安倍政権は来年予定されている明仁天皇の「退位」と徳仁皇太子の「即位」に伴う一連の儀式を「国事行為」「皇室行事」として公費(税金)支出しようとしています。「政教分離」「国民主権」の憲法原則に反することは明白で、絶対に容認できません。
そもそも今回の「退位」は明仁天皇自らがその意向を示し(2016年8月8日のビデオメッセージ)、それにそった「特別法」によって行われるもので、天皇の政治関与を禁じた憲法(第4条)上重大な疑義があります。天皇の「国事行為」を定めた憲法第6条、第7条には当然「退位」に伴う行為・儀式はありません。「特別法」で憲法を超えようとはとんでもない話です。
新天皇の「即位」に伴う儀式はどうでしょうか。安倍政権は今回も前回、明仁天皇が「即位」した際の一連の儀式(1989~90年)にならうとしています。
前回の「即位」では、①「剣璽(けんじ)等承継の儀」②「即位後朝見の儀」③「即位礼正殿の儀」④「祝賀御列の儀」⑤「饗宴の儀」の5つが「国事行為」とされ公費で賄われました。その額は123億円にのぼりました。①②③はとくに完全に皇室神道に基づく宗教儀式です。
たとえば「剣璽等承継の儀」は、「皇位のしるし」とされる「三種の神器」(ヤタの鏡、クサナギの剣、ヤサカニの勾玉)のうち剣と勾玉(璽)そして国・天皇の印(国璽・御璽)を新天皇に渡す儀式です(鏡は宮中・賢所に安置されている)。
「即位儀式」の中で皇室神道が最も重視するのは「大嘗祭(だいじょうさい)」(新天皇即位後初の新嘗祭)です。文字通りの神道儀式で、政府もさすがに「国事行為」にはできませんでした。しかし、「皇室行事」として宮廷費という公費を支出したことに変わりありませんでした。
こうした宗教儀式への公費支出が、憲法の政教分離原則(第20条)に反することは明白です。さらに、首相や衆参議長より天皇が高い位置で「宣言」し、首相が低い所から「天皇陛下万歳」を唱える「正殿の儀」が「国民主権」原則に反することも明らかです。
ところがメディアでは、「大嘗祭に知事らが参列したことが、政教分離原則に反するかが争われた訴訟では、合憲判決が確定している」(16日付朝日新聞社説)などとして、憲法上問題がないかのような論調が流布しています。まったく事実を歪曲するものと言わねばなりません。
前回の「即位儀式」に関しては全国各地で訴訟が起こり、確かにことごとく退けられました。しかし、それは原告(市民)の「資格」などを問題にしたもので、すべての判決が公費支出を「合憲」と認めたわけではありません。
むしろ事実は逆で、「即位儀式」への公費支出は憲法上問題があるとして市民側が一部勝訴した判決がありました。1995年3月9日の大阪高裁判決(山中紀行裁判長)です。
同判決は大嘗祭が「神道儀式としての性格を有することは明白」としたうえで、こう指摘しています。
「皇室行事として宮廷費で執行したことは、国家神道に対する助長、促進になるような行為として、政教分離規定に違反するのではないかとの疑義は一概に否定できない」
さらに、「即位の礼」についても、「宗教的な要素を払しょくしていない」とし、天皇が首相らを見下ろす「正殿の儀」についても、「国民を主権者とする憲法の趣旨にふさわしくないと思われる点が存在することも否定できない」と断じたのです。
にもかかわらず原告の訴えを退けたのは、公費支出が「原告らに何らの具体的な義務や負担を課したものではなく」、「支出差し止め」請求もすでに支出が終了していて「訴えの利益がない」としたものです。公費支出の憲法上の疑義を否定したものではけっしてありません。
この判決は双方が上告しなかったため、確定判決となっているのです。
こうした確定判決があるにもかかわらず、これから行われる一連の皇室神道儀式に対し、「国事行為」「皇室行事」の名目で公費支出することは絶対に許されません。