「山本七平の思想」(東谷暁著、講談社新書、2017年7月)を先日丸善でGETしました。次のプロローグの言葉を読んで、これは読んでみなくちゃ、と思ったのです。
「日本人は空気で物事を決めてしまう」
「日本人は水と安全は無料だと思っている」
「日本人は全員一致にこだわる」
「胃h本人の宗教は日本経だ」
1970年代から80年代にかけて、山本七平は論壇を「席巻」した。
小生も、70年、初めて「日本人とユダヤ人」を読んだ時の衝撃を思い出した。
有名な「空気」という言葉も、七平が論じる以前にも使っていたのに、七平に指摘されるまで、日本人および日本の根本的な部分を照らし出す言葉だとは思ってもいなかった。
七平はこうした言葉を、まるで日本人ではなく日本社会の外部にいる人間であるかのように、きわめて冷徹な論理でえぐるように私たち日本人の欠点を言い当てている。その発言は七平は、日本人に対してアウトサイダーとして振る舞っているかのようだ。
これは七平が、戦前において「三代目キリスト教徒」であったことに関わっている。
七平は最後まで聖書の世界と日本経の世界を行き来していたと思われる。
今、七平を振り返らねばならない理由を、筆者は「エピローグ」においてこうも記している。
1991年12月10日、七平は亡くなった。その時既に冷戦は終り日本のバブルも決定的に破裂していた。その後の日本は、次々襲ってくる問題の奔流の中、のたうちながら蛇行している。七平はこうした日本の姿を予想していただろうか。
冷戦の終りで、「水と安全は無料」とは思えない時代が来たはずだった。しかし、日本は外交や防衛について論ずることなく、選挙制度の変更に血道を上げた。
ベンダサンの名で日本人に警告した日本人の安全保障に関する感覚は、いまも「水と安全は無料」。中国が巨大な軍事力を備え、北朝鮮がミサイルと核兵器の実権を繰り返しても、国民の意識転換は見られない。
七平は既に1979年、機能的組織とコミュニテイ組織が合体した日本企業の強さは、局面が代わると、それがそのまま弱さに転じると指摘していた。しかし日本企業は「日本的経営」が終わったとみるや、こんどは「アメリカ版コーポレートガバナンス」に飛びついただけだった。形式的な「改革」にまい進した日本企業の多くが、アメリカ型の経営を本当に実現することなく、かつてはあったコミュニテイ的な組織の強みも毀損されるに任せた。
日本的経営が生き詰まったという「空気」は、新しい現実に目を向けるべきだという「水」を呼び起こしたが、いつの間にかアメリカ型経営にしないと日本は滅びるという、せっぱ詰まった「空気」に転じた。気がつけば日本の大企業が、創造的会計やM&Aの失敗といった、半端なアメリカ型経営の導入によって生まれた不祥事で、海外への身売りを余儀なくされている。
政治についても同様で、小泉政権の改革につかれた国民は、新しく結成された民主党に希望をつなぐような「空気」になったが、この新しい「水」は東日本大震災というまさに「水」で雲散霧消したが、今度は原発事故に対する責任者批判という「空気」が急速に成長した。日本国中が電気は自然エネルギーから作るべきだという「空気」に覆われる。
ところが日本経済がデフレから脱却できず低迷すると、日銀が宣言してインフレにすれば日本経済が立ち直るという危うい経済学説が新しい「空気」になって、奇妙なことにこんどは原発を積極的に推進する安倍政権を生み出す。
この圧倒的な「空気」に見えたインフレターゲット政策が、じつは機能しないことがわかると、内閣府顧問だった著名な経済学者が間違いをあっさり認め、財政出動をすればインフレになるという。
七平が将来の存続を案じていた天皇制にも、新たな局面が生まれている。5年ほど前から今上天皇は、譲位の可能性を語っていたが、宮内庁内での「ご内意」に留まっていた。この段階で内閣は、宮内庁から情報を得て動いていなければならなかった。憲法に従えば国事行為とそれに準ずる公的行為については内閣が最終的に責任を負うことになっていて、「助言と承認」あるいは「補佐」をしなくてはならない。それが出来なかった安倍内閣は大失態をおかしてしまったことになる。