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古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

同級会の旅(2)

2015-03-04 | 旅行
2日目です。、
ロビーからは青空の下、伊良湖岬の景観が望まれ今日は良いお天気に恵まれたようです。
9時、ホテルのバスで港まで送ってもらう。
船着き場に行く前に「恋路が浜」に立ち寄り、運転手が観光解説をしてくれた。

近年になって、「恋路ヶ浜」などと命名されたものではなく、その名の歴史は古く江戸時代の1808年(文化5年)には和歌に 春さめにぬれてひろはんいらご崎 恋路ヶ浦の恋わすれ貝 などと歌われており、伝説では、その昔、高貴な身分の男女が許されぬ恋がゆえに都を追放されこの地に暮らした事にちなむという。ここは「ヤシの実」の舞台でもある。
柳田國男が1898年(明治31年)ここに遊び、拾った椰子の実の話を一緒に来られなかった島崎藤村にしたところ、それから藤村が想像を逞しくして創作したのが「椰子の実」(『落梅集』所収)とされる。
浜の中央に「日本の100選」に選定された記念モニュメントがあった。
10分ほどで、伊勢湾ファリーの船着き場に着く。マイカー持ち込み2名、その他10名で、10名以上で団体割引で1名1400円(150円の値引き)だった。
9時半出港。2階のロビーに上がり、缶ビールを傾ける。

出港すると、直ぐ神島が見える、三島由紀夫の小説の舞台になった島で「島は神島、昔は外観が亀に似ることから亀島と呼ばれました三重県鳥羽市の神島です」」ノアナウンス。もうここは鳥羽市なんだ!神島は地図でみても亀のような形だ。名古屋に住むようになってから60年だが、伊勢湾を船で渡るのは初めてである。
そういえば「Mの顔が見えないな」と聞くと「葬式ができたから早く帰ると、Nの車に同乗して朝豊橋に向かった」という。「そうか、それで、折角の機会に伊勢湾を渡りたいと、昨日船で来たわけか。それなら昨日のうちに言ってくれればよいのに」。
鳥羽港には10時25分着。
マイカーに全員は乗れないので、6人が電車で行くことにする。電車組は私が案内する音にして、港の前の近鉄「中之郷駅」に行く。
ホームには道路のスロープから登れたが、無人駅です。乗車票を各自、引き抜いて、下車時に改札係員に呈示し運賃を支払う仕組み。「五十鈴川環駅は5つ目の駅でした。ワンマンカーが10時53分に来た。
五十鈴川駅につき、駅前のタウシーに3名ずつ分乗内宮に向かいました。タクシーを降りると、丁度、愛カー組gぶらりぶりりとやってきました。宇治橋の前の鳥居をバックに記念撮影。

一同、宇治橋を渡り、内宮に参拝しました。



12時ごろ宇治橋に戻り、おかげ横丁で土産物を調達し、12時半再度集合し、「次回まで元気に生きていよう」とエールを交換し解散することにしました。
 電車組はまたタクシーで五十鈴川駅に戻り、遠くまで帰る人もいるから時間を節約しようと昼飯は電車内で駅弁を買おうと近鉄特急の名古屋行にのりましたが、これが誤算。この特急、社内販売がありませんでした。2時16分に名古屋駅に着いてから名古屋飯(「味噌カツ定食」)を味わうことになりました。
その後3時過ぎ解散し、無事に旅を終えました。


同級会の旅(1)

2015-03-03 | 旅行
平成27年3月1日は、高校を卒業してから丁度60年でした、60周年記念で同級会をやろうという話になり、小生が幹事長役を引き受けました。
伊良湖岬のホテルでやろうと企画して、70名いた同級生、も3割が天国(多分)に転居して、生存と思われる49名に、往復はがきで案内を出しました。
 1名が「2年前に亡くなりました。生前はたいへんお世話になりました」というご家族からの返信がありました。48名から返信があり、24名出席の連絡がありましたが、直前になって1名キャンセル。結局23名が集まることになりました。
 午後0時40分、豊橋駅西口で伊良湖ヴューホテルのバスに乗り込みました。生憎のお天気になりましたが、懐かしい顔ぶれが10数人です。マイカーで行くという面々もいて15人が乗車の予定でしたが、一人、奈良からくるM君が見えません。いつも出席し今回もバスに乗るという連絡をもらっているのに「おかしいな」と思いましたが、運転手に10分待ってもらい、幹事の一人に駅に探しにいってもらいましたが、見当たらずあきらめて出発しました。途中、「道の駅」で小休憩しホテルに2時20分到着。ロビーで少し待ちましたが、3時に部屋に入りました。雨が強くなり、部屋の窓から見る海岸のヤシの木が揺れに揺れている。太平洋に突き出した先端ですから。風がつよい。
5時ごろ「Mが来たよ」という知らせ。「船で行った方が早いだろう」と気が変わって豊橋回りを止めたという。「それなら電話をしてくれれば」と思いましたが、顔を出してくれればうれしい。奈良から近鉄で鳥羽港に出て船に乗ったという。
「いやぁ、こんな日に船はダメだ。乗り場でビニールの袋を渡されてね」と言う。こんな日には、揺れがひどくて気持ちが悪くなる客もいるらしい・
6時に食堂に集まり記念撮影。その後宴会になった。
 久しぶりに会うと、みな話すことがいっぱいある。幹事が特にイベントを用意しなくても盛り上がる。宴たかなわだったが、8時過ぎ中締めとして、今度は部屋に。宴会場から焼酎のボトル1本部屋に持ち込み女性も加わり、盛り上がった。
 一人が自宅からテレビにつなぐカラオケセットを持ち込み歌も楽しんだ。
 小林旭がCMで宣伝しているヤツらしい。曲目は多くないが、結構手軽に歌を楽しめる。
 このホテルはヴューグループのホテルでは全国で2番目に開業(昭和43年)したホテルだという。北は秋田から南は沖縄、石垣島まで全国でリゾートホテルを展開しているグループだ。盛り上がったとは言っても、みなもう数えでは80になる。9時半にはそれぞれ部屋に引き上げ静かになって、第一日を終えました。(つづく)

あま市と大治町を歩く

2015-02-08 | 旅行
2月7日、名鉄のハイキングに出掛けました。朝は冷え込みましたが、青空が出て風もないようです。絶好のハイキング日和になりそうですので、一昨日新聞で見たあま市と大治町のハイキングに行くことにしました。海部郡は愛知県生まれですから、勿論名は知っていますが、電車で通り過ぎたことは度々ですが自分の足で地を踏んだことはありません。一度行ってみようと、寒い時期ですが参加することにしました。
 8時15分家を出て、名鉄須ケ口駅に9時10分、受付で地図を貰い歩き始めて、すぐ五条川にぶつかる。岩倉を流れている川だが、海に近いだけ川幅は岩倉辺りの倍はある。1kmほど歩いて最初は萱津神社です。萱津神社は、日本武尊が東征の途中に参拝したと伝えられる古社で、全国でも珍しい漬物の神様です。

 奥の方へ行くと、香の物殿というのがありました。
賽銭箱の後ろに漬物石があります。これを3回なでると漬物上手になれるそうな。
日本人は何でも神様にしてしまうらしく、漬物石まで神様にしてしまった。
次に目指すのは甚目寺観音です。3kmで来ました。

伝承によれば、推古天皇5年(597年)[1]、伊勢国[2]の漁師である甚目龍麿(甚目龍麻呂、はだめたつまろ)が漁をしていたところ、当時海であったこの地付近で観音像が網にかかり、その観音像を近くの砂浜に堂を建て安置したのが始まりという。この観音像は、敏達天皇14年(585年)に、物部守屋、中臣勝海の手によって海に投げられた3体の仏像のうち1体(聖観音)といわれている。残りの2体のうち、阿弥陀如来は善光寺、勢至菩薩は安楽寺(太宰府天満宮)にあるという。
近くに歴史民俗資料館があったので覗いてみた。
商工会館と同居で3Fが展示室になっている。やっこらしょと3Fまで上がり、展示物を見た。「あま市の戦国武将」というパンフが置いてあったので、手にとってみると、蜂須過小六、福島正則が載っている。小六や正則はこの辺りの出身らしい。

資料館を出て、今度は大治町まで歩く。町役場の近くの「明眼院」という眼の神様を目指す。金剛力士像が印象的でした。

かつて仁王門に安置されていた2躯の金剛力士像。13世紀末〜14世紀初頭の鎌倉時代の造立とされる。阿形・吽形ともに片腕の先が欠損しているがその造形から慶派の仏師によるものと考えられており、2011年(平成23年)に町指定文化財になっている。


 なお、仁王門は明治24年の濃尾地震で倒壊して撤去された。現在、仁王像は旧仁王門跡地に屋根付きの格子に被われた状態で置かれている。本堂にの前で参拝したら、中の女性が「眼の仏様です。拝んで行ってください」と言う。えっ、神様でなく、仏様なの。
明眼院を出てまた歩く。今度はまたあま市。旧七宝町だ。
あま市は、2010年(平成22年)3月22日に、海部郡七宝町、美和町、甚目寺町の3町が合併して誕生した(愛知県の平生の大合併最後の合併である)。歩いてみるとかなり広い。疲れたので途中、コンビニにより、珈琲を頂く。おにぎりを仕入れた。
 この時ミスをした。地図を落としてしまったのである。まぁ大勢歩いているからついていけば道はわかる。皆についていくと佐藤醸造に着いた。明治7年創業という老舗で、此処で豚汁をちそうになる。お握りを一緒に食べて昼食をとった。ここで味噌蔵を見学。

味噌蔵を出て歩くと、途中で七宝焼きの原産地と言う標識が建っていた。

今度は旧七宝町のアートヴィレッジに向かう。
アートヴィレッジ、入館料は団体料金で¥250.見事な展示作品を見学した。

アートの見学の後は、いよいよゴールの神明社だ。
11.5kmを無事に歩いてゴール受付。地図の番号で記念品を貰えるのだが、地図を紛失したので、完歩賞だけ貰う。「神明社」と言う割には神社らしい建物がない。でもここが最後だ。「七宝駅まで何キロある?」スタッフに聞くと「キロと言うほどありません」。安心して↡標識の矢印の方向に歩い始めたら神社があった。これが「神明社だった。「神社の由来」の碑があった。天照大神を祀る村の鎮守様のようです。

因みに、「神明社」と称する神社は全国に一万社以上あるという。
名鉄の七宝駅に着く。今日は12㎞歩いた。名古屋駅経由帰宅したのは午後2時。この後プールへトレーニングに行く予定だったが、疲れてしまったので止める。昔は12㎞ぐらい歩いても疲れるということはなかったが、年の所為か体力が衰えた、走っても泳でも歩いても、体力の衰えを感ずる。やむを得ないか。

外宮から内宮までウオーキング

2015-01-05 | 旅行
外宮から内宮までウオーキングしました。1月4日、近鉄主催のウオーキングに参加しました。近鉄名古屋駅から8:41松坂行の急行に乗車、松坂で五十鈴川行の急行に乗り換え、10時30分ごろ、宇治山田駅に着きました。受け付で地図を貰い歩き始めました。
 内宮は2~3回参拝していますが、外宮は行ったことがない。新聞でこの近鉄ウオーキング案内の記事を見てGETすることにしました。初詣割引切符が¥2200ということなので、片道だけで、通常¥2000ぐらい(特急乗車)ですから、随分安いと年末に購入したのです。ただし、都九県はついていない。そこで、急行乗車での伊勢参りとしたのです。
 宇治山田駅から、外宮までは、思ったより近い。1200mで着きました。

 天照大神のお食事を司る神、豊受大神を祀る内宮創建の500年後山田原に迎えられ、衣食住はじめあらゆる産業の守り神とのこと。
 お神酒の振る舞いを、本殿横で行っていたので、並んで一杯頂きました。「いくtらかな?」横の賽銭載せをみたら、千円札も100円玉もある。志でいくらでもよいらしい、と100円玉を乗せました。

 地下鉄や名鉄のウオーキングに比べ、勝手が違い戸惑いました。
ウオーキングの標識が出ていない。従って地図だけが頼りですが、地図の表示が特に分岐点でわかりにくい。それに、正月そそうであったためか、参加者が多くない。多ければ後についていけばいいのですが…
でもなんとか猿田彦神社(6.1km地点)まで歩きました。

が、この後しくじりました。
 猿田彦は、伊勢神宮の門衛みたいなものだから、猿田彦の後が内宮だろうと錯覚して猿田彦の次の交差点で左に曲がり猿田彦神社の後に回る方向に行きました。これが逆方向でした。地図を良く確認すればよいのに、我ながら、そそっかしい。しばらくして「五十鈴川駅まで徒歩8分」という標識を見つけて、内宮から離れて五十鈴川駅に向かっていることに気づきました。そこで向きを変えましたが、2㎞近く余分に歩きました。
 猿田彦を通り過ぎて1㎞ほど歩くと内宮の鳥居が見えてきました。

 宇治橋を渡り、神域に入ります。


お正月の人出で大賑わい。こんなに人が多いと神社の荘厳さは感じられません。日本人の宗教は、鎮守の森全体が神様なんですね。宇治橋を渡ってそこからの自然自体が神様であって、勿論神宮の社屋はあっても、その中は「空」、ではないでしょうか。
 ここでも、甘酒のサービスを行っていました。
甘酒を頂き、本殿に参拝した後、帰ることにしました。出口で「近鉄参拝記念品引き換え」の看板を見た。
 何かもらえるかな、と割引切符のパンフを見たら、引換券がついていました。

乙未(きのとひつじ)の置物(写真)でした。
橋の外で土産を買い、改めて地図を見ました。良く見ると、「五十鈴川駅ではゴール受付はありません。お疲れ様でした。」とある。別に歩いても仕方ない、と思ったとたん、2km余分に歩いた疲れが出て(多分ここまで12㎞歩いた)、もう2時だ、歩く気がしなくなり三重交通のバスに乗ってしまいました。5~6分で駅でした。
 駅に着くと急行は出たばかり、1時間に一本だ。1時間待つか、と覚悟を決めた後、「そうだ、大阪行に乗って、中川で名古屋行急行に乗ればいいのだ」と気づく。30分後の「上本町」行で中川乗り換え、名古屋行急行に乗り、4時50分名古屋駅に帰着しました。
 

犬山を歩く

2014-12-08 | 旅行

一7日、8時に家を出て、犬山遊園に向かいました。小牧線経由で9時、犬山駅で途中下車。自民党の小泉進次郎が駅前で演説すると言うので、どんな話をするか聞いてみようと思ったのです。東口にでると、大勢の人が集まっています。寒い朝、これだけの人が集まるのですから、新次郎君は人寄せパンダの役割は充分果たしています。愛知6区の候補者N氏が演説していました。
 「国家の基本である教育の再生を・・]と教育問題を論じている。聞くところでは、N氏は文科副大臣とか。いわゆる文科族議員の一人かな?
次に進次郎氏が登壇。「愛知県の生んだ英雄豊臣秀吉は当時“人たらし”と呼ばれました」。「Nさんは平成の“人たらし”です」。と、候補者を持ち上げる。政策についての「小泉論」を述べるかと思ったが、「候補者を誉める」だけなので、切り上げて電車で犬山遊園に。9;35、東口で地図を貰い歩き始めました。すぐ東口の急坂を上り、犬山成田山です。

「犬山成田山は千葉県成田市の大本山成田山新勝寺の別院で、寺号を大本山成田山名古屋別院大聖寺。   弘法大師が敬刻開眼された不動明王をご本尊としています。名古屋周辺のご信徒様がたびたび千葉まで参拝されるのは困難であることから、昭和28年に中部地区最大の不動尊霊場として開創いたしました。」と言う。
息を弾ませながら一気に本堂まで上がる。参詣を済ませて、坂道を降り今度は寂光院へ、

ここの参道はすべて東海自然歩道になっている。今回のコースは8㎞とのことだが、アップダウンが多いから9mか10㎞ぐらいのコースに相当する。寂光院は創建以来1350年、尾張最古刹の神社だそうですが、上まで上がったら、さらにロープウェイ風の乗り物があって、「展望台まで 200円以上の奉納をお願いします」とあった。6人乗りで順番待ちの列が並んでいたので割愛することにして、引き返す。坂を下りると、木曽川沿いに出る。
 ここから木曽川沿いに犬山城までの風景は懐かしい風景だ。この辺りは、以前、読売犬山マラソンのコースで、5~6回走ったことがあるからです。
中でも昭和53年2月の大会は記憶に残っています・
 ゴールすると、愚息が現れ「あれっ、父さん早かったね」と言う。愚息と一緒にマラソン大会を走ったことは何度かあるが、愚息に褒められたことは、この時が最初で最後。
実際この時の1時間31分は、20㎞の私のベストタイムだった。その時のコースを今日はゆっくり、はるかに犬山城を見ながら歩きました。
犬山城は、創建当時のまま残っている全国でたった三つの城の一つだそうです。今日は、天守には登らず隣の針綱神社に参詣しました。
「五穀豊饒、厄除、安産、長命の神として、濃尾の総鎮守とされている。


安産、子授けにご利益があるという。これは、1537年(天文6)、織田信康(信長の叔父)が自ら手彫りの狛犬一対を奉納して安産祈願したことからである。」とか。
 「ゴールまで跡3km」の掲示があった。お城から犬山駅まで2㎞ぐらいじゃなかった?まだ寄り道がある?お城を降りて古い街並みを本町まで歩く。案の定、本町から駅に向かわず出来町に向かい、専正寺まで寄り道して駅西口まで歩いてのゴールでした。ほぼ12時、2時間半のウオーキングでした。 

高畑から上前津

2014-12-07 | 旅行
6日、駅ちかウオーキングに出掛けた。地下鉄東山線の始点高畑駅から名城線の上前津駅までです。高畠から上前津というと、日頃地下鉄を利用している人の感覚からいうと、凄く長い距離のような気がするが、それほどでもなく9km程度と言う。
 8時家をでて、8時45分高畑駅についたが、着く直前気がついた。「早すぎた!」受付は9時半からだ。何故間違えたか。昨日夕刊で7日の名鉄主催の犬山ハイキングの案内を読んでいた。「行ってみようかな」。受付は8時半となっていた。名鉄は8時半、地下鉄は9時半なのだ。
「仕方ない、しばらく待つか」。ところが高畠駅m5番出口に行ってみると、受付前。通路は長蛇の列である。最近のウオーキング熱は、すごいな。
 大勢集まったためか、世t理より30分早く、9時から受け付けが始まった。5番出口までの地下通路は長かったが、地上に出て歩き始めると、荒子観音、円空仏で有名、は直ぐ、1㎞もなかった。

お参りした後、荒子公園を通り抜ると、あおなみ線の荒子駅。「利家とまつ」の銅像が建っている。
篠原橋通りを東へ。堀川にかかる橋を過ぎると八熊通りになる。八熊の交差点(ここまで4km)で左折。尾頭橋で左折して八島公園にくると、ここで通貨チェックカードを渡してくれる。今まで中間チェックなどなかったが、今回だけは中間チェックを行うようだ。距離が長いせいか。このカードを見せないと、ゴールで参加印を押してくれないという。お天気が食うr手k多雪が舞い始めた。今冬の初雪である。冷えてきたので、トイレにいきたくなった。案内員に聞くと「この辺りトイレがないのでコンビニに入ってください」しばらく我慢して歩く。名古屋球場に来た。元駐日ドラゴンズの本拠地だ、球場はかいほうされていたので、駆け込んでトイレを済ませた。球場を出ると尾頭橋駅。6㎞歩いた。東へ歩き、堀川にぶつかると左折、しばらく堀川沿いに歩くと、右手に松重閘門が見えてきた。堀川と中川運河を結ぶ閘門だったが、現在は閘門としては使用されていない。
 松重閘門を通り過ぎたところで、後ろから声をかけられた。見ると、同じ住宅のIさん。確か80歳を超えているはずだが、お元気です。傘をさしている。
「降り出しましたね」、「寒くなったねと相槌。
 その後水主町から東へ曲がると大須。観音様にお参りして大須の繁華街を通り過ぎると

、上前津駅。11時20分ゴールした。寒い碑だったのでやや速足で歩き9㎞を2時間20分で完歩した。



桶狭間

2014-12-01 | 旅行
30日、名鉄のハイキングに行ってみようと思一致8時に家を出ました。中京競馬場からスタートする桶狭間古戦場を歩くハイキングです。
 金山駅で、労金表を見ると、中京競馬場まで¥350です。意外と高い。そうか、競馬じゅは名古屋市内と思っていたが、豊明市なのだ。市街まで行くのだからそれなりの料金だ。
 ホームに行くと準急「豊川稲荷行」が来るところだ。
「中京競馬場停まります?」駅員い聞くと、「臨時停車します」。ハイキングがあるから、停車するのだ。17分ほどで中京競馬場に着く。
8時50分、受付で地図を貰い歩き始める。駅前にいきなり「豊明市桶狭間古戦場伝説地」の碑が建っている、いきなり古戦場モードです。

「義元の墓」と伝えられ旨の碑と、ここが「桶狭間古戦場」である旨の立札がある。
閑静な住宅地の続く道を歩き始める。
狭い道を上がって長福寺とというお寺に来た。

合戦で首実検が行われたというお寺で血刀すすぎの池もあるという。ここは、もう緑区です。すぐ南に桶狭間古戦場公園がありました。
信長と義元の像がたてられています。

競馬場駅前の「古戦場伝説地」と、この「古戦場公園」との関係が良くわからないが、豊明市(前者)も緑区(校舎)も「義元最期の地」がほしいということか。

長福寺を出て間もなく愛知用水。243号線に沿い長坂南へ。左折して大きな歩道橋を渡る。毎環状2号線に沿い、大高緑地東にでます。11時前ゴールです。ここまえ7km。大高緑地は、大高城址があるのかと思ったら大高場とは関係がないという。聞くと、城址は東海道本線の西、緑地は東側だという。「愛知合戦ワールド」なるイベントをやっていたが、割愛し、変えることにする。名鉄の「左京山駅」まで1kmほど歩きました。臨時停車の「佐屋行き」、臨時停車だそうです。帰りの切符は¥300」、11時14分乗車、帰宅しました。



稲沢市のウオーキング

2014-11-29 | 旅行
28日は、シニアクラブのウオーキングを予定していたが、8時半ごろ窓から外を見ると、まさかの雨がふっている。今日は中止かも?と9時半、エレベータホールに行くと、いつものメンバーが集まってくる。
「どうする」
「空が明るくなってきたから大丈夫じゃない」と出掛けることにした。総員9名(男4、女5)です。今日は、稲沢市の荻須美術館と、イチョウ寺である。
 名古屋駅から名鉄線で国府宮駅へ。10時20分駅につき階段を上がり橋上の出口を出て、まずは美術館と歩き始めた。名鉄の踏切に来て「なんか変だな」下見に来たとき踏切は通らなかった!
この辺りの地理に詳しいHさん「方向が反対じゃない」、Kさんも、「何か逆方向みたいよ」
どうもそうらしいと方向を変えた。下見の時は地下の出口から出たので、出口の風景が違って勘違いをした。雨がパラパラ降ってくる。まぁこれくらいなら我慢するか。
 みな傘をさす。私だけが傘を持ってこなかった。「これ使って」とSさんが白いビニール傘をくださる。途中のコンビニでゲットしたようだ、
 市役所へ行く大通り(県道春日井・稲沢戦)に出てしばらく歩くと美術館の「小磯良平展」の看板が見えた。11時前荻須高徳美術館に着く。

http://www.city.inazawa.aichi.jp/museum/
稲沢の生んだ洋画家荻須高徳の作品を集めた美術館で、常設展(荻須作品)の他、企画展「小磯良平展」をやっていた。小磯は美術学校で荻須と同級生だったらしい。
 「この美術館は何年にできたのですか?」と受付の女性に聞くと「昭和58年です」
 受付けの右が常設展、左が企画展。まっすぐ奥に入ると、荻須のパリのアトリエを移築して展示している。小学生が団体で来ていて、学芸員の説明を聞いていた。
 1時間ほど見学してから、外に出た。美術館の西側、市役所の間には稲沢公園が広がる。

12時近かったので、公園に行き、弁当にする。雨が上がり青空も見えてきた。
奥様方から漬物やお菓子の差し入れをいただく。1時、次に行こうか、と腰を上げ。市役所の前のバス停に行く。「稲沢市役所」の看板がたっているが、何か妙だ。バッグから、インターネットでダウンロードした稲沢市役所前バス停の写真を取り出す。写真の看板は「市役所」。バスの時刻表も比べると、インタネットでは13:34だが、バス停の掲示は14:10です。バス停に待っている人に写真を見せると、「この写真は市役所の裏です」。バス停が他にもあるのかな?「行ってみよう」と市役所南側に回ると、「このバス停は11月4日から移転しました」。
 市役所の中を通り抜け、さっきのバス停に行くと、「11月4日より時刻が変更になりました」との掲示がある。結局、インターネットは、変更が更新されていなかったわけ。「仕方ない!」と市役所のロビーで時間待ちして14:10のバスに乗る。
 やってきたバスは、マイクロバスというより普通車並みの大きさで20人も乗れば満席。我々9名が乗ったら、満員。次のバス停に着くと、運転手が待っていた人に「乗合タクシーを呼びますからそれにのってください」と電話をかけていた。何しろ一日に4本しかないバスを待っていたのに満員通過されたらやりきれないので、こういうシステムになっているらしい。
20分ほど走り「森上駅」に着く。駅でウオーキング案内の地図を貰い歩き始めた。
 歩きはじめてから「あっ」と気づいた。
折角頂いた傘をバスの中に置いてきてしまった。傘はそれほどほしいわけではないが、せっかくのご厚意を無にしたのが残念です。
 最初に駅近くの正淋寺。つづいて布智神社、シイノキの巨木が見られました。
ここで、記念撮影。
その後、神社を回り込んで日光川の森上橋から川沿いに北上する。
川岸の銀杏の風景は圧巻です。

 今は稲沢市になっていますが、旧祖父江町は銀杏の産地として有名です。愛知県の銀杏生産量は日本一、全国生産量の3割、中でも祖父江町の生産量は群を抜くとか。
1kmほど歩いて、山西橋のたもとで左折すると、直ぐに祐専寺、別名イチョウ寺です。

樹齢300年の巨木がありました。車と人で混雑していました。銀杏寺に参拝した後、4時前、名鉄山崎駅から電車に乗り、一宮経由名古屋駅。5時ごろ帰宅しました。


新宮市内

2014-11-09 | 旅行
 「次に回ろう」と車に戻り、168号線を新宮へ。雨が降り出す。
「参詣するときだけ雨が止んでたね」
「いや、今日は海岸ちかくだけ雨降りなんだ。だから、海に近くなると降り出すんだ」。
昨日休館だった西村記念貨と佐藤春夫記念館を訪れよう。。
「その前に浄泉寺に行きたい」とHさんが言うので、新宮市内に戻ると、浄泉寺。12時前だった。
Hさんが案内を乞うと住職が出て見えたが、これからお葬式に行くのでご案内はできないがと袋入りの資料を4人分出してくれた。
 浄泉寺は、大逆事件に連座した高木顕明師が住職を務めたお寺で、門前に同師の顕彰碑があった。

 本堂に上がり、しばらく見学したのち辞去する。入り口に初代新宮藩主が創建した旨の碑が建っていた。

佐藤春夫記念館は昨日参詣した速玉神社の隣だ。我々が入館すると、受付の御嬢さんが、テープレコーダーを回してくれた
「サンマ苦いか、しょっぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせ」佐藤春夫の声がながれる。生前住んでいた東京の家を移築した建物です。
次に新宮駅北の西村記念館に行く。館長さんが説明してくれた。「西村は、大石誠之助の甥で誠之助の影響を受け育った。与謝野晶子らとともに神田駿河台に「文化学院」を創立した教育者であり、建築家であった。この家は重要文化財に指定されている。大正3年竣工した。全体は特徴的な外観の洋風住宅だが、構造は木造の在来工法。1Fに居間と食堂、台所、2Fに寝室と浴室を配置、間取りは米国の近代住宅にならった。
 特に1Fの中心部を占める居間と食堂はガラス戸を挟んで一体。家父長制の時代に家族本位のつくりは先進的です。
 誠之助の遺品が展示されていたが、海外旅行用の大きなトランクが目を惹きました。
「佐藤春夫や中上健次など作家も新宮は生んでいるのですね。新宮には文化的な伝統があったのですかね」
「海に開いた地勢でしたから、海外の文化がはいりやすかったとおもいますね。」

「大石誠之助は医師で、貧乏人からは治療費をもらわなかった。ドアを3回ノックして入ってきた患者からは治療費をもらわなかったとか」Jさんが昨日の勉強会で聞いたことを早速披露すると。館長さんは「そう伝えられています。良くご存じですね」
私が「文化学院の創始者が西村と言う人だとは聞いていましたが、新宮の人とは恥じえて尻真っした。」と言うと、艦長さんは、
「今まで見学者はたくさん見えたが、誠之助をこんなに勉強されて来た方は初めてです。」
「珈琲を入れますから、時間が許せば飲んでいってください。」
珈琲を御馳走になった。
話は次々と出たが、2時半辞去。「昼食は昨日の“おとと”でとりましょう」と小生が言うと「尾鷲まで1時間かかるけど、朝飯をしっかり食べてきたから、昼は遅くなってもいい」とみなさんが合意して、雨の中、尾鷲に向かいました。
 3時半、おととに入り昼食をとるが、時分をはずれているので「ご飯とみそ汁ぐらいしかありません」とおかみさんが言う。
寿司は何種類あったので、寿司とご飯とみそ汁の昼食。でも、「味噌汁はホテルの味噌汁よりうまい」とSさん。満足して頂けたようです。土産物を買い込んで、後は一路名古屋へ。名古屋近くは渋滞しているとの情報で、桑名で高速を降りることにする。6時過ぎ、近鉄桑名駅で解散することにする。鈍行に乗ったので名古屋着は7時前になりました。
 乗車時刻が少し遅くても急行に乗るべきでしたが、7時15分無事に帰宅できました。密度の濃い二日間の旅でした。

熊野三社

2014-11-08 | 旅行

5日は熊野三社を参詣しようと、朝8時にホテルを出ました。42号線を西へ40分ほど那智に。車から降りると「おやっ」。ぱらぱらしてきました。天気予報は4.5日友晴天の筈だった。朱の建物が見えて、その横に白い滝の流れが見える。カメラに収めたが、望遠レンズなら、並び立つ滝と塔がもっと鮮やかに写せただろう。「塔に上れば滝をまじかに寫せる?」と塔に入る。
 金網が一部破られている。「ここからカメラを少しでも多岐にちかづけようとした?」

那智大社を参拝し、次に熊野本宮へ回ろうと車に戻る。

42号線を戻り、168号線との分岐点を目指す。
雨が本格的に降り出した。
「本宮では歩くところが多い?」
三社の中で一番歩きがきついですよ」とJさん。「傘を準備せずに行くのは無謀ですよ」と言う。コンビニに寄り傘を買おうかと思った。しかし、168号線に入ると、山中を走りコンビニなど-ず目に着かない。瀞八丁に繋がる道だ。1時間ほど走り、熊野本宮の駐車場に来た。
雨は止んできた。
「一寸、聞いてみまう」とJさんは車を降りて近くにいる人(地元の人らしい)に聞く。Hさんが足が悪いので、車で上まで上がれないのか?を聞いたのだ。「そこの右の道を上ると、本宮の裏まで行けるそうです。早速、その道を上がる。本宮の裏手に出た。駐車場があり、車を降りると、すぐ本宮に出た。
「今まで何回か来たけど、車でここまで上がれる道があるとはとは、知らなかった。」とJさん。
「えっ、こういうところ!」と私は思った。

数社のお社が横に並んで、まるで神社の長屋みたいだ。お賽銭を上げて参拝。
http://www.hongutaisha.jp/
境内には、千年の古木がご神体になっている。
また、秩父宮妃殿下の歌碑がある。

八咫烏の黒いポストを見つけた。現在も郵便ポストとして現役です。(続く)