古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

訓練と教育

2004-05-10 | 読書
尾張名古屋のNOZUEです。
 『「わからない」という方法』という変わった書名の本(橋本治著)を読みまし
た。特に”訓練と教育”について述べていた個所に、”わが意を得たり”と感じまし
た。こういう内容です。
【暗記とは、身体にとって「無意味な忍耐」・・・・一時的に思考を停止して、「暗
記」という忍耐を脳が受け入れることなのである。
 私が暗記を「無意味」と思うのは、その間、本来だったら「納得する」という方向
へ進んでいるはずの身体が、置き去りにされているからである。「身体を活用しな
い」という点において、暗記は「無意味な学習」なのである。】
 脳というものは、本来、手や足など身体をどう動かすかを統制する器官、つまり、
身体を動かす時機能する器官ですから、身体を動かさず、脳だけ動かそうとしてもう
まく行かない。
 こういう事例を紹介しています。
【熊川哲也は、世界的に有名な超一流のバレーダンサーである。・・子供時代の彼に
バレエを教えていた先生・・北海道でバレエ教室を主宰する女の先生である・・子供
の頃の熊川哲也が、やたらと「わからない」を連発していたと証言していた。新しい
プロセスを彼に教えようとすると、・・「できない、わからない」を連発して、
「じゃ、先生やってみてよ」というのだそうである。・・・先生がやって見せると、
首をかしげて、「わかんない」・・・・
 わからないのは、脳がその動きを概括的に「こうか」と認識しても、その認識が身
体各部に対応したものになっていないからであろう。つまり、総論で分かっても、各
論では「わからない」のである。
 「前の日に”わからない、わからない”を連発して、しかし少年熊川哲也は、翌日
にはちゃんとできるようになっていた」と彼の先生は往時を語っていた。
・・・熊川哲也のすごさは、「次の日にはできるようになっていた」ではない。自分
の理解の届かないところを確実に発見して、それに対して「わからない」を明確に確
認していたことである。】
 脳が分からないのでなく、身体が分からない!50歳過ぎから、水泳の練習を始め
た私にとって、まったく同感の記述です。
【「わかる」とは、自分の外側にあるものを、自分の(身体の)基準に合わせて、も
う一度自分オリジナルな再構成をすることである。】
 更にスポーツだけでなく、勉強でも【「学ぶ」とは「真似る」である。】
【始めにマスターするのは、「自分のやり方」ではなく、教師という「他人のやり
方」なのである。それが「基本のマスター」であって、学ぶ側の人間は、その後で、
自分の身に備わった「他人のやり方」を、自分の特性に見合ったものとして変えて行
かなければならない。このプロセスを、「一般的なものから、自分オリジナルの個性
的なものへの変化」と思っている人も多いが、しかし本当は、「自分とは違う他人の
やり方から、自分に見合った個性的なものへの転換」なのである。】
 そして『教育の基本』については
【「人生」を教えるのだったら、まず「人生とはいかなるものか」という提示があっ
ていい。それがあって後に、「私はその人生をこう生きた」が出て、「だから私に人
生を教わりたかったら、私の生きた通りにしなさい」という指示も生れる。それを
「OK]と思う人は、その先生に従う。それに対して「あんたの真似なんかしたくな
い」と思う人は「いやだ」という。その選択が可能であるのは、選択の前に、「人生
とは・・・」という提示があるからである。
 日本の文部省は、日本人の行き方をカクカクシカジカと規定するその基本線に沿っ
て、必要な「教育のあり方」を決定する。つまりは、「生き方の強制」である。それ
を「いやだ」と思って、その「いやだ」が許されてしまったら、もう終り・・・しか
もそれは許されてしまったのである。】
 いわゆる“ゆとり教育”の背景には、日本人のある生き方が想定されている筈、そ
の生き方、即ち
【「日本人はいかに生きるべきか」を曖昧にしてしまった結果、「教育の崩壊」は訪
れた・・・】
 全く同感!と思ったのですが、皆様はこれについて、どうお感じでしょうか?


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