古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

中国経済 あやうい本質

2013-02-18 | 読書
『中国経済 あやうい本質』(浜矩子著、集英社新書、2012年3月刊)という本を読みました。先日のニュースが「中国が、昨年、世界最大の貿易国になった」と報じていました。輸出額と輸入額の合計額が世界一になったというのです。このことの意味を考えてみたいと、この本を読んだのです。
以下、同書から。
【メデイアは「中国は世界の工場になった」という言い方をする。だが、よく実態を考えればそうではない。中国が世界の工場になったのではない。世界が中国を工場にしているのである。かつて、イギリスやアメリカや日本が世界の工場だといわれた時、それらの国々で工場生産の主軸となっていたのは、いずれも、それらの国の企業群だった。だが、今の中国の場合はそうではない。
中国における生産の担い手たちは、その多くが外資系企業だ。まさしく世界が中国を工場にしているのである。
(かつて)日本からアメリカへと「集中豪雨的」になだれ込んでいった日本製のオモチャやブラウスや鋼材やカラーテレビや自動車は、いずれも、日本企業が日本の工場でつくった製品だった。一つの国の中で最終的な付加価値を生み出すところまで自己完結する。その成果物が輸出先の相手国の同種製品と真っ向からぶつかり合う・・・だから、通商摩擦が起きる。
これに対して、グローバル(経済の)・ジャングルの現在はどうか。製品の最終販売者とその生産者たちの顔ぶれが一致するとは限らない。製品の生産企業の国籍と、それらの企業が実際に生産を行う生産地が一致するとは限らない。
こうした中では、国別に整理された貿易統計だけを見ていたのでは、もはや優勝劣敗の構図を必ずしも正確には見極められない。たとえば、中国発の液晶パネルの輸出が増えているからといって、中国メーカーが液晶パネル市場を席巻しているとは限らない。それは、多くの多様な国籍のパネル・メーカーが中国を生産拠点に選んだ結果であるかもしれない。あるいは、巨大な一つの外資系企業が中国に生産拠点を集約したためであるかもしれない。
実をいえば、(輸出競争で)誰が勝ったのでも負けたのでもないかもしれない。誰もが誰かを必要としている。どの国も、すべての国の存在を必要としている。中国は、世界が中国を工場にしてくれることを求めている。世界は、中国が世界の工場を受け入れてくれることを期待している。
ただし、ここで忘れてはいけないことが一つある。それは、いわゆる雇用の空洞化問題である。昨日まで日本国内にあった液晶パネルの製造工場が、まるごと中国に移転してしまえば、それに伴って雇用機会もまるごと日本から中国に移ってしまう。
それがいやなら、日本国内の工場で、あたかも中国に移転したのと同じようなコスト・ダウンを実現しなければならない。そのために、人々は賃金の大幅低下や、雇用環境の大幅悪化に甘んずることを余儀なくされるかもしれない。』
こういう話が載っていました。
【上海にはカラスがいない。ある知人から頂いたお便りに、そう書かれていた。なぜなら、夜明け前に貧しき人々がすべての残飯を持ち去ってしまうからだそうである。
あるときから、筆者は日本における「豊かさの中の貧困問題」が気になっている。日本は世界最大の債権国だ。その限りでは、世界で一番リッチな国である。それなのに、日本の中に格差問題があり、貧困問題が存在する。これがどうにも腑に落ちない。むろん、多くの先進諸国にも都市部の貧困問題や格差問題がある。なにも日本だけの病理ではない。だが、それにしても、ここまでの豊かさの中で貧困問題を解消できない。・・やはり納得できないものがある。
要するにすぐれて日本的問題だと考えていた「豊かさの中の貧困問題」が、中国においても出現しつつあるということだ。】
 最終章で、筆者は、中国経済の謎解きをいくつか紹介している。その一つ、
【「中国とかけて東大入試経済と解く」。その心は「難問が多すぎて、解いているうちに時間切れ」だそうです。】
現在、中国はいくつかの難問に悩んでいる。それは、グローバル化経済の矛盾の集積と言えるのだ。案外、尖閣諸島問題も、中国が、グローバル化経済で生じた難問で、高まる国民の不満をそらそうとしているためかもしれない。

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