最近熊本城の馬具櫓が改修されて多くの人が見学に訪れている。この馬具櫓と書物櫓(現在はない)の間から藩主の居館・御花畑邸に向かって下馬橋が架けられていた。
江戸期を通しての絵図をみると、花畑邸の前は広大な勢屯となっており下馬橋はこの勢屯からすると、随分右に寄っていて奇異な感じがする。
さてこの寛永初期の絵図を見ると、その疑問が払しょくされる。つまり花畑邸の前の勢屯はこの時代は存在せず、細い道が存在するのみでほぼこの道の延長上にあることが判る。
花畑邸は忠利の肥後入国後しばらくしてから居館になったものであり、加藤時代は数寄の屋敷といった性格であったのだろう。
絵図の屋敷に「上々々」とか「上々」「上」「中」等が書き込まれているが、これに連動するように有力家臣がその屋敷を拝領していることが判る。
そして細川家の入国後、これ等の屋敷を拝領した人たちも加藤家同様有力家臣が入居しており大変興味深い。