2018年発行の、福田小波氏編の「八世鳩野宗巴色紙」という56枚に及ぶ鳩野家所蔵の色紙を収録解説を付した冊子を読んでいる。
鳩野家ご当主のものも含まれているようだが、西南の役で妙体寺の医院・屋敷を焼け出され立田山山麓に仮寓していた折に三々五々訪れた縁戚の人や友人の
筆によるもののようだ。
残念ながら画かれた人物の特定は難しいように思われる。そんな中「室園村皆殺」という驚くべきワードで紹介されている色紙が三枚ある。
室園村とは現在の熊本市北区清水町室園地区であり、立田山の西の斜面の裾野に近い場所である。宗巴は聖拝庵(聖拝院)という寺院跡に住まいしていた。
この地が宗巴やその仲間の医師七人が西南の役の際、官軍・薩軍の分け隔てなく治療を行った。
「日本赤十字社」の前身「博愛社」が設立される以前の話である。
そんな宗巴の許を訪れた人が、室園村に於ける年貢米未納で皆殺された村人を想い歌を遺した。
幕末藩政時代の事件であろうか?
45、室園の人皆殺に遭、村の名も絶果む事を嘆て、小川の民ども移りける。元の里て敬ひ祭る観世音飛来り給ひし図
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与能人を救府や法乃 よの人を救ふや法の
ちかひ那るらん ちかひなるらん)
46、室園皆殺の折伊勢大神宮へ参詣のもの一人命をながらへたる處
神の賜ひし幸にこそあれ
ふりかかる身のまがつみを遁れしは 正頼
47、
大方の人にうめきを 正頼
みせぬためさとり
へだてて結ぶかり いお
庵
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私は残念ながら、このような事件が勃発していたことは全く知らなかったので、大変驚いている。
編者は地元の古老を訪ね聞き取りをされているが、「皆殺」ではなく主たる人たちが数名殺されたのではないかという、言い伝えがあるらしい。
いずれにしても、悲惨な事件である。藩庁の正式な記録には残されなくても、このような形で悪政が白日の下にさらしだされる。