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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「天皇退位・即位儀式」の国事行為化・公費支出は許されない

2018年02月19日 | 天皇制と憲法

     

 安倍政権は来年予定されている明仁天皇の「退位」と徳仁皇太子の「即位」に伴う一連の儀式を「国事行為」「皇室行事」として公費(税金)支出しようとしています。「政教分離」「国民主権」の憲法原則に反することは明白で、絶対に容認できません。

 そもそも今回の「退位」は明仁天皇自らがその意向を示し(2016年8月8日のビデオメッセージ)、それにそった「特別法」によって行われるもので、天皇の政治関与を禁じた憲法(第4条)上重大な疑義があります。天皇の「国事行為」を定めた憲法第6条、第7条には当然「退位」に伴う行為・儀式はありません。「特別法」で憲法を超えようとはとんでもない話です。

 新天皇の「即位」に伴う儀式はどうでしょうか。安倍政権は今回も前回、明仁天皇が「即位」した際の一連の儀式(1989~90年)にならうとしています。

 前回の「即位」では、①「剣璽(けんじ)等承継の儀」②「即位後朝見の儀」③「即位礼正殿の儀」④「祝賀御列の儀」⑤「饗宴の儀」の5つが「国事行為」とされ公費で賄われました。その額は123億円にのぼりました。①②③はとくに完全に皇室神道に基づく宗教儀式です。

 たとえば「剣璽等承継の儀」は、「皇位のしるし」とされる「三種の神器」(ヤタの鏡、クサナギの剣、ヤサカニの勾玉)のうち剣と勾玉(璽)そして国・天皇の印(国璽・御璽)を新天皇に渡す儀式です(鏡は宮中・賢所に安置されている)。

 「即位儀式」の中で皇室神道が最も重視するのは「大嘗祭(だいじょうさい)」(新天皇即位後初の新嘗祭)です。文字通りの神道儀式で、政府もさすがに「国事行為」にはできませんでした。しかし、「皇室行事」として宮廷費という公費を支出したことに変わりありませんでした。

 こうした宗教儀式への公費支出が、憲法の政教分離原則(第20条)に反することは明白です。さらに、首相や衆参議長より天皇が高い位置で「宣言」し、首相が低い所から「天皇陛下万歳」を唱える「正殿の儀」が「国民主権」原則に反することも明らかです。

 ところがメディアでは、「大嘗祭に知事らが参列したことが、政教分離原則に反するかが争われた訴訟では、合憲判決が確定している」(16日付朝日新聞社説)などとして、憲法上問題がないかのような論調が流布しています。まったく事実を歪曲するものと言わねばなりません。

 前回の「即位儀式」に関しては全国各地で訴訟が起こり、確かにことごとく退けられました。しかし、それは原告(市民)の「資格」などを問題にしたもので、すべての判決が公費支出を「合憲」と認めたわけではありません。
 むしろ事実は逆で、「即位儀式」への公費支出は憲法上問題があるとして市民側が一部勝訴した判決がありました。1995年3月9日の大阪高裁判決(山中紀行裁判長)です。

 同判決は大嘗祭が「神道儀式としての性格を有することは明白」としたうえで、こう指摘しています。

 「皇室行事として宮廷費で執行したことは、国家神道に対する助長、促進になるような行為として、政教分離規定に違反するのではないかとの疑義は一概に否定できない

 さらに、「即位の礼」についても、「宗教的な要素を払しょくしていない」とし、天皇が首相らを見下ろす「正殿の儀」についても、「国民を主権者とする憲法の趣旨にふさわしくないと思われる点が存在することも否定できない」と断じたのです。

 にもかかわらず原告の訴えを退けたのは、公費支出が「原告らに何らの具体的な義務や負担を課したものではなく」、「支出差し止め」請求もすでに支出が終了していて「訴えの利益がない」としたものです。公費支出の憲法上の疑義を否定したものではけっしてありません。

 この判決は双方が上告しなかったため、確定判決となっているのです。

 こうした確定判決があるにもかかわらず、これから行われる一連の皇室神道儀式に対し、「国事行為」「皇室行事」の名目で公費支出することは絶対に許されません。


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天皇誕生日会見ー「退位」でなく「譲位」の重大な意味

2017年12月23日 | 天皇制と憲法

       

 明仁天皇は23日の誕生日を前に、20日宮内記者会と会見し、こう述べました(写真左)。

 「この度、再来年4月末に期日が決定した私の譲位については、これまで多くの人々が各々立場で考え、努力してきてくれたことを、心から感謝しています」(宮内庁HPより)

 明仁天皇は「退位」とは言わず「譲位」と言いました。昨年8月8日の「ビデオメッセージ」(写真右)以降、「生前退位」が問題になっていますが、天皇の口から「譲位」という言葉が出たのはおそらくこれが初めてです。

 「退位」と「譲位」。どちらも同じように思えますが、天皇やその信奉者にとっては重大な問題です。

 6月9日に成立した特例法の正式名称は「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」。政府やメディアもいまのところ「退位」という言葉を使っています。
 しかし右翼・天皇信奉者の間からは「ビデオメッセージ」の時から「生前退位」という言葉に異議が出されていました。
 たとえば櫻井よしこ氏は、「広く使われている『生前退位』という言葉には違和感がある。…譲位という言葉を使うべきではないか」(2016年8月9日付産経新聞)とはっきり述べていました。

 櫻井氏と同じく「生前退位」という言葉に強い拒否反応を示したのが、美智子皇后です。
 皇后は昨年の自身の誕生日(10月20日)にあたっての文書でこう述べていました。
 「新聞の一面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした。それまで私は、歴史の書物の中でもこうした表現に接したことが一度もなかったので、一瞬驚きと共に痛みを覚えたのかもしれません」(宮内庁HPより)
 皇后は今年の誕生日にあたっての文書では、「陛下の御譲位については…」と明確に「譲位」という言葉を使っています。

 彼女らがなぜ「退位」を嫌い「譲位」と言うのか。その真意はさすがに自分の口からは語られていません(語れないでしょう)。手元の辞書では、「退位」とは「帝王のくらいをしりぞくこと」、「譲位」とは「君主が位をゆずること」です。「退位」が動作を客観的に表現するのに対し、「譲位」には「皇位継承」を主体的に行うというニュアンスが強まります。

 この「主体性」こそが問題です。それは、今回の天皇の会見の中心ともいえる次の言葉とも密接に関係しています。

 「残された日々、象徴としての務めを果たしながら、次の時代への継承に向けた準備を、関係する人々と共に行っていきたいと思います」(同)

 明仁天皇には自分が主体的に皇位を「次の時代へ継承」するのだという意思が明確にあります。「ビデオメッセージ」もその典型的な表れでした。だから「退位」ではなく「譲位」なのです。

 しかし重要なのは、「皇位継承」に関して天皇が主体性を発揮することを、日本国憲法は許していないということです。

 憲法第1条は、「象徴」としての天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」とし、第2条で「皇位は、世襲」であり、「国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」としています。そして第4条で、天皇は「国政に関する権能を有しない」と念押ししています。天皇が主体性を発揮する余地はどこにもありません。法改正を必要とする「生前退位」というきわめて政治的な問題に天皇が主体的にかかわることは憲法上許されません。
 
 「ビデオメッセージ」は「明らかに政治的な発言」(吉田裕一橋大教授、『平成の天皇制とは何か』岩波書店)であり、憲法違反が濃厚です。その「ビデオメッセージ」の意味を「譲位」という言葉で改めて明確にしたのが、今回の「誕生日会見」と言えるでしょう。

 「被災地や地方への訪問といった公的行為はかつてないほど増え、昨年のビデオメッセージは、これを象徴天皇の中核に位置付けた。この『お言葉』を受けて法律が制定され退位が実現する。天皇が権力を発動し、政府や国会が天皇の意のままに動いたように見えてしまう。憲法4条で『国政に関する権能を有しない』としているのに、実際には主権者の国民が天皇に従う格好になっている。…こうした天皇の在り方に称賛ばかり集まり、誰も異議を唱えなくなっている現状に気持ちの悪さを感じる」(原武史放送大教授、9日付中国新聞=共同配信)

 「天皇タブー」の中、「主権在民」にとってきわめて深刻で危険な状況がしたしたと進行しています。


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樋口陽一氏の「天皇賛美」に異議あり<下>

2017年12月19日 | 天皇制と憲法

     

 昨日に続き、東京新聞の連載記事(12月3日付)に掲載された憲法学者・樋口陽一氏(写真左)の天皇賛美を検証します。

 ③    天皇は「憲法順守」しているか。

  天皇がしばしば「憲法順守」を口にすることに対し、樋口氏は「自由や民主主義を大切にし、戦争を起こさないように、という集約的なメッセージ」だと絶賛しています。

  しかし、「憲法順守」の言葉とは裏腹に、数々の憲法無視・蹂躙を行っているのは明仁天皇自身です。

 例えば、「退位」の発端になった「ビデオメッセージ」(2016・8・8)自体、明白な政治発言・行為です(憲法第4条違反)。
 また、天皇が「象徴としての行為」と誇示してやまず、メディアもNHKを先頭に賛美し続けている「被災地訪問」も、憲法の「国事行為」を逸脱しています。

  「(「象徴としての行為」について)日本国憲法が象徴天皇に求める厳格な制限を全く逸脱した、民主的統制を免れた行為」であり「公的行為としては一切やめるべきだ。被災地に行きたいなら一市民として自由に行けばよい」(渡辺治・一橋大名誉教授、12月8日付朝日新聞)

  ④  「明君」待望論は「主権在民」に反しないか。

  かつて憲法学者の宮沢俊義が「天皇の政治的行為」を防ぐために「天皇は『ロボット』的存在」であるべきだと主張したことに対し、樋口氏は、「政府による天皇の政治利用を防ぐという意味で、今は逆にロボットにさせないことが必要だ」と述べています。

 その点に関連して「平成とは何か」と問われた樋口氏は、「明君を得て象徴天皇制を安定に向かわせた時代」だと答えています。

  これはこれまで見てきた問題発言の中でも、最も危険な発言と言えるでしょう。なぜなら、安倍政権との対比で、いわゆる「民主陣営」の中にも少なからず「明君」待望論が蔓延していると思われるからです。

 確かに安倍首相による天皇(皇室)の政治利用は目に余ります(例えば写真右は2013・4・28「沖縄屈辱の日」の政府式典で「天皇陛下万歳」を唱えた安倍氏)。
 しかし、だからといって天皇に「ロボット」にならないことを期待するのは、天皇に政治的発言・行為を求めることにほかならず、憲法第4条、さらに「国民主権」の原則に反することは明白です。

  「国民主権」こそは、樋口氏の憲法論の中核のはずです。
 樋口氏はかつて、「国民主権の採用が天皇主権の否定を意味する、という論点に関するかぎり、戦後憲法学は、比較的はやく、ほぼ共通の了解に達していた」と指摘するとともに、「憲法の運用上は、象徴天皇制が、国民主権の徹底を抑止する方向にはたらいてきた」(『講座 憲法学2』日本評論社)と警告していました。

 いま樋口氏が天皇明仁を「ロボット」でない「明君」と評価することは、象徴天皇制が「国民主権の徹底を抑止する」ことにほかならないのではないでしょうか。
 先の「明君」発言に続けて、樋口氏が「本当は明君がいらないのが国民主権の原則だが、明君に頼っているのが現状です」と付け加えているのは、「明君」待望が「国民主権」とは相いれないことを自身百も承知だからではありませんか。

  安倍首相の天皇政治利用をやめさせるのは、主権者・国民(市民)の責務です。樋口氏がその原則をあいまいするほど、「象徴天皇制」は危険な制度と言わざるをえません。

 これから2019年の「退位・即位」へ向け、安倍政権によるさまざまな「天皇・皇室キャンペーン」が行われます。学者・識者とりわけ憲法学者が、科学的な分析・主張によってその責務を果たすことが強く求められています。

 <お知らせ>

 『「象徴天皇制」を考える その過去、現在、未来』(B6判、187ページ)と題した本を自費出版しました。
 これまで当ブログに書いてきた「天皇(制)」の関するものをまとめたものです(今年10月までの分)。「天皇タブー」が蔓延する中、そしてこれから「退位・即位」に向けて「天皇キャンペーン」がさらに大々的に繰り広げられることが予想される現状に、一石を投じたいとの思いです。

 ご希望の方に1冊1000円(郵送料込み)でおわけします。郵便振り込みでお申し込みください。
 口座番号 01350-8-106405
 口座名称 鬼原悟

 


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樋口陽一氏の「天皇賛美」に異議あり<上>

2017年12月18日 | 天皇制と憲法

     

 明仁天皇の退位日を審議した皇室会議(12月1日)の翌々日から、東京新聞は「象徴天皇と平成」と題した連載を開始しました(全5回)。「憲法」「満蒙開拓団」「福島原発事故」「障害者」「子ども」の5つのテーマで、天皇・皇后が徹底的に美化されています。

  それらは、満蒙開拓という棄民政策の元凶である天皇制・天皇の戦争責任には一切触れず、また、深刻な状況が続く福島の放射能汚染、障害者福祉切り捨て政策、世界有数の「子どもの貧困」などの事実・実態は覆い隠すという、きわめて一面的なものです。

  中でも看過できないのは、第1回に1面トップで大々的に登場させた憲法学者・樋口陽一氏の天皇賛美です(写真左)。樋口氏は戦争法強行の際には国会前の抗議集会で参加者を激励するなど、「民主的憲法学者」として知られており、その影響力はけっして小さくありません。
 2回に分けて樋口氏の「天皇賛美」の問題点を検証します。(以下、樋口氏の記事の引用はすべて12月3日付東京新聞より)

 ①    「天皇の中国訪問」―なぜ「反対」から「評価」に変わったのか。

  明仁天皇は1992年10月23日~28日、天皇として初めて中国を訪問し、晩さん会でスピーチしました。これについて樋口氏は、「『昭和天皇がやり残したことを成し遂げた』と評価」しました。

 しかし、天皇や皇族の「皇室外交」は、憲法が規定する「国事行為」にはないもので、「公的行為(象徴としての行為)」の名による天皇の政治利用の最たるものです。

 それはかつて樋口氏自身が強調していたことでした。

 「問題となるのは、象徴天皇制の運用が憲法規範から離れることによって生ずる一連の問題である。外交面での天皇の元首としての運用や、政教分離原則からの逸脱が、その典型である」(『講座 憲法学2主権と国際社会』日本評論社、1994年)

 「天皇の中国訪問」についても、かつて樋口氏は「反対」を表明していました。
 作家・井上ひさし氏との対談で、井上氏が「天皇が国を代表するような”お言葉“を言うのには疑問符が付きます」と皇室外交に疑問を呈したのに対し、樋口氏は、「私は国民主権と象徴天皇といういまの制度を大事にする立場だけれども、天皇の訪中には反対でした」と井上氏に同調していたのです(『「日本国憲法」を読み直す』岩波現代文庫2014年)。

 「皇室外交」「天皇の訪中」への「反対」が、いったいいつから、なぜ「評価」に百八十度変わったのでしょうか。

 ②   「 天皇の沖縄訪問」は「平和の感受性の証左」か。

  東京新聞の連載によれば、明仁天皇が「6月23日(「沖縄慰霊の日」)」を「重要な日」としていることについて、樋口氏は、「現天皇が平和に対する非常に強い感受性を宿していることの証左」(仏紙「フィガロ」今年6月24・25日付)と賛美しています。

  確かに天皇・皇后はたびたび沖縄へ行っています。しかし、何度行っても決して口にしないこと、決して足を運ばない所があります。それは父・天皇裕仁の沖縄に対する加害責任であり、天皇の軍隊(皇軍)が沖縄の住民を死に追いやったことを示す場所です。

 昭和天皇は「国体」(天皇制)維持のため、沖縄戦で沖縄を捨て石にしました。さらに戦後は、「天皇メッセージ」((1947年9月20日)で沖縄をアメリカに売り渡し、「本土防衛」のために沖縄を「米軍基地の島」にしました。再びの「捨て石」であり、沖縄に対する「構造的差別」の根源がここにあります。

 沖縄戦で「天皇の軍隊」は、住民から食糧や家屋を奪っただけでなく、「集団強制死」(「集団自決」)で直接死に追いやりました。久米島などでは皇軍の将校によって住民が虐殺されました。

 明仁天皇はこうした事実について一切ふれず、まして一言の謝罪もありません。久米島にも行ったことがありますが(2012年11月20日)、惨殺された島民の「慰霊碑」(写真右)には見向きもしませんでした。

  これのどこが「平和に対する非常に強い感受性」でしょうか。(明日に続く)

  <お知らせ>

 『「象徴天皇制」を考える その過去、現在、未来』(B6判、187ページ)と題した本を自費出版しました。
 これまで当ブログに書いてきた「天皇(制)」の関するものをまとめたものです(今年10月までの分)。「天皇タブー」が蔓延する中、そしてこれから「退位・即位」に向けて「天皇キャンペーン」がさらに大々的に繰り広げられることが予想される現状に、一石を投じたいとの思いです。

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 口座名称 鬼原悟

 


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憲法原則に反する首相らの「新嘗祭参列」は許されない

2017年12月05日 | 天皇制と憲法

     

 天皇の「退位・即位日」をめぐる皇室会議(1日)を皮切りに、、「元号」決定や秋篠宮の長女の結婚式を含め、これから少なくとも再来年まで一連の「天皇・皇室キャンペーン」が展開されます。

 それは、「天皇制」に対する無批判な賛同・容認の世論形成になるばかりか、宗教(国家・皇室神道)と政治の一体化など、憲法上の重大問題が「行事キャンペーン」の中で見過ごされ容認されていくきわめて危険な過程でもあります。当ブログではそのつど、検証・検討を行っていくつもりです。

 重要なのは、国家・皇室神道と政治の混然一体化は、「退位・即位」の行事を待つまでもなく、目につかないように、今でも毎年恒常的に行われているということです。

 「午後7時2分、皇居。新嘗祭(にいなめさい)神嘉殿の儀に参列

 11月24日の新聞各紙に載った同23日の「首相の動静」です。
 11月23日は「勤労感謝の日」ですが、なぜこの日が「勤労感謝の日」として「祝日」になっているのか。その理由・起源は、この日、皇居で天皇による新嘗祭が行われるからです。

 新嘗祭(写真左)とは、「天皇がその年の新穀で造った御饌(みけ=神に供える食べ物ー引用者)・御酒(みき)などを神に供え、神とともに食べる祭祀」(横田耕一九州大名誉教授、『憲法と天皇制』岩波新書)です。その内容から明らかなように「高度に宗教的な儀式」(同)です。
 したがって、政府(宮内庁)もさすがにこれを「公的行為」と言うわけにはいかず、「皇室の私事」とされています。

 ところがその「高度に宗教的な儀式」に、内閣総理大臣が首相として「参列」しているのです。憲法の政教分離原則(第20条)の明白な蹂躙です。

 重要なのは、首相の「新嘗祭参列」は、安倍首相に限らず、毎年行われていることであり、しかも首相だけでなく、衆参議長、最高裁長官の「三権の長」らがいずれも「公人としての立場」で参列していることです。

 なぜなのか。天皇がそれを要求しているからです。

 「これらの行事(宮中祭祀ー引用者)は、天皇家の私的神事であるという建前である。しかし、大祭(新嘗祭や神嘗祭などー引用者)のうちのいくつかは内閣総理大臣、国務大臣、国会議員、最高裁判事、宮内庁職員らに案内状が出されており、これら国政の責任者や高級官僚らは出席すると天皇とともに拝礼を行う。明らかに国家的な行事として神道行事が行われているが、「内廷のこと」、すなわち天皇家の私事として処理され、国民には報道されない」(島薗進上智大教授、『国家神道と日本人』岩波新書)

 さらに、新嘗祭の網は国政だけでなく、地方政治(自治体)をも取り込んでいます(2016・11・1のブログ参照http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20161101

 憲法原則に反するこうした行為が、天皇(宮内庁)主導で毎年行われているのにもかかわらず、国民にはまったく報道されていない(天皇タブー)。きわめて重大な実態と言わねばなりません。

 新天皇が即位した年に初めて行う新嘗祭が大嘗祭(だいじょうさい)です(写真中)。「高度に宗教的な儀式」であるにもかかわらず、大嘗祭は「公的行事」とされており、憲法原則に反する行為が公然と行われることになるのです。

 百歩譲って「象徴天皇制」を認めるとしても、憲法の政教分離の原則に反するこのような国家・皇室神道と政治の一体化は、絶対に容認できません。

 立憲民主党や日本共産党などは「立憲主義」を標榜していますが、今後繰り広げられる天皇・皇室にかんする憲法蹂躙行為に対し、それを黙って容認する(まして自ら参列する)なら、看板の「立憲主義」とはいったい何なのか、ということになるでしょう。


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見過ごせない「皇室会議」<下>憲法逸脱する首相の「内奏」

2017年12月03日 | 天皇制と憲法

     

 「安倍首相は皇室会議のあと、天皇陛下に国事行為に関する報告をする内奏を行いました」
 1日、NHKは何度もこう放送しました(写真左)。

 皇室会議についての安倍首相の「内奏」はこの日だけではありませんでした。

 「安倍晋三首相は21日午後、皇居で内奏。天皇陛下に皇室会議の日程を報告したもようだ」(11月22日付中国新聞=共同配信)

 「「5月1日にしたい」皇室会議の日程が固まった11月21日。安倍首相は、天皇陛下と面会して国政に関して報告する内奏を終え…強い意向を周辺に示した」(12月2日付朝日新聞)

 まるで当然のことのように報じられている「内奏」。しかし、これこそ憲法の「象徴天皇制」を逸脱する行為であり、絶対に見過ごすことはできません。

 「首相や閣僚による天皇への内奏が大々的に報道されるのは極めて異例です」(河西秀哉神戸女学院大准教授、2日付朝日新聞)

 そもそも「内奏」とは何でしょうか。

 「内奏」とは、「上奏の前に、内閣などから人事・外交・議会関係などの重要案件を申し上げること」(後藤致人愛知学院大教授著『内奏ー天皇と政治の近現代』中公新書)です。そして「上奏」とは、「近衛上奏」(1945年2月)などで知られるように、「天皇大権に対応する形で国家法の枠組みの中に正式に位置づけられたもの」(同)。つまり、「内奏」と「上奏」はセットで明治憲法の「天皇大権」に対応する制度でした。したがって国民主権の現憲法の下では、当然両方廃止されるべきでした。

 ところが、「上奏」は廃止されましたが、「内奏」は残りました。なぜか。

 「昭和天皇が(戦後もー引用者)在位し続けたため、天皇がこの内奏という政治的慣習にこだわった」(後藤氏、前掲書)からです。
 「内奏は戦前以来、天皇の政治行為の重要な要素を構成しており、戦後象徴天皇制においても内奏が残ったことは、長期にわたる保守政権下、昭和天皇の政治力を残存させることになる」(同)

 「「内奏」の慣行は、過去の上奏等を彷彿させ、天皇がいまなお統治の中枢にあるかのような印象を生み出している」(横田耕一九州大名誉教授『憲法と天皇制』岩波新書)

 明仁天皇は「帝王学」を実父の昭和天皇から引き継いだと自認していますが、「内奏」もその1つです。

 「昭和天皇は、内奏の一部を皇太子明仁に見せることにより、戦後政治における天皇と内閣・行政機関の在り様を教えようとしていた」(後藤氏、前掲書)(写真右は皇太子時代の明仁天皇と昭和天皇)

 「天皇大権」の名残である「内奏」が、天皇の政治的関与を禁じた現憲法(第4条)の趣旨に反することは明白です。

 さらに重要なのは、安倍氏が1日の「内奏」で、「退位・即位日」が正式に決定してもいないにもかかわらず(正式決定は8日の閣議の予定)、それが「決定」したものとして天皇に報告したことです。これは憲法・関連法規の二重の蹂躙です。

 この「内奏」という反憲法的行為の責任は、内閣(安倍首相)にだけあるのではありません。むしろ「内奏」は、明仁天皇の方から要求している可能性が大きいからです。
 しかもさらに重大なのは、「内奏」において天皇はただ報告を聞くだけでなく、自分の意見を述べている可能性があることです。
 それはもちろん明白に憲法に反する行為で、実態はなかなか明るみに出ません。しかし、それをうかがわせる記事があります。

 「官邸と宮内庁は今春、安倍首相が内奏する前に、「退位は話題にしない」とわざわざ確認したほどだ。「天皇陛下が首相に難色を示すようなことがあってはいけない」という懸念があったためだ」(2日付朝日新聞)

 官邸と宮内庁は安倍氏の「内奏」の際に、天皇が「難色を示す」ことを懸念したというのです。ということは、天皇は首相の「内奏」に対して懸念を示す=反対する可能性があるということです。その懸念は、過去の「内奏」に際して天皇が意見を述べたことがあるこそ生じるのではないでしょうか。これはきわめて重大な問題です。

 天皇と内閣の”共犯”による「内奏」は、主権在民の憲法下では絶対に認められるものではありません。
 


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見過ごせない「皇室会議」<上>法律無視して暴走の危険

2017年12月02日 | 天皇制と憲法

     

 天皇の退位・即位日をめぐる皇室会議(写真左)が行われた12月1日はテレビニュースで、また翌2日は新聞各紙の大々的な報道で、この問題が日本中を席巻しました。
 その先導役はNHKで、1日午前9時半から12時40分まで、延々3時間10分にわたって特番を組み(写真右)、「天皇(制)賛美」に終始しました。多局・各紙ももっぱら「次の元号」がいつ決まるかが焦点であるかのような報道一色です。きわめて嘆かわしく、また危険な状況だと言わねばなりません。
 なぜなら、1日の皇室会議をめぐる経過の中で、憲法や皇室典範などの趣旨や規定に反する重大な問題が数多く発生したからです。2回に分けて書きます。

 第1の問題は、皇室会議の暴走、政治利用強化の危険です。

 「天皇陛下が2019年4月30日に退位され、皇太子さまが翌5月1日に即位することが、きのうの皇室会議で決まった」(2日付中国新聞社説)、「平成時代があと17カ月で終わることが事実上、決まった」(2日付毎日新聞社説)
 これらに限らず、天皇の退位・即位日が皇室会議で「決まった」とする報道・論調があふれていますが、皇室会議にその決定権はありません。

 今回皇室会議が開催されたのは、「天皇の退位に関する皇室典範特例法」の附則第1条第2項に「皇室会議の意見を聴かなければならない」という規定があるからですが、「決定権はあくまでも政府にあり、皇室会議の意見は参考で聴くという位置づけ」(2日付毎日新聞)でしかありません。

 政府(閣議)の決定をさておいて皇室会議の意見があたかも「決定」であるかのような報道・論調は明らかな誤りです。

 そもそも皇室典範では、皇室会議は、「皇族男子の婚姻」や、天皇などが重い病気、事故に遭った時の「皇位継承の順序」変更や「摂政」を置く場合に開かれるとされており、それ以外の事項での開催は想定されていません。事実、皇室会議は現在の憲法が制定されて以降7回開かれていますが、第1回(1947年10月13日、旧宮家の皇籍離脱問題)を除き、すべて「皇族男子の婚姻」に関するものです。

 その皇室会議が、憲法にかかわる「天皇の退位・即位日」を決定することは、皇室典範の規定、さらには「天皇は…国政に関する権能を有しない」としている憲法第4条の趣旨に反すると言わねばなりません。なぜなら、皇室会議の10人の議員のうち2人は皇族が入ることになっているからです(皇室典範第28条)。

 今回の皇室会議は、その運営においても重大な法規違反がありました。

 菅官房長官(会議に陪席)は1日の記者会見で、「皇室会議では…採決は取っていない」(2日付中国新聞=共同配信)と明言しました。しかし皇室典範には、「出席した議員の三分の二以上の多数」もしくは「過半数でこれを決する」(第35条)と、決定は採決によるものと明記しています。今回、採決をせずに「皇室会議の意見が決定された」(安倍首相談話)ことは、明らかな皇室典範違反です。

 また菅氏は議論の内容について、「どなたがどのような発言をされたかを私の立場でコメントすることは控えたい」(2日付毎日新聞)と明らかにせず、さらに議事録の公開についても、「議事概要は公表したい」(同毎日新聞)と延べ、公表はあくまでも「概要」に限る考えを示しました。これでは”密室の協議”との批判は免れません。

 以上の今回の経過が容認されることになれば、時の政府はわずか8人の「三権の代表」と2人の皇族によるの密室の協議で天皇制に関する重大事項が決定される、という由々しき事態を招くことになります。

 天皇(制)信奉者として知られる所功京都産業大名誉教授が1日のNHK特番で、「今日の皇室会議は画期的。今後もこういう形で行われることを望む」と言っていたのが印象的です。

 問題はこれだけではありません。明仁天皇と安倍首相が直接関係する重大な問題があります。(明日に続く)

 
 


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スペイン国王の政治発言と象徴天皇制の危険

2017年10月10日 | 天皇制と憲法

       

 スペイン北東部カタルーニャ自治州の独立について、プチデモン州首相はきょう10日にも議会で「独立宣言」を行う可能性があるといわれています。情勢は予断を許しませんが、見過ごすことができないのは、この問題についてのスペイン国王フェリペ6世の政治発言です。

 フェリペス国王は3日夜、テレビで演説し、「憲法と民主主義に背く無責任な行動により、カタルーニャと国家の安定を危機にさらした」(5日付共同配信)と住民投票を行った自治州政府を強く非難し、「(州政府は)国家に対して許し難い不誠実さを示し社会を分断した」(同)と独立に反対しました。

 住民投票の結果は、独立賛成が90・18%、独立反対は7・83%。フェリペス国王の発言は、この住民の大多数の意思、そして自治に反して「国家」を守ろうとするきわめて重大な政治発言でした。まさに異例・異常な事態と言わねばなりません。

 今回のフェリペス国王の政治発言であらためて明らかになったことは、王制の国では国王は時として公然と国家権力の側に立ち、国民を抑える政治的発言を行うということです。
 それはもちろんスペインだけではありません。

 2014年9月、スコットランドで同じく独立についての住民投票がおこなわれました(結果は「NO」が過半数)。この時、政治的発言は行わないはずのエリザベス女王が、「(独立は)慎重に考えてほしい」と公言し、「独立」に釘を刺したのです(2014年9月18日NHKニュース)。

 こうした王制国家の姿と、日本の象徴天皇制が果たして無関係といえるでしょうか。

 いうまでもなく日本国憲法は天皇に「国政に関する権能」はないと明記しています(第4条)。しかし、実際にはこれを無視した天皇の政治的言動や天皇の政治利用が頻繁に行われています。

 それが端的に表れた最近の例が、「生前退位」についての明仁天皇の「ビデオメッセージ」(2016年8月8日、写真右)です。
 「メッセージ」は「実質上「皇室典範を変えろ」という要求になっている」もので、「明らかに政治的な発言です」(吉田裕一橋大教授、『平成の天皇制とは何か』岩波書店)。

 「ビデオメッセージ」は明仁天皇が自分の意思で行ったものですが(もちろんそれ自体が重大問題)、憲法上天皇の「国事行為」は「内閣の助言と承認」によって行われることになっています(第3条、7条)。それが「公的行為」にも拡大解釈されています。ということは、時の内閣は「公的行為」と称して、「助言と承認」を与えることにより、天皇を政治利用する危険性があるということです。それは実際に、きわめて政治的な「皇室外交」などに具体化されています。

 天皇制(象徴天皇制)にはそうした政治的危険性があることを、今回のスペイン国王の発言は私たちに示しています。

 実は今回のスペイン国王の発言をめぐっては、もう1つきわめて注目される事実があります。
 それは、国王から非難されたプチデモン州首相が、「国王フェリペ6世に対して「カタルーニャを失望させた」と敵意をむき出しにした」(6日付共同配信)ことです。

 国王の理不尽な政治発言に対し、州首相が公然と反発(国王批判)したのです。住民自治の立場に立てば当然でしょう。
 しかし、この当然のことが、はたして日本で行われるでしょうか。
 


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「天皇退位特例法」審議の3つの欺瞞

2017年06月03日 | 天皇制と憲法

     

 「天皇退位」の特例法が1日の衆院議院運営委員会で全会一致(自由党は棄権)で可決され、2日衆院通過しました。9日にも成立する見通しです。
 法案自体の問題点については先に述べました(5月20日ブログ参照http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20170520)ので、ここでは、法案の審議をめぐる見過ごせない問題を3点にわたって述べます。

 ①憲法の根幹にかかわる前代未聞の法案の審議が、わずか2時間半

 「天皇退位」の特例法は、少なくとも憲法第2条、3条、4条に直接かかわる憲法上の重大問題です。憲政史上例のないまさに前代未聞の法案です。そのことは、法案への評価・賛否はともかく、誰も否定できないでしょう。
 にもかかわらず、その国会審議の時間はわずか150分。審議とは名ばかりの儀式的なスピード採決でした。しかも衆院では審議のための特別委員会すら設置せず、本来国会の運営問題を協議する議院運営委員会ですませるという手抜きぶりです。

 言うまでもなく、天皇の地位は「主権の存する日本国民の総意に基づく」(憲法第1条)のが大原則です。わずか2時間半の審議でどうして「国民の総意」などと言えるのでしょうか。主権者・国民の考え、意思などお構えなしの馴れ合い審議ではありませんか。

 ②「天皇メッセージ」は「退位の意向ではない」という菅官房長官の大ウソ答弁

 政府を代表して趣旨説明・答弁に立った菅義偉官房長官は、昨年8月8日の明仁天皇による「ビデオメッセージ(いわゆる「お言葉」)は、「退位の意向を示されたものではない」と繰り返し答弁しました。

 冗談ではありません。あの「メッセージ」が天皇自身による「退位の意向」示唆であったことはあまりにも明白です。だから翌8月9日付の新聞は、1面の大見出しで、「天皇陛下 生前退位を示唆」(「読売」)、「生前退位強いご意向」(「産経」)、「生前退位強くにじませ」(「毎日」)、「退位の願いにじむ」(「朝日」)、「生前退位に強い思い」(中国新聞)など、例外なく天皇が「退位の意向」を示したと報じたのです。

 にもかかわらず菅氏が見え透いたウソ答弁を繰り返したのはなぜか。それは菅氏の答弁自体が語っています。
 「退位の意向を示されたものではない。政治的権能の行使には当たらない。陛下のお言葉を直接の端緒(特例法制定の―引用者)と位置づければ、憲法に違反する恐れがある」(2日付中国新聞=共同)
 「天皇メッセージ」が「退位の意向」を示したものと認めれば、「政治的権能の行使」を禁じた第4条に反する憲法違反が明確になるからです。そのために黒を白と強弁したわけですが、黒は黒。菅氏の答弁は「天皇メッセージ」およびそれに端を発した特例法制定が憲法違反であることを自ら認めたようなものです。

 ③数々の問題を指摘しながら日本共産党、社民党が「賛成」した怪

 共産党は質疑(塩川鉄也衆院議員)の中で、「(天皇メッセージは)直接の端緒ではない」とする菅氏の答弁のごまかしを指摘し、さらに法案が「公的行為」を無条件で肯定していることを、「公的行為の政治利用」の実例を挙げて批判。法案の「修正案」を提出しました。この限りでは妥当な態度です。
 しかし修正案は共産党だけの賛成で否決されました。そうなれば共産党は当然法案に反対すべきでしょう。共産党が修正を求めた2点はどうでもいいような問題ではなくいずれも憲法の根幹にかかわることなのですから。ところがなんと共産党は「法案には賛成します」の一言で賛成に回ってしまったのです。

 社民党(照屋寛徳衆院議員)も、「一代限りとすることには反対。皇室典範を改正すべき」と主張しながら、共産党の修正案には反対し、特例法には賛成しました。

 共産党や社民党が特例法の根本的な問題点を数々指摘しながら、それがことごとく否定されたにもかかわらず、法案に賛成したことは、きわめて奇怪であり、言行不一致も甚だしく、支持者・国民を愚弄するものと言わねばなりません。自由党が「反対」ではなく「棄権」したのも、「全会一致」の形を保つためにほかなりません。

 以上のように、「天皇退位特例法」は法案自体が憲法に反しているばかりか、その欺瞞に満ちた審議は、国会が、「天皇制」に関しては異議を申し立て歯止めをかける政党が1つもない翼賛議会になっていることを改めて浮き彫りにしました。
 2017年6月1日午後3時17分。「起立総員」の佐藤勉委員長の声で「退位特例法」が「全会一致」で可決された瞬間、憲法が音をたてて崩れていくような気がしました。


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「国民」を憲法違反の道連れにする「天皇退位法案」

2017年05月20日 | 天皇制と憲法

    

 安倍政権は19日、「天皇退位」の特例法案を閣議決定し、国会に提出しました。この問題では、天皇制廃止へ向けた根本的議論こそが必要だと再三述べてきましたが、今日はそれはひとまず置いて、この法案自体の重大な問題点について述べます。

 与野党間ではすでにこれを成立させる合意(談合)ができており、メディアも基本的に容認したうえで今後の焦点は「女性宮家」問題だなどとしています。とんでもない話です。
 この法案は、多くの点で日本国憲法に反しています。そればかりか、「国民」をその憲法違反の道連れにしようとする稀代の悪法です。絶対に容認できません。

 ① 前代未聞、法律に「敬語」…中身の前に。同法案は第1条の冒頭から、「天皇陛下」「御活動」「御高齢」など、天皇に対する敬語のオンパレードです。敬語を使った法律など前代未聞です。もちろん憲法(第1章)も皇室典範も、天皇に敬語は使っていません。
 敬語は上下関係を表すものです。法律に敬語を使うということは、法律を決める国会、「国権の最高機関」(憲法第41条)である国会を天皇の下に置くものです。それは「主権が国民に存する」(憲法前文)主権在民の原則にも反すると言わねばなりません(ちなみに明治憲法ですら敬語は使っていません)

 ② 特例法で憲法の「皇位継承」ルールを変更…「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(憲法第2条)。「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(皇室典範第4条)。これが「皇位継承」についての憲法・皇室典範のルールです。これを変えないで「特例法」で「生前退位」を認めるのは憲法に反する、というのが当初の野党の主張でした。その通りです。
 ところが結局、憲法も皇室典範も変えないまま「特例法」で「生前退位」を認めることになりました。政府・自民党に押し切られたのです。皇室典範の附則に「この法律と一体を成す」と書いたところで、皇室典範の改正にならないことは明白です。
 民進、共産など野党は、「憲法上問題」だと言ってきたことに対してどう釈明するのでしょうか。

 ③ 憲法にない「公的行為」を法律で公認…同法案は、「天皇陛下が…国事行為のほか…象徴としての公的な御活動に精励してこられた中…国民は…これらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し…」(第1条)としています。これは「国民」の名を使って天皇の「公的行為」を法律で公認しようとするものです。
 しかし、「公的行為」は、「天皇の権能」を定めた憲法第4条に照らして問題だと指摘する憲法学者は少なくありません。横田耕一九州大名誉教授は、政府見解(1973年)を念頭に、「公的行為」を認めるかどうかは「議論のあるところ」としたうえで、「天皇は他の公人と異なりもともと儀礼的行為を行う権能しか認められておらず、しかも憲法はそれを憲法が明記するものに限定していること、などから、二行為説(天皇がなしうる行為は国事行為と私的行為の2つとする説ー引用者)が合理的であるように思われる」(『憲法と天皇制』岩波新書)と述べています。今回の法案はこうした「公的行為」に対する批判を一掃しようとするものです。

 ④ ゛天皇二人体制”図る「上皇」制度…同法案は「退位した天皇は、上皇とする」(第3条)とし、第4条で詳細を規定しています。その基本は、「上皇」については「天皇の例による」(第3条、第4条)、つまり国事行為を除く「公的行為」の分担や経済的保障、官僚体制などは天皇に準じるということです。
 すなわち「上皇」とは゛第2の天皇”にほかなりません。「上皇」が存在する限り、「天皇制」は゛二人体制”になると言っても過言ではないでしょう。これは憲法の「象徴天皇制」の実質的変更です。

 ⑤ 天皇の「政治関与」という憲法違反を「国民の理解・共感」で隠ぺい…今回の法案の最大の特徴はこれです。そもそも発端は天皇明仁の「ビデオメッセージ」(2016年8月8日)であったことは否定しようがありません。しかし天皇の「メッセージ」を受けて法律を作ったことを認めると、天皇は「国政に関する権能を有しない」(第4条)という憲法の規定に反することが明白になります。政府の操り人形である「有識者会議」が最終報告(4月21日)で、「天皇の国政への関与を禁じている日本国憲法の規定にも留意しつつ…」とわざわざ書いたのはそのためです。
 そこで法案はどうしたか。「天皇陛下が…天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は…天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感している」(第1条)ことを、特例法制定の理由に挙げたのです。
 天皇の「メッセージ」で法律を作ったのではない、天皇を「深く敬愛」している「国民」が天皇の気持ちを「理解」し「共感」し(いわば忖度<そんたく>して)、特例法を作るのだ、というわけです。あまりにも見え透いたこじつけです。天皇の「メッセージ」によって特例法が作られようとしていることは動かせない事実であり、それは天皇と安倍政権の明白な憲法違反です。
 この法案は、「国民」を天皇と安倍政権の憲法違反の道連れにし、隠れミノにしようとするものにほかなりません。

 以上は法律の門外漢である私の意見です。今こそ学者とりわけ憲法学者の出番です。この特例法は憲法に照らして許されるのか。明快な分析と勇気ある発言が求められています。
 すでに国会は、「天皇問題」では与野党が対立しない「翼賛化議会」となっています。このうえ学者・識者、市民も「天皇タブー」に侵されたのでは、前途は真っ暗です。

 ※当ブログは前身の「私の沖縄日記」から通算して、今回で1000回になりました(第1回は2012年11月26日)。読んでいただき、誠にありがとうございます。もし少しでも参考になると思っていただけるなら、「アリの一言」をお知り合いに薦めていただけませんでしょうか。私ももっともっといいものになるよう努めます。

 


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