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古稀の青春・喜寿傘寿の青春

「青春は人生のある時期でなく心の持ち方である。
信念とともに若く疑惑とともに老いる」を座右の銘に書き続けます。

京都御苑(2)

2015-06-08 | 旅行
 堺町御門から木々を眺めながら、北へ歩き5~600m。この公園の樹は、あたかも盆栽のような枝ぶりに手入れされています。

銀杏の大木がありました。

「源実朝が暗殺された時、犯人は銀杏の大木に隠れていたと伝えられますが、鎌倉時代、イチョウは日本にまだ伝わっていなかったのですが・・・」と先生。
「鎌倉に行くと、その銀杏の二代目だとか三代目だとかいう銀杏がありますが」とメンバーの一人。「伝説とはそういうものですね」と先生。
東へ歩い出水の小川に出ました。ここから南に戻り、丸太町の入り口近く、閑院宮邸跡。無料公開していたので、入って見学しました。

 二八〇年の樹の木目が展示されていました。

12時10分、閑院宮邸を出て北へ。左手に蛤御門が見えました。幕末、巻き返しを狙って長州藩が激闘した。大河ドラマの舞台です。

さらに北へ歩き仲立売り御門の近くに無料休憩所があります。ここで、弁当を広げました。右手が京都御所。春秋一般公開しますが、今日は参観許可を取っていませんので、外側から御所の兵と白い雲を写しました。
昼食後北へ。児童公園がありました。

巨木で子供が遊んでいました。
同志社大学を左手に見ながら近衛邸跡を通り過ぎ、中山邸跡に来ました。ここは明治天皇のお母さんの実家。

 明治天皇が産湯をつかった井戸があるとか。ここから御所の鬼門を見る。
 南に折れるとコオロギの里。「メタセコイヤがありますよ」と教えてくれた。

清和院御門に来て「ここで終わりにしましょうか」


ここで解散になった。清和院御門を出て帰ろうとしたが、方角がわからないので、宝塚に帰るというメンバーに京都駅まで道案内を頼む。御苑の周りをぐるりと回り、今出川通りに出て東へ烏丸通まで歩いたが、かなりの距離。これなら御苑の中の道を戻った方が早かった。烏丸通と今出川通りの交差するところで、地下鉄今出川駅。4条で乗り換える彼と別れ、京都駅。3:33のひかり(ひかりと言っても各駅に停車)に乗り、名古屋駅4:25、家には5時、帰宅できました。

京都御苑(1)

2015-06-07 | 旅行
 京都御苑をウオーキングしました。
Green Earth Network(以下GEN)からメールが入り「京都御苑の自然を観察しましょう」と、ウオーキングの誘いがありました。
 GENは、中国の大同付近で植林活動をしているNPO法人で、私はかれこれ10年以上前から会員になっています。
 会員と言っても、何か特別なことをしているわけではなく、月千円の会費を寄付し続けているだけです。何故会員を続けているのかと言うと、これまで80年近く生きていても世に役立ついいことを何もやっていません。せめて世の中にいいことをやっている人を応援したいと考えて会員になっているのです。
 時々会員対象の講演会やこうした催しの案内がくるのです。
京都御苑を歩く機会など滅多にありませんから「行ってみるか」と参加の電話をして、6日の朝新幹線に乗りました。7:56のこだまで9時前京都着。
地下鉄烏丸線に¥260の切符を買って乗りました。乗ってすぐ目的地の丸太町はどのあたりかな、路線図の掲示を車内を見まわしましたが、路線と駅名の掲示がありません。観光地としては配慮がほしいものです。4つ目ぐらいの駅が丸田町でした。4つ目で¥260は少し割高、と思いました。
下車しましたが、まだ9時半。約束は10時でしたので、周辺を歩いてみようかと、エレベータに乗ったら。福祉会館という建物の1Fでした。別に珍しいものもないので、また地下鉄に戻ろうとエレベータに乗りB1のボタンを押したが動かない。またすぐ開いて次の人が乗り込んできてボタンを押すと上に上がり始めました。
「僕、地下にいくつもりだった」と言うと、その人は「土曜日はこのエレベータは地下へはいきません」と言う。省エネとはいえ、京都人がかくも節約家であるとはしりませんでした(このエレベータが珍しいもの)。1Fに降りフロントで、聞くと「玄関を出て左に行き階段をおりなさい」と言う。再び地下鉄に降りて北口に行きました。
10時になると、続々メンバーが集まり21名でした。
 案内は前中さん(元大阪府代大学院教授)でした。
 一番出口を出ると、京都御苑の入り口です。

http://www.env.go.jp/garden/kyotogyoen/
前中さん「京都御苑は国民公園です。国民公園は日本に三つ、ここと東京の新宿御苑。皇居外苑です。お役所の管轄では環境省、他の都市公園は国土交通省の管轄です」
「京都御所は京都御苑の一郭ですが、管轄は宮内省です。御苑の面積は65ヘクタール」
入り口の大きな樹から説明を始められた。
「これは百日紅です。サルスベリでも猿は登ります。人間でものぼれます。名前と言うものは、最初にそう名付けてその名になっただけで、名は体をあらわしません。人間でも子供が生まれれば親はいい名を考えますが、その名の通りにはなりません」
いご、御苑内の樹の名を説明し始めた(几帳面な人がいて、先生の説明する名前をメモしていた人がいたが、解散の時“今日、先生の説明した樹は83でした”)
「名前自体にはあまり意味がありません」と最初に煙幕を張った。
直ぐ横に九条邸跡があった。要するに京都御苑は、幕末、御所と周辺の九条、一条、西園寺、中山、近衛などの邸宅であったところを明治になって公園にしたのだ。
 その九条邸跡に入ると、厳島神社(巻頭写真)があった。
「国民の土地の中に特定の宗教法人を置くのは難しいので、こうした神社は別組織になっている」と言う。
九条邸の横に堺町御門がある。

幕末、この門を護っていた長州藩をおいおとすため、薩摩・会津の軍がこの門を固めた。いわゆる七卿落ちのクーデターである。
「ここの樹木は管理が行き届いていますね」と前中先生は言う。
 巨木の根元は防虫のカバーをしている。それに、巨木に盆栽のような枝ぶりの手入れをしている。

福井の旅(2)

2015-06-05 | 旅行
 我々4人の旅は、一泊し、夜、お互いの専門分野から話題を提供する勉強会を行っている。
今回は、Hさんに日本仏教の話。明日の予定が、蓮如上人が開いた吉崎御坊を訪れることになっているので、「法然・親鸞・蓮如を語る」を聞き、日本仏教について40分ほど語り合った。
 仏教というものは、奈良仏教に見られるように、天皇が国家の安定を祈念して大寺院を建てるなど、言うならば“国家仏道”だった。それが国家でなく、個人の救済を祈る教えになったのは、鎌倉時代の仏教からだった。その最初が、法然であり、法然の理論を精緻化したのが、親鸞。その教えの真宗は、消滅寸前まで衰亡していたのを再興したのが蓮如さんというわけ。蓮如さんは経営の才に恵まれた人だったらしく、比叡山派の弾圧を逃れ吉崎を開いたが4年半後、京都に山科本願寺を開き、晩年には大阪、石山本願寺を創設する。
「蓮如さんののおふみ」と言う形で文書が残されているので、教義上は親鸞の教えを文書化したことが功績と言えるかもしれない。Hさんによると、日本人の仏教に「来世」という考えが強く入ってくるのは蓮如さん以後だという。
 蓮如さんは、必ずしも権力者と争うという態度をもったわけではないが、吉崎御坊を築いたことは加賀一揆の因となったし、石山本願寺は、信長との長年の戦の根拠地になった。
 それよりも、85年の生涯に、5人の奥さんと結婚し、27人の子をなしたという生涯は、驚異的と思いました。
 6時半から夕食。「カラオケをやろう」と夕食後カラオケルームに行ったが、機械が故障。画面に「スタッフに連絡してください」。マネージャーが来てあれこれなぶったが、治らない。「カラオケ屋を呼びます。部屋に戻り寝ていたら10時過ぎに「治りました」と電話がきたらしいが、すっかり寝込んでいた。
 実際、夕食で飲んだ地酒「三国物語」がすっかり効いて翌朝7時までぐっすり寝込んでしまった。
翌朝「ご迷惑をおかけしました。お詫びに」ろマネージャーが土産を持ってきた。

 翌日は雨がぱらついていた。「雨が降っても、ここまで来たら、東尋坊をみないわけにはいかない」。波に浸食された景色が売り物だから観光船に乗って海側からの景色を見るべきだったかもしれないが、一寸だけ海をのぞいただけ。すっかり観光地化され土産物屋が立ち並んでいた。次は「吉崎御坊」です。カーナビの案内で30分ほど。吉崎御坊「蓮如上人記念館」に着いた。玄関直ぐのシアタールームでビデオを見た後、館内見学。
http://honganjifoundation.org/rennyo/facilities/facility.html
七不思議堂という蓮如さんの生涯の七不思議を解説した展示館がありました。熊谷組の社長の家を移築したというケヤキづくりの日本建築です。

 見終わった後喫茶スペースで珈琲。
メードさんに「蓮如さんに会っていきたい、どこにあるの?」と銅像の位置を聞く。坂を上
がると公園。ここが昔の吉崎御坊跡。詩人の高村光太郎の父、高村光雲の作になる12mの銅像があった。
太平洋戦争時、金属供出命令で工作隊が、この像を取り壊すという話が出た時、門徒衆がこの像の前で篝火を焚き人垣を作り「絶対に渡さない」というかまえだったという。さすが一向一揆の後裔です。その所為かどうか、昭和9年に造られた像は今も健在です。
 加賀ICから北陸道に乗り丸岡ICで降りる。
 丸岡城を訪ねる。

25年ほど前、丸岡城マラソンを走った時。ここを訪ねた。 柴田勝家の甥・勝豊が天正4年築いた城で日本に現存する最古の天守閣がある。昭和23年の福井大地震で倒壊したが、昭和25年、重要文化財指定、昭和30年修復再建(昔の材料を使い)という。中に入ってみたが、階段が急で狭い。安全のためロープがある。降りるときはロープを持たないと危ない。まるで登山のように階段を3Fまで上がり、周囲の展望を楽しんだ。外に出て、地震まで屋上にあった石のシャチを見つけました。

 寛永元年、一筆啓上で有名な本夛家の所領となったが、その後元禄8年有馬家が領主となり幕末まで続く。
 外に出て12時になっていたので、駐車場横の「ナントカ茶屋」というレストランで、今日も蕎麦を頂く。庭園の綺麗なレストランだった。

 帰りは、丸岡ICから高速に乗り米原経由羽島ICに4時、スタンドにより給油。満タンにして26.3l、420㎞を26.3lで走行したことになる。
西岐阜駅で再開を約して解散。5時15分帰宅しました。


福井の旅(1)

2015-06-04 | 旅行
福井県の仏教遺跡と古城を訪ねる旅。6月2日10時、西岐阜駅に集まりました。30年来の仲間、Jさん、Sさん、小生、それに作務衣姿のHさんが愛車のデミオを駆って現われました。互いに久闊を叙し車にのりこみ。まずは羽島ICをめざします。名神で米原から北陸道へ、福井ICから国道158号線。最初の目的地は、一乗谷の朝倉遺跡資料館。

戦国期、浅井と連合し信長と戦い破れ滅亡した朝倉の遺跡、近年遺跡発掘が行われ、福井県の観光の目玉にしようと、県も力を入れているらしく、立派な資料館が作られていました。入館料はいくら?案内を見たら「70歳以上無料」でした。
 織田信長が上杉謙信にあてた書状が展示されていました。一乗寺川という川に沿って都市計画されていたようで、昔の街並みが再現されています。

http://www3.fctv.ne.jp/~asakura/10isekitoha/index.html
12時を過ぎたので、食事にしようかとレストランを探しました。
「利休庵がいいのじゃない」Jさんが蕎麦屋を見つけた。入って、そばを注文。運んできたお母さんと話す。
「この店、利休と関係があるの?」
「無関係です。遺跡を発掘したら、茶筅が出たの。茶筅が出るのは珍しいそうで、ではお茶に関係したなまえにしたら、と利休庵と命名したんです」
「すぐそこに駅があったね。一乗谷駅、越美北線ですね。越美北線はどこからどこまでなの?」
「福井から九頭竜ダムまで。越美南線とつながると名古屋方面からも近くなったのに、立派な政治家がいたんだけどだめだったね」という。
「ここまで来たら、佐々木小次郎に会って行きましょう」と小生。「ここは小次郎の出身地。この蕎麦屋の隣に「富田勢源道場跡」があったでしょう。富田勢源は小次郎の先生なの」。
「小次郎の銅像は遠いの?」お母さんに聞くと、「前の坂を上がって左、次に右。まっすぐ2㎞行くと一乗滝という滝があるの。そのそばで小次郎が頑張ってるよ。」と言う。
教えられた道をゆくと、頑張ってる小次郎が見えてきた。

一乗谷にいた頃は若かったと思うが、銅像の小次郎はいささかじじむさい表情だった。富田勢源は、小太刀の名人だったとのことだが、小次郎は勢源の小太刀をみていて、これを大刀に改めることを思いつき、この滝の傍らでトレーニングし、滝に飛びくるツバメを切り落とす練習をした。世に言う「ツバメ返しの剣法」である。
銅像はともかく、滝は一見の価値ある滝でした(巻頭写真)。
次は永平寺に行こう、とカーナビをセット。カーナビのアナウンスでは30分くらいで着くらしい。
カーナビなど珍しくはない時代になったが、考えてみると、カーナビのやっている仕事は大変な仕事です。車の位置を判断し目的地までの道情報を把握し、そこまではわかるとして、所要時間はどうやって計算するのだろう。おまけに「右です」とか「左です」とか、「700mで斜め右」とか、発声する仕組みはどうなっているのか。ともあれ、永平寺に着き、駐車場に車を入れた。

約760年前の寛元2年(1244年)、道元禅師によって開創された出家参禅の道場。
道元は日常の行動、食事、睡眠、掃除、入浴、等々の行動がすべて仏道修行の対象と考えたらしい。僧堂、大庫院(だいくいん;食堂・調理室など)浴室等、そういう発想で設置されている。法堂(はっとう)仏殿、などを見学した。

3時半ごろ見学を終え次に向かう。次は宿舎の越前三国休暇村の予定だが、お天気がおかしい。
「明日、雨の中を東尋坊を歩くのはたいへんだから今日、東尋坊に行っておいたら」Jさんの意見で、カーナビを「東尋坊」に設定して聞くと「到着は5時過ぎ」と言う。
一寸遅すぎるな、やはり予定通り宿舎に行こうと、セットし直すと、これも「到着は5時過ぎ」と言う。
東尋坊は明日の天気に期待することにして宿舎に行く。カーナビの指示で走ると「東尋坊」の前に来た。宿舎は東尋坊のすぐ前でした。(続く)

瀬戸のウオーキング

2015-05-31 | 旅行
 30日は、駅ちかウオーキングに出掛けました。今回は名鉄との共催で印場駅(名鉄瀬戸線)から地下鉄なごやドーム駅までおよそ10.5㎞のコースです。唐九郎記念館と瀬戸市の緑地がメインです。
 地下鉄で大曽根駅。名鉄のホームへ行くと「8:01の瀬戸由紀急行はハイキングのため印場駅に臨時停車します」のアナウンス。8:20頃印場駅に着くと、駅前のロータリーはぐるりと8:30の受付開始を待つ人の列。健康ブームで、ウオーキングは大賑わいだ。
 ロータリを出て南西に1kmほど歩くと八竜入り口。オーバーな表現だが、「昼なお暗き木陰道」になる。なるほど龍が住んでいたという伝説もあるのだろう。緑地をめぐって4kmほど、少し疲れたので石段を見つけて一休み。隣から「こんにちは」と声がかかったので見ると、同じ住宅のIさんでした。

その後、加藤藤九郎記念館に出た。普段300円の入場料が200円。展示室は1室だけだが、志野の名品が展示してあった。帰宅後記念館をwIKIで見たら、
http://www.mc.ccnw.ne.jp/nagoya-taikan/toukurou.htm
「加藤唐九郎の作品の、氏の蒐集した桃山陶片を展示する。 展示室一室のみではあるが、唐九郎の最高傑作といわれる「氷柱」や「紫匂い」を所蔵しており、 焼き物に少しでも関心のある者には必見の場所である。交通の便が極めて悪い」
なるほどこれだけ木陰道を歩くから交通の便は最悪だ。
藤九郎といえば、私は「志野」を復活させた陶工と思い起こすが、世間的には「永仁の壺事件」で有名らしい。
これもWIKIによると、
「加藤 唐九郎(かとう とうくろう、1897年(明治30)7月19日(※戸籍上は1898年(明治31)1月17日)~ 1985年(昭和60)12月24日)は陶芸家、また陶磁史研究家。愛知県東春日井郡水野村(現・瀬戸市水北町)出身。桃山時代の陶芸の研究と再現に努めたが、永仁の壺事件で行った捏造により、無形文化財の資格を失った。事件後は作陶に専念した。建築物と陶磁器の組み合わせ陶壁を創出。陶壁は唐九郎の造語。
1959年、「永仁二年」(1294年)の銘を持つ瓶子(へいし=酒器、壺)が、鎌倉時代の古瀬戸の傑作として国の重要無形文化財に指定されます。しかしその直後から、贋作疑惑が浮上。二年後、重要文化財の指定は解除となります。
指定に際して、国際的な陶磁研究の第一人者で、文部技官・文化財専門審議会委員であった小山冨士夫(こやま ふじお)氏は引責辞任。美術史学界、古美術界、文化財保護行政を巻き込むスキャンダルとなりました。
瓶子は加藤唐九郎氏の作であったということで決着しましたが、長男・嶺男氏、次男・重高氏、弟・武一氏などとする異説もあり、事件の真相についてはなお謎の部分が残されているといわれています。」
記念館を出て少し歩くと、二つ池公園があった。

緑地の新緑を楽しんだあと瀬戸街道に出て小幡まで歩く。

小幡白山神社にお参りして小幡宮前の信号を南に歩いて矢田川に出る。川の堤防の上を歩いて宮前橋まで。河原に千代田橋緑地が広がる。

日差しの中、人々が散策やキャッチボールを楽しんでいる。川の向こうは市内の高層住宅が並んでいる。
駅ちかの案内標識、いつも100本ぐらいで終りになるのだが、もう110本を超えている。宮前橋を渡るとすぐ地下鉄の「砂田橋駅」
「ここでゴールならいいのに」疲れてきたのでそう思う。1km弱、大幸町を歩いてゴールに着く。11時20分。標識は125本だった。
その後、プールでトレーニング、イーオンで食事、図書館で雑誌を読み3時半帰宅しました。

水平な虹を見ました

2015-05-23 | 旅行
5月22日、住宅シニアクラブのウオーキングに出掛けました。男子4名、女子6名で9時半出発。地下鉄で東海通駅。4番出口を出て左にしばらく歩くと南郊公園の入り口が左にある。船の形をした案内標識があります。昔ここは中川運河の支流南郊運河があったが、それを埋め立て公園にした。昔は船が通っていたという標識です。テニス場もありました。

公園を通り抜けて、次の目標は中川運河にかかる東海橋である。ところが南に折れる地点を間違えた。下見の時は直角に折れたはずだが、ななめ左に道が続く。はてな?大通りに出て右へ曲がれば橋に出るはずだが・・・途中でコンビニがあったので確認しようと道を聞くと、東海橋は反対方向だという。信号三つ分戻って東海橋の東に出た。ここで、西へ、橋を渡る。まっすぐ歩けば名古屋競馬場の筈。競馬場の前の信号で、後を歩いていた筈のグループに追いついた。後続グループは道に詳しいHさんがいたので間違えなかったようだ。
競馬場は、レースのある日は入場料¥100で、ない日は無料で入場できる。「今日はやっている日だ」とHさんが言う。しかし競馬に興味のある人はいなかったみたいなので入場はパスして西へまっすぐ。間もなく「あおなみ線」の高架がある。

「あおなみ線」は、「あお」は青い電車を意味し、「な」は名古屋駅、「み」は港で、つまり「名古屋駅と港の間を走る青い電車」の意味だそうです。一番遅いSさんが追いつくのを待って、「左へ行けば1㎞で荒子川公園ですが、疲れた方は此処の駅(競馬場前)から一駅のっていただいてもいいですよ」。二人が電車に乗る。8人が高架沿いに荒子川公園駅まで歩きました。駅前のベンチに電車組がすわっていた。12時に近かったので、公園内の橋を渡り屋根のあるベンチに腰を下ろし弁当にする。

 食事を済ませて、荒子川の両岸に整備された散策道を歩くことにしました。下流に向かって1㎞ほど、フェニックス・アイランドにきました。

昭和62年6月10日オープンした公園で、周囲には、フェニックス・ワシントンヤシ・ココスヤシ・ソテツなど約170本の樹木が植えられている。

写真を撮ったあと、フェニックスブリッジを渡り対岸の散策道を駅まで戻りました。
駅前まで戻った時、珍しい景色を見ました。「虹よ」と言う声に空を見上げたら虹!それも水平な虹です。80年近く生きてきて水平な虹を見たのは初めて!
電車に乗り二時過ぎ帰宅しました。

南区を歩く

2015-05-18 | 旅行
南区を歩くウオーキングでした。
 南区というと、水泳大会でJR笠寺駅前の日本ガイシプールには度々行ったことがあるが、それ以外はほとんど訪れてない。行ってみるかと出掛けることにしました。
 17日、地下鉄の「駅ちかウオーキング」、9時半スタート駅の桜通線鶴里駅に着き、改札口を出ると、受付には黒山の人。健康のため歩く人が多くなっていますね。

2番出口を出て右へ歩くと中井用水緑道です。ふつう散歩道は川のほとりなどが多いのですが、ここの緑道は一般車道の真ん中に樹を植えて散策道にしている。桜台高校前から南に折れると、見晴台。


考古資料館がある。見晴台遺跡の出土品他市内の発掘調査で見つかった出土品を展示している。平成25年、きんさんぎんさん手植えの桜が南区役所から移植されている。
資料館の隣に笠寺観音があった。


西門を抜けて北へ。桜本町を西へ曲がり、呼続公園に向かう。
11時になったので、池のほとり(写真)で弁当を拡げた。

公園西口を出て大磯通りを西へ歩く。間もなく東海道線と新幹線高架(巻頭写真)を潜る。駅ちかの案内標識が毎回大体100本掲示されています。「しばらくまっすぐ」の表示がついている。その通りまっすぐ
 途中アピタによってみたが、南陽通りまではまっすぐ、堀川の手前で南に折れると「きらく橋東」。この橋は大きな橋です。

二階建てで1Fが一般車道と歩道、2Fが高速道になっている。ここを渡ると港区に入る。
橋を渡りしばらく歩くと港北公園。
道案内敬司が94本目だ。

ここまで8㎞とのことだが10㎞以上歩いた感じ。公園を抜けると区役所の隣に港防災センター。先着2000名に「名水」(災害用備蓄飲料水の缶)プレゼントがあった。
地下鉄東海通の2番出口がに12時半ゴール。8㎞しかあるいていないのい、すごく疲れた。年は争えないか!

デンパークと帰途のハプニング

2015-04-25 | 旅行
デンパークへ行きました。24日、住宅のシニアクラブウオーキングです。
7名(男3、女4)うち揃って9時半出発。名鉄金山駅に10時、新安城から西尾線に入るので、「吉良吉田行」に乗れば乗り換えなしですが、吉良吉田は出たばかりでしたので、豊川稲荷行で新安城で乗り換えました。桜井駅に10時50分下車。駅前の広い道を左手に次の信号を右に進みます。安城南高校の前を過ぎると、明治用水にかかる橋を越えます。石井町の交差点までくると、「デンパーク→1.5km」の表示がありました。デパーク東まで来て皆が追いつくまで待ちました。5分ほど待って全員見えたのを確認し西へ。すぐデンパーク入り口の茶色の横断橋がありました。
横断橋の上で、Sさんが上り終えるのを待ちました。いつも、脚の強くないSさんが歩き終えると、「今回のコースは無理のないコースだった」と一安心するのです。
「入場券は確か¥600ですが、各自買ってください」
「シニア割引があるんじゃない?」
「きいてみまっしょう」
聞くと¥480だという。
中に入って昼食後、1時57分のあいくるバスで帰ることにしてそれまで自由参観とした。
正式名称は「安城産業文化公園」で、愛称が「デンパーク」です。
http://www.denpark.jp/
愛知県のほぼ中央にある安城市は、かつて「日本のデンマーク」と呼ばれ、全国の農業経営のモデルとなった。稲作、畑作、果樹、畜産などの多角形農業をすすめた安城市は、世界の農業先進国であるデンマークにたとえられた。その歴史をもとに、自然と親しみ花のある暮らしを提案する公園として1997年4月29日にオープンした花と緑の公園。
「デンパーク」の名は、日本デンマークの「デン」、田園の「デン」、伝統の「デン」と公園の「パーク」を組み合わせた造語である。
公園の広さは13.1ha、園内1周約1.5km
花の大温室フローラルプレイス(3600m²のアトリウム)のほかレストラン、体験施設も揃う。入場者は年50万人の人気施設です。
写真を撮ろうかとデジカメをとりだしたら、「メモリーカードが満杯です」の表示が出た。残念!そこで写真は下見の時のものにします。こうしたミスの再発防止はどうすべきか。予備のメモリーカードを持って歩くことにするか。
お天気に恵まれ、絶好のお出かけ日和でした。

1時半になったので。公園を出て入り口隣の「デンパーク道の駅」に行くと、もうみなさん揃って買い物などしていた。5~6分遅れてきたバスにのるが。あんくるバスに乗る。「安城からくる」から「あんくるバス」か。一乗車¥100である。この路線は桜井駅と南桜井駅を往復する路線で、時刻により桜井駅が終点の場合と南桜井駅が終点の場合がある。バスは南桜井駅が終点だった。ここでハプニングが起きた。
 切符を買った後、ホームへ行くとくだり(西尾方面)のホームだった。「名古屋方面乗り場」にいかなくちゃ、だけど反対側ホームに行く地下道も歩道橋もない。一旦外に出て、駅舎横の一般道の踏切を渡って向こう側の駅舎の入り口から入り直さないといけない。まさか、線路に飛び降りて反対側のホームによじ登るわけにもいかないのだ。
「こんな駅ははじめて!」もちろん無人駅である。
仕方がないから一旦外に出て踏切を渡る。反対側のホームに出ようと、切符を入れたら、パシャとシャッターが閉まった「この切符は使えません」。
「おいおい、切符を買い直せというのか!それはない」もどってきた切符を持って、シャッターが上がった時、脱兎のごとく自動入り口を駆け抜けた。なにやらアナウンスされていたが、知ったことでない。
ホームのベンチで座っていた先ほどのバスで一緒だったカップルが笑っていた。
「「踏切を渡ってください」と表示がありましたよ」と言う。
こんな危険な駅の設計になぜ建築許可がおりたのか。歩道橋も地下道も作らなければコスト安で建築できるのはわかるが・・・見るとまだ新しい建物だ。そんなに古い駅ではない。古い時代だったら。こんな発想の駅は作らないだろう。名鉄の良識を疑う、とブツブツ。家には4時過ぎ帰着しました。



小牧をウオーキング

2015-03-28 | 旅行
 3月27日、住宅のシニアクラブで、ウオーキングに出掛けました。行先は小牧城です。
9時半集合。男子3名、女子6名の9人が9時半出発、名城公園駅から地下鉄で平安通り乗り換え名鉄前小牧駅に10時20分着きました。
 駅前で出迎えてくれたのは、名古屋コーチンの像です。

名古屋コーチンは、名古屋でつくられたように思えますが、実は小牧の人が開発し、ここに「名古屋コーチン発祥の地」の記念碑があります。
駅前のきれいな大通りを北へ。西源寺という寺があった。ここで左折。
10日前に下見に来た。小牧城が見えるのでその方向にまっすぐ歩いたら登り道の偉く険しい道に入ってしまった。聞いてみると、南のアピタ側から登るのが大手筋だと言うので南に回り込むことにしたのです。
二筋で県道197号線(小牧・春日井)、右へ回るとメナード美術館があった。度々見に来たことがある。日本が名作展をやっていたが今日はパスした。
http://museum.menard.co.jp/
翁橋をわたると小牧城への入り口だ。道幅は広いが坂道だ。シニアにはきつい坂なので。ゆっくりゆっくり上る。
「Sさんが“きついからここで待ってるとといってるよ」
「お城から反対側に降りるから、ここには戻ってこないよ」
Sさんが来た
「大丈夫?」、「歩きます。木陰に入ってくると歩こうという気がおきてくる」
40分も歩くと、木陰に小牧城の天守が見えた。
 城は「小巻歴史館」になっていて、発掘された土器が陳列してあったり、小牧の歴史の説明が書いてある。4階は展望室になっていて周囲が遠くまでよく見える。
名古屋在住の実業家平松氏(故人)が私費を投じて建設し小牧市に寄贈したもの。鉄筋コンキウリート造、高さ19.3m、4Fの展望室は約14m、(標高100m)。設計は名工大の城戸久教授、昭和43年竣工。
小牧城というと、信長が岐阜に移る前に、美濃攻めの一時的拠点として作られたと考えられていたが、近年の発掘調査によると、石垣の規模は壮大で、とても一時的な構築ではなく、信長は小牧が交通の幼少であることから、本格的な城下町を構築する考えであったらしい・
4Fの展望室からはお天気が良かったので御嶽山がかすんで見られた。
帰りは北東の駐車場側、警察署前に降りることにする。途中タブの樹、この地にはあまりないが、なぜか小牧山には自生しているので「小牧の市の樹」に指定されている。




山麓は公園になっていて、梅がきれいだったが、桜はまだ蕾。桜樹の下に早くも花見の予約の札が置かれていた。
「4月5日、××社」」など
警察署前から北へ。200mほどで、割烹料理の店「錦」があった。みんなでランチを賞味した。

小一時間、おしゃべりと食事。
変えることにする。店の前の道を左に25分ほどで小牧駅に戻る。
名鉄、地下鉄で3時帰宅。隣の教会の桜が咲き誇り、春がすっかり住宅を覆いつくしていました。



お彼岸のウオーキング

2015-03-22 | 旅行
お彼岸の3月21日、気象台は「桜開花宣言」、私は駅ちかウーキングに参加しました。9時半、黒川駅の1番出口で地図を貰い歩き始める。北警察署南の交差点で階段を降りて川べりに出ると、散歩道が整備されています。御用水跡街園です。
御用水とは、江戸時代、庄内川の水を名古屋城に導入する水路として掘削された運河です。北東に200mほどで、元D社本社跡です。今は、住宅展示場に姿を変え、昔日の工場の面影はない。


すっかり暖かくなり、桜も咲き始めている。
「この道を歩いて通勤したのは、何年前かな」。昭和40年代の前半、春日井に住み、電車で上飯田駅。そこから会社まで歩いたのがこの道。こんなきれいな道でなかったが、40年以上前の話だ。瑠璃光橋で左へ折れ、辻町の羊神社に向かう。羊を祭神として祀る神社は、全国的に珍しく。ひつじ年の今年の元旦の新聞の話題になっていた。この辺りの地名「辻町」は「ひつじ」の「ひ」が落ちたものだという。

ご用水に戻ると、江戸時代の二本の松が残るという場所があった。

南に歩くと名鉄の上飯田駅。1丁目で東へ曲がり、山田通りへ。途中六所宮という神社があった。更に東へ行くと、駅ちかウオーキングでおなじみの金虎(きんとら)酒造。吟醸酒「名古屋城本丸御殿」と甘酒を試飲させてもらう。大通りを南へ、山田天満宮に参拝。

名鉄大曽根駅前に出て、OZモール(大曽根商店街)を歩いて大曽根南。名鉄瀬戸線沿いに西へ向かうと久国寺に出た。境内に岡本太郎設計の梵鐘があるというお寺です。

ここまで8km。西へ、41号線を横断して名城公園南にでた。ここで、愛知学院大学名城公園キャンパスへ行くと、本日の特別公開で大学のアガルスタワーに入り10階のホールから名古屋城の展望を楽しんだ。

大学を出て南に坂を上ると、名古屋城東門。ここが今日のウオーキングのゴール。12時半、3時間で10㎞強を歩いた。名古屋城以外は北区だから、北区の庄内川以南を大きく回ったことになる。市役所駅に行き地下鉄で帰宅しました。