津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■森田草平著「細川ガラシヤ夫人」

2014-10-16 10:34:29 | 書籍・読書

 最近、森田草平著「細川ガラシヤ夫人」(昭和25年2月20日発行・山川書店)をサイトで見つけて購入した。1,000円と格安である。
送られてきたものを読んでいると、最末尾に「上編おはり」とある。ここで下巻が存在するらしい(?)ことを知った。
「上編」ではガラシャ夫人はまだ三土野に在る。忠興がガラシャの事を思いながらの一段落である。
これは後を読まずばなるまいといろいろググって見たが、下巻は中々手に入れるのが難しそうだ。
Amazonに角川書店本が出ているがすごく高額である。

森田草平には全集があった。その第一巻に下巻らしいものが所載されているらしい。
           
                   第1巻 1956.7.10
 
                       細川ガラシヤ夫人……………………… 1
                       前篇………………………………………… 5
                       中篇(遺稿)…………………………… 200
                       *『細川ガラシヤ夫人』梗概……… 306
                       *細川ガラシヤの生涯…………… 314 

どうもこの書き方からすると、この小説は完成しないまま筆者は亡くなったのではないか・・・・。
日本の古本屋を検索しても出て来ない。頼みの綱は図書館だがこれとて休館中だし何ともしがたい。年を超す課題となった。 

ウィキペディアの記事を引用すると、森田について次のようにある。
夏目漱石の『草枕』に感銘を受け妻子を郷里に置いて上京、漱石の元へ足繁く通う傍ら与謝野鉄幹が主宰する閨秀文学講座で講師を務める。この講座に聴講生として通っていた平塚らいてうと関係を持ち、1908年(明治41年)に栃木県塩原で心中未遂事件を起こす。」
『草枕』に感銘を受けたというのが良いではないか。漱石に関する著作が多いようだが、ちょっと読んでみようかという気になっている。 

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■先祖附 魚住(右衛門兵衛)家

2014-10-16 08:26:06 | 先祖附

                                   IMG_1236.JPG

                             石垣原の戦いにおける魚住右衛門兵衛の働きについての黒田如水の感状の写真、
                             下の文面にある「」については「」や「」などと紹介する資料が見えるが間違いである。
                                                           東京在住のご子孫のご提供による。 


                                          

                                             一昨日之御働手柄
                                             之段松佐州 有四郎右
                                             御物語候 於拙者満
                                             足不過之候 今日爰
                                             元相済候 明日其地江
                                             参 面を以万々可
                                             申入候 恐々謹言
                                                    如水軒 書判
                                               九月十五日

                                                 魚住右衛門兵衛殿
                                                         参御宿所

       その働きについて綿考輯録は次のように記す。

             首一  魚住右衛門兵衛   同
     丹後にて被召出御知行三百石被下候、此節之御加増千七百石都合弐千石被仰付名を加賀と改被下、御鉄炮五十挺御預被成候、其後病死、
     其子与右衛門別禄三百石被下加賀果候以後弐百石御加増、於豊前病死、其子武右衛門当御国にて忠利君より新知百五十石被下候、今の
     辰之允祖也、加賀二子与兵衛休無様へ被成御附休無様より御知行三百石被下候、其子源右衛門与八郎様御供ニて御国へ罷越候処、光尚
     君より御知行三百石被下、今の源次兵衛祖なり、右与右衛門二男市郎右衛門有馬御陳にも罷越候、御帰陳の上御中小姓与ニ被召加、貞享
     二年新知二百石被下、今の市大夫祖なり

       

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                                           先祖附

                                私先祖魚住右衛門兵衛儀
                                三齋様御代於丹後國被召出御知行三百石被為
                                拝領御奉公相勤申候 慶長五年九月十三日於豊
                                後國石垣原を大友左兵衛督義統合戦之時討取義
                                統之家士依其働御加増千七百石被為拝領都合弐
                                千石ニ被仰付名を加賀と御改被下御鉄炮五十挺被成

 

                                 御預候 右働之節黒田如水公より御感状被下候 其後於豊
                                前病死仕候
                               一魚住久兵衛儀加賀嫡子ニ而御座候 如何様之■趣有之候哉
                                御國立退申候
                               一魚住與左衛門儀加賀二男ニ而御座候
                                三齋様御代別禄三百石被下置加賀果候後為御加増
                                弐百石被為拝領都合五百石ニ被仰付御奉公相勤居
                                申候処於豊前國病死仕候
                               一魚住杢之丞儀與右衛門嫡子ニ而御座候処早生仕候
                               一魚住武左衛門儀與右衛門二男ニ而御座候
                                妙解院様御代於當御國新知百五拾石被為拝領御番
                                方被仰付候 天草御城番数度相勤江戸御留守居詰壱度
                                相勤候 罷下南関御番相勤申候処病身ニ罷成申候ニ付
                                御奉公御断奉願候処願之通隠居被仰付候

 

                               一魚住又助儀武左衛門嫡子ニ而御座候
                                妙應様御代武左衛門家督百五拾石無相違被為拝領
                                御番方被仰付候 宇土郡赤瀬浦御番其外組並之
                                御奉公相勤申延寶五年十一月御小姓組被仰付江戸御供
                                被仰付相勤申候 大御番■御番御目附壱度相勤
                                申し
                                天和元年新組被仰付貞享四年十二月高五拾石之
                                御役料被為拝領元禄八年迄江戸定御供七度
                                相勤申候 御紋付之御上下御小袖御帷子御羽織等度々
                                被為拝領候 同年十一月御歩頭被仰付同十三年江戸
                                御供被仰付相勤申候内同年七月
                                與一郎様御逝去御國元江之御使者被仰付相勤罷登
                                御下國之節御供仕罷下申候 寶永元年正月御鉄
                                炮拾挺頭被仰付同年江戸江被召寄相勤同四年罷下
                                申候 正徳三年九月御鉄炮弐拾挺頭被仰付相勤居
                                申候処
                                病身ニ罷成申候ニ付享保四年五月御役御断奉願候処
                                同月病死仕候

                                             (以下略)

 

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