古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

高遠紀行(3)

2005-04-25 | 旅行
 帰宅後、夜桜の写真は紹介したいと、インターネットを検索すると、いろいろなサイトが見つかりました。

 夜桜の写真はこちらで
http://www.yamatabi.net/main/camper/data/list/12_list_msg.html

 竹内徹美術館 は
  http://www.ina.janis.or.jp/~tohru/ 

 ついでに、司馬遼太郎は、高遠について何か書いているかな?と
「高遠 司馬遼太郎」で検索したら
 こんなHPが出てきました。これが高遠の紹介としては、実によく出来たHPです。
 最初の文、司馬さんの文か?と思ったら、司馬調を真似した文で、笑ってしまいました。

http://www.h2.dion.ne.jp/~tipo029/takatoo.htm

【桜の名所「高遠」。「弘前城」「吉野」と共に桜の三大名所として挙げる人も多い。
3月頃から高遠へ行くことを計画していた。古城と桜は私の好きな風景の一つである。
古来からの日本人の、美的センスが集中しているといっていい。

                               ~司馬遼太郎「街道をゆく」の文体をパクッてみました~】

 もう一つ、東北に関する司馬さんの文章を集めたHPがありました。

http://www.kurikomanosato.jp/to-siba-sirakawa.htm

 高遠については、保科正之の関連での記述だけ見つけました。
【 会津藩
会津藩について書きたい
なにから書きはじめていいかわからないほどに、この藩についての思いが、私の中で濃い。

藩祖は、保科正之(1611~72)である。この人の思想と人柄が、のちのちまで会津藩を性格づけた。
かれは二代将軍秀忠の傍流の子だったが、幼いころ信州高遠藩の保科氏の養子にやられ、20をすぎて高遠藩主になった。前将軍

の子であり、現将軍家光の異母弟でありながら、わずか3万石の小身だった。べつに不足を抱いたふうはない。
26歳で最上(山形市)20万石の領主になり、33歳、寛永20(1643)年、会津23万石に封ぜられた。以後、会津藩は

保科松平氏ひとすじで二百数十年つづく。

正之の肖像は、思いつめたような顔をしている。
陽気な人柄ではなかったが、行政者である自分を天職のように心得て、私心がなかった。
藩政と民政、さらに藩風の基礎は、かれ一代で確立した。
教養とう点でも、同時代の大名たちからぬきん出ていた。深く朱子学を学び、さらにはこの時代の新学問ともいうべき神道に傾倒

したことで特徴的であった。江戸初期ではめずらしいほどの日本的な思想家だったといっていい。
法制家であり、商工業の育成者でもあった。
もっとも重視したのは、風儀だった。・・・】


高遠城については
http://www4.airnet.ne.jp/kmimu/castle/kosin/takato.html