一少将様(細川齊茲)被為在思召之旨、赦被仰出候段、舊臘及達置候通候處、
右ハ今度政所様(一条家・政所邰君様 齊茲・長女)御婚禮無御滞被為濟候
二付、少将様格別之思召二て、去年迄犯罪之者共赦被仰出度御内意二付、従
太守様(細川齊樹)赦被仰出候段、此砌江戸より申來候間、右之御旨趣をも
為被奉承知、猶可及達旨御用番被申聞候條、左様御心得、觸支配方有之面々
は可被相達候、以上
文化十三(1816)子三月十三日 御奉行中
細川齊茲(肥後細川藩8代)は文化七年(1810)に隠居し嫡子・齊樹が9代目として遺領相続した。
そんな中、齊茲の長女(当時・峯姫)は八年二月に松平出羽守齊恒に嫁いだが翌年四月には離婚している。
しかしその後、十二年十一月邰姫(当時名)は、五摂家である一條家の関白忠良に嫁いだ。23歳である。
この慶事に際して齊茲(少将様)は、犯罪者の恩赦を思いつき嫡子・齊樹を以て207年前のこの日、奉行所から触が出されている。
「政所様=冨子」との呼び名は十三年に入ってからのことらしい。
結婚生活は僅か9年(死去)という短いものであったが、この結婚を以て細川家と一條家との濃密な関係が構築される。
11代藩主・細川韶邦は安政元年(1854)一條忠良の子・左大臣忠香の養女・峯姫(実・三條實萬女‐實実妹)を正室に迎えた。
明治天皇の皇后・美子(昭憲皇太后)は忠香女であり、明治に入り天皇・皇后は細川邸を訪れたりしている。