古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

福井の旅(2)

2015-06-05 | 旅行
 我々4人の旅は、一泊し、夜、お互いの専門分野から話題を提供する勉強会を行っている。
今回は、Hさんに日本仏教の話。明日の予定が、蓮如上人が開いた吉崎御坊を訪れることになっているので、「法然・親鸞・蓮如を語る」を聞き、日本仏教について40分ほど語り合った。
 仏教というものは、奈良仏教に見られるように、天皇が国家の安定を祈念して大寺院を建てるなど、言うならば“国家仏道”だった。それが国家でなく、個人の救済を祈る教えになったのは、鎌倉時代の仏教からだった。その最初が、法然であり、法然の理論を精緻化したのが、親鸞。その教えの真宗は、消滅寸前まで衰亡していたのを再興したのが蓮如さんというわけ。蓮如さんは経営の才に恵まれた人だったらしく、比叡山派の弾圧を逃れ吉崎を開いたが4年半後、京都に山科本願寺を開き、晩年には大阪、石山本願寺を創設する。
「蓮如さんののおふみ」と言う形で文書が残されているので、教義上は親鸞の教えを文書化したことが功績と言えるかもしれない。Hさんによると、日本人の仏教に「来世」という考えが強く入ってくるのは蓮如さん以後だという。
 蓮如さんは、必ずしも権力者と争うという態度をもったわけではないが、吉崎御坊を築いたことは加賀一揆の因となったし、石山本願寺は、信長との長年の戦の根拠地になった。
 それよりも、85年の生涯に、5人の奥さんと結婚し、27人の子をなしたという生涯は、驚異的と思いました。
 6時半から夕食。「カラオケをやろう」と夕食後カラオケルームに行ったが、機械が故障。画面に「スタッフに連絡してください」。マネージャーが来てあれこれなぶったが、治らない。「カラオケ屋を呼びます。部屋に戻り寝ていたら10時過ぎに「治りました」と電話がきたらしいが、すっかり寝込んでいた。
 実際、夕食で飲んだ地酒「三国物語」がすっかり効いて翌朝7時までぐっすり寝込んでしまった。
翌朝「ご迷惑をおかけしました。お詫びに」ろマネージャーが土産を持ってきた。

 翌日は雨がぱらついていた。「雨が降っても、ここまで来たら、東尋坊をみないわけにはいかない」。波に浸食された景色が売り物だから観光船に乗って海側からの景色を見るべきだったかもしれないが、一寸だけ海をのぞいただけ。すっかり観光地化され土産物屋が立ち並んでいた。次は「吉崎御坊」です。カーナビの案内で30分ほど。吉崎御坊「蓮如上人記念館」に着いた。玄関直ぐのシアタールームでビデオを見た後、館内見学。
http://honganjifoundation.org/rennyo/facilities/facility.html
七不思議堂という蓮如さんの生涯の七不思議を解説した展示館がありました。熊谷組の社長の家を移築したというケヤキづくりの日本建築です。

 見終わった後喫茶スペースで珈琲。
メードさんに「蓮如さんに会っていきたい、どこにあるの?」と銅像の位置を聞く。坂を上
がると公園。ここが昔の吉崎御坊跡。詩人の高村光太郎の父、高村光雲の作になる12mの銅像があった。
太平洋戦争時、金属供出命令で工作隊が、この像を取り壊すという話が出た時、門徒衆がこの像の前で篝火を焚き人垣を作り「絶対に渡さない」というかまえだったという。さすが一向一揆の後裔です。その所為かどうか、昭和9年に造られた像は今も健在です。
 加賀ICから北陸道に乗り丸岡ICで降りる。
 丸岡城を訪ねる。

25年ほど前、丸岡城マラソンを走った時。ここを訪ねた。 柴田勝家の甥・勝豊が天正4年築いた城で日本に現存する最古の天守閣がある。昭和23年の福井大地震で倒壊したが、昭和25年、重要文化財指定、昭和30年修復再建(昔の材料を使い)という。中に入ってみたが、階段が急で狭い。安全のためロープがある。降りるときはロープを持たないと危ない。まるで登山のように階段を3Fまで上がり、周囲の展望を楽しんだ。外に出て、地震まで屋上にあった石のシャチを見つけました。

 寛永元年、一筆啓上で有名な本夛家の所領となったが、その後元禄8年有馬家が領主となり幕末まで続く。
 外に出て12時になっていたので、駐車場横の「ナントカ茶屋」というレストランで、今日も蕎麦を頂く。庭園の綺麗なレストランだった。

 帰りは、丸岡ICから高速に乗り米原経由羽島ICに4時、スタンドにより給油。満タンにして26.3l、420㎞を26.3lで走行したことになる。
西岐阜駅で再開を約して解散。5時15分帰宅しました。


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