アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

国会が「天皇翼賛」の場でいいのか

2016年09月29日 | 天皇制と日本の政治・...

    

 26日の所信表明演説で安倍首相が自衛隊、海上保安庁、警察を讃え、自民党議員が総起立して拍手したことが問題になっています。

 実は27日の衆院本会議でも、議場がざわつく場面がありました。自民党・二階俊博幹事長の代表質問で、野党側のヤジに対して二階氏が「黙って聴け」と一喝したのです(写真中)。野党側がこれにクレームをつけましたが、それ以上問題にはなりませんでした。テレビニュースでも報じられました。

 ところが、27日の衆院本会議では、どの党もメディアも問題にしませんでしたが、二階氏の発言の比ではない「問題発言」がありました。

 民進党の野田佳彦幹事長の代表質問です(写真右)。
 野田氏は質問の終わり近くで、明仁天皇が「生前退位」の意向を示唆した「ビデオメッセージ」(8月8日)を取り上げ、「深い感銘を受けた」とし、「特別立法」に限定することなく「皇室典範の改正を含め」検討すべきだと述べました。天皇が憲法に規定のない「公的行為」を拡大していることについても、「新たな公務を開拓された」と賛美しました。
 天皇の「ビデオメッセージ」や「公的行為」がもつ違憲性を完全に捨象し、天皇の意向を絶対視したものです。
 それだけなら驚きませんが、問題はその前段でした。

 野田氏の質問に対しては始まったときから自民党席から断続的にヤジが飛びました。「生前退位」の話に入るときもヤジは収まっていませんでした。それに対し野田氏はどうしたか。

 「ことがらの関係上、静粛に
 そう言ってヤジを制したのです。それでもまだざわついていたので、野田氏はもう一度間をとり、議場が静まりかえるのを待って発言を始めました。

 「ことがらの関係上」とはどういうことでしょうか。事は「天皇」に関することだからヤジはやめろ、ということです。

 議場(や委員会)でのヤジがいいとはまったく思いません。しかしそれは与野党間の一種の「攻防」として、問題発言でない限り、議員の言動として事実上容認されています。それを規制できるのは、各党間の協議(議院運営委員会)によってだけです。

 ところが野田氏は、「天皇」に関する質問(発言)へのヤジは許されない、静粛にせよと、「自粛」を要求(強要)したのです。
 「天皇」に対するその特別視は、一種の「天皇タブー」と言えるでしょう。

 衆参の代表質問で、天皇の「生前退位」問題に触れたのは、野田氏のほかは二階氏(「陛下のお気持ちに沿う答えを出していただきたい」と要求)だけでした。「ビデオメッセージ」「公的行為」「皇室典範」と憲法の関係、さらには「象徴天皇制」自体の問題を取り上げた政党は1つもありませんでした。

 国会が天皇への批判を避け、賛美に終始する「天皇翼賛」の場になっていることはきわめて重大です。
 「国権の最高機関」(憲法第41条)である国会は、いかなる「タブー」も排し、天皇・天皇制に対する自由で活発な議論の場でなければなりません。


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「宮古島陸自配備」を阻止する世論の高揚を

2016年09月27日 | 沖縄・石垣・宮古・離...

    

 26日の所信表明演説で安倍首相が壇上から、「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」に対し、「今、この場所から心からの敬意を表そうではありませんか」と呼びかけ、これに応えた自民党議員が総立ちして約20秒間拍手するという前代未聞の異例の光景(写真左)が演じられました。

 「日米同盟」を「不変の原則」と強調した安倍首相が、まさに「海上保安庁、警察、自衛隊」を総動員して強行しようとしているのが、沖縄の辺野古新基地であり、高江のヘリパッドです。そして忘れてならないのが、宮古島、石垣島、与那国島など先島諸島への自衛隊配備です。

 なかでも来年1月の市長選挙を前に重大な局面を迎えているのが、宮古島への陸上自衛隊配備です(陸自警備部隊と地対艦ミサイル(SSM)、地対空ミサイル(SAM)部隊を配備する計画。訓練場のほか地下指揮所やミサイル部隊の陣地、弾薬庫を造る。自衛隊員は700~800人配備)。

 配備が予定されている地域では住民の反対が強まっています。たとえば候補地の1つの千代田カントリークラブがある千代田部落会は、23日に賛否を問う住民投票が行われ、全32世帯すべてが投票し、「反対」18世帯、「賛成」4世帯、「棄権」10世帯で、「反対」が過半数を占めました(24日付沖縄タイムス)

 ところが、下地敏彦市長はこうした住民の反対に耳を貸さないばかりか、住民に対する必要な情報公開を一貫して行わず、防衛省と水面下で交渉を進めてきました。26日の市議会9月定例会でも、防衛省に内々に千代田カントリークラブの活用を提案していたことが暴露されました。「当時(防衛省に提案した当時ー引用者)、下地市長は配備への賛否を明らかにしていなかったが、水面下で調整を進めていたことになる」(27日付琉球新報)

 来年1月22日投開票の市長選は、下地市長が3選出馬を表明。これに対し、自衛隊配備に反対する住民、野党勢力は、今月6日に候補者選考委員会を開き、「宮古島住民の『命の水』を守り(注・自衛隊基地は住民の生活水を汚染するー引用者)、下地島・宮古島の軍事利用と新たな基地建設に反対し、平和交流と経済振興に真摯に取り組む人」など6項目の選考基準を決定し、人選を急いでいます。

 こうして現地が重大な情勢を迎えているなか、沖縄本島では「辺野古」「高江」の陰に隠れて、先島諸島への自衛隊配備問題は必ずしも大きな争点になっているとは言えません。
 その理由の1つは、翁長知事が「那覇市長時代から自衛隊を容認する立場だった」(6月21日付沖縄タイムス)ことにあります。

 しかし、先の参院選で「オール沖縄」候補として圧勝した伊波洋一参院議員は選挙中、「安倍政権が進める沖縄先島への自衛隊配備は反対だ。これは米軍の戦略に基づく配備だからだ」(6月21日付沖縄タイムス)と明言・公約しました。

 宮古島はじめ先島諸島への自衛隊配備にはっきり反対し、「辺野古」「高江」と同じように基地建設阻止の運動を展開する。それは「オール沖縄」陣営のみならず、軍事基地に反対するすべての沖縄県民、「本土」住民の課題ではないでしょうか。


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辺野古新基地阻止のカギは埋立承認の「撤回」

2016年09月26日 | 沖縄・翁長・辺野古

    

 辺野古新基地建設をめぐる裁判で、沖縄県は23日最高裁に上告しましたが、当日の琉球新報の解説記事はきわめて問題でした。
 記事は「辺野古新基地建設計画を巡って想定される今後の流れ」として、最高裁が高裁に続いて「国勝訴」の判断をした場合、次は来年3月の「岩礁破砕許可」の更新が焦点だとして、「最高裁判決から来年3月末の更新期限の間に、再び工事に関するつばぜり合いがありそうだ」(23日付琉球新報「透視鏡」)としています。

 問題なのは、「今後の流れ」の中で埋め立て承認の「撤回」について一言も触れていないことです。最高裁判決後の争点は来年3月の「岩礁破砕許可」の更新だとして「撤回」を棚上げしています。

 これは重大な誤りです。最高裁判決で「県敗訴」が確定した場合、翁長氏が(来年3月を待つまでもなく)直ちに行うべきことは、埋め立て承認の「撤回」です。

 繰り返し述べてきたように、もともと翁長氏がすべきだったのは承認の「取り消し」ではなく「撤回」でした。そのボタンの掛け違いが福岡高裁那覇支部(多見谷寿郎裁判長=写真左)の不当判決を許す一因となったと言っても過言ではありません。

 竹下勇夫県弁護団長(写真右)は高裁判決に対して、「前知事の承認処分に裁量権の逸脱・乱用があるかどうかから判断されている。対象を誤っているのではないか」(22日付琉球新報)と批判しています。
 しかし、仲井真前知事の埋め立て承認に「法的瑕疵があるかどうか」、つまり「承認」は妥当だったかどうかを争点にしたのは翁長氏自身です。翁長氏が第三者委員会に諮問し、委員会が「瑕疵あり」としたので「取り消し」ました。それが高裁に「前知事の承認処分」を審理対象とする口実を与えたのです。

 「取り消し」と「撤回」の違いを改めて明確にする必要があります。

 「取り消しが、承認時の手続き上の瑕疵を理由にした処分なのに対し、撤回は承認後の状況の変化を理由にした処分」(18日付毎日新聞社説)です。

 そのこといち早く詳細に指摘したのが、新垣勉弁護士、仲地博沖縄大学学長ら5人の専門家による「撤回問題法的検討会」が翁長知事宛てに提出した「意見書」(2015年5月1日)でした。

 「意見書」は学説や判例を精査したうえで、「『取消』は、埋立承認時における『瑕疵の存在』を理由とするものであるが…『撤回』を、埋立承認後の事由に基づく公益判断により行うものと解すると…埋立承認時の瑕疵の存否の判断を待つことなく、先行して『撤回』を行うことは、法的に十分可能である」として、第三者委員会の検討を待つまでもなく、「撤回」すべきだと翁長氏に進言しました。

 その場合、「埋立承認後の事由」とは、度重なる選挙による民意の表明です。したがって「撤回」によって仮に裁判になれば、争われるのは(「取り消し」と違って)「手続き上の瑕疵」ではなく、「米軍基地建設」対「沖縄の民意」という本質的争点になります。

 しかし、翁長氏はこの「意見書」を無視しました。

 1年半以上の回り道になりますが、翁長氏は「意見書」に立ち返り、最高裁判決後直ちに埋立承認を「撤回」しなければなりません。

 不当判決を下した多見谷裁判長自身、「和解勧告文」(1月29日)の中で、「仮に本件訴訟で国が勝ったとしても、さらに今後、埋立承認の撤回がされたり、設計変更に伴う変更承認が必要となったりすることが予想され…それらでも勝ち続ける保証はない」と本音を漏らしていました。

 埋め立て承認の「撤回」こそが、辺野古新基地阻止のカギを握っているのです。


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来春ベトナム訪問ーまた天皇を政治利用するのか

2016年09月24日 | 天皇制と政権

    

 安倍政権は23日、天皇の「生前退位」についての有識者会議メンバーを発表しました。天皇が「生前退位」の意向を示したのは、高齢で「公務」の負担が大きいことが大きな理由でした。世論調査でも「公務」の軽減を支持する声が圧倒的です。

 ところが安倍政権は、そんなさ中、さらに一層天皇に重い「公務」をやらせようとしています。来春のベトナム訪問です。

 「天皇、皇后両陛下が来春にも国際親善のため、ベトナムを公式訪問される方向で調整していることが14日、分かった。菅義偉官房長官が記者会見で明らかにした」(15日付産経新聞)

 政府・宮内庁は「ベトナム政府の招待によるもの」としていますが、それは形式上で、実際は政府判断による「皇室外交」です。今年1月のフィリピン訪問(写真左)などのいわゆる「慰霊の旅」は天皇自身が希望した「例外的なもの」で、「今回のベトナムご訪問は原点回帰といえる」(同産経新聞)。

 「皇室外交」は「国際親善」の名の下に、時の政権の政治的思惑に基づいて行われるものです。今回のベトナム訪問にも安倍政権の思惑が色濃く反映しています。

 菅官房長官が記者会見で「天皇訪越」を明らかにした9月14日の5日前、いまや「政界のキーマン」と目されている自民党の二階俊博幹事長がベトナムを訪れました。なぜかほとんど報道されませんでしたが、目的は何だったのでしょうか。
 二階氏は9日、ベトナム最高指導者のグエン・フー・チョン書記長と会談(写真右)しましたが、そのもようはベタ記事でこう報じられています。
 「二階氏は北朝鮮の核開発問題への対応について、連携を呼びかけたとみられる」(10日付朝日新聞)

 安倍首相は国連演説(写真中)やキューバ訪問などで北朝鮮への敵対姿勢を強調していますが、二階氏のベトナム訪問はそれと歩調を合わせるものです。そして「天皇のベトナム訪問」もその延長線上にあるのです。

 記憶に新しいのは、オバマ米大統領が伊勢志摩サミットで来日する直前にベトナムを訪問したことです(5月23日)。
 オバマ氏はチャン・ダイ・クアン国家主席と会談し、ベトナムへの武器輸出規制を完全に解除することで合意。「中国への対抗軸として軍事、経済両面で戦略的連携を深めることになり、地域の勢力図に変化をもたらす可能性もある」(5月24日付共同配信記事)と報じられました。

 さらにベトナムは、安倍政権が、東電福島原発事故にもかかわらず、原発を輸出しようとしている相手国の1つです。「日本によるベトナムへの原発輸出計画は日越2国間の問題ではなく、その背景には、日本を有効な戦略上のパートナーとしてベトナムへの原発輸出を利用する形で、アジアにおけるプレゼンス維持を確固としたものにしようとするアメリカのアジア安全保障戦略がある」(坂本恵・福島大教授、5月25日付中国新聞掲載の伊藤正子京大准教授の論稿より)。

 ベトナムは、対北朝鮮、対中国の安倍・オバマ戦略=日米軍事同盟戦略上の重要ポイントなのです。そこに天皇を送り込んで「連携強化」を図ろうとする。まさに天皇の政治利用以外のなにものでもありません。

 「政府関係者は、『近年の国際情勢からも、近隣の東南アジア諸国との連携強化が重要さを増している。両陛下のベトナムご訪問が実現することで、両国間の関係がより深まるのは間違いないだろう』と強調した」(15日付産経新聞)

 「皇室外交」は憲法が規定する「天皇の国事行為」には含まれない、憲法違反の「公的行為」です。その狙いが時の政権による「天皇の政治利用」であることを「天皇のベトナム訪問」ははっきり示しています。
 「天皇の政治利用」と「象徴天皇制」は不可分の関係です。いまこそ「象徴天皇制」を抜本的に見直すことが必要です。


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「辺野古判決」・「識者論評」の重大な落とし穴

2016年09月22日 | 沖縄・翁長・辺野古・...

    

 辺野古新基地建設をめぐる不当判決(福岡高裁那覇支部、多見谷寿郎裁判長)の翌17日から21日までに、沖縄タイムスと琉球新報に判決に対する「識者」の「論評」が計8本掲載されました(タイムス6本、新報2本。短いコメントは除く)。
 いずれも判決を批判するものばかりです(当然でしょう)。ところが、それらを注意深く読むと、半分以上の「論評」に重大な落とし穴があることが分かります。

 「論評」の判決批判は、①沖縄の民意を踏みにじっている②地方自治法の趣旨に反している③国地方係争処理委員会をないがしろにしている④三権分立に反して政府に迎合しているーなどの点でほぼ共通しています。

 問題は、日米安保条約(安保体制=日米軍事同盟)に対するスタンスです。

 前回のブログで、新聞各社の社説が「日米安保」についてまったく触れていない問題を述べましたが、8本の「識者論評」でもこれを正面から論じたものは1本だけでした。それ自体問題ですが、実は触れないことよりももっと重大な問題があります。

 高良鉄美氏(琉球大法科大学院教授)は、「判決に欠けているのは沖縄の米軍基地問題は人権問題という視点だ」と指摘しながら、続けてこう述べています。
 「安全保障は国の専権事項だから司法判断を下すのは難しいかもしれない」「日米安保の領域に人権面からどこまで踏み込めるのか懸念はある」(20日付沖縄タイムス)

 「難しい」どころか多見谷裁判長は臆面もなく「安全保障」に「司法判断」を下しました、国の主張通りに。高良氏はなぜ自ら「日米安保の領域」に踏み込まないのでしょうか。これでは憲法より安保条約を上に置いた多見谷判決の問題点に目をつむるようなものです。

 屋良朝博氏(ジャーナリスト)は、米海兵隊の再編構想が進行していることを示し、「裁判所が政府の辺野古唯一に乗ったのは暴走としか言いようがない」としてこう主張します。
 「31MEU(第31海兵遠征隊)をまるごと移転させ、航空部隊を佐賀空港、地上部隊は日出生台演習場(大分)に配置する選択肢も検討可能だろう」(21日付沖縄タイムス)

 これは米軍の再編計画をもとに、すなわち日米安保体制の枠内で、海兵隊を「県外(本土)」へ移そうとする主張です。「米軍基地の無条件撤去」とは相入ない、日米安保体制肯定・存続の立場に立つものです。

 もうひとり、日米安保の問題にはまったく触れないまま「県外(本土)移設」を主張しているのが、照屋寛之氏(沖縄国際大教授)です。
 「在日米軍専用施設面積の74%が集中する沖縄で、県内移設による負担軽減は成り立たない。47都道府県で負担を分担しなければ納得できない」(17日付沖縄タイムス)

 木村草太氏(首都大学東京教授)は、「日米安保条約や地位協定はあくまで『条約』であり『法律』ではない。条約があったからといって、憲法92条の要請を満たせるはずがない」と、安保条約と憲法の関係を正当に指摘しています。ところが、その前段でこう述べているのです。
 「沖縄に基地が集中しているのを知りながら、『仕方ない』と国民が思っていたのでは、地域間の不平等は解消されない。米軍基地による恩恵を受けているのは、日本国民全体だ」(18日付沖縄タイムス)
 木村氏は16日の「報道ステーション」でも同じことを言いましたから、これは決して筆が滑ったものではありません。「米軍基地による恩恵」とは何ですか?「日本国民」は米軍基地からいったいどんな「恩恵」を受けていると言うのでしょうか。明らかな「日米安保肯定」論と言わねばなりません。

 天木直人氏(元駐レバノン大使)は、砂川裁判の伊達判決を覆した田中耕太郎最高裁長官にもふれ、「いまこそ砂川判決の不正義と闘っている人たちと力を合わせ、日本を日米同盟のくびきから解き放たなければいけない」とまっとうな主張をしています。ところがそれに続いて、「今上天皇の生前退位のお言葉」こそ「憲法を否定しようとする安倍首相をしかる『勅令』に違いない」(19日付沖縄タイムス)と言う至っては驚くばかりです。天皇の「生前退位」発言の重大な違憲性をまったく棚上げした場違いな「天皇崇拝」は、前段の日米安保についての正論を帳消して余りある、もう1つの落とし穴と言わざるをえません。

 以上4氏(天木氏を除く)は、いずれも「沖縄問題」に詳しい「リベラル派」と見られている「識者」です。その人たちが日米安保(軍事同盟)体制を正面から否定・批判しないばかりか、逆に肯定・容認している現実はきわめて重大です。
 米軍基地・日米安保に「恩恵」などあるのか。日米安保条約は沖縄・日本に何をもたらしているのか。安保条約廃棄に賛成なのか反対なのか。「識者」は今こそこの問いに正面から答えなければなりません。


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「辺野古判決」社説、総崩れ!

2016年09月20日 | 沖縄・メディア

    

  16日の「辺野古判決」(福岡高裁那覇支部、多見谷寿郎裁判長)に対する11紙の社説を読みました(沖縄タイムス、琉球新報、朝日、毎日、読売、日経、中国、北海道、信濃毎日、神戸、京都。いずれも17日付。産経、東京新聞はこの問題での社説なし)。
 そこには、「辺野古問題」にとどまらず、米軍基地、「沖縄」に対する「本土」・日本人の考え方・姿勢が象徴的に表れています。

 各紙の社説は(沖縄県紙も含め)、まさに総崩れ状態です。肝心な問題がまったく触れられていないからです。それは2つあります。

 第1に、日米安保条約(日米軍事同盟)です。

 前回のブログで述べたように、今回の不当判決の核心は、憲法より日米安保条約を上に置いたことです。民意(国民主権)・基本的人権の蹂躙、地方自治圧殺もすべてそこに根源があります。今回の判決に限らず、「基地・沖縄問題」すべての元凶がそこにあります。
 日米安保をどう考えるのか。それを抜きに「判決」の論評はできないはずです。

 ところが、11紙の中で日米安保(条約・体制)に触れた社説はたった1紙しかありませんでした。その他は(タイムス、新報も含め)、「日米安保」という言葉さえ出て来ません。これは驚くべきことです。

 1紙とは京都新聞で、こう述べています。「日米安保を享受しながら、沖縄に基地を押しつけている現状に目を向けなければならない」(後述するようにこれも問題のある記述です)。

 日本のメディアが、すべて日米安保=軍事同盟を肯定し擁護していることは周知の事実です。しかし、それを固定化させることは許されません。具体的な事実(局面)で、日米安保を問い直すことはメディアの責任ではないでしょうか。今回の「辺野古判決」はまさにその必要がある局面です。

 にもかかわらず「日米安保」に一言も触れない。こうしたメディア状況が「日米安保条約支持=80%」という「世論」を作り出していると言っても過言ではありません。その責任は、沖縄県紙も含め、きわめて大きいと言わねばなりません。

 日米安保に触れないことは、2つ目の問題と密接に関係しています。

 それは、各紙は、全面賛美の「読売」を除いて、すべて「判決」を批判するものの、ではどうすべきか、解決の道は何なのかについては、(県紙を除いて)どの新聞も口をつぐんでいることです。

 「本土紙」の論調は、「それでも対話しかない」(「朝日」)、「解決には対話しかない」(「毎日」)、「協議で解決策見いだせ」(「中国」)など、判を押したように「対話・協議」を主張し、それが「解決」への道であるかのように言います。

 しかし、これほど無責任で偽善的な主張はありません。「対話・協議」といえば誰からも否定・批判はされない。「県民の気持ちを踏みにじる」(「毎日」)と「判決」を批判すれば沖縄に寄り添っているかのように聞こえる。しかしそれだけではなんの解決にもなりません。
 「対話・協議」してどうしようというのか。結局、普天間基地はどうするのか。それを示さなければ社説ではありません。
 
 「『辺野古に基地を建設する以外にない』と(判決がー引用者)言い切ったことに、大きな疑問を感じる」(「朝日」)と言う。では基地は辺野古以外、つまり「本土」に移せと言うのかと思えばそれも言わない。「本土へ移せ」と言えば「本土」の読者の反発を招くからです。あるいはそもそもそうすべきだとは考えていない。
 唯一「日米安保」に触れた京都新聞も、「沖縄に基地を押し付けている現状」を指摘しながら、ではどうするのかは言わない。

 こうしたメディアの無責任・偽善の根源は、日米安保=軍事同盟体制を肯定していることにあります。

 日米安保を肯定するから「普天間基地は無条件で撤去せよ」とは言えない。しかし沖縄に米軍基地が集中している「不正義」は公然と是認できない。かといって「基地は本土へ」とは言えない(言わない)。その逃げ道が「対話・協議」です。
 「政府が直視すべきは、県民の理解がなければ辺野古移設は困難だし、基地の安定的な運用は望み得ないという現実だ」(「朝日」)とは、「対話」は「辺野古移設・米軍基地の安定的な運用」のためという本音を示すものです。

 日米安保を肯定するなら、したがって「基地の無条件撤去」を主張しないなら、そして沖縄への基地集中を是認しないなら、「基地は本土へ」と言うべきでしょう。そこをあいまいにしたまま「対話・協議」でお茶を濁して逃げるのは、日米安保の犠牲を沖縄に押し付けて「自分とは関係ない」と思っている(思おうとしている)「本土」(日本人)の差別性、植民性を象徴的に示すものです。

 しかし、「基地を本土へ」移しても根本的解決にならないことは明白です。本質的な解決のためには、日米安保条約を廃棄して日米安保=軍事同盟体制を打破し、日本から米軍基地を一掃する以外にありません。
 その世論を大きく広げていくことが私たちの歴史的責任ではないでしょうか。


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憲法より安保を上に置く不当判決。翁長知事は「承認撤回」の実行を

2016年09月17日 | 沖縄・翁長・辺野古・...

    

 16日夕方から夜にかけての「本土」のテレビニュースで、「辺野古判決」は何番目に扱われたでしょうか。
 「Jステーション」(テレビ朝日系)…3番目(トップは「豊洲」)
 「Nステ」(TBS系)…4番目(トップは「豊洲」)
 「NHK・7時のニュース」…2番目(トップは「豊洲」)
 「NHK・NC9」…3番目(トップは「豊洲」)
 「報道ステーション」(テレ朝系)…2番目(トップは「台風」)
 私が見た限り、トップで扱った局はありませんでした(17日の朝刊はさすがに「日経」以外は1面トップでしたが)

 これは単なるニュースの価値判断の誤りではありません。そこには、「辺野古問題」は「国対沖縄」の問題で自分とは関係ないという「本土」の根深い意識が反映していると言わざるをえません。

 16日の「辺野古判決」(福岡高裁那覇支部、多見谷寿郎裁判長)は、予想通り、いや予想以上の不当判決でした。多見谷氏とは旧知の仲の国側代理人・定塚誠法務省訴訟局長が「争点については国側の主張が全面的に認められた」(17日付沖縄タイムス)と手放しで賛美したのも当然でしょう。

 すべてが問題と言っていい判決ですが、その中でも不当性の核心はどこにあるでしょうか。
 判決文第7項「『本件新施設等(辺野古新基地ー引用者)建設の法律上の根拠及び自治権の侵害の有無』について」で、こう言っています。

 「本件新施設等は、日米安全保障条約及び日米地位協定に基づくものであり、憲法41条(「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」-引用者)に違反するとはいえず…憲法92条(「地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律でこれを定める」-引用者)に反するとはいえない

 憲法41条は国民主権の大原則に基づくものです。地方自治ももちろん重要な憲法原則の柱。つまり判決は、「日米安保条約」を盾に、憲法の重要な原則を相次いで否定したのです。「日米安保条約」を「日本国憲法」よりも上位に置いたのです。ここに判決の不当性の核心があるのではないでしょうか。

 「憲法」より「安保」--これは多見谷裁判長だけではありません。日米安保条約改定(60年安保)の直前、田中耕太郎最高裁長官(当時)がアメリカ(駐日大使ダグラス・マッカーサー2世)の直接の圧力で、砂川裁判の画期的な1審判決(伊達判決)を覆し、米軍の日本駐留(安保条約)を「合憲」とした(1959年12月12日の最高裁判決)以来、日本の司法の対米従属姿勢は一貫して変わっていないのです。

 今回の辺野古判決は、日米安保条約が憲法9条の平和原則に反するだけでなく、国民主権、地方自治、基本的人権、三権分立という憲法の基本原則にことごとく反するものであることを、白日の下にさらしたと言えるでしょう。

 だからこそ、「辺野古新基地阻止」「高江ヘリパッド建設阻止」のたたかいは、日米安保条約廃棄・「安保より憲法」の世論・運動と結び発展させていく必要があるのではないでしょうか。

 では具体的にどうするか。

 「辺野古」の争点を、仲井真前知事の「埋め立て承認」に不合理な点があったかなかったかという手続き問題にするのではなく(今回の訴訟はそれでした)、辺野古に米軍基地を造ることが憲法原則(主権在民=民意尊重、地方自治、人権、平和など)に照らして、許されるのか許されないのか、すなわち「憲法」か「日米安保」かを正面から問い直すことではないでしょうか。

 そのための手段は、知事が「埋め立て承認」を撤回(取り消しではなく)することです。

 翁長氏は判決後の記者会見で、「承認撤回」について、はじめは「今どうするということは、話としてはしていない」と逃げていましたが、重ねての質問に、「確定判決になった場合でも…十二分にあり得る」(17日付琉球新報)と述べ、「撤回」の可能性を強く示唆しました(せざるを得なかった)。これは公式な言明です。

 翁長氏は最高裁が今回の判決を追認した時点で、直ちに埋め立て承認を撤回すべきです。しなければなりません。万一それをしない場合は、仲井真前知事と同じ評価を県民から受けることは必至でしょう。


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二階幹事長に「高江」で何も言わなかった翁長知事

2016年09月15日 | 沖縄・翁長・辺野古・...

    

 安倍政権は13日、高江のヘリパッド(新基地)建設を強行するため、ついに自衛隊のヘリで重機を搬入する暴挙に出ました(写真右)。
 これに対して高江の現場から、「これはもう有事だ」(作家の目取真俊氏、14日付沖縄タイムス)など批判が噴出しました。

 翁長雄志知事は、「十分な説明もないまま強行した政府姿勢は、信頼関係を大きく損ねるもので、容認できない」(14日付琉球新報)と述べました。おそらく「抗議するのか」という質問が出たのでしょう、「『抗議というか認識を問うことはやりたい』と述べ、今後、政府見解をただす考え」(同)を示したといいます。

 その翌日(14日)。翁長氏は政権政党の自民党・二階俊博幹事長と県庁で会談しました(写真左)。高江の事態について「抗議」しないまでも、少なくとも「容認できない」と言って「見解をただす」絶好の機会、と多くの県民は思ったのではないでしょうか。
 ところがーー。

 「二階氏と知事の会談、その後の会食は終始、穏やかなムード。新基地建設に関する話題は『嵐の前の静けさかと警戒したくなるほど、一切出なかった』(県関係者)という」(15日付沖縄タイムス)

 翁長氏は二階氏に「7項目の要望書」を手渡しました。「7項目」とはー。
 ①沖縄振興予算の確保②税制改正③辺野古新基地建設の断念と普天間飛行場の県外移設、早期返還、危険性の除去④クルーズ船バースの拡充⑤J1規格サッカースタジアムの整備⑥渋滞対策⑦市町村国保事業への支援(15日付琉球新報)

 見事に「高江」のタの字もありません。「辺野古」についてはさすがに「要望書」には入れていますが、「終始穏やかなムード」の中で「新基地建設に関する話題」すなわち「辺野古新基地」についても「一切出なかった」のは先の記事の通りです。

 ここに「高江」「辺野古」に対する翁長氏の本音・本性がはっきり表れています。
 記者団(世論)の前では「容認できない」など厳しい態度をとっているように見せながら、肝心の政府・自民党には何も言わない。この使い分け(二枚舌)こそ、翁長氏の一貫したやり方です。

 例えば、安倍政権が自衛隊機に先立って民間のヘリで建設重機を高江に搬入したときも、翁長氏は記者団には「政府の姿勢は到底容認できるものではない」(10日付沖縄タイムス)と言いました。ところがその直前、翁長氏は軍転協(県軍用地転用促進・基地問題協議会)会長として首相官邸で菅官房長官や稲田防衛相らに「要請行動」を行いましたが、「軍転協による関係閣僚への要請では話題にならなかった」(10日付琉球新報)、つまり「高江」のことには一言も触れなかったのです。

 翁長氏は、菅氏は「配慮がない」が二階氏は「気持ちに応えてくれる」と、菅氏(政府)と二階氏(自民党)を区別し、二階氏を「県の救世主と言っても過言でない」(県幹部、15日付沖縄タイムス)とまで持ち上げていますが、これはまったく不見識であり、きわめて危険なことです。

 議院内閣制において政府と政権与党が一体であることは常識です。仮に表面上の人当たりに硬軟の違いがあるとしても、政策において相違がないことは言うまでもありません。とりわけ「辺野古問題」という20年来の重要課題において、政府と自民党の間に見解・政策の違いがあるはずがありません。

 二階氏は今回の沖縄入りに先立ち、東京での記者会見でこう言っています。「党が沖縄を重視している姿勢は、おのずから明らかになるだろう」(14日付中国新聞=共同)。二階氏の沖縄入りは、自民党が「沖縄を重視している」かのように見せる政治的演出にほかならないのです。

 翁長氏はなぜ政府・自民党に対して高江の事態でモノを言わないのでしょうか。それはヘリパッド建設に反対ではないからです。そのことは当のアメリカ政府自身がよく知っています。
 「国務省高官は『高江の現場で沖縄県民らが抗議している事実は承知している』としつつ、『沖縄県知事は日本政府は説明不足との批判はするが、工事そのものをやめろと言ったことはない』と指摘」(15日付沖縄タイムス・平安名純代米国特約記者)し、事態を楽観視しているのです。

 自衛隊機による重機搬入も、辺野古・高江の新基地建設も、その根源が「アメリカ合衆国は、その陸軍、空軍及び海軍が日本国において施設及び区域を使用することを許される」(第6条)という日米安保条約にあることは言うまでもありません。
 その日米安保条約を堅持するのが翁長氏の政治信条です。二階氏との会談でも「日米安保を支えて一生懸命頑張っている」と誇示しました(写真中)。対米従属の軍隊である自衛隊に対しても、「自衛隊は崇高な使命を持っている」(14日付沖縄タイムス)と賛美してはばかりません。

 こんな人物が、高江・辺野古で繰り広げられている安倍政権の暴挙とたたかえるでしょうか。いいえ、そもそも翁長氏には政府・自民党とたたかう意思などないのです。
 安倍政権とたたかって新基地を阻止するために、「翁長幻想」から一刻も早く脱却すること求められています。


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パラリンピックを汚すアメリカの戦争戦略

2016年09月13日 | スポーツと政治・メディア

    

 正直なところ、これまでパラリンピックにはそれほど関心はありませんでした。しかし、今回NHKのかつてない番組編成(4年後に向けた計算があることは明白)もあって、これまでになく観戦しています。

 競技のおもしろさに加え、人生で一度(以上)大きな壁にぶつかった人たちが、それを乗り越え、スポーツという自ら選んだ新たな「壁」に挑戦する姿に、オリンピックにはない感動を覚えています。

 ところが、そんな「パラリンピック観」に大きな一石が投じられました。12日夜のNHK「クローズアップ現代+」=「戦場の悪夢と金メダル・兵士たちのパラリンピック」です。以下、番組から。

 パラリンピックに出場しているアメリカ選手の10人に1人は、元兵士、すなわち戦場で負傷し障がい者になった負傷兵たち。
 例えば水泳のスナイダー選手(写真左。13日早朝<日本時間>の50m自由形で日本の木村敬一選手が銀メダルを獲得したレースの金メダリスト)は、戦場で間近に地雷が爆発し、全盲に。失意のスナイダー氏を救い、新たな生きる意欲を与えたったのが水泳だった。彼は体中にタトゥがあるが、それには戦場に散った戦友たちの悔しい思いが込められている。

 アメリカだけではない。欧州、中東、アフリカの13か国の選手団に戦傷した元兵士が含まれている(写真右)。

 そもそもパラリンピックの起源は、1948年、第二次世界大戦の負傷兵によるイギリスでのアーチェリー大会だった。

 これだけなら、なるほどそういうこともあるだろうな、で終わったかもしれません。問題はそれから先です。

 アメリカは国家を挙げて、「負傷兵をリオ・パラリンピックへ」という運動を展開した。全米で「負傷兵のスポーツ大会」を開催し、その中から選手を育成した。
 その狙いは、「回復した兵士の姿を見せて負傷兵を奮い立たせる」(スポーツプラグラム責任者)こと。この企画の中心にいるのがブッシュ前大統領(イラク戦争の張本人)。

 さらにアメリカはパラリンピックへ向け、50億円を投じて負傷兵用のリハビリ病院を建設。その結果、「重症を負いながらも現役復帰を望む兵士が増えている」(リハビリ病棟の施設長)。負傷兵の約2割が「任務復帰」した。

 番組はこれに「国家を挙げて負傷兵を支援」というテロップを付けました。はたしてこれが「支援」でしょうか。

 障がい者(負傷兵)を失意のどん底から救ってくれたスポーツ。パラリンピックを新たな目標に力強く生きる障がい者たち。素晴らしいことです。
 ところがアメリカ(戦争国家)は、その障がい者とスポーツの素晴らしさを逆手にとって、新たな国家戦略を展開しているのです。
 ①負傷兵の不満・暴動をスポーツで抑える②パラリンピックでの雄姿を見せて他の負傷兵を「奮い立たせる」③戦争(イラク・アフガンなど)を仕掛けて多くの命を奪い障がい者を生み出した米大統領・政府への批判をそらす④リハビリによって負傷兵の「現役復帰」を図り再び戦場へ送り込むーー。

 スポーツと「政治」は切っても切れない関係にあり、オリンピックが「国威発揚」を図る国家権力に政治利用されるのは周知のことです。しかし、障がい者のスポーツ・パラリンピックがこのような国家の戦争戦略に利用されるとは…。

 このアメリカ式〝パラリンピック戦略”が、はたして日本と無縁だと言えるでしょうか。戦争法の下、米軍と一体となった戦闘で負傷した自衛隊員が、4年後の東京パラリンピックに出場する。それはありえない妄想だと言い切れるでしょうか。


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代表選にみる民進党の無責任とメディアの愚

2016年09月12日 | 日本の政治と政党

    

 民進党の代表選告示(2日)前後から、メディアはこの報道に連日大きなスペースをさいています。これはきわめて異常な状況だと言わねばなりません。
 あるテレビニュースは終盤の情勢を、「政策の違いがあまりないので盛り上がっていない」と報じましたが、盛り上がらないのは当然です。

 なぜなら、代表選はあくまでも民進党の党内人事にすぎないからです。

 同じ政党に属している以上、個人的な見解の違いはあるとしても、対外的に主張する政策に基本的な違いがないのは当たり前です。もし違いがあれば、それは党内不一致であり、政党としての体をなしません。

 仮に党の政策を変更したいなら、まず党内で論議したうえで党としての政策転換を対外的に明確にすべきです。それが党内民主主義です。それをしないうちに勝手に「政策の違い」を打ち出す方がどうかしています。

 民進党の代表選に選挙権があるのは、所属議員、党員・サポーターだけです。しょせんは党内人事であり、党外の者には関係ありません。それをまるで政治の大問題のように大きく報道するのは、世間の注目を集めたいという民進党のメディア戦略に手を貸すことにほかなりません(もちろんそれは、「自民党総裁選」についても同様です)。

 前原誠司氏は「旧民主党政権に多くの人が失望した。土下座する先頭には、戦犯である私こそがふさわしい」(2日の記者会見=3日付共同)と言いました。自ら「戦犯」と自認しながら、責任をとるどころか逆にそれを口実にトップの座に着こうなどとは、いかにも「日本的」な妄言と言わねばなりません。そこには民主党政権の反省はかけらも見えません。それは前原氏だけでなく、同じ「戦犯」の蓮舫も、玉木雄一郎氏も同じです。

 前原氏は立候補表明の記者会見(8月26日)で、民主党政権について「『小沢』対『反小沢』という深刻な亀裂をもたらしたのは大きな反省点だ」と述べました(2日付中国新聞=共同)。ところが今回の党首選にあたっても、「ちらつくのは旧民主党代表を務めた小沢一郎・現生活の党共同代表の影だ」(同共同)と言われています。「民進党内の小沢系の支持を受ける狙い」が前原氏にはあり、玉木氏の立候補も「最終盤で小沢氏に近い議員が推薦人集めを後押しした」というのです。
 これでは民主党政権の反省どころか、その二の舞いではありませんか。

 民進党が今やるべきことは、党首選で各自が勝手なことを言い合ってマスコミの注目を集めようとすることではなく、「旧民主党政権に多くの人が失望した」のはなぜなのかを、党として責任をもって分析・反省し、国民の前に示すことです。
 それを民進党に要求するのがメディアの責任ではないでしょうか。
 その際、党の体質とともに、いやそれ以上に、民主党政権のどのような政策が多くの人の「失望」を招いたのか、沖縄・安保政策をはじめ全般的にメスを入れることが必要です。

 だれが党首になるかという党内人事の報道に明け暮れるのでなく、自民党政権とたたかうために野党に求められている政策は何かを市民の視点で追求することです。
 メディアが「政局報道」から「政策報道」に転換しない限り、この国の政治はいつまでたっても変わらないでしょう。
 


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