津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■探し物は何ですか?見つけにくい物ですか?・・・

2023-03-11 07:18:30 | 史料

    約200年前の文政五年(1822)の今日、御奉行の連中は少々慌てふためいて居られる。
もう一ㇳ月になるというのに、これから御触れを出すというのだから、少々のんびりに過ぎるのではないか。
落した人物は250石を拝領する宮川九十郎である。郡内縞という三幅ふくさ(風呂敷)で包まれていた。
これが宮川の懐中から落ちたというのである。落した場所もはっきりしている。
仙勝院丁にある和田十兵衛宅で封印をもらっての帰りだったのだろうか。現在の熊本地方裁判所(熊本市中央区京町1丁目13-11)が建つ場所が十兵衛宅である。
左隣に仙勝院があったためこの名がついているが、200mほどの道である。「丁」とついているから侍の屋敷が建てこんでいる。
本町口角というのが特定できないが、いずれにしろ京町本町の大通りに出た辺りであろうからわずかの距離である。歩いて5分もかからない距離だと思われる。
あわてて引き返したことだろうが、夜のことであり、和田十兵衛にも頼んで探し回ったことであろう。風に吹かれて観音坂を懸け下ったのだろうか?
侍が見つけたならば、此の文書が大切なものだと一目瞭然だろうが、侍ならずとも隠し持っているとお咎めを受けるというのだから、今頃は「焚きつけ」になってしまっているのかもしれない。
宮川殿はお叱りを受けたことであろうが、これについては判然としない。

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           和田十兵衛
   一 御條目   
           宮川九十郎

 此通上書いたし、裏ニ右両人之封印有之、其上を郡内嶋(縞)之三幅ふくさに包有之右之品先月十四日之夜、京町東裏
 仙勝院丁和田十兵衛宅より同所本町口角迄之間ニて宮川九十郎懐中より落し候由、
此品拾イ候者有之候ハヽ、早々可申
 出可指出候、御品柄を恐レ申出候儀を相憚居候儀も可有之哉、拾イ候者御咎等可
被仰付様も無之、たとゐ開封いたし候
 とも不苦候間、少も不憚可申出候、萬一拾候者後難を恐レ如何様とそ取計たる
儀も有之候ハヽ、是又有躰ニ可申出候、
 若隠置追て相願ニおゐてハ其者屹ㇳ御咎被仰付候右之趣御家中家來々々町在
共一統可相觸旨、御用番被申聞候條、左様
 被相心得、御支配方えも可被相達候、以上

   文政五年午三月十一日    御奉行中

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■山之上三名字之由来并覚書ー2(了)

2023-03-11 07:16:50 | 先祖附

一、元亀ヨリ天正二至リ城ノ親賢熊本城主ノ時、三名字ニ城名字を免サレ、是ニ依テ折紙并書札等皆城名字ニ当ル、左ニ
  記ス、

一、天正元年十月五日、小代ト三名字ト領知ヲ争ヒ軍ニ及、日を定玉名郡の内硲川(迫間川)ト云所ニテ懸相ノ軍ニテ三
  名字ノ大将三人
の内牛嶋三郎左衛門 字彦五郎ト云 ・田尻上野惟家討死ス、其外敵味方大勢討死相引ス、
一、天正十二甲申年、肥前・筑後ノ軍勢二手ニ分リ熊本を攻タメ、飽田郡の内春山、玉名郡の内石橋、此両所ゟ責入ニ依
  テ、三名字モ二手ニ成テ防キ、首員両所ニて三十二討取、追返ス、
一、天正十五年丁亥年、太閤九州御発向の時、太閤ハ鹿子木ヲ御通、浅野弾正ハ三ノ嶽越へニテ、三名字四月十三日三ノ
  嶽ニテ弾正ニ目見へ仕、先手ノ案内ノ人数ニ入レラル、其後佐々成政ヨリ三名字ニ給所領二百五十町也、同年の夏、
  菊池郡の内隈府の城主隈部式部大輔親安逆心ニ付、成政直ニ御馬向られ無程
責落サレ、親安嫡子并家老有働越前山鹿
  城ニ楯籠ルニ依テ、成政是ヲ攻ラル、三名字モ四百余の人数卒シ御供仕、然処ニ国中ニ逆心ノ者蜂起スル由所々ゟ告
  来ニ依テ、山鹿ノ城ニハ向城ヲ付ケ被置御返陳有処ニ、熊本ゟの使者途中ニ来テ、阿蘓・隈庄を初国持侍大方不残逆
  心仕、熊本茶臼山ニ雲霞の如ク押寄せ候ト申、三名字案内シケルニ依テ、御意を以御供ノ内ゟ引分ケ、飽託郡の鴟の
  尾ト云所ヨリ祇園山の麓ニ出テ敵の後ゟ突入ルニヨリ、忽チ懸敗リ、無恙御入城有リ、其後有働モ無程降参致シ、三
  名字ニハ其時御褒美トシテ玉名郡の内ニテ二十五町加増サセラル、右段々の折紙慥ニ有之、
一、山ノ上八ケ村并玉名郡の内小天村以下九ケ村の衆、三名字居屋敷迚菊池殿以来佐々陸奥守殿迄ハ検地竿不入ニ依テ何
  町トハ不知、清正御代ニ成リ浪人ト成ル故竿ヲ被入候得共、四千石余有之也、
一、清正御代に成リ国侍を大方御絶シ被成、三名字ニモ纔七人扶持宛、馬の飼料少シ被下候得共、家来大勢故難育、御断
  申浪人ニ成由、右の趣我等令聞知候分書誌者也、

   承応元壬辰年十二月          牛嶋元悦

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