古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

大鳥圭介の年表

2010-02-18 | 読書
 加藤陽子さんの『戦争の近現代史』(講談社新書)を読んでいたら、「日清戦争」のところで、「韓国公使・大鳥圭介」という記述があった。函館維新戦争の大鳥がここにいたと思ったが、読了後、ふと気になったのです。
「大鳥圭介は、維新の五稜郭戦争で、新撰組の土方歳三とともに戦った幕軍将校だ。少なくとも当時30代にはなっていただろ。日清戦争の明治27年には60歳前後になっていたはずだ。
 今なら、60歳で韓国公使は不自然とはいえないが、平均寿命が50歳くらいの当時、60歳で現役外交官をやっていたのだろうか?」
 早速、ネットで調べてみたら、大鳥圭介の年表が見つかりました。これが面白い。
http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/history_ootori.htm

 長すぎるので、主な点だけ抜書きしてみますと、
天保3年 播州赤穂に生まれる。
弘化2年(14歳)閑谷学校に入学、5年間儒学、漢学、東洋医学を学ぶ。
嘉永5年(20歳)蘭学修得のため大阪に出て緒方洪庵の適塾に5月2日入塾。
勝海舟の知遇を得る。
安政2年(23歳)10月2日安政大地震。M6.9で品川台場崩壊。大鳥在住の長屋が潰れるも、無事。
安政4年(25歳)兵学の江川塾から教授として招かれる。砲術、兵法、造船を指導。中原万次郎に英語を教わる。このころ、榎本武揚と知り合う。
安静6年(27歳) 幕府蕃書調所に出仕。
文久元年(29歳)12月、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として幕府に出仕。
元治元年(32歳) 二院制議会の採用を幕府に建言。
元治2年(33歳)1月28日、幕臣となる。歩兵差図役勤方。
慶応4年(36歳)
1月3~5日 鳥羽伏見の戦い、6日徳川慶喜、松平容保大阪城脱出
1月頭、圭介、歩兵頭(大佐)、2000石取り。2月、圭介、歩兵奉行(少将)
明治元年(36歳)11月 五稜郭入城。
明治2年(37歳)5月五稜開城。大手前歩兵屯所(軍務局糺問所)に入る。
明治5年(40歳)1月6日、特赦により出獄。
1月19日、左院少議官。翌20日、左院を免じられ、開拓史御用掛五等出仕に任じられる。一ヶ月百円の給金。2月14日、大蔵小丞兼任。圭介、吉田清成に理事官として随行し、外債発行の交渉と開拓器械等研究のため、渡米 を命じられる。16日、吉田に公債発行委任の勅旨。18日太平海郵船アメリカ号にて12時横浜を出航。
明治7年(42歳) 3月欧米視察より帰朝。

明治22年(57歳)6月3日、清国駐在特命全権公使に任命される。
明治26年(61歳)7月15日、朝鮮国駐剳公使を兼任。
明治27年(62歳) 6月20日、海兵数百人と共に京城に入る。袁世凱と面会。7月23日、改革案を朝鮮宮廷に提出。財政改革、法制改革、人材教育、兵備改革、人材登用改革、から成る。京釜の鉄道敷設権を含む。同時に、牙山の清兵撤兵と、清国との関係断絶を要求。翌日、要求拒絶に及び、大院君を守護しながら王宮へ。閔氏より銃撃を受けながらも、国王に謁見を果たす。7月30日、閔王妃廃せられる。8月2日、日清戦争開戦。
明治29年(64歳) 5月5日、六女鴻誕生(母は鈴木すず)
明治33年(68歳) 男爵位に。
明治35年(70歳)1月30日、七女玉枝誕生(母は鈴木すず)
明治44年(79歳)神奈川県国府津にて死去。死因は食道癌。

幕末から明治にかけて、波乱万丈。
80年近く生きて、70歳にして子を生すなんて、驚嘆すべき頑健な人だったのでしょう。