津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■熊本の文学界はどう考えているのか・・佐分利越人という人物

2023-03-14 13:02:24 | 人物

 元禄十五年の今日三月十四日、肥後細川藩士・佐分利七兵衛が死去している。俳人の佐分利越人に比定されているが?
この人物は一時期名古屋に過ごし、芭蕉門下の俳人(十哲の一人)として名を成したと言われている。
後代の熊本に於ける俳人・久武綺石(文化二年歿)の墓石に刻まれた次のような文章がある。
「俳諧者滑稽之流也、而其始也戯謔而也、及芭蕉翁同其體栽、而燮風旨、然後言近而指遠者有焉、謂之正風、吾藩佐分利越人、嘗出居濃洲、學於蕉門、及其後歸也、職事鞅掌、不暇傳人、正風自綺石子云」
これによると、佐分利越人は紛れもない蕉門の人物で、熊本俳壇の先駆者ということになる。

 佐分利越人に比定されたこの人物は佐分利家の分家・(南東47-10)佐分利彦右衛門家の初代・七兵衛氏恒である。
本家・(南東45-3)佐分利加左衛門家の初代・作左衛門の息・兵太夫の時に分家し、その息・彦右衛門(兵大夫)に至ったが「寛文十一年(1671)八月六日知行(五百石)被召上、倅七兵衛ニ元禄四年(1691)三拾人扶持被下候」という事態が起こっている。
この七兵衛が越人に比定されている人物だが、肥後先哲遺蹟は先の久武綺石の墓石文と共に次のような人物紹介をしている。
   佐分利越人 七兵衛と称し、名は氏恒、越人は其俳名なり。芭蕉の門に入り俳諧を善くせしを以て名あり。
            佐分利家は熊本藩の佐分利流槍術家なり。越人は其家の養子たるものなり。故ありて肥後を辞し、
          尾州名古屋に来り、紺屋を業となす。元禄十五年三月十四日没す。享年未詳、墓は坪井流長院。
 
父親・彦右衛門(兵太夫)が「故ありて」細川家を召し放されてから、七兵衛が30人扶持で再度召し直されるまで、20年経過しているのだが、この間名古屋へ出て染物屋を生業として、蕉門にあって名を挙げた人物だとしている。
上の紹介文にある様に七兵衛は養子であり、実は島又左衛門(何代か不明)の三男である。

 これに著作「うらやまし猫の恋 越人と芭蕉」を通して真向から異論をとなえたのが著者・吉田美和子氏である。
「芭蕉の弟子・越人」を熊本の佐分利氏だとする説を完全否定している。(この本はものすごく面白い)
吉田氏は、幕末文政年間に出された遠藤曰人著「蕉門諸生全伝」が「肥後熊本の出身、細川越中守の近習佐分利流槍術家佐分利勘左衛門であるとする誤伝」だと断定されている。
吉田氏に著書の中にある「越人・芭蕉 略年譜」によると、越人の没年は享保二十年(1735)頃としてあり、全くの別人である。
大いに説得力のある史料であり、先の久武綺石の墓碑にあるものも、こういう風説を承知しこれに倣ったものなのではなかろうか?

 これ等の事は、熊本に於いて検証を加えるという事は成されなかったのだろうか。熊本の文学界はどうとらえているのか、その意欲はないのか・・・??
名著「肥後先哲遺蹟」の記述内容が間違いを犯しているという、重要な問題でもある。

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 ちなみに「うらやまし猫の恋」は、去来が著した「去来集」に芭蕉の言葉を要約した文章にある次の句に由来する。

       うらやましおもひ切時猫の恋   越人
 先師(芭蕉)、伊賀よりこの句を書き贈りて曰く、「心に風雅あるもの、一度口にいでずといふ事なし。かれが風流、
 ここに至りて本性をあらはせり」となり。これより前、越人、名四方に高く、人のもてはやす発句おほし。しかれど
 も、ここに至りて初めて本性を顕すとはのたまひけり。

猫の恋とは春の季語で、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」

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■あるランク付け、細川家は第三位

2023-03-14 06:30:28 | 新聞

            1位・岩崎男爵家、2位・渡邊治右衛門氏、3位・細川護立氏

 これはあるランク付けなのだが、御覧になって諸兄には、大方の予想は出来るだろうか。
これは大正9年(1920)の東京日日新聞に掲載された、東京市に3,000坪以上の土地を所有する大富豪のランクである。

その累計は東京市の面積23,308,896坪の約廿分の一に及び、「都市発展を阻止し住宅難を増長させている」と辛辣である。
大関は岩崎男爵家(横綱はいない)これは岩崎久弥氏周辺のこと、渡邊治右衛門とは江戸日本橋の豪商明石屋の8代目当主である。
細川護立侯爵が堂々の三位には驚かされる。

何と言っても広大なのは、岩崎久弥氏の駒込上富士前の47,684坪(=157,633㎡)だが、江戸町めぐり‐【本郷①050】駒込動坂町によると、「五代将軍綱吉の側用人柳沢吉保の中屋敷であった。1702(元禄15)年、回遊式築山山水庭園の六義園が完成。明治期には三菱の創始者岩崎弥太郎の別邸となる。1917(大正6)年、岩崎久弥により、G・E・モリソンの蔵書の他、アジア全域からの書物や資料を収めた東洋文庫が開設。1924(大正13)年から公開された。1938(昭和13)年から一般公開され、1953(昭和28)年には国の特別名勝の指定を受けた。1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。」とある。
二番目は本郷・本富士町‐加賀前田家の加賀利為氏の13,489坪、これは東大本郷キャンパスとなった加賀藩上屋敷であろう。
細川護立氏は小石川・老松町の21,531坪でこれは現在の「永青文庫+肥後細川庭園+和敬塾本館+α」である。
それぞれ残念ながらすべてが住宅地にはならなかったものの、細川家の「α」が幽霊坂で分断された西側のブロックが唯一住宅地となっている。以上は10,000坪以上の土地だが、上記ランクによる総面積は、岩崎男爵家113,467坪渡邊治右衛門氏37,494坪細川護立氏33,925坪というから、岩崎男爵家の経済力には驚かされる。
因みに細川家のその他の土地は小石川に5,516坪、麹町に3,797坪、日本橋に3,081坪とある。

大正九年東京は既に住宅難だとしている。これら富豪たちが所有した膨大な面積の土地は、今では有名な公園や公共施設の用地、商業地などに転用されて住宅地となっているのは少ないようだ。下のリストを一々住所を辿ってみるのも面白そうだが・・?

                 

                                         この資料は、細川御一族GH氏からご提供いただいたものである。

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