アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

中島京子原作・「やさしい猫」はどこにいる?

2023年07月31日 | 差別・人権
   

 NHKドラマ「やさしい猫」(主演・優香)が29日最終回(全5話)でした。原作は中島京子さん(写真右=朝日新聞デジタルより)。小説が書かれたのは2年前。入管行政の犠牲になるスリランカ男性と日本のシングルマザーと娘、3人家族のたたかいの物語でした。

 強制送還逃れの「偽装結婚」と決めつけられ、問答無用に収監され、元気だった体が数カ月で衰弱した男性。必死の思いで「仮放免」を勝ち取るも、健康保険もなく、理不尽な「家宅調査」を受けるなど、人権侵害の数々…。入管行政の実態がよく描かれていました。

 クライマックスの裁判シーンで、男性の弁護士(滝藤賢一)が述べた言葉が秀逸でした(メモなので正確ではありません。以下同じ)。

「これは東京の片隅の1つの家族のことではありますが、問われているのは国の姿勢です。国が人の幸福追求権を奪っていることが問われているのです

 NHKドラマで「国」を追及する鋭い言葉が繰り返されたの珍しいでしょう。

 最も心打たれたのは、家族を支援する元入管職員(吉岡秀隆)の言葉でした(第4話)。「相手は国だ。国と闘っている」という弁護士に対し、元職員はこう言います。

「(入管相手の)裁判で勝つ確率は2%だけど、(犠牲になっている外国人を)救いたいと思っている日本人もそれくらいかもしれない」「誰と闘っているのが分からないのが一番問題かもしれない

 中島さんは朝日新聞への寄稿で、先の国会で強行された入管法改悪を批判し、小説執筆の動機をこう述べています。

どうしてこんな法律が通ってしまったんだろうとぼうぜんとするが、それはおそらく、多くの有権者が問題に気づかず無関心でいるからだ。気づいてもらえる一助になればというのは小説を書いた動機でもあるが、一つ小説が書かれたくらいでは、影響力は限られる」(7月22日付朝日新聞デジタル)

 先の元入管職員の言葉に通じます。やはりこれが中島さんが作品に込めた思いの核心でしょう。

 タイトルの「やさしい猫」とは、ネズミを食ってしまった猫が、そのネズミには子ネズミたちがいることが分かり、子ネズミたちを引き取って自分の子ネコたちと一緒に育てた、というスリランカの童話のタイトルだそうです(第1話)。

 最終回、裁判が終わって、妻(優香)の実母(余貴美子)が言います。「人間はみな泣きながら生まれてくる。人生は苦しいものだ。でも、生きていく中でやさしくなり、笑うことを知っていく」。なぜ「やさしい猫」のタイトルがつけられたのか分かった気がしました。

 98%の日本人は「やさしい猫」になれるでしょうか。ならなければなりません。「やさしさ」ではなく、人としての責任として。

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日曜日記260・見過ごされた「はだしのゲン」の真価

2023年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 「記者だけが知っている~はだしのゲン連載50年~ 朝デジ×記者サロン」というオンライン企画が24日あった。朝日新聞の記者が取材体験を報告するシリーズ企画。タイトルにひかれて初めて参加した。故・中沢啓治氏が「週刊少年ジャンプ」に連載を始めて50年になるらしい。

 広島と長崎の若手記者の報告は平和への熱意が伝わった。しかし、全体的に期待外れだった。
 「記者だけが知っている」というタイトルだが、知らない裏話は何もなかった。

 それより残念だったのは、広島市教育委員会が「ゲン」を教材から排除した問題について、「市教委の言い分も分かる」と理解を示したことだ。到底納得できない(2月18日のブログ参照)。

 さらにそれにも増して残念だった(問題だった)のは、「ゲン」の価値を「被爆・平和」の視点からしか語らなかった(語れなかった)ことだ。

 「はだしのゲン」が優れた「反核・反戦」文学であることは言うまでもない。しかし、それは「ゲン」の3分の1の価値だ。あとの3分の2は、「天皇制批判」と「在日朝鮮人差別告発」だ(2016年5月5日のブログ参照)。

 この3つが「ゲン」の真価だ。それがあるからこそ、「ゲン」は他の「反核・反戦」文学にはない輝きと生命力を持っている。この3つはバラバラではなく、深く結びついていることも「ゲン」を読めばよく分かる。

 報告者の2人と編集委員ともう1人の4人の朝日新聞記者のトークだったが、だれの口からも「天皇制」「在日朝鮮人」の言葉は出なかった。4人とも「ゲン」はすべて読んだと言っていた。それでもこの2つのテーマに触れる記者が皆無とは…。
 触れることをあえて避けたのか(タブー視)、読んでもそこに真価があると思わなかったのか。いずれにしても暗澹たる思いだ。

<今週のことば>

 窪島誠一郎氏(「無言館」館主・作家)   野見山暁治さんを悼む

 (洋画家の野見山暁治さんが6月、102歳で死去。窪島さん(1941年生まれ)は野見山さんと共に全国の戦没画学生宅を訪ね歩き、「無言館」を立ち上げた)

「考えてみれば、ある意味野見山さんと私とは、画学生たちに共通の「負い目」を抱く相克の間柄だった。野見山さんには常に「生き残った者」だけが持つ葛藤と呵責があり、レベルは違っても、私にも敗戦の対価として与えられた戦後の繁栄を生き泳いだ「成功者」としての後ろめたさがあった。
 2人を“無言”のうちに結び付けていたのは、そんな屈折した戦後日本人の持つ自問と自省があってのことだったのではないか」(7月13日付京都新聞=共同)

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チャプリンは「独裁者」で何を訴えたか

2023年07月29日 | 国家と戦争
   

 7月24日の「映像の世紀」(NHK)は「ヒトラーVS.チャプリン」でした。過去の放送から視聴者が選んだベスト2だとか。見るのは2度目ですが、今回特に印象的だったのは、チャプリンが映画「独裁者」(1940年公開)に込めた思いです。

 チャプリンが生まれたのは1889年4月16日。ヒトラーの生まれは1889年4月20日。わずか4日違いです。風貌も瓜二つ。それが実際に二人の政治的相克につながっていきます。

 チャプリンはヒトラーのファシズムを映画で批判し、ヒトラーはそんなチャプリンを公然と非難し、作品の公開を禁止します。チャプリンによるヒトラー批判の頂点が「独裁者」です。

 そのラストシーンは、チャプリン演じる床屋の6分間におよぶ演説です。チャプリンは当初、演説に画像を挿入しハッピーエンドで終わる構想でした。しかし急きょ、チャプリンが1人、カメラに向かって訴える、映画技法として前例のないシーンに変更しました。

 最後の演説でチャプリンは何を訴えたのか。チャプリン研究の第一人者、大野裕之氏の『チャプリン 作品とその生涯』(中公文庫2017年)に全文和訳が載っています。抜粋します。

< 私たちはみんな、お互いを助けたいと望んでいる。人間とはそういうものだ。他人の不幸によってではなく、お互いの幸福で支えあって生きていきたい。私たちは、お互いを憎んだり軽蔑したりしたくはない。この世界には一人ひとりのための場所があるんだ。そして、良き大地は豊かでみんなに恵みを与えてくれる。

 人は自由に美しく生きていけるはずだ。なのに、私たちは道に迷ってしまった。貪欲が人の魂を毒し、憎しみで世界にバリケードを築き、軍隊の歩調で私たちを悲しみと殺戮へと追いたてた。

 飛行機とラジオは私たちを結び付けた。本来それらの発明は人間の良心に訴えて、国境を超えた兄弟愛を呼び掛け、私たちを一つにするものだ。今も、私の声は何百万という人々に届いている。何百万もの絶望する男や女、そして小さな子供たち、人々を拷問し罪なき者を投獄する組織の犠牲者たちに。

 そんな人々に言おう。絶望してはならない、と。今、私たちを覆う不幸は、消え去るべき貪欲、人間の進歩の道を怖れる者の敵意でしかない。憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶える。彼らが民衆から奪い取った権力は、再び民衆のもとに戻るだろう。人に死のある限り、自由は決して滅びることはない。

 兵士たちよ! けだものに身をゆだねてはならない!みんなは機械じゃない、みんなは家畜じゃない、みんなは人間なんだ! 心に人間の愛を持っているんだ。憎んではならない。

 あなたたち、民衆は力を持っている! 機械を生み出す力を。幸福を創る力を。あなたたち、民衆はこの人生を自由で美しいものにし、素晴らしい冒険にする力を持っている! 
 さあ、民主主義の名のもとに、その力を使うんだ! 力を合わせて、新しい世界のために闘おう! 人々に仕事の機会を与え、若者に未来を、老人に保障を与える立派な世界のために。
 世界の解放のために闘うんだ。国同士の壁を取り除くために、貪欲と憎しみと偏狭を取り除くために。理性ある世界-科学と進歩が全ての人々の幸福へと通じている、そんな世界のために闘うんだ。>

 第2次世界大戦開戦の前年に公開された「独裁者」のこの演説が、いま、直接自分事として胸に迫るのは、言うまでもなくウクライナ戦争の渦中だからです。
 しかし、それは西側陣営の首脳たちやメディアが口にする「プーチンは現代のヒトラー」というプロパガンダのためではありません。

 チャプリンが渾身の演説で訴えたのは、戦争のない世界、人々が憎み合うことのない世界、そして国境という壁のない世界です。
 そのために闘おうという肉声は、ロシアやウクライナだけでなく、私たち日本の、そして世界の民衆に対するチャプリンの遺言ではないでしょうか。

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志位和夫氏と小沢一郎氏

2023年07月28日 | 日本共産党
   

 「共産党は日本からなくなったらいい政党だ」(23日のインターネット番組)という馬場伸幸・日本維新の会代表の発言は、反共右翼政党の本質を露呈したものですが、公党党首の民主主義のイロハもわきまえない暴言として軽視できません。

 一方、同党にとっては馬場暴言以上に重大な事態が水面下で進行しているように思えます。

 同党の志位和夫委員長は21日夜、立憲民主党の小沢一郎氏と都内で「会食」しました。
「次期衆院選に向け、野党間の候補者一本化の方策について協議したとみられる。会合には、共産の穀田恵二国会対策委員長も同席した」(21日付朝日新聞デジタル)
 会談の内容は明らかにされていません。

「2016年の参院選では、共産が原則すべての選挙区で独自候補を立てる方針を変更し、自前の候補をおろして野党統一候補を応援する「野党共闘」が実現した。当時、志位氏と小政党の党首だった小沢氏が水面下で接触を重ね、その枠組み作りを進めた経緯がある」(同朝日新聞デジタル)

 志位氏と小沢氏の「水面下の接触」で、共産党の重要方針が「変更」されたのは、これだけではありません。

 参院選と同じ2016年の1月、共産党は突然大きな方針転換をしました。天皇が出席して言葉を述べる国会の開会式。共産党は憲法原則にのっとって一貫して欠席してきました。それが一転、同年1月4日の開会式に共産党は初めて出席したのです。志位氏は天皇に頭まで下げました(写真中)。

 この驚くべき方針転換も、志位氏と小沢氏の水面下の接触で、小沢氏の主張を受け入れたものでした。小沢氏は月刊誌のインタビューでこう語っています。

「私は、共産党に今度は国会の開会式に出ろと言っているのです。日本国憲法を守るというのだから、天皇制も認めて出るように言っているのです。そうすれば、ものすごく話題になりますよ。今までボイコットして出なかったのだから。共産党も、いま清水の舞台から飛び降りたのだから、他の政党はもう少ししっかりしないといけません」(「月刊マスコミ市民」2015年12月号、写真右)

 天皇制に対する方針を大転換して行われた国会開会式出席。その先の「野党共闘」。それは「政策」の面でも大きな問題を残しました。
 
 小沢氏の持論は、「政策合意」を度外視した「野党候補の1本化」です。

「僕がずっと前から言っているのは、選挙を一つの届け出政党でやるしかないということ。政権を取るためには一つの政党としてやる以外にないと思う」(小塚かおる著『小沢一郎の権力論』朝日新書2017年)

 2016年参院選での「野党共闘」をめぐる志位氏との水面下の接触でも、次のようなやりとりがあったと小沢氏は述べています。

「みんな政策論、政策論と言います。…基本の原則が一致していれば、それでいいと思うのです。共産党は細かいことは置いておいて安倍政権の安保法制に反対の考え方でやればいいと言っています。…党が違うのだから、それは当たり前です」(前掲「月刊マスコミ市民」)

 「安保法制」(戦争法)反対が重要なことは言うまでもありません。しかしだからといってそれ以外の諸問題を「細かいこと」として「置いておく」、すなわち政策合意しないまま候補者を一本化する。それが真の「選挙共闘」と無縁であることは明白です。しかし、小沢氏との水面下の接触で共産党(志位氏)は、「安保法制反対」だけでいいと言ったというのです。

 馬場氏のような荒唐無稽な反共攻撃で共産党が「なくなる」ことはないでしょう。しかし、「野党共闘」の名の下に、重要な政策の転換が志位氏と小沢氏の水面下の会談で進んでいくことは、まさに日本共産党にとって存亡の危機といえるのではないでしょうか。

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朝鮮戦争の休戦・終戦に抗った天皇裕仁と安倍晋三

2023年07月27日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 7月27日は、70年前(1953年)のこの日、朝鮮戦争の休戦協定が締結された日です(当事国は朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)、中国、韓国、アメリカ=写真左)。朝鮮戦争はまだ終わっていません。朝鮮とアメリカ(「国連軍」)・韓国の戦争は継続中です。それを理解することが朝鮮半島情勢と日本の関係を把握するための必須条件であり、1日も早く平和協定を締結して朝鮮戦争を終結させる必要があります。

 ところが日本は、そもそも植民地支配で朝鮮戦争の根源をつくったうえ、アメリカの兵站基地となり、機雷掃海など直接朝鮮戦争に参戦したばかりか、その休戦・終戦(平和協定締結)に一貫して反対してきました。その中心人物が、天皇裕仁と安倍晋三元首相です。

 スターリンが死去(1953年3月5日)し、「朝鮮戦争休戦」の機運が高まっていた最中の1953年4月20日、天皇裕仁は離任する米国特命全権大使ロバート・ダニエル・マーフィーを皇居に招きました。その時のもようを豊下楢彦氏はこう記しています。

「(裕仁は休戦を)歓迎するどころか、全く逆に「朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本における米軍のプレゼンスにかかわる日本人の世論にどのような影響をもたらすか憂慮している」と述べるのである。なぜなら「日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している」からなのである」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)

 裕仁は敗戦直後、「国体」=天皇制護持と自らの戦争責任追及を回避するため、沖縄をアメリカに差し出す「沖縄メッセージ」(1947年9月19日)をアメリカに送りました。
 そして、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約(1951年9月8日調印)締結を裏で工作し、それによって植民支配した朝鮮人や台湾人を切り捨て、沖縄はじめ全国を米軍の基地化しました(全土基地方式)。

 そうやってアメリカ従属体制をつくった裕仁は、朝鮮戦争が終わって半島に平和の機運が訪れ米軍が日本から引き揚げるような事態になることを「不幸」と考え怖がったのです。「朝鮮戦争は昭和天皇をして、米軍の存在の重要性に関する認識を決定づけるものであった」(豊下氏、前掲書)のです。

 その裕仁の対米従属を引き継いだのが安倍元首相でした。

 5年前の2018年4月27日、韓国・文在寅大統領と朝鮮・金正恩委員長の歴史的会談が行われ、「板門店宣言」が発表されました(写真右)。「宣言」には、「(朝鮮戦争)停戦協定締結65年になる今年、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で堅固な平和体制構築」に向かうと明記され、平和協定締結の機運と期待が大きく高まりました。

 それに水を差したのが安倍氏でした。
 「板門店宣言」の翌日、安倍政権は、朝鮮のいわゆる「瀬取り」を監視するためと称して、「オーストラリア軍とカナダ軍の哨戒機が沖縄県の米軍嘉手納基地を拠点に警戒監視活動を行うと発表」(2018年4月29日付朝日新聞)したのです。

「両国軍機の嘉手納飛来は異例」(同日付沖縄タイムス)のことでした。それは、「豪州、カナダ両軍が今回、在日米軍基地を拠点に活動する根拠は朝鮮戦争に伴う国連軍地位協定に基づくもの」(同朝日新聞)だという意味を持っていました。安倍氏は「異例」の手段を使って「朝鮮戦争に伴う地位協定」をアピールし、平和協定締結に抗ったのです。 

 天皇裕仁や安倍元首相のこうした朝鮮戦争休戦・終戦への敵対を、日本人は歴史の事実として知る必要があります。
 そして逆に、朝鮮戦争平和協定の早期締結、朝鮮半島の平和的・民主的統一の世論を日本で広げることによって、裕仁や安倍がつくった負の歴史を塗り替える必要があります。

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「ロシア語では歌わない」は平和に通じるか

2023年07月26日 | 国家と戦争
   

「母語のロシア語では、もう歌わない。祖国ウクライナにロシアが侵攻した2022年2月24日、そう心に誓った」

 こういう書き出しで始まる記事が新聞に載りました(6日付京都新聞、連載「80億人の旋律」の第25回=共同)。ロシア語を母語とする市民が多く暮らすクリミア半島に生まれたウクライナの人気ポップ歌手、ナディア・ドロフィエワさん(33)。

「祖国のために今、何ができるのか。自分なりの答えが、ロシア語ではなくウクライナの言葉で歌い、今の思いを伝えることだった」

 自分に何ができるか考えた末の決断。真摯な生き方です。しかし、「ロシア語では歌わない」ことが、ドロフィエワさんが願う「平和」へ通じることでしょうか。

 アジア・オリンピック評議会(OCA)は7月8日の総会で、9~10月の杭州アジア大会へのロシアとベラルーシ選手の参加を正式に承認しました。

「両国勢はウクライナ侵攻に伴って国際大会から除外されてきたが、個人競技に限り、国を代表しない個人資格の「中立」選手として受け入れる。…OCAは「政治的な干渉を排除し、スポーツの観点から受け入れる」と説明。政府関係者の参加は認めず、国旗など国を象徴するものは使用しない。メダルも授与されない。総会で反対意見は出なかった。…ウクライナや欧州各国からは、両国勢の復帰に対する批判が相次いでいる」(9日付共同配信)

 昨年はスポーツや音楽の国際大会からロシアを排除する動きが相次ぎましたが、今年はその見直しが広がってきています。先日行われたテニスのウィンブルドン大会(ロンドン)でも、両国選手種の参加が認められました(写真中)。

 IOC(国際オリンピック委員会)も今年に入って、国際大会から両国選手を除外する措置を緩和する方向転換をしました。来年のパリ五輪はどうするのか。近く行われる決定が注目されます。

 OCAがいう「スポーツの観点」とは、スポーツは「国家」のものではなく「個人」のものだ、ということでしょう。
 音楽・芸能・芸術はどうでしょうか。政治的主張や思想がそこに込められる点はスポーツと大きく違います。しかし、それが「国家」のものではなく「個人」のものだという点は共通ではないでしょうか。「国家」の壁を超えて、個人として感動・共感・共鳴し合うのが音楽・芸能・芸術ではないでしょうか。

 ドロフィエワさんは、キエフ(キーウ)近くの都市で行われた公演で、「終演前、青と黄2色の国旗をまとって国歌を歌い上げた」(同上記事)といいます。記事には「祖国」という言葉が頻出しています。生まれ育った土地への愛が、「祖国愛」として国家に包摂されることはたいへん危険です。

 ドロフィエワさんは「私たちは戦争を望まない。ただ、平和に生きたい。この全てを終わらせることができるはず」と述べています。その願いは、「ロシア語では歌わない」ことよりむしろ、ロシア語で反戦・平和を歌い、「国家」の壁を超えることによって実現に近づくのではないでしょうか。



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「本土」メディアが報じない中、進む沖縄の戦場化準備

2023年07月25日 | 沖縄と日米安保・米軍・自衛隊
  

 「中国脅威」論を口実にした自民党・岸田政権の自衛隊基地増強化が強行されている沖縄で、有事・戦場化準備が進んでいます。最近の動向を県紙からピックアップします。

 陣地構築訓練 「陸上自衛隊が南西諸島の有事に備え、陣地構築などを視野に、沖縄県内に広く分布する琉球石灰岩の掘削方法の検証を進めていることが分かった」(6月28日付琉球新報)

▶ レーダー配備 「北大東島(写真右)への航空自衛隊の移動式警戒管制レーダー配備計画を巡り、防衛省は調査の結果、配備に適していると判断したことが分かった。6月30日、村や村議会に対し、島北部の村有地を配備先として検討していることを伝えた」(5日付琉球新報)

▶ 久米島でオスプレイ 「米海兵隊が15日からの訓練のため、オスプレイの離着陸で航空自衛隊久米島分屯基地を使用すると日本側に通知したことが分かった。…オスプレイが同分屯地を使用するのは初めてとみられる」(11日付沖縄タイムス)(写真左は琉球新報より)

▶ レーダー配備で住民説明会 「北大東島への航空自衛隊移動式警戒管制レーダー配備について、防衛省は20日、村民説明会を初めて開いた。…約100人が参加。「住民への説明を後回しにして計画が進んでいる」「配備されたら標的にされる」と批判や不安の声が上がった」(21日付沖縄タイムス)

▶ シェルター設置 「政府が、台湾有事を想定し、宮古島に住民用の避難シェルターを設置するための予算案を2024年度概算要求に盛り込む方向で調整していることが分かった。…石垣、与那国各島でもシェルター整備を進める」(24日付琉球新報)

 北大東島のレーダー配備は「本土」メディアもそこそこ報じましたが、それ以外はほとんどスルーしています。
 野村浩也氏(広島修道大学教授)は日米軍事同盟(安保条約)によるこうした沖縄の基地問題を報じない「本土」メディアが、沖縄の「制度的差別」を再生産していると指摘します。

「「本土」メディアは、安保が原因で沖縄で発生する基地問題を恣意的に「ローカル・ニュース」に分類して全国ニュース化しようとしないが、そもそもそれが差別行為なのである。いいかえれば、「基地問題を報道しないという基地問題」だ。「本土」メディアは、このような「もうひとつの基地問題」を日々蓄積することによって、制度的差別を再生産し続けている」(野村浩也氏、「「制度的差別」を問う」12日付琉球新報)

 もちろんメディアだけの問題ではありません。

 「本土」に住む私たち日本人は、日米安保体制の犠牲を集中的に受けている沖縄の現状・基地問題をどれだけ自分の問題として捉えているでしょうか。
 自衛隊が米軍と一体となって戦闘状態に入れば、真っ先に攻撃されるのが沖縄であることは明白です。
 万一そういう事態になれば、私たちは、「国体(天皇制)護持」のために沖縄を「捨て石」にした歴史の大過を再び繰り返すことになります。

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軍拡は「当然」という立憲民主は「リベラル」か

2023年07月24日 | 日本の政治と政党
  

 「令和国民会議」(令和臨調=2022年6月19日発足、共同代表・茂木友三郎キッコーマン名誉会長ら)の大会が22日開かれ、自民、公明、立憲民主、維新、国民民主各党の代表が基本政策などを述べました(写真右)。

 この中で、「立憲民主党の泉健太代表は、立憲を「中道リベラル」と位置付け、「権力に抑圧されないリベラルを大事にしながら、現実的な政権運営を考えている」と説明」(22日付朝日新聞デジタル)しました(写真左)。

 また泉氏は、「安保政策を巡り「防衛力を整備するのは当然」との立場を表明。一方で2023~27年度の5年間の防衛費を総額約43兆円に増やす岸田政権の方針は「あまりにも急速。自衛隊の現場が混乱する」と批判」(23日付共同配信)しました。

 泉氏のこの2つの言葉は、二律背反、矛盾の極みと言わねばなりません。

 「リベラル」の定義は簡単ではありませんが、少なくとも泉氏は「権力に抑圧されない」すなわち権力(政権)と対峙・対決するという意味で使っています。
 その権力、岸田政権をはじめ歴代自民党政権が最も重視しているのは、日米軍事同盟(安保条約体制)の強化であり、その下での自衛隊(日本軍)の強化、軍事費(防衛費)の大幅拡大です。

 泉氏は「防衛力を整備するのは当然」と言い切っています。「防衛力整備」とは軍拡のことです。泉氏は自民党政権の軍拡を「当然」だと容認しているのです。「あまりにも急速」だからもう少し慎重にやれと、自衛隊の立場に立って注文を付けているにすぎません。

 自民党政権の生命線ともいえる日米軍事同盟強化・軍拡を容認しながら、権力と対峙・対決することは絶対にできません。

 22日の「令和臨調」の大会には、日本共産党、れいわ、社民党などの代表は出席していません。「共産党など他の政党は主催者が招待しなかった」(23日付共同配信)からです。
 同大会は「次期衆院選に向けて、政治が国民に説明責任を果たすための場」(22日付朝日新聞デジタル)として開かれたといいます。その場に初めから共産党などを招待しなかったということは、明確に自民党政権と同じ土俵に上がれる翼賛政党を選別したということです。

 立憲民主党が招待されたのは、同党が本質的に自民党政権と対峙・対決する政党ではないことを「令和臨調」が見抜いているからです。

 そもそも「臨調」は、故・土光敏夫氏の「第二臨調」(1981年発足)以来、財界・御用学者らによって自民党政権をサポートするための組織です。「令和臨調」も例外ではありません。このような政治的組織を、メディアがあたかも「国民的」組織であるように報道するのはきわめて不見識で不適切です。

 繰り返しますが、日本の政治・社会の最大の課題は、自民党政権の生命線である軍拡・自衛隊増強、その根源にある「軍拡(安保)3文書」(2022年12月16日閣議決定)、その元凶の日米軍事同盟(安保条約体制)に反対し、戦争国家化に歯止めをかけることです。

 この最大課題で自民党と対峙・対決しない(できない)政党、「令和臨調」から招待を受けるような政党と、市民が「共闘」できないことは明らかです。

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日曜日記259・小説読み直して分かった映画「君たちはどう生きるか」

2023年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
   

 映画「君たちはどう生きるか」(宮崎駿監督・原作・脚本)を封切の14日にみた。
 「事前に内容を一切紹介しない」ことが逆に大きな話題になり、いつもはガラ空きの映画館がこの日は満員だった。
 これから観ようと思っている人もおられるだろうから、内容には触れない。

 難しい映画だ、というのが第一印象だ。ジブリの映画は「風の谷のナウシカ」以来ほぼ全作品みているが、今度の映画が一番難解だった。というより、感動しなかった。すべてが中途半端に思えた。

 「君たちはどう生きるか」は言うまでもなく吉野源三郎の小説のタイトルだ。しかし宮崎監督の映画は小説を原作にしたものではないオリジナルだということは事前に知っていた。

 それにしても、そのままタイトルにしているということは、吉野源三郎の小説とつながっているはずだ。小説を読めば映画のナゾが解けるかもしれない。そう思って、小説を再読した。はるか昔に読んだことは覚えているが、悲しいかな内容はほとんど記憶になかった。

 小説の最後のページで、ナゾの一端が解けた気がした。
 中学生のコペル君は様々な体験をへて、信頼するおじさん宛てに、ノートにこう書いた。

「いちばん心を動かされたのは、やはり、おとうさんのことばでした。ぼくに人間としてりっぱな人間になってもらいたいというのが、なくなったおとうさんの最後の希望だったということをぼくは、けっして忘れないつもりです。(中略)

 ぼくには、いまなにか生産しようと思っても、なにもできません。しかし、ぼくは、いい人間になることはできます。自分がいい人間になって、いい人間をひとりこの世の中に生み出すことはぼくにも、できるのです。そして、そのつもりにさえなれば、それ以上のものを生み出せる人間にだって、なれると思います。(中略)

 ぼくは、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中がこなければいけないと思います。人類はいままで進歩してきたのですから、きっといまにそういう世の中にいきつくだろうと思います。そして、ぼくは、それに役立つような人間になりたいと思います。」

 吉野源三郎が小説「君たちはどう生きるか」を書いたのは1937年。映画「君たちはどう生きるか」の時代設定は1944~45年。この映画が2023年に公開された意味は深い。

 小説は「原作」ではないが、吉野源三郎が小説に託した希望は、宮崎駿の映画に受け継がれている。

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「読書バリアフリー」と図書館

2023年07月22日 | 差別・人権
   

 「ハンチバック」で芥川賞を受賞した市川沙央さんは、記者会見(19日)でこう述べました。

「(この作品を通じてどんなことを伝えたいですか、の質問に)読書バリアフリーが進むことです。読みたい本を読めないというのはかなりの権利侵害だと思うので、環境整備を進めてほしいと思います」

「(最後に一言)ちょっと生意気なことを言いますけれど、各出版社、学術界でなかなか電子化が進んでいません。障害者対応をもっと真剣に早く取り組んでいただきたいと思っています。よろしくお願いします」(19日付朝日新聞デジタル、写真左も)

 難病「先天性ミオパチー」で人工呼吸器や電動車椅子を使って生活している市川さん。「ハンチバック」には、「目が見える、本が持てる、ページがめくれる、読書姿勢が保てる、書店へ自由に買いに行ける―。そんな「5つの健常性」を満たすことを要求する読書文化に、主人公が憎しみをあらわにする場面がある」(20日京都新聞=共同)そうです(私は作品未読です)。

 「5つの健常性」を満たすことを要求する読書文化、その「健常者」の「特権性」を打ち破る「読書バリアフリー」の切実さ―気付かなかった重要なことを教えられました。

 大津市に、原因不明の病気で寝たきりの生活を送りながら、社会福祉士などの資格を取得した女性がいます。畑中信乃さん(37)。畑中さんは「同じような境遇で困っている人や家族が悩みを共有できる場所を」とSNS(交流サイト)「toiro(といろ)https://toiro.googlecomcom.com/」を立ち上げました。

 そんな畑中さんの人生・活動が京都新聞(5月17日付夕刊)で紹介されました(写真右)。サイトを通じて畑中さんに市川さんの記者会見のもようを伝えたところ、次のようなメールがありました。

「芥川賞の市川さんのニュースを興味深く拝見していました。電子書籍化が進んでくれるのを願うと共に、図書館に導入して欲しいと強く思います!
 読みたい本が電子書籍化していても、全部購入しないといけないのが現状で、ちょっと調べ物をしたい時などでも買わないといけないのが結構大変でした。今年卒業した通信大学のレポートの参考文献などでも苦戦しました。
 市川さんが発信してくれることで、少しずつ状況が変わってくれると思っています。」

 なるほど、図書館です。書籍が電子化しても、全部買わなければいけないのでは「バリアフリー」にはなりません。大切なことを気付かせてもらいました
 6月18日のブログ(「図書館が危ない」)で、子どもたちのために図書館を充実させる必要があると書きましたが、障害者の権利を守る「読書バリアフリー」のためにも、図書館の重要性を共通認識にする必要があります。

 日本図書館協会(公益社団法人)は1954年に「図書館の自由に関する宣言」を採択しました(1979年に改訂)。「宣言」は、「図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任をはたす」とうたっています。

 図書館は、戦争・戦時国家体制の反省に立って、市民の「知る自由・権利」を守り広げることを責務として戦後再出発したのです。
 戦争で真っ先に犠牲になるのは子どもと障害者です。図書館が「読書バリアフリー」の拠点になることは、戦争国家化の動きに抗って平和と人権を守る図書館の基本理念に通じるのではないでしょうか。

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