古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

戦争調査会

2007-08-13 | 読書
 今年も敗戦記念日が巡ってきます。
 立花隆さんが、雑誌「現代」の7月号から『私の護憲論』なる論文を連載中。「無知で愚かな政治家による憲法改正を許さない」という見出し文だけで、論旨は読まなくても分かると思いますが、その中で、憲法9条は決してマッカーサーの押し付けでなく、日本人の発想だと説いています。
 その本旨とは別に、興味深い戦後のエピソードを紹介していました。
 東京裁判について、「戦勝国の軍事裁判であって公平な裁判ではない」と主張される人がいるのですが、それでは何故日本人は、国民を塗炭の苦しみに追いやったあの無謀な戦争の原因と責任を調べないのかと、私は思っていましたが、そういう動きが、戦後、幣原首相の下で行われようとしたという秘話です。

 【私はずっと、東京裁判のことが話題になるたびに、日本はなぜ自ら戦犯を追及しなかったのか、疑問でした。あれだけ無謀な戦争をやり、あれだけ悲惨な結果をもたらした戦争の責任を、どうして日本人は、自らの指導者たちに問うことができなかったのか。なにがあの戦争をもたらしたのか、その原因追及をなぜ日本人は戦後すぐに開始しなかったのか、とずっと不満に思っていました。しかし、日本にもそれをちゃんとやろうとしていた人たちがいたのだ・・・
 幣原内閣は、新憲法草案を発表し、戦後はじめての総選挙を行うところまでをにない、憲法の実質審議は、すべて吉田内閣の手にゆだねられます。
 軍との腐れ縁がない幣原が、あの戦争に至った原因を本格的に追求すべしということで作ったのが、大東亜戦争調査会でした。
 戦争調査会では、責任追及までしようとしたわけではありませんが、まずは、戦争に至った因果関係を追及しようと、次々と重要証人を審問する予定でした。政府の総力をあげて調査しようと、19名の委員の中には、各省の次官がすべて入り、陸軍参謀本部から3名の元陸軍中将が、海軍軍令部からも元海軍中将が入っていました。その他民間有識者として、馬場恒吾以下、斎藤隆夫、片山哲、高木八尺、東畑誠一、小浜利得、大内兵衛、有沢広巳、和辻哲郎、阿部慎之介、八木秀次など錚々たるメンバーがそろっていました。総裁は・・・幣原首相自らがなりました。かねて親しくしていた青木得三氏を事務局長官に頼んだわけです。
(本論の方は側近中の側近の青木氏が、きわめて明確に、「憲法9条は幣原が発案したものだ」と証言しているということですが)
 大東亜戦争調査会は、活動をはじめて間もなく、日本の占領政策を決める連合国の「対日理事会」において、ソ連の代表デレビヤンコ将軍から横ヤリが入り、活動停止に追い込まれます。】

 調査会のメンバーに旧軍人が入っていたことから、連合国の警戒を招いたらしいのですが、それなら、占領が終わり独立した時点で戦争調査会を行うべきでした。幣原首相に匹敵する政治家が居なかったということなのでしょう。