17日夜、テレビでBSを入れたら、秋元康のインタヴューを放送していた。聞き手は渡辺あゆみアナウンサー。意外に面白く12時過ぎまで見入ってしまった。高校時代には、東京大学を出て大蔵省に入りたいと思い、ラジオを聞ききながら、受験勉強に励んでいた。深夜放送で応募しようと書き溜めた原稿が、放送局のスタッフの目にとまり、投稿を続けていたら、「こういうのを書いてみたら」と勧められるようになった。作詞の仕事をするようになった。
「なんてったってアイドル」
「アイドルなんて呼ばないで」
こうした仕事をする過程で、ほとんど素人同然のタレントが、見る見るうちにスターになっていくのを目にしました。その経験が、AKB48をプロデユースする仕事につながったと思います。
作詞というと、詩を作ってそれを作曲家に回して局が出来ると思う人が多いのですが、私の場合、ほとんど曲が先にできるのです。曲が出来て、これに言葉をつけてくれと回ってくる。いわゆる「曲先」です。
1988年頃、ニューヨークに1年半ほど住むことになった、
この頃、美空ひばりさんの仕事があった。私の作詞ですべての曲を作り、その中の一曲をシングル化しようということになりました。私は「ハハハ」という曲をシングルにしようと思ったのですが、レコード会社の社長から「川の流れのように」をシングルにするように言う電話がかかった。
「ひばりさん“「川の流れ”をシングルにするようにと言ってきたんです」。
「ひばりさんがそうしてくれと言っている」、「何十年もひばりさんと付き合っているのだが、彼女がこんなこと言ったのは初めてだ」という。
「川の流れのように」というフレーズは、当時住んでいたマンシヨンから下を見下ろすと、ニューヨークのイーストリバーが見えていた。それを見ていたら「川の流れのように」というフレーズが思い浮かんだのです。吹き込みの後、ひばりさんは「どの川もいずれは海に入るんですね」といった。
「どんな人生もいずれは死に終わる」。特にそう意識して作詞したのではないが、ひばりさんが間もなく世を去ったので、なんとなく、そうした意味があったかのような曲になりました。
こんなうらばなしをしていました。