 800m自由型で 全日本2位になったと話すと すぐに「70才になる今年は チャンピオンだ。頑張れ」と持ち上げてくれる。
そんな風で 会話が楽しくて 皆と絶えず話し合った。

婿と嫁は 思う通り話せた事と思うが 意外にも娘も盛んに口出しをしていた。そのため家内と私は 隅に置かれてしまった。

家内の一番気にしたのは食事です。「何が好き」と問うと 「私は絶えず空腹だったので何でもOK」そして孫の顔を見て「ワタシハ ウメボシト ナットハ キライデス」と言ったのには 下呂の時を思い出し大笑いしました。

確かに何でも食べました。しかしどうしても口に合わないのだろう パクパク食べる事はなかった。その中で 玉ねぎだけは「美味しい」と。家内はサラダに炒め物に味噌汁に玉ねぎを多目に入れた。食後の果物に「バナナは如何」と問うと。「オーノー。もう食べ飽きた。見たくもない」と。リンゴはパクパクと食べました。結局彼の口にあったのは玉ねぎとリンゴだけでした。私の40日間アメリカ・ドイツへ行きましたが 口に合ったのはハンバーカーとリンゴだけでした。誰しも同じ様です。

犬山城に行った時 休憩しながらトコロ天を食べた。

私達は久し振りでしたので 美味しく食べましたが 酢を調味料としては使っているが 直接飲むことはない彼は進みません。

数年前テキサツからアメリカの姪の旦那が来た事がありました。彼は好きなものは好き。嫌いなものは一度も口もせず嫌いと はっきりしていたが ジョンは先の梅干・納豆でもトライした。 トコロ天も最後まで食べようようとするので 家内は「ストップOK」と声を掛けました。そのような姿勢が 女性にはたまらなく可愛く映った事でしょう。

夕食でイカと野菜の煮付けをしました。イカの胴の部分は問題がなかったが 足は見るだけでゴメンと言った。これだけは一口も食べなかった。

ジョンの旅行予算

ジョンの旅行予算はどれ程と尋ねた。(私が40日間のアメリカ旅行の時は百万でした)
すると驚く回答があった。たったの10万円と言うではありませんか。

ならば1日平均3千5百円弱。宿泊はユースホテル(2~3千円くらい)が主体であるが いつどこに着くか計画できない旅だから ユースホテルのある所に必ず着く訳ではない。また突然行っても空室がある訳でもない。時には通常の安ホテルに泊まる事もあったそうです。毎日の予算は殆ど宿泊料となりやむを得ず 朝はバナナ1本。昼はバナナ2本。夜はバナナ3本の生活を強要された。

小田原ではスーパー銭湯のオールナイトを1200円で泊まったと嬉しげに語っていました。

私は彼の行程は北海道が主体であって 最終には入国地の関空からロシアへ向かうと思っていたら出国地は新潟でした。北海道でゆっくりするつもりが まだ残雪があり 寒かったので早目に引き上げた。仙台から東京へ そして新潟へ向うには余裕があり過ぎ わざわざ我が家に 寄ってくれたと思います。3日間滞在して再び東京方面へ行き 新潟へ向うとの事。ヒッチハイクですので 東に行くのも 西へ行くのも 同じ感覚だったのです。

尚彼は5月1日新潟から飛行機でウラジオストクへ渡り 横断列車でサンクトベテブルグまで乗り放しだと8日間掛かりますが 途中3箇所に降り 1か月掛けてサンクトベテブルグへ行き 当地で英語の教師のアルバイトを2か月やって 8月にイギリスに戻るとの事です。

若さゆえ出来る事で 彼の話を眩しく聴きました。

4月1日に下呂で会った時 日本語はほんの僅かでしたが 今度会った時は「生ムギ生ゴメ生タマゴ」の早口が上手に言えるほかに 1月から12月までや 1から20まで 日曜日から土曜日までなど 上手に日本語が言えるように成長していました。漢字も読めるようになっていたのには 驚きでした。ただ 縦書きなのか 横書きなのか。横書きの場合 左から読むか 右から読むかその区別は出来なかったようです。

では最後に彼のクイズです。彼がおみくじを引いた時の事です。
おみくじを読んでから言いました「ヨシダイって何?」(終)

ジョンがやってきた

2005-05-26 | 素晴らしき仲間たち
                     
ヒッチハイク

彼を語るには これまでのヒッチハイクの状態から始めます

最初は京都の友人の家に寄り 2日目からヒッチハイクがスタートしました。名古屋に宿泊後 私達に下呂へ行く途中に会ったのです。その後は聞いた通り宿泊地を書き綴ります。

高山・富山・新潟・村上・秋田・青森・函館・札幌・小樽・ニセコ・函館・青森・弘前・仙台・白河・横浜・箱根・小田原そして可児にやって来たのです。

青函だけはJRを使いましたが あとは総てヒッチハイク。それだけ聞いた時「凄い」と驚きました。

新潟県の村上から山形県を通り秋田までと 小田原から可児間は 1台の車で移動しましたが それ以外は1日に5・6回乗り継ぎ 転々と進みました。

車を拾うには平均して15分程度でしたが 私の車の時は2時間半もかかった由。
箱根でも拾えなくて 湯本まで下り道を 重いリックを背負って4時間も歩いたと。
箱根では富士山が とても綺麗に見えたと喜んでいました。

車種はトラックが多かったようですが 村上→秋田間は幸運にも金色のオープンカーに乗りあわせました。英語を全く話せない人の時もあった。小田原→可児間の運転手は英語を話せないが 面白い人で1日中 日本語を色々教わり「生ムギ 生ゴメ 生タマゴ」を完全にマスターして 私達にきれいな日本語の早口で披露して爆笑させました。

日本語を随分話せるようになりました。字もよく覚えました。頭がすごくよい青年です。

女性のドライバーには 5回に1回くらいは巡り合えたようです。

時には若い女性2人とプリクラを撮って楽しんだようです。在る時には 女性の家で夕食も頂いた。民家に泊まったのは 我が家だけだそうですが 40歳くらいの女性から家に泊まったらと声を掛けられたが 丁重にお礼を言って辞退したそうです。

犬山城へ                             

婿は今万博関係で忙しくて休みが取れないが ぜひジョン君に会いたい。しかし夜10時頃しか帰えられない。そのため 着いた日は娘の家に泊まってもらった。私と家内は夕食後に家に帰ったが ジョンは昨日夜行便で可児へ来たので 眠いと言っていたが 婿の帰りを待った。英会話が出来る彼とは深夜2時まで話し合ったようです。

2日目の土曜日の昼頃には嫁と孫娘が わざわざ東京からやってきてくれました。家の嫁は一口で言うと「お祭り騒ぎが大好き」タイプですので 嫁がいると終日笑いに溢れます。勿論主の目的は家事の手伝いではありますが。それに彼女も英会話ができますので 大助かりです。

二人が着いて一服してから 犬山城へ案内しました。

犬山城は最古の木造城で 急な階段や 低い天井に興味持ちながら見物した。その後有楽苑を訪れました。当苑には国宝茶室がありますが 彼が最も興味を示したのは その茶室や美しい庭ではなく竹でした。

家内が東京育ちの孫娘は知らないであろうと 至るところで頭を出している竹の子を 説明をしていたら 彼が乗ってきました。イギリスには竹はない 生まれて初めて竹を見たと言うのです。

「この小さな竹の子が 聳え並ぶこの竹に瞬く間になる事は信じられない」と言うのです。
また この竹の根元から「かぐや姫が生まれた」・・・この話は全然信じられませんでした。


日本旅館のジョン

2005-05-26 | 素晴らしき仲間たち
彼は18才なので 酒を勧めてよいのか迷ったが コップにビールと もう一つのコップに日本酒を半分くらい入れて渡しました。すると私に「あなたはどちらが 好きですか」と尋ねられたので「酒」と言うと 彼も酒をビールのように一気に呑みました。美味しそうな顔をせずに「グー」と言ったので 皆で大笑いしました。

すぐに彼の頬は紅色になって来て娘は「可愛い」と言いました。
部屋の戻ると 部屋一杯にふとんの海には さすが彼もビックリ。 フトンに彼は飛び込みました。大の字になった背に 2人の孫は子供のように 馬乗りなってキャキャ言いながら戯れました。

そのあと トランプで遊びました。 大声で何度も笑い合い お蔭で楽しい一夜となりました。

私は6時に目が覚めた。昨夕の時 ジョンは「朝も入浴出来るか」と問うた。「イエス」と答えると「ナイス」と言ったので起きるのを待ったが ぐっすり眠り起きそうにないので 私ひとりで風呂に行く。

部屋は10畳2間なので 私達は静かに隣室で待った。8時ころにやっと起きた。私はもう行かないので「1人で風呂へどうぞ」と言うと嬉しそうに出て行った。日本の風呂には躊躇することなく 楽しんだようだ。

朝食もバイキングですが 時間が遅くなったので食堂は空いていた。

パンにサラダ等を彼は持って来た。上の子は梅干が大好きなので 皿に5・6粒のっていた。彼はそれは何かと問うと 一粒彼の皿に移し「とても美味しいよ」と日本語で言った。

その意味がわかったのであろう 半信半疑で口に入れて 一瞬おいて それこそ目から火が出る顔つきをした。私達は腹を抱えて笑った。

それではと 次に私は納豆を持ってきて彼に渡した。臭いを嗅いて「これはだめだ」とでも言ったと思ったから 私は取り戻し かき回して食べようとすると 「トライしてみます」と真剣な顔つきで申し出た。

そして皆が注目していると 一口食べたがやはり「ノー」と首を振ったが思いなおして 全部食べ終えて「ネバー」。私達の席は笑いに満ちた。

孫達は日本語を教えた「ワタシワ ウメボシト ナットウハ キライデス」と。

彼は真剣に2・3度復唱していました。「そう そう」と2人は満足そうでした。


朝には大事な仕事が残っています。それは高山へ乗せて行ってくれる人を探さなければなりません。食後早めに着替えて玄関へ行き 彼に「高山」のプレート持たせ出口に立たせました。私はフロントに近くに居たら 私の前を通る4人家族がいたので 「高山へ行かれますか」と聞くと「行く」と言う。訳を話したら 快くOKしてくれた。

早速彼に知らせると「サンキュー。ラッキー」と満面の笑顔だった。

その家族は夫婦と男女の子供。中学生と高校生と思う。何度も窓から手を振る彼の車を見送ってから私達は家路に就いた。あの家族の方が英語は上手に思えたし 車中では私達と同じような質問攻めに合い 楽しく話しながら行った事と思う。そして多分一緒に高山見物もするであろう。

私の住所もメールアドレスも知らせたが これより北海道へ行き ロシアを横断するので いつになるか知れないが いつか あるであろう便りを気長に楽しみに待つ事にします。 

さして面白くなかろうと思った旅行がジョンのお蔭で思いがけない楽しい旅行となりました。逆にジョンに感謝しています。最後は私がI’d like to see you again. 彼は Me too.でサヨナラしました。


爽やかだったジョン

数日たって思う事は 外人と会話が出来た事。その雰囲気になれば僅かな単語と日本語を織り交ぜても会話は出来た。自分が思った事が 気持ちよく通じた快感。通じると会話全体が 英語で話したように思えるのです。



英語は赤色ジョンです。 日本語は青色です。孫でも会話は出来ました。
「それ 何?」「ジスイズ うめぼし。一つどうぞ」
「これ う・め・ぼ・し?」「そうよ 美味しいよ」
「なんだか 変んな予感がする」「食べてみて」

「思い切って食べてみょう」「どうぞ」「わあ!」

中学1年と 小学5年の孫娘には またとない経験であったと思う。
それにしても私は 英語がすっかり錆付いてしまった。家内も私も朝食(ブレックファスト)の単語がどうしても 思い出せなかった。 またこんな機会があるかもしれないので翌日から早速 テレビの英会話を見 ラジオの英語レッスンを聴くようになりました。

彼は18才 さすが頭は柔らかい。すぐに覚えてしまう。そして日本の物にすごく好奇心を持っていた。テレビで巨人の野球をやっていた。バッターが高橋の時 「高橋」と字幕が出た。彼は高山と同じ「高」だから「タ・カ」と読んだ。私は次の字は「ハシ」と読むと説明すると 橋のハシか それとも箸のハシかと聞く。橋は車中で 箸は夕食の時に教えた。

梅干も納豆も日本酒も 何事も経験とばかり挑戦してくれて 笑いを私達にくれた。

礼儀もなかなか正しかった。宿泊料を取ってくれと なんども申し出があった。何度も言うので千円もらうかと 家内と決めたが娘はノーと言ったので家内が「プレゼント」と言うと日本式に頭を下げて「ありがとう」と。

(宿泊料1人9000円)

彼の住むところはイギリスの湖水地区に近いそうです。家内は「湖水地区に とても魅力を感じている」と言うと「ぜひ 来年おいでください。私が案内します。当地は寒いので夏季に来てください」と。これは一種の社交辞令とは思いますが 湖水地区が俄然身近に感じられます。一夜楽しかった事だけではなく 彼は夢まで与えてくれました。それよりも忘れかけていた英語を もう一度勉強したくなった再起心を与えてくれたのが 大きな収穫でした。



そして10日以上過ぎました。
「もう 北海道に着いているだろうか」
「道中 親切な人に会えただろうか」と
テレビに写る外人の青年を見るたびに
ジョンに思えて そんな会話をしていたら
「そちらへ行ってもよいか」とメールが入った。私達は即座に「おいで」と答えたが
ヒッチハイクのため 予定は立ちません。

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