古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

東別院

2018-05-26 | 旅行

5月25日、第4金曜日・住宅のシニアクラブのウオーキングは、地下鉄で東別院に行き、そこから家まで帰ってくるという企画にしました。7kmちょっとの距離ですが、年をとると、段々脚が弱くなるので、歩く訓練を継続しようとこの企画にしたのです。

 ところが、9時半、エレベータホールに集まってみると、私の他はC棟のKさんだけ。

最近、メンバーが高齢化して参加者が少なくなってきたのですね。少し方針を変えないといけないかな?

 せっかくの好天なのに。少し暑くなるかもしれません。まぁ折角の企画だからと二人で出かけることにしました。地下鉄に乗り東別院駅の4番出口から出ました。

東本願寺名古屋別院は眼の前でした。同じ敷地内に古渡城址があります。織田信長の父信秀が築城した城で、桶狭間の戦いでは信長はここで気勢を挙げてから押し出したらしい。「信長攻路」という札が建っていた。廃城になった後、東本願寺がこの地を貰って名古屋別院としたのだ。

この地はまた明治時代に明治天皇が大本営を置いたらしく記念碑(昭和8年建立)がある。

 

 

 東別院を西に出て橘町から門前町に歩く。西本願寺名古屋別院がある。ここは江戸時代に葛飾北斎が大達磨絵を描いたことで有名、絵は現存しないが模写は名古屋博物館にある。

「本堂はどこ?」とKさんが効く。

「あれが本堂じゃないの」

「「社務所」とかいてあるから違うのでは?」という。「では、はいってみよう」と、1Fのエレベータで2Fにあがると本堂があった。

立派なお寺だが、規模は東別院よりずっと小さい。

本願寺の勢力を弱くするため、江戸初期、東本願寺と西本願寺に分離させられた。西本願寺は秀吉の時代に造られ、徳川になってから東本願寺が設立された、徳川政権は東西を支援したので、名古屋も東別院の方が大きくなった?と思った。

その後大須観音に行った・

大須観音を西へ出ると地下鉄の大須観音駅がある。その前にセブンイレブンがあった。

「昼飯を調達しようと、入ってお握りを求めた。

とコンビニを出てから「次は白川公園だ」と言ったのは良いが勘違いして西へ向かった。大間違い。白川公園は北である。西を北と間違えたのである。 年をとると、脚だけでなく脳も弱くなってくる。歩いているとどうも様子がおかしい。堀川に出てしまった。古い神社があった。「ごめんなさい。方角を間違えて、大回りしてしまいました」

「初めての道を歩くのは好きだからかまわないわ」とKさん。東へ戻り伏見通りに出ると、向こうが白川公園だった。ここで休憩し昼食をとる。

休憩後、公園を出て伏見通り沿いに北へ歩き、通りの終点で横断歩道橋を渡ると、名古屋城の能楽堂でした。

 腰を下ろして休憩。「いい風がくるね」

風格のある建物だが、Kさんは歌の公演で入ったことがあると言うので、中に入るのは止めてこの春できた金シャチ横丁に行ってみる。

「レストランは高くてここで食べる気はしないね」何度か来たことがあるKさんが言うので、土産物屋に入る。Kさんお勧めのどら焼きだけ買い求め、東口のゾーンに行き、アイスクリームを食べた。¥540だったが、食べでのあるアイスクリームだった。

そこからは勝手知ったる道で住宅に戻ってきました。エレベータで、「わぁ東別院から住宅まで歩いた!」

9kmぐらい(道を間違え2kmほど余分に歩いたので)あるきました。13時50分でした。

汗になっていたのでシャワーを浴びて、ベッドに横になったら2時間ほどお昼寝タイムでした。

 

 

 

 


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