古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

植物学者の文明論(2)

2012-09-04 | 読書
 イースター島、ご存知ですね。モアイという巨大石像が有名な島です。
島の東側でラノララクという小さな火山がある。今は噴火していないが、高さ75mぐらい。その火山の火口壁が、モアイの切り出し現場。火口壁は凝灰岩という岩、柔らかい岩石で、モアイはこれから削りだされる。
 筆者の推定によると、ヒョウタンに水を汲み、その水を原料の石にかけながら削った。凝灰岩は上のほうは風化していて水を吸い加工しやすくなる。日本でも石屋さんが墓石を加工するとき水をかけながらやるそうです。
 ではどうやって(海岸まで)運搬したか?アメリカのムロイという考古学者が考えた説が有力で、モアイに添え木を当てて、ロープで立てたり転がしたりして運んだ。ここで筆者の植物学者たる面目を示す仮説を提唱しています。
 ムロイの方法ではモアイが割れてしまう。割れないためにはクッションが要る。火口湖に生えるトトラという草をクッションに使った。さらに運搬のロープや丸太が要る。これらは木から作られた。現在のイースター島には、木は茂っていない。火口湖をボーリングして、そこに残っている花粉を調べたら木が出てきた。
 人口が増え、木をどんどん使ってしまい昔あった森をなくしてしまった。こうしてモアイを運搬できなくなった。現代の社会、地球を象徴するモデルケースだろ筆者は述べています。

 屋久島とブータンの話も面白い。ブータンの林と屋久島の林が似ているという。
 ブータンの植物の状態が、日本に知られるようになったのは、戦後、中尾佐助が1958年に、ブータンに行き、本や論文で紹介してからです。ブータンにすばらしい森林が残っている。それも常緑樹林、針葉樹、またはシャクナゲの林があるということがわかり、中尾は照葉樹林文化というアイデアを得た。
 常緑樹は、ツバキやユズリハやシイもタブもそうですが、葉の表面がちょっとテカテカして、光るので「照葉」といいますが、日本の関東以西には照葉樹林が発達している。ブータンの常緑樹もシイ、カシを中心とする照葉樹林です。ブータン人と日本人は顔つきが非常に似ていて、日本と共通する食べ物があります。
 例えばお茶や納豆、さらに麹を使ってお酒を造るなど、発酵食品文化もある。さらにソバもそうです。ブータン人もソバは大好きです
 照葉樹林のところで暮らすブータンの人々と、日本人の生活が似ていて、しかも照葉樹林がそこに発達している。照葉樹林はブータンと日本の間にあり、中国の南部のほうも、シイ、カシの種類が分布している。そうすると、中国をはさんで、ブータンと日本の両極端に似ている木があって、似ているような食物や習慣がある。これは一つの文化にまとめておいたほうがいいと、中尾は「照葉樹林文化」を提唱した。
 中尾は「照葉樹林文化」を日本で思いつき、ブータンと日本の間の中国南部、雲南省あたりに照葉樹林文化の中心地があるのでは、と述べていた。
しかし、1984年、はじめて雲南省を訪れ「私が最初にヒマラヤではなく、雲南にいっていたら、照葉樹林文化と命名するのをためらったのではないか」と記している。
 雲南省には森らしい森はなかった。中国5000年の歴史は木をきり続けた歴史だった。万里の長城は木の犠牲によって成り立っている。長城を築くレンガは木を燃料として焼いたのだ

 そのほか、日本のモウソウチクは帰化植物であり、近年、マツが全国的にかれてしまったのと対照的にタケがはびこってきた。住民がタケを利用しなくなり竹林の手入れをしなくなったから。といった話も紹介されています。

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