津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■疑問を解くきっかけとして

2024-06-28 06:45:56 | ご挨拶

 私の中の細川史のなかで、まだ手がかりを得ないでいる疑問は、宝暦の改革における「世減の規矩」の詳細である。
慶安三年新知であった人たちは、大巾な減知という大津波に飲み込まれた。
忠利公が肥後入国後、「世録制」を宣言した。重賢公の時代に至り、財政の破綻に耐え切れず「世録制こそ古法に反するもの」としながら「君の御心ははじ恐れ給ふ」などとも言い訳がましく重賢をかばう言葉が「銀臺遺事」では語られている。
過去に度々触れてきたが、その成果は「宝暦四年此ヨリ減候知行・60,094石程、同28,770石程、右同蔵米擬作取・30,610石程」と減知高の合計は約12万石となった。
その対象になったのは
       慶安三年以降新知の家
          5,500石~4,500石  500石減
          4,400石~3,400石  400石減
          3,300石~2,200石  300石減
          2,200石~1,200石  200石減
          1,100石~   600石  100石減
             500石~   150石    50石減
             100石新知        御擬作    である。
果たしてどのお宅が具体的にどのような減知となったのかは不明である。(当然永青文庫には詳しい資料が存在するのだろうが)

松本寿三郎元熊大教授の労作に「熊本藩侍帳集成」があり、20編に及ぶ「侍帳」が紹介されている。
その中に「天保弐年出来 御知行取以呂波世勢」があり、ここでは「いろは順」に「旧知」「新知」「擬作」「御蔵米」「寸志」等に分けて紹介されている。
「70石」でも旧知の家があり、「3200石」の新知の家もある。この「世減の規矩」を実行した大奉行・堀平太左衛門などは旧知の家だが、家禄3500石の内、新知が3200石ある。当然この3200石は減知の対象なのだが、これが実行された気配がない。
忠利公が定めた「世録制」を「古法に反するもの」と臆面もなく批判して切り捨て、上記のような条件で実行されたのだろうが、こ
の「御知行取以呂波世勢」を見る限り、抜け穴が大いにあることが一目瞭然である。
私はこの「世減の規矩」は宝暦の改革における、大いなる欠陥であると考えている。
つまるところ、旧知の家が「1石」たりとも減知されなかったことである。旧知のお宅の知行合計がどのくらいあるのか、その5%~3%でも減知したならば、不公平感は少しは和らぐとともに数万石が上乗せされたであろう。
こんなことには当事者たちは耳をふさぎ、口をつぐんだ。
次回から、旧知の家と、新知の中で高禄の家などに触れながら、細川家臣団の構成にメスを入れてみたいと思っている。        

コメント
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