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津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■御慶事につき恩赦 細川家と一條家との関係

2023-03-13 11:25:43 | 史料

       一少将様(細川齊茲)被為在思召之旨、赦被仰出候段、舊臘及達置候通候處、
        右ハ今度政所様(一条家・政所邰君様 齊茲・長女)御婚禮無御滞被為濟候
        二付、少将様格別之思召二て、去年迄犯罪之者共赦被仰出度御内意二付、従
        太守様(細川齊樹)赦被仰出候段、此砌江戸より申來候間、右之御旨趣をも
        為被奉承知、猶可及達旨御用番被申聞候條、左様御心得、觸支配方有之面々
        は可被相達候、以上
          文化十三(1816)子三月十三日    御奉行中

 細川齊茲(肥後細川藩8代)は文化七年(1810)に隠居し嫡子・齊樹が9代目として遺領相続した。
そんな中、齊茲の長女(当時・峯姫)は八年二月に松平出羽守齊恒に嫁いだが翌年四月には離婚している。
しかしその後、十二年十一月邰姫(当時名)は、五摂家である一條家の関白忠良に嫁いだ。23歳である。

この慶事に際して齊茲(少将様)は、犯罪者の恩赦を思いつき嫡子・齊樹を以て207年前のこの日、奉行所から触が出されている。
「政所様=冨子」との呼び名は十三年に入ってからのことらしい。
結婚生活は僅か9年(死去)という短いものであったが、この結婚を以て細川家と一條家との濃密な関係が構築される。
11代藩主・細川韶邦は安政元年(1854)一條忠良の子・左大臣忠香の養女・峯姫(実・三條實萬女‐實実妹)を正室に迎えた。
明治天皇の皇后・美子(昭憲皇太后)は忠香女であり、明治に入り天皇・皇后は細川邸を訪れたりしている。

 

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■山上三名字ー内田只介話

2023-03-13 06:50:36 | 先祖附

     ー内田只介話

 玉名郡小田手永小天村ニ古へ石橋某ト云者此辺ヲ領〆在ケリ、某氏神なりと、于今森あり、又其住居之跡をハ於于今石橋
 村と云、其後三名字之内田惣右衛門と云者小天ニ住シ、其居城跡ハ今之田尻茂次郎か屋敷ト云へ共、一説ニハ左ニハ非ス
 茂次郎が屋敷ゟ北ニ当りて其跡石垣も少し残レリ、内田ハ国中所々ニて軍功ノ者故菊池家大友家ゟ之感状今ニ子孫ニ伝来
 すと云々、三名之内内田氏ハ 今の茂次郎も本者田尻ニ無之内田氏也ト、藤原姓ニ〆相良之分流内田五郎左衛門子孫之内ニて、内田惣右衛
 門無男子緒方氏ゟ養子して今に子孫相続スト云々、年暦も不知、       玉名市天水町小天石橋

 小天村観音堂ハ古へ内田氏の菩提所建立〆休勝院ト云禅寺也シ、今ハ及退転小堂ニ本尊之観音を安す、亦当村延命庵ト云
 ル、本尊ハ地蔵也、其後至近世庵地ㇳ成由、内田氏代々之古墳等文字消滅〆不分明、

 飽田東門寺郷士内田某が先祖ハ天正之比佐々熊本入城之後一揆起りし時味方ニそむき候へ共不被用由、清正公領ニ至り其
 忠節を被感しと也、又此家ハ三名之一にして地頭たる嫡々相伝し来れる故によって年始にも村中ゟ門松を建諸事主人の如
 く古しへゟしたい守ると云、

                              寺本直廉著「肥後見聞雑記」より

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