元和五年正月五日の江戸の忠興から、中津にいる息・内記(忠利)に宛てた書状である。
かっては自らが身を置いていた中津の城の天守を解体して、小笠原忠真に寄贈する旨を告げたものである。
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(前略)
一小笠原右近殿江、いつそや御約束申候中津城之殿主儀、右近殿次第ニ可被渡候、幸舟所ニ御入候間、殿主うけ取奉行
御乗候て、舟御下候へと被申遣、請取奉行下次第ニ念入色め可被渡候、立御用満足申之由可被申越候、恐惶謹言
越
正月五日 ❍(ローマ字印)
内 記 殿
御返事
中津城は黒田如水が築城したものだが、江戸期の中津城絵図には確かに天守は存在しない。
又、明石城にも天守はないとされ、この小倉城の天守は天守ではなく櫓などに転用されたと考えられている。
翌元和六年には内記の義兄・小笠原忠真が新築なったこの城に入城するが、寛永九年の細川家の肥後転封に伴い、小笠原家が小倉藩主として移封、中津城には忠真の亡兄の嫡子・長次が中津藩主として入城し明治に至った。
細川家は中津から筑前藩主となった黒田家とは大いなる仲たがいをした。徳川将軍家が仲介してこの関係が解消したのは、遠く宝暦の時代になってからである。
忠興は豊前入りした後は、中津に入城している。そして慶長7年に入り7年の時間を費やして小倉城を築城して入城した。
「坊主憎けりゃ・・」という言葉がある。黒田如水が作った城に等住まえるか?と考えたに違いなかろう。