津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■細川月翁公宛・老中阿部正允書状

2023-03-27 20:42:00 | 先祖附

          【真筆】【蘇山】[阿部正允 細川月翁] 7924 手紙 書簡 紙本 熊本 肥後 宇土藩主 在銘

              御状令披見候
              公方様大納言様益
              御機嫌能被成御座
              恐悦旨尤候 猶又今度
              種姫君様御養女被
              仰出候段被承之目出度
              被存旨得其意候 紙面趣
              可及言上候 恐々謹言
                  安部豊後守
                     正允(花押)
                閏十二月九日

                 細川月翁

 この書状、月翁(細川興文)の隠居が明和九年のことであり、その後の閏十二月となると安永四年のものか。
 種姫君とは田安徳川家宗武の七女で、将軍家治の養女となり、紀州藩主・徳川治宝の正室となられた人物である。
 調べてみると、まさしく安永四年十一月のことである。
 宇土細川家の前藩主ながら、この慶事に対してお祝いの書を贈ったことにないする、老中阿部豊後守からの返書である。
 月翁として敬称が記されていないのは、隠居の号であることによる。

 この種姫の紀州家への豪華な御輿入れについては、その有様が文化遺産オンライン「徳川種姫婚礼行列図」として紹介されている。

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■忠興のボヤキと後悔

2023-03-27 06:48:49 | 先祖附

 忠興は豊前国を拝領して入国してまずは中津の城に入城している。
先にも触れたが、黒田家との確執は中津の城に住まう事さえ疎ましい事であったのかもしれない。

           ■確執の中の細川・黒田両家

その後小倉城を築城整備して移り、隠居するまで自らの居城とした。中津には嫡子・忠利を住まわせた。
忠興が隠居し三斎と名乗ったのは、元和7年9月のことで忠利が小倉城主となり、三斎は再び中津城に入った。
いわゆる、「三斎様御附中津ニ相詰候衆」(士数93人、綜総人数788人)を引き連れた。
そんな中、かっては自らに仕えた者たちが、代替りを期に自分を見捨てたかのように伺候しないと三斎がボヤいている。

 その効き目は十分にあったらしく、多くの者が10数里離れた中津へ伺候して三斎はその対応に音を挙げている。

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                                               小倉  中津
 態申候、其方ニ家督相渡我々隠居之事、代か一度とハか様之事たるへき處ニ、于今其地ゟ此方へ見廻ニ不参者共在之事ニ候、                                                                                                                                                   小笠原長元・松井興長
 惣庄屋共ニも如此之類御入候、其方被申付用所も候て如此候哉、不審ニ候、面ニも申候、民部・式部を以も申候、又先度、
  加賀山可政
 加々山主馬ニも如申候、家中上下侍小者ニ至迄、如何様ニも其方次第たるへく候、我々構一切無之儀二候、然共右之様子ハ
 我々身ニ懸事ニ候間申候、既此祝儀ニは従歴々使者も来候、又目をかけ候上方之者共いつれも見舞ニ参、又移徏之祝儀をも
 申候て可上と申、于今逗留仕ものも在之事ニ候、扶持人にて無之ものさへ如此儀處ニ、國中ニ有なから今迄不参は存外之儀
 かと存候、萬不構とハ申なから、外聞わるきやうニ可仕子細毛頭無之候間、いかやうニも世上之聞え、我々ため可然様ニ被
 申付可給候哉、但分別次第ニ候、其内矢野利斎こときの者、又ハそはの小々性、其外も用所被申付候者ハ各別之事ニ候、
 此方ゟも比類之者ハ我々申付候て不遣候、此外不参之者其方にてせんさく被仕候はしれ可申候、以上
                                三斎
      九月五日                       (花押)
        内 記 殿
            進之候

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一我々隠居不見廻者共之事、此以前無分別ニてむさとしたる儀を申、後悔ニ候、就其江戸へ不被越以前可申儀共在之ニ付而、
 其時可申と一書ニ仕置候、則主馬ニ見せ申候、志水宗加を初、其方可然と被存者可然様ニ何事も可被申付候、われ/\へ之
 届一切構不申候事
             (後略)
         以上
      十月十三日

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   20日ほど三斎は呼びつけておきながら、したり顔で多くの小倉の家臣たちに対応したのだろう。  
   さて世間への聞こえは如何であったろうか。後悔後を絶たず・・
   

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