津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■阿蘇くまもと空港オープンに思う

2023-03-19 11:56:50 | 熊本

         

 もうあちこちで桜の開花のニュースが伝えられていますが、御地では如何でしょうか。熊本は正式には明日辺りの発表ではないでしょうか?
昨日は熊本史談会の例会で、街中まで出かけましたが、熊本城やさくらまち界隈は観光客その他でごっちゃ返しの人出が見られました。
上の写真は23日にオープンする「阿蘇くまもと空港」です。国際カウンターを含め全面改修が行われていましたがいよいよのオープンです。
熊本は今、世界的半導体メーカーTSMCの熊本新出で大いに沸いていますが、台北航路も定期化されるようでまさに台湾ブームの中にあります。
昨日は、史談会に於いては熊本人を含む六士の明治期台湾の教育に尽くしながらも非業の最後を遂げられた方々について勉強しましたが、このような日本人の台湾に心を寄せた無垢の奉仕が日台の友好関係を構築してきたことを大変理解することが出来ました。
私の父親も、昭和前期台湾総督府に職を得て、建築技師として台湾の地にいくつかの公共建築の建設に携わっており、亡くなった7歳年上の姉も台北で生まれています。
 私の座右には李登輝氏の「武士道解題 ノーブレス・オブリージュとは」を置いていますが、ここにある「武士道」とは新渡戸稲造のあの名著「武士道」のことです。
一時期京都大学で学んだ李登輝氏のこの著を読むにつけ、日本人より日本の心をお持ちになっていると感じられます。
「位高ければ徳高きを要す」という騎士道の精神は、武士道の精神と相通ずるものがあります。
何とも情けない昨今の為政者たちの体たらくに欠落している根本の心です。

外国人が首をかしげるという宗教教育が為されない現代の日本は、精神の拠り所とするものが失われています。
今一度この「武士道」が語り掛ける崇高な日本人の有りように触れていただきたいと切に思います。

                 

 台湾の地で非業の死を遂げられた先人に対し、深甚なる哀悼の心を表したいと思います。

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■江戸の火事と細川家‐1(寛永九年細川家肥後入国20日後)

2023-03-19 08:55:42 | 歴史
   下の絵図(左)は寛永九年のものだとされる。大名小路と言われる一画の中央の細長い敷地が細川家の上屋敷「辰の口邸」である。
まだ豊前時代の屋敷だと思われるから、後の屋敷図(右図)に比べるといかにも小さい。

 細川忠利が豊前から肥後に移封となり、入国したのが寛永九年の十二月九日のことである。
忠利は熊本城の壮大さに驚き、後に息光尚に対して「二三年我慢すれば、大金持ちになる」と書状を書き贈り正直な喜びを表している。
熊本に於いては家臣たちも含め、すっかり落ち着くまでには年を越したかもしれない。
大国を拝領した正月恒例の御規式などは通常通り行われている。喜びは一入であったろう。
そんな中江戸では大事が勃発していた。九年の歳も迫った廿九日の事だが松平新太郎殿(岡山藩主・池田光政)屋敷(左手赤印)を火元とする火事が延焼し、右手赤印の加賀前田家の屋敷などを含めて焼失してしまった。
光尚や生母保壽院は細川家御成屋敷(芝下屋敷)へ避難した。

                                              

 正月十日大坂町奉行久貝因幡守より上屋敷類焼の急報が入った。
江戸屋敷からの報はまだ入っていないことを伝えて、その日のうちに早々のお礼の使者を立てている。そしてこの人物がそのまま江戸へ下ったのかもしれない。
急遽、屋敷周りに塀をめぐらすように指示がなされた。
忠利は以前から、辰口の上屋敷が手狭であるとして、隣に在ったとされる延寿寺とか松平大和の屋敷などの下賜を懇願している。
奇しくもこの火事により、屋敷が広がったことは右手の絵図と比べてみると歴然である。
熊本城は、加藤忠廣代は手入れなどもままならなかったらしく荒れ放題であったが、細川家は入国以来幕府に対して修繕の申請をしているが、一方では資金不足で5,000両という金策を依頼している。

正月十一日、幕府から造作の費用として銀三百貫が下賜された。
寛永十年二月十八日、親しい間柄である曾我古祐にあてた書状(2045)の文面に、火事ニ関した記述がある。

     一、火事ニ相申衆へ被遣候銀子之書立被下候 見申候
        扨々か様之忝儀も御座候哉と奉存計候事
     一、松新太郎殿ハ火本故 無拝領之由 御下候へ共 未
        神奈川ニ御入候由 承届候事

当然といえば当然だが、火元の池田家には銀子の下賜がなかったという一文には笑ってしまう。

又、四月十日付池田光政宛の書状(2118)が存在するが、これは「肥後入国祝儀」に対する返書で火事に関わる文言がまったくない。
処が同日付の日置忠俊宛書状(2119)があるが、これが火事に触れている。
 
       従新太郎殿被下御使者付而芳札 殊入國之為御祝
       儀失千送給候 御懇志之段申盡候 遙々御使者別而
       忝候由 能々御心得頼入存候 如御帋面 舊冬新太郎
       殿御屋敷火事之儀 不慮之儀共候つる 委曲御使者
       へ申入候 恐々謹言
            卯月十日

             日置豊前守殿
                     御返報 

先にも記した通り忠利は」「ニ三年我慢すれば、大金持ちになる」と息・光貞(光尚)に書き送っているが、江戸屋敷の再建など予定外の惨事であり、細川家の財政事情はすでにこの時期から悪化し始めたのだろう。

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