昨夕37.7度の熱発が有り頭痛が半端ではないので、20時には早々ベッドに入りました。
二日続けての11時間睡眠です。喉が渇く事はなはだしく、ペットボトルに水を入れて1時間おきにのどを潤しました。
熱は平熱に戻ったような気がしますが、頭痛は相変わらずです。今年はインフルエンザの予防注射をしていないので罹患したのかもしれません。
今日もお天気は雨もよう、終日読書でもして過ごすことにしましょう。
病にも色あらば黄や春の風邪 虚子
昨夕37.7度の熱発が有り頭痛が半端ではないので、20時には早々ベッドに入りました。
二日続けての11時間睡眠です。喉が渇く事はなはだしく、ペットボトルに水を入れて1時間おきにのどを潤しました。
熱は平熱に戻ったような気がしますが、頭痛は相変わらずです。今年はインフルエンザの予防注射をしていないので罹患したのかもしれません。
今日もお天気は雨もよう、終日読書でもして過ごすことにしましょう。
病にも色あらば黄や春の風邪 虚子
熊本は今週いっぱい雨模様の予報がある中、今日はお昼過ぎまで一休みらしく晴天で、桜の開花宣言もありました。
昨日・今日とWBCをTV観戦して過ごしていますが、悲願の優勝を成し遂げ、不振だった熊本出身の村神様が活躍して熊本は喜びで沸き返っているようです。
私は三日越しの頭痛(37.2度)でまことに不愉快に過ごしていますが、春風邪なのでしょう。
市販薬を飲んでしばらく静かにしておきましょう。散歩も無理をせず取りやめです。
奥方が買い物に出て、「若い人たちはもう半そでだった」と報告してくれましたが、私はカーディガンを着込んで過ごしている有様です。
夕方になり少し曇って来ましたが、明日は雨に替りそうな気配です。
着ぶくれて うち伏せにけり春の風邪 津々
ふるまいも常とはいかず 春の風邪
いわゆる家記は多いに気をくばり忖度の上に書かれているから、例えば綱利の養嗣子・宜紀の子沢山などについても、「迷惑な事」等とは書かないが、財政上からすると大いに迷惑であったことは間違いない。
宜紀は養父・綱利の弟・利重(新田藩主・35,000石)の二男・利武である。綱利から5,000石を拝領していた。
大変不思議なのは宜紀は正室を迎えていない。
5,000石取りの優雅な次男坊は、宗家を継承する正徳2年(1715)11月までに6子をなしている。処が不幸なことにすべてが夭死している。二人の側室、與幾・際が産んだ子である。
その後も際を含め五人の側室が14人の子を為しているが、養父・綱利が二人の男子が有りながら成人前に死去し、無念な思いであったことを大いに理解しているように思える。
際は嫡子となる宗孝(7代)を産み、利加 は重賢(8代)を産んだ。又佐衛 は16子の紀休、 民は20子・興彭(刑部家‐長岡図書興行・養子)を産んでいる。
宗孝が江戸城中で不幸な死を迎えたものの、弟・重賢が急遽後を継ぐとともに破綻状態にあった財政を、宝暦の改革により見事に脱出せしめたことは周知のことである。
考えて見ると宜紀は、宗家をリリーフ役として相続したが、宗孝の不幸な死ををも見事乗り越えるための子作りをしていたことになる。
女子については4人が大名家、4人は細川家の重要家臣に嫁がせている。この辺りにも随分気配りが見えて面白い。
女好きの殿様との評価は取り下げずばなるまいと思ったりしている。
※小田野太郎左衛門女 與幾(ヨノ)
1子 男子・竹之助(夭折・三歳)
3子 女子・亀(夭折・六歳)
5子 女子・春、名世(夭折・五歳)
6子 男子・萬次郎(夭折・一歳)
※鳥井氏女 際
2子 女子・蔵(夭折・六歳)
4子 男子・八三郎(夭折・六歳)
8子 女子・富(夭折・三歳)
10子 宗孝(七代)
12子 禰々、喜和(宗対馬守義如室)
14子 照、三千、千代(安藤対馬守信尹室)
21子 男子・龍五郎(家老・木村半平豊持養子・夭折三歳)
※姓氏不詳
7子 女子・村(夭折・三歳)
※安野氏女 民
9子 女子・勝(夭折・三歳)
11子 八代、花(松平讃岐守頼恭室)
17子 衛世、悦(長岡助右衛門是福室)
19子 津與(小笠原備前長軌室)
20子 興彭(長岡図書興行・養子)
※岩瀬氏女 利加
13子 重賢(八代)
15子 豊、常、岑(織田山城守信舊室)
18子 幾、常、成、軌(細川大和守興里室)
※友成氏女 佐衛
16子 紀休
熊本大学の前身・第五高等学校の校友会誌である「龍南会雑誌」(172号から「龍南」と改題)は、明治24年(1891)11月に創刊され昭和23年(1948)3月まで全255号が発行された。
このすべてが「熊本大学学術リポジトリ」で見ることが出来るのは大変有難い。龍南会雑誌目次
先人の古い論考にいろいろ教えられることが多い。
長束正家の嫡男・半左衛門は幽齋娘・伊也の御聟である。一色義有に嫁いだ伊也姫は夫・義有を父・兄に謀殺されるという悲劇があっただけに、吉田兼治に再嫁してからの穏やかな生活の中で、女婿半左衛門の実方・長束家の没落は唯一の痛恨事であったろう。
この後半左衛門が細川家の家臣として安寧の中に身を置いたことは幸いな事であったろう。そんな長束家のご先祖を「先祖附」から探ってみる。
一先祖宇多源氏ニ而御座候 佐々木源三秀義ゟ六世伊豫守盛清と申者始而江州水口ニ居城仕此節ゟ名字を水口と名乗申候 盛清
儀文和三年六月十三日於江州堅田討死仕候 盛清嫡子駿河守盛兼ハ延文年中於江州左手河原仁木三郎と合戦討死仕候 盛兼嫡
子右馬允盛宗ハ明徳二年十二月於内野戦死仕候 盛宗嫡子民部丞盛高ハ應永十八年七月十八日於飛騨国戦死仕候 盛高嫡子備
後守経盛其子兵庫介盛定其子刑部少輔盛顕右三代ハ於水口病死仕候 盛顕嫡子伊勢守茂正ハ天文五年五月廿一日京都日蓮宗
追伐之時討死仕候 茂正嫡子安藝守盛里ハ元亀三年十一月病死仕候 盛里嫡子は大蔵大輔正家と申候 右正家は代々水口ニ在
城仕候處天正元年水口城没落大蔵大輔儀西近郷長束江蟄居仕名字を又長束と改申候 然処天正十一年九月廿四日秀吉公ゟ本
領水口之城を被下帰城仕候 然處慶長五年石田治部少輔ニ一味仕関ヶ原合戦以後水口江帰城仕候處同志之諸将悉離散防戦叛
成自殺仕候
初代
一私玄祖父田中半左衛門儀長束大蔵大輔嫡子ニ而御座候 慶長五年水口之城没落之砌ハ京都吉田左兵衛督殿方江罷越居申候
右左兵衛督殿ハ
幽齋様御聟ニ而半左衛門ハ左兵衛督殿聟ニ而御座候 半左衛門妻後ハ徳雲院と申候 嫡子田中又助江罷在候 常々御殿
江も罷越出御下国之節は毎度御土産をも被為拝領為御合力拾人扶持被下置候
然處従
三斎様半左衛門儀御家ニ被召出度由
公儀江御願相濟候ニ付御知行五百石被為拝領候 江戸江相詰御奉公相勤申候處元和九年四月病死仕候
二代
一高祖父田中又助儀右半左衛門嫡子ニ而御座候 半左衛門相勤居候内又助儀ハ格別ニ御知行三百石被為拝領 後ニ御加増三百
石都合六百石被為拝領 御鉄炮三拾挺頭被仰付候 原城一揆之節も御供ニ被召連敵を仕留手疵を負組家来も討死手負御座候
承應二年十二月病死仕候
昨日は室内温度は23~4℃ありましたが、散歩の後背中が寒くて仕方ありません。
その内にだんだん頭が痛くなり、夕食を取る頃には熱発、あまりの痛さに市販の頭痛薬を飲んで8時過ぎにはベッドに入りました。
余りの兆時間睡眠で背中が痛くなり7時過ぎに起き出しましたが、頭にきつく鉢巻をした感じがあります。
直ぐに頭痛薬を飲みましたが、11時間寝たというのに倦怠感が半端なく、エンジンがかかりません。
奥方が「コロナじゃないの?」といいますが、熱は下がりつつありその心配はないと思っていますが・・・?
今日は春分で、熊本もそろそろ桜の開花宣言もあろうかと思いますが、あいにくの雨模様が今週いっぱい続きそうで、お花見の賑わいは日曜日以降になるようです。
今日は散歩も取りやめて、TVでWBCの試合を観戦してゆっくり過ごしましょう。
細川家家臣に津川氏があるが、これはかっての三管領家筆頭斯波家のご子孫である。
先祖附より遠祖より細川家家臣としての初代・四郎右衛門(第14代斯波義近の二男)迄を御紹介する。
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千四百石 津川平左衛門
一先祖足利尾張守高経尾張越前二箇国領地史将軍尊氏公ニ従ヒ依武功北陸道七ヶ国兼鎮ニ補シ申候 高経子斯波治部大輔義将将軍義詮公
之時任管領依武功越中国を被下候 義将子右兵衛督義重相續而為管領鹿苑院殿之時近江国を被下候 以後尾張越前遠州三ヶ国を領シ代々
任右兵衛候故世ニ武衛家ト唱申候 義重四代義建早世ニ付無嗣子一族大野義敏渋川義廉家督及事争論此節代々之家臣甲斐・朝倉・二宮・
斎藤・鹿原・織田等之内三人ハ亡甲斐・朝倉・織田三人ハ相残居甲斐ハ義敏ニ従ヒ織田は義廉ニ随ヒ織田は義錬ニ従ヒ両立仕候 文明
之比終ニ甲斐致叛逆義敏子義雄を弑シ申候 同僚朝倉又甲斐を亡シ越前を奪ヒ申候 義廉ハ尾遠二州を領シ任管領家致相續罷在候 義廉三
13代・義建
代右兵衛佐義達代ニ至り益及衰微家■織田伊勢守勢ヒ漸強大ニ成尾州半国ハ自ラ織田ニ従ヒ義達は僅半国を領地仕清州之城ニ罷在候
14代・義統
義達子左兵衛佐義元と申候 此節右伊勢守弟大和守と申者相従ヒ居申候 其後織田氏も嫡家は衰微仕末家之織田弾正忠信秀武勇逞
威勢募り信秀子信長天文之末名古屋在城之時分右大和守嫡子彦五郎廣信と申者之時ニ至り義元其■■■を悪ミ誅伐之計有之内事及露顯
15代・義銀
彦五郎急ニ致叛返義元嫡子義近十四歳之時為■■城下之門ニ出候時分城中無勢と計清州之城を責申候故義元防戦兼及自殺申候 義近ハ城
下ゟ直ニ名古屋ニ至り信長ニ憑り申候處信長兵を出シ廣信ヲ亡シ義近を以武衛之家督と被崇岩倉ニ被着座候時の人家方と唱申候 其後
義近信長と不和ニ相成信長を討可申謀略之為信長被遂而尾州を退去漂泊之身と相成改斯波称津川申候後致剃髪三松斎と申候
太閤様御時代
権現様御時代も武州六郷邊ニ而弐万石之領地を被下ニ指置候 慶長五年於京都病死仕候
一代々家之紋桐・二引両二而御座候
一三松斎嫡子津川左衛門佐近利儀
権現様御代
台徳院様御代と領地を被下御旗下ニ罷在候処存念御座候而御断申上致剃髪改休間(閑)京都ニ罷在寛永十九年病死仕候
(肥後細川家家臣津川氏)
一初代津川四郎右衛門儀右三松斎二男ニ而若年之時分ゟ奥州ニ罷越蒲生氏ニ憑り罷在其後蜂須賀家御懇意ニ而阿州江も罷越居申候其時分
ゟ妙解院様段々之御懇意ニ而度々御書被成下其後京都ニ罷在候節猶又御慇懃之御書被成下豊前江罷下牢人分ニ而居可申旨ニ而為迎住江
小右衛門後改求馬被指越御舩をも被指越候ニ付豊前江罷下候処御客分ニ而御知行千石被下置候 御国江御供仕罷越申候於御国も御知行千石
被為拝領 是外ニ現米百石并薪五百束塩五石炭三(二?)石大豆弐拾石高弐百五拾石右之分■之御書付ニ御自筆をも被相加勝手為取続料
被為拝領候 其後猶又岩殿山并岩殿村西木村ニ高八拾石御添被成為茶湯領被為拝領拝受之仕候右御書出御書付共ニ所持仕候
一禄を御増可被下旨度々蒙仰候得共存念御座候而堅御断申上候 或時御扇子被為拝領候ニ付頂戴仕見申候ヘハ
御自筆ニ而三千石と御書付被遊候付御書付を拭(?)候而御書付之通ハ御断申上候御扇子をと頂戴仕候段御請申上候 又或時御鷹野ニ御
出被成候節京町口一里山邊ニ而見候懸り之田面見事ニ有之候との御意御座候故
御意之通見事成儀二御座候と御請仕候處ニ此分を可被下候との御事ニ而則御供之浅山斎を被為召此所ゟ見候懸り之分四郎右衛門殿領知
相成候只今御約束被成候条早々中江其通申聞候様ニと被仰付四郎右衛門申上候ハ先以前次第奉存候 併大勢之後家来共江少充而も御分ケ
被下候様ニと奉存候 は曽而入不申候条堅御断申上候段申上候処御加増之儀度々様々御意被成候得共受ケ不被申候 今度は如何共御意之通
可被得其意候条先分ニ而も可被下と之思召ニ而
御意被成候処又々不被得其意御■曽ニ不被為及候 此上は重而被仰間敷義
御意ニ而御不機嫌ニ被成御座候
一、真源院様御代も不相易御懇御座候 寛永十九年病死仕候
もうあちこちで桜の開花のニュースが伝えられていますが、御地では如何でしょうか。熊本は正式には明日辺りの発表ではないでしょうか?
昨日は熊本史談会の例会で、街中まで出かけましたが、熊本城やさくらまち界隈は観光客その他でごっちゃ返しの人出が見られました。
上の写真は23日にオープンする「阿蘇くまもと空港」です。国際カウンターを含め全面改修が行われていましたがいよいよのオープンです。
熊本は今、世界的半導体メーカーTSMCの熊本新出で大いに沸いていますが、台北航路も定期化されるようでまさに台湾ブームの中にあります。
昨日は、史談会に於いては熊本人を含む六士の明治期台湾の教育に尽くしながらも非業の最後を遂げられた方々について勉強しましたが、このような日本人の台湾に心を寄せた無垢の奉仕が日台の友好関係を構築してきたことを大変理解することが出来ました。
私の父親も、昭和前期台湾総督府に職を得て、建築技師として台湾の地にいくつかの公共建築の建設に携わっており、亡くなった7歳年上の姉も台北で生まれています。
私の座右には李登輝氏の「武士道解題 ノーブレス・オブリージュとは」を置いていますが、ここにある「武士道」とは新渡戸稲造のあの名著「武士道」のことです。
一時期京都大学で学んだ李登輝氏のこの著を読むにつけ、日本人より日本の心をお持ちになっていると感じられます。
「位高ければ徳高きを要す」という騎士道の精神は、武士道の精神と相通ずるものがあります。
何とも情けない昨今の為政者たちの体たらくに欠落している根本の心です。
外国人が首をかしげるという宗教教育が為されない現代の日本は、精神の拠り所とするものが失われています。
今一度この「武士道」が語り掛ける崇高な日本人の有りように触れていただきたいと切に思います。
台湾の地で非業の死を遂げられた先人に対し、深甚なる哀悼の心を表したいと思います。
細川忠利が豊前から肥後に移封となり、入国したのが寛永九年の十二月九日のことである。
忠利は熊本城の壮大さに驚き、後に息光尚に対して「二三年我慢すれば、大金持ちになる」と書状を書き贈り正直な喜びを表している。
熊本に於いては家臣たちも含め、すっかり落ち着くまでには年を越したかもしれない。
大国を拝領した正月恒例の御規式などは通常通り行われている。喜びは一入であったろう。
そんな中江戸では大事が勃発していた。九年の歳も迫った廿九日の事だが松平新太郎殿(岡山藩主・池田光政)屋敷(左手赤印)を火元とする火事が延焼し、右手赤印の加賀前田家の屋敷などを含めて焼失してしまった。
光尚や生母保壽院は細川家御成屋敷(芝下屋敷)へ避難した。
正月十日大坂町奉行久貝因幡守より上屋敷類焼の急報が入った。
江戸屋敷からの報はまだ入っていないことを伝えて、その日のうちに早々のお礼の使者を立てている。そしてこの人物がそのまま江戸へ下ったのかもしれない。
急遽、屋敷周りに塀をめぐらすように指示がなされた。
忠利は以前から、辰口の上屋敷が手狭であるとして、隣に在ったとされる延寿寺とか松平大和の屋敷などの下賜を懇願している。
奇しくもこの火事により、屋敷が広がったことは右手の絵図と比べてみると歴然である。
熊本城は、加藤忠廣代は手入れなどもままならなかったらしく荒れ放題であったが、細川家は入国以来幕府に対して修繕の申請をしているが、一方では資金不足で5,000両という金策を依頼している。
正月十一日、幕府から造作の費用として銀三百貫が下賜された。
寛永十年二月十八日、親しい間柄である曾我古祐にあてた書状(2045)の文面に、火事ニ関した記述がある。
一、火事ニ相申衆へ被遣候銀子之書立被下候 見申候
扨々か様之忝儀も御座候哉と奉存計候事
一、松新太郎殿ハ火本故 無拝領之由 御下候へ共 未
神奈川ニ御入候由 承届候事
当然といえば当然だが、火元の池田家には銀子の下賜がなかったという一文には笑ってしまう。
又、四月十日付池田光政宛の書状(2118)が存在するが、これは「肥後入国祝儀」に対する返書で火事に関わる文言がまったくない。
処が同日付の日置忠俊宛書状(2119)があるが、これが火事に触れている。
従新太郎殿被下御使者付而芳札 殊入國之為御祝
儀失千送給候 御懇志之段申盡候 遙々御使者別而
忝候由 能々御心得頼入存候 如御帋面 舊冬新太郎
殿御屋敷火事之儀 不慮之儀共候つる 委曲御使者
へ申入候 恐々謹言
卯月十日
日置豊前守殿
御返報
先にも記した通り忠利は」「ニ三年我慢すれば、大金持ちになる」と息・光貞(光尚)に書き送っているが、江戸屋敷の再建など予定外の惨事であり、細川家の財政事情はすでにこの時期から悪化し始めたのだろう。
「西の武蔵塚」とよばれる処に、三卿家老有吉家五代(源有吉を初代とする有吉家の系図による)英貴室・霊樹院(古屋姫)の墓地がある。有吉家ではなく細川家が建立したものだと伝わる。??
有吉家の代々の墓地は、坪井の「峰雲院」であるが、英貴室・霊樹院さまとそのお子達だけが特別扱いされている。
実は20代・有吉立礼が明治36年に当時の大蔵大臣曽禰荒助に提出した「家記概略」に「霊樹院さまは豊臣秀頼の娘」だとしたことから、いろいろ議論がなされている。
国立歴史民俗博物館名誉教授の高橋敏氏が、著書「大阪落城異聞‐正史と稗史の狭間から」に「熊本藩細川家家老有吉家と秀頼息女霊樹院伝承」で取り上られた。
有吉英貴は3代・立行(平吉・四郎右衛門)の二男だが、嫡男・興道が元和4年に36歳で死去したため、本家5代目となった。
元和8年(1622)5月14日の忠利宛三斎書状に、二人の結婚に関する記事が現れる。
つまり、前の奥方(朽木六兵衛女)が亡くなって十日後の話である。
(前略)有吉平吉(立道=英貴)女房共煩候て相果候、然者、薮小吉(正直)所へ遣候伊賀殿(三淵好重=幽齋末弟)
むすめ之いもと(妹)候て、それを遣度候
そして当人たちには全く話してはいないし、同心してくれたら「来冬之時分可申出候」としながら忠利に報告している。
英貴は正保2年(1645)2月に46歳で亡くなっているから、この時期は24歳くらいであろうか。
一方秀頼の死は元和元年(1615)であるが、当時このお子秀頼娘だとされる古屋姫は何歳であったろうか?
またこの姫は加藤清正の伝手で九州に入っているが、いつの時期細川一族三淵氏の許に入られたのであろうか。
正史では語られることのないこの姫様のことは、ただ憶測の中で不思議な存在としいぇ語り継がれていく。
昨日は「佐分利越人」に関する史料を得ようと図書館に出かけた。
先祖附からは全く手掛かりはなく、いろいろ調べてみるが「佐分利越人は七兵衛には非ず」という確証は得られない。
もう一つ、遊行上人の熊本入りについての資料を探すが、こちらは次の資料を見つけ出した。デジカメを持って行っておらず次回に回すことにした。
除野文書(古文書) 御達写之遊行上人熊本着之事
相良文書(古文書) 寛政七年春遊行上人入来ニ付宿坊願成寺料理絵図面 寛政七年四月 一枚
吹寄与勢 巻2 写 〔古〕 記事1、遊行上人阿弥陀寺より八代表へ出発
記事2、遊行上人長須口より肥後に入国
帰りに江津湖畔にまわり、春風を満喫、まだ熊本は桜の開花宣言はないが、ある所には品種が違うのか七分咲きほどの花が見られた。
いつも変わらぬ湧き水の清らかな流れは心を洗われる思いである。
素の風情はまさに漱石の句のままである。
湧くからに 流るるからに春の水
あまり知られていないが、次の句もある。
上江津や青き水菜に白き蝶
幼い頃の夏の遊び場であったこの辺りは、いつ来ても飽きることはない。
自動販売機でアイスクリームを購入して少々スギ花粉が飛んですっきりしない空を見上げて退散した。
「大日本近世史料・細川家史料」を図書館から借りてきて目を通している。
そんな中に、「内記」宛「三斎」とある書状が相当数ある事に気付き、三斎が隠居しているのだから「忠利」とすべきではないかと思ってしまった。そこで書状を順次(資料の通し番号を)追っていくと面白いことに気付いた。
宛名 署名
1 ~ 2 ミ・光 越・忠
3 ~ 273 内記殿 越・忠
274 ~ 278 内記殿 (不明)
279 ~ 352 内記殿 宗立又は三斎 又は併記
353 ~ 越中殿 三斎
「越中殿」とした期日(353)を見ると元和8年12月25日江戸から発した書状であるが、これは忠利が越中守に任じられるまでの間は、忠辰・忠利と名乗っていたにもかかわらず、官名の「内記」で通していることを現している。
書面の上では公人としての意識が双方に伺える。(通常の生活上のことは如何だろうか?)
先の「■熊本の文学界はどう考えているのか・・佐分利越人という人物」について、ある方から「肥後先哲遺蹟」にある記述の内、どちらが佐分利七兵衛で、どちらが「越人」なのか、どう考えるのかとのお問い合わせをいただいた。
そう言われるとまことに困ってしまうが、好古類纂にある次の文章あたりが話を可笑しくしているのではないかと思っている。
越智越人(ここでは佐分利氏とはしていない)、通称平次郎、眉山子と號す、肥後熊本の士にして、佐分利流槍術家なり、
禄五百石を食せし、細川公の近習たりしが、好色の癖ありて、吉原遊女を家に迎へ、之が為に改易せられ、徒弟の知行所、
尾州知多に移住す、やゝありて、名古屋桑名町に染工の業を創め、菱屋重蔵と称す、後赦されて國に歸り、其主越中守の名
を憚り、越人を改めて蕗磧と號し、芭蕉に従ひ俳句を能くす、芭蕉其女色に溺るゝを見て、終らざるを憐み、曾て行脚の句
ありしも、疎んして其家に寄食せず、越人之を後悔し、羨まし思ひ切る時猫の戀の句あり、芭蕉其慙愧を嘉し、後の選集に
此句を加へしと云、元禄十五年三月十四日歿す、著す所不猫蛇蕉門正風仰説録あり、
肥後先哲遺蹟の「佐分利越人」の項に先祖附の要約が記載されているが、その最末尾に「諸家先祖附佐分利家記には、越人の通穪七兵衛とあり、俳諧集好古類纂には平次郎なり、美濃に寓居せし比平次郎と穪せしものか、未確認を得す、且類纂に、越人の失行によりて改易せらるとあれとも、養父平大夫暇を賜はりしものなり。」とあり、種々の情報が交錯していることをうかがわせる。
佐分利七兵衛は養子であり、実は島又左衛門(重次、1,000石・御鉄炮廿挺頭)の三男である。
養父である兵大夫長成(500石・御鉄炮廿挺頭)が寛文11年(1672)に御暇となって居り、七兵衛(ここでは平次郎)が改易されたとの事実は存在しない。
養父兵大夫が御暇後、七兵衛は実方の兄で旗本の島角左衛門の領地である、美濃国に七年間過ごしたのは事実であり、元禄四年(1691)十月に帰参を仰せ付けられているから、美濃国に赴いたのは天和三年(1683)の頃だと思われる。
こう見ていくと、「うらやまし猫の恋」の著者・吉田美和子氏作成の略年表とは大いに齟齬がある事は一目瞭然である。
何故このようになったのか。久武綺石(文化二年歿)の墓石に刻まれた次文章
「俳諧者滑稽之流也、而其始也戯謔而也、及芭蕉翁同其體栽、而燮風旨、然後言近而指遠者有焉、謂之正風、吾藩佐分利越人、嘗出居濃洲、學於蕉門、及其後歸也、職事鞅掌、不暇傳人、正風自綺石子云」も果たして正しいのかという疑問さえ生じる。
我が藩に果たして「佐分利越人」という存在認められるのか?、越人だとする佐分利七兵衛は俳人であったのか?何もかもが疑問に思えてしまう。
先ずは図書館に出かけて、先祖附を取得してみようと思う。
三齋の死(正保2年12月2日)後の八代隠居領について光尚は、正保三年五月の時点では分家の宮松(細川立孝の嫡男)に三万石を内分し宇土に置くことを幕府に申し入れている。
三月の時点での八代の動静を藩庁に報告した報告書(丹羽亀之允言上之覚)のなかに次のような一文がある。
こういう噂が流れているが、どこから出た話なのだろうか?
宮松に三万石を内分することは既に決まっているとしているとしているのは興味深い。
(正保三年)三月十六日、藤崎作左衛門宛書状(抜粋)
此表(八代)侍衆■二而取沙汰候ハ公儀御年寄衆様へ可被遊御談合与被成御意候ハ
三齋様御領分ハ松助様と中無殿御息女と御縁辺被仰合松助様へ三万五千石可被進と
可分置御談合候 宮松殿ニ者三万石被進候二相究可申由ニ御座候
この文中に登場する「松助様」とは、光尚の弟・尚房のことだが、尚房に中無(=中務 立允・立孝)の息女を娶わせて三万五千石を与えようというのである。中務の息女とは鶴姫(長命)しかいない。尚房が寛永十四年生まれ(当時九歳)、鶴姫は寛永十八年生まれ(当時五歳)である。結果としてこの話はまとまっていない。
尚房に20,000石が内分されるのは、兄・光尚が亡くなり、綱利が遺領相続した後の寛文五年に至ってからのことである。長岡佐渡寄之(忠興六男)女・万と結婚した。
WBCの栗山監督が、ラーズ・ヌートバーという選手を見出して日本チームに招聘して、日本のフアンは「この人誰?」と思ったことであろう。
見事な守備や打撃を見せ、不思議なしぐさ「ペッパーミルパフォーマンス」も大いに受けてすっかり人気者になってしまった。
栗山監督の眼力には畏れ入ってしまった。
さてこのヌートバー(nootbarr)というラストネーム、どうも英単語ではないのではないかと思わせた。
調べてみると、どうやらお父さんがオランダ系の人らしい。ラストネームの意味もやはりオランダ語らしく、なんと「注目に値する」という意味なのだそうな。
父親の祖国オランダで先祖が将来に託した「希望」が見て取れるし、ヌートバーは見事にこれに応えた。
アメリカの球界でも活躍が期待されるが、将来は日本でプレイするという機会もあるのかもしてない。
ファーストネームは「ラーズ」、北欧ではよく見られる男性名らしい。さしずめ日本で言う「太郎」みたいなものか?
「注目に値する太郎ちゃん」と言った処か。
いつも細川家家臣団の「姓名」に接している私としては、その出自・由来などにも大いに注目して探っていかなければと思ったことである。