津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

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2024-09-03 06:29:43 | オークション

    【深和】細川三斎 ローマ字黒印状軸装「上様御振舞の文」寛永七(1630)年六月九日付 筑紫広門宛 真筆(細川忠興 三斎流 茶人 中世古文書)

           

  解説や読み下しなど完璧で出品者の誠意が伺えるお品です。時代背景の解説なども大変ありがたく勉強になります。
  細川家にはこの筑紫広門の三男・重門が召し出されています。以下はこれに関する記事です。  津々堂
    
        広門:編年集成五月九日之所ニ、庚子の亡慮筑紫上野介義冬入道夢庵か子
           主水、一昨日七日細川越中守隊に属し、功名を遂る旨言上せしかは、
           夢庵今日神君ニ拝謁することを許さる、寛永三丙寅年主水ニ三千石を
           賜、御家人となると云々、此事ハ四月十日松井右近より興長江之書状
           ニはや見へ申候、忠興君殊外御取持被成候由 (綿考輯録-巻十九)

        重門:寛永八年五月廿六日(三斎公)忠利君江被進候御書之内
            筑紫主水子息右近 相国様へ未御目見不被仕候ニ付 此度六次而ニ
            御目見被仕候由 一段可然儀候 我々ハはやとく 御目見仕たると存
            候而居申候つる事            (綿考輯録-巻二十二)

商品説明
細川三斎のローマ字黒印状です。

筑紫広門に宛てたもので、はらら子(魚卵)を贈られたことへの礼と、上様(徳川家光)が旗本衆とともに盛んに茶会や猿楽を催しており、番組や献立を見ても圧巻で日本開闢以来の大規模なものであると称賛する内容の書状です。

西軍に与し浪人となり永らく三斎の庇護下にあった筑紫広門が、旗本に列した寛永4(1630)年以降、そして三斎が在府の時の書と見られ、『徳川実紀』大猷院殿御実紀・寛永7(1630)年五月朔日条に見える「西城にならせられ申楽あり。紀水両卿及在江戸の諸大名并諸有司見ることをゆるされ饗せらる」の文がこれにあたるとみられます。江戸城では前年六月から小堀遠州により西城茶室や二丸園池亭が造成されており、この時期に将軍家光・大御所秀忠ともに連日能楽や茶事を行っている様が看て取れます。三斎67歳の筆です。

『徳川実紀』の茶道・能楽記事を見てみると、家光治世初期は大御所の茶事の記事が多く、溺愛する忠長のもとへの御成で盛んに振舞・演能が行われたことが分かります。しかしながら寛永7(1630)年前後は忠長の乱心・失脚が取り沙汰された時期であり、本作は老将三斎の目からも、27歳の家光が権力基盤を盤石なものとし、満を持して武家式楽に励んでいたことを如実に示す文書といえる歴史的にも貴重な逸品です。


◆細川三斎
安土桃山・江戸前期の大名。幽斎の長男。妻は明智光秀の娘玉子(細川ガラシア)。名は忠興、通称を与一郎、三斎は号、法名は宗立。はじめ秀吉に従うが、秀吉歿後は家康に従い関ヶ原の戦で大功をあげ、豊前中津藩主、のち小倉藩主となる。和歌・画・有職故実に長じ、また茶の湯を利休に学び七哲の一人に数えられる。正保2(1645)年没、82歳。

◆筑紫広門
江戸前期の武将・旗本寄合席。筑紫氏当主。諱は春門、従門、茂成、のちに広門。通称は善吉郎、従五位下・主水正。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いで西軍に味方し参戦、西軍敗北により浪人となり肥後国に住む。慶長19(1614)年に小倉藩主細川忠興に就いて以前の罪を謝し、大坂の陣に参戦。元和元(1615)年に京都で徳川家康に拝謁した。寛永4(1627)年に旗本寄合席に列し、知行地として豊後国速見郡に3000石を与えられる。

             〔本文〕
                  為御見舞遠路被差
                     越御飛脚御懇書
                     殊爰元稀成はらゝ
                     子(腹子)曲物一つ御上も満足
                     則賞翫仕候、
                     上様此頃御機嫌能
                     御はたもと衆於御城
                     御振舞被成、御能被
                     仰付候由、目出度儀共ニ候、
                     御能くみ御振舞之
                     御献立迄具ニ被仰越
                     貴様別而御参候由、目出
                     度候、御人数三千五百
                     余御座候由、日本初り
                     ての大き成可為御振
                     舞と存候、恐惶謹言

                            三斎
                          六月九日   宗立(印)

                     筑主水様  御返報
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