送料無料 平野長九(源太左衛門)書状 和田備中守宛 加藤清正朝鮮出兵に関する記述有 古田織部について等 古文書 書状
加藤清正家臣和田備中に宛てた平野源太左衛門の書状である。和田備中は加藤清正死後のいわゆる「牛方・馬方騒動」で負け組に加担し、「元和四年八月八日(ママ)、公事落着之時、方々江御預之覚」によると「一、美濃岩村松平和泉守(乗忠)様江 和田備中」にお預けの処分を受けた人物である。
つまりこの書状はそれ以前の者であることが判る。
一方平野源太左衛門はその時の処分対象者ではなかったのか、時期がはっきりしないが豊前で細川家に仕えたものと思われる。
文中に古田織部のことが出てきている。織部は慶長20年に死去しているからそれより以前という事になるのか。
その侍帳を見ると以下の様にある
初代・源太左衛門 三百石 (肥後御入国宿割帳)
人持衆并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附)
千石 (真源院様御代御侍免撫帳)
一方以下の書状案によると父・平野長泰の助けを受けて細川家へ仕官しようとしていることが判る。平野長泰は細川幽齋の母方の清原家の一族である。
参考:元和七年八月廿八日書状案 (大日本近世史料・細川家史料 8-51)
平遠江(平野長泰)より、肥後に居申候おい(平野源太左衛門)、我等ニ抱候様にと被申候間、肥後殿構無之候ハヽ、抱可申由約束候、此儀にて言上仕候キ、
肥後殿構ふかく御座候而、同心不参候故、おいの儀は成間敷と被存、其子両人御座候を、我等ニ抱させ申度由被申越候へ共、宗立(三齋)様へ御かためを、
申上候間、成不申由申候へハ、又 宗立様へ被申上之由承候、肥後殿事之外構ふかく被申候間、其子抱候ハヽ、肥州満足ニハ御座有間敷かと存候間、何とそ
御分別を以、遠州へ被仰遣候様ニと、可被申上候事
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加藤家時代の源太左衛門を知る上で、非常に興味ある書状である。