アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

朝鮮半島「国恥日」に植民地歴史博物館オープン

2018年08月30日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

     

 8月29日が何の日か知っている日本人が、何人いるでしょうか?

 朝鮮半島(以下、朝鮮)の人々にとっては忘れることができない日で、「国恥日」とされています。
 108年前のこの日、1910年8月29日、「韓国併合に関する条約」が公布されました(調印は同22日)。韓国(当時の朝鮮半島)が名実ともに帝国日本の植民地になり、朝鮮の主権が完全に奪われた日です。つまり日本が朝鮮の主権をはく奪し、本格的な植民地支配を開始した日であり、私たちこそ”日本の恥“として記憶しなければならない日です。

 自民党などは「条約」という形をとっているため「国際法」にのっとったものだと強弁していますが、とんでもありません。「条約」調印に先立ち、同年5月以来、多数の日本陸軍部隊、とくに騎兵部隊がひそかにソウルに集められました。当時の参謀・吉田源次郎は「騎兵隊を集めたわけは、併合のため威力を必要とすることを予期したためであるのは明らかである。そしてこの目的のため騎兵は適当な兵種だったからである。なぜならば未開の人民をしずめるためには…見た目に威厳のある騎兵を必要とするからである」(『日韓併合始末』)と語っています(中塚明著『日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研)。

 さらに、調印の日には「ソウルの街を日本の憲兵が巡回し、朝鮮人は二人で話をしていても尋問されるきびしい警戒ぶり」(中塚氏、同前)でした。
 朝鮮を蔑視し、軍隊・憲兵によって戒厳令状態をつくった中での「条約調印」だったのです。

 「併合」によって朝鮮総督府が設置され、総督に支配権力が集中しました。初代総督は寺内正毅陸軍大臣(長州出身)(写真左)。重要なのは、朝鮮総督は天皇直属のポストだったことです。

 「朝鮮総督府及所属官署制によれば、総督は天皇に直隷する親任官で、陸海軍大将から選任されることになっていた。総督は…法律に代わる命令である制令を発布するとともに、朝鮮総督府令を発して懲罰を課す権限をもった。…天皇に直隷する総督は、実際には総理大臣の指揮を受けなかった。その地位は…実は総理大臣と同格ともいえる政治的地位にあった。総督はまさに、軍事はもとより司法・行政・立法の三権を掌握し、天皇直属のもと小天皇のごとき存在として朝鮮に君臨した」(趙景達・千葉大教授著『植民地朝鮮と日本』岩波新書)

 朝鮮に対する植民地支配が、首相をも飛び越えた天皇直属の朝鮮総督の絶対的権力によって遂行された事実は、植民地支配における天皇の責任を明確にするうえできわめて重要です。

  こうした事実を日本人は(私も含め)あまりにも知りません。これから学び直す必要があります。
 その点で、今年の「国恥日」は、日本人にとっても画期的な「8・29」となりました。それは韓国の民族問題研究所などが中心になって建設準備委員会から足掛け11年運動を続けてきた「植民地歴史博物館」がこの日ついにソウルにオープンしたからです。

 同博物館は、地上5階地下1階(地下は駐車場)、延床面積約1570平方㍍、総工費約5億6000万円。常設展示のほか企画展が催され、「講義室」や「交流スペース」もあります(写真右は展示スペースのもよう=ハンギョレ新聞電子版より)。
 大きな特徴は「日本帝国主義による朝鮮侵略と植民地支配の核心部であり、分断と独裁の歴史を生々しく伝えるソウル市龍山区」(同博物館ニュースレター)に立地していることです。

 建設に向けて、日本に「『植民地歴史博物館』と日本をつなぐ会」(共同代表・樋口雄一氏ら)が結成されました。募金活動を展開し、約1030万円を集めました。私もほんとうに微々たる募金をさせていただきました。

 「つなぐ会」の樋口共同代表はこう述べています。
 「戦後、私たち日本人は植民地時代の朝鮮について学ぶことはほとんどありませんでした。…植民地支配の要であった農村からの米の収奪と食糧不足による餓死者が毎年数千人もいたのです。290万戸の農家の内、230万戸が春になると食糧がなくなる『春窮期』を迎え、野草で飢えをしのいだのです。こうした事実は朝鮮にいた日本人植民者、戦後に育った日本人の大半は学びませんでした
 一例に過ぎませんが韓国の人々は体験として知っています。これが日本人と韓国・朝鮮人の歴史認識の差になっていると思われます。植民地支配歴史博物館から日本人が学べる事実は多くあると思います」(「つなぐ会」リーフ=写真中)

 地図で見ると龍山区はソウルの中心(地下鉄「ソウル駅」)の近くです。ソウルへ行く機会があればぜひ立ち寄ってください。私ももちろん行くつもりです。

 そして、日本の侵略・植民地支配の歴史を学ぶこうした博物館を日本でこそ造っていきたいものです。


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「侍従日記」も西暦表記だった-産経新聞は元号に改ざん

2018年08月28日 | 天皇・天皇制

     

 「小林忍侍従日記」報道についてはきのう書きましたが、この報道の中で思わぬ発見がありました。それは侍従(当時)の「日記」が元号ではなく西暦で表記されていたことです。

  新聞報道(共同電)の「日記詳報」は「表記は原文のまま」と断った上で、「1974年4月26日…」などと日付が西暦で書かれていたことを示しました。テレビ報道の映像を見ると、表紙も西暦表記になっています(写真左)。

  「天皇の侍従」の日記が元号ではなく西暦表記だった。これは元号が生活上不便で、けっして「国民」に定着しているものではないことを示しているのではないでしょうか。

  この事実は元号の普及に躍起になっている右派・天皇主義者にとっては重大問題だったようです。産経新聞にその狼狽ぶりが表れています。
 23日付の産経新聞は、「小林日記」を1面トップで扱うとともに、中の面で「日記要旨」を掲げましたが、それがなんと元号表記になっているのです(写真中)。
 他紙と同じく共同電を使い、「表記は原文のまま」と断りながら、「原文」の西暦を元号に変えたのです。これは「報道機関」としては信じられない原資料の重大な改ざんと言わねばなりません。

 右派・天皇主義者にとっては、西暦か元号かはきわめてセンシティブな問題です。
 7月30日の朝日新聞に興味深い記事が載りました。見出しは「皇族会見 西暦で答えた」。

 「昨年9月、秋篠宮家の長女・眞子さま(26)と小室圭さん(26)が婚約内定の記者会見に臨んだ。2人の出会いについて問われると、眞子さまは『初めてきちんとお話をしましたのは2012年…』。続いた小室さんも西暦で答えた。
 天皇陛下は記者会見で、基本的に元号のみか元号と西暦の両方を用いる。皇族の会見で元号が使われなかったことに、保守派の一部には衝撃が走った」(7月30日付朝日新聞)

 同記事中で「保守派」の加地伸之大阪大名誉教授はこう言っています。「我々は生きている時間を、元号によって、天皇の存在と連動して考えてきた。それが失われれば、日本人のあり方そのものが変質しかねない」。これが「衝撃」の理由であり、元号と天皇制の関係が端的に示されています。

  皇族に続いて、天皇の侍従も元号ではなく西暦を日常的に使っていたことが「小林日記」で明らかになったわけです。産経新聞幹部にも「衝撃が走った」ことでしょう。

  元号は、加地氏も述べているように、天皇が時間をも支配することを示そうとする天皇主義・皇国史観の象徴です。しかしそれは右派・天皇主義者の焦燥にもかかわらず、国民生活にはけっして定着していません。
  政府とメディアは来年の「改元」へ向けて、元号への関心を喚起しようと躍起になっていますが、それは時代の流れに逆らうものと言わねばなりません。

 「平成の終わり」にあたって行うべきは、国民主権に反する天皇主義・皇国史観の象徴である元号を再検討し、廃止へ向けた議論をすすめることではないでしょうか。


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「天皇の戦争責任」は風化しない・・・「小林侍従日記」報道

2018年08月27日 | 天皇・天皇制

     

 23日付の地方各紙は、<昭和天皇 晩年まで苦悩 「細く長く生きても戦争責任のことをいわれる」>(中国新聞)、<昭和天皇 戦争責任を意識 「長く生きてもいわれる」>(沖縄タイムス)などの見出しで、元侍従・故小林忍氏の「日記」(写真中)を1面トップで、解説、「日記」詳報などとともに大々的に報じました。すべて共同電です。全国紙では産経新聞だけが地方紙と同様の扱いをしました。

 これはきわめて悪質な政治的意図をもった記事(配信)、扱いと言わねばなりません。 

 第1に、事実を逆転させて天皇・裕仁の「戦争責任」を隠蔽し、美化していることです。

 一連の記事は、裕仁天皇が「戦争責任」で「苦悩」たかのようにいいます。共同通信とともに「日記」を分析したという半藤一利、保阪正康の両氏も、「昭和天皇の心の中には、最後まで戦争責任があった」(半藤氏)「人間的な感情が湧いてくる…天皇が人間になっていく」(保阪氏)などと、裕仁天皇を美化しています。

 しかし、報道されている「日記」詳報を読めば、裕仁の「心の中」にあったのは、自身の戦争責任ではなく、戦争責任から逃れたことに対する批判であったことが分かります。

 1975年11月24日の「日記」にはこう記されています。
 「御訪米、御帰国後の記者会見等に対する世評を大変お気になさっており…」。

 「帰国後の記者会見」とは、1975年10月31日の記者会見です。そこで裕仁は自身の戦争責任について聞かれ、こう答えています。

 「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよく分かりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます

 「戦争責任」を「言葉のアヤ」「文学方面」と揶揄し、質問にまともに答えようともしなかったのです。ここに「戦争責任」に対する裕仁のとらえ方、姿勢がはっきり表れています。批判は当然です。

 裕仁が「苦悩」したのは、こうした戦争責任に対する無責任で非人間的な態度に対する「世評」の批判です。けっして自身の「戦争責任」自体ではありません。この違いは天と地ほどあります。

 各紙が見出しにとっている「長く生きても…」という言葉(1987年4月7日の日記)も、「戦争責任のことをいわれる」ことが嫌だからということです。
 それをまるで裕仁が自身の「戦争責任」の良心の呵責に「苦悩」していたかのように言い、「人間的」と美化するのは、黒を白と言うようなものです。

  第2の問題は、明仁天皇の退位が来年5月に迫ったこの時期にこうした記事が出たことの政治的意味(意図)です。

  記事ははしなくも、「敗戦から73年。来年には『平成』も幕を閉じる。戦争の記憶が遠くなる中、昭和天皇が晩年、どういう思いで『大戦』に向き合ったのか、心奥に触れる価値ある日記だ」と書いています。ここに共同通信社およびその配信を大きく扱った各社の政治的意図が表れているのではないでしょうか。

 それは、「平成」の終わりにあたり、昭和天皇の「苦悩」「人間性」を強調することによって、「天皇の戦争責任」を最終的に封印する。その状態で徳仁に代替わりさせたい、ということではないでしょうか。

 裕仁の戦争責任を隠ぺい・封印するだけではありません。それは明仁天皇にも関わる重大問題です。明仁天皇はこれまで父・裕仁の戦争責任について明確に見解を述べたことがありません。裕仁を父に持ち、皇太子として薫陶を受け(写真右)、裕仁の後を継いで天皇になった明仁天皇には、「天皇の戦争責任」を認め謝罪する責任があるのではないでしょうか。「過去を顧み、深い反省」(8月15日「戦没者追悼式」での言葉)と言うなら、まず「天皇の戦争責任」について「反省」すべきではありませんか。「慰霊の旅」はけっしてその代わりにはなりません。

 しかし明仁はそれをしないまま来年退位しようとしています。今回の記事は、その明仁の責任放棄を側面から助けるかのように、”裕仁の苦悩”で「天皇の戦争責任」問題にピリオドを打とうとするものではないでしょうか。

 しかし、「天皇の戦争責任」が消えることは決してありません。

 敗戦時にそれを明確にしなかったのは「国民」の責任であり、そのツケは子々孫々まで引き継がねばなりません。天皇が何代変わろうと、「天皇の戦争責任」を明確にし、教訓を導き、被害を与えた東アジアの人々に謝罪し賠償を行わねばなりません。それまで「天皇の戦争責任」が風化することはけっしてありません。


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日曜日記17・「本田選手と朝鮮学校」「兵士の精神障害」「死体遺棄というけれど」

2018年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム

☆本田圭佑選手と朝鮮学校

 サッカーの本田圭佑選手が7月19日、神奈川朝鮮中高級学校(横浜市)をサプライズ訪問した。SNSの世界では評判になったらしいが、月刊「イオ」9月号で初めて知った。

 かつて名古屋グランパスの同僚で「兄」と慕う朝鮮の安英学氏との関係がきっかけ。南北首脳会談(4月27日)の翌日、本田選手は安氏とLINEでやり取りし、数日後に自身のツイッターで会談を祝福したという。このとき安氏が朝鮮学校訪問を打診したら、本田選手は「もちろん」と即答した。

  生徒たちが大歓声で驚喜した光景が目に浮かぶ。そして、本田選手は生徒たちに贈るサイン色紙に次の言葉を書き残した。「仲間」。
 安氏は、「日本で生まれ育ち、自分たちではどうすることもできない情勢に左右され、時に傷つき悩み葛藤してきた彼ら彼女たちにとって、あの言葉はどんな言葉よりも心強い“魔法の言葉”だったと思います」。

 本田選手は安氏らが用意した謝礼や交通費は一切受け取らなかった。
 「ヒョンムニ(兄さん)、これはビジネスじゃないので何も気にしないでください」

☆隠されてきた兵士の精神障害

 25日夜のNHK・ETV特集は、「隠されたトラウマ」と題し、隠ぺいされてきた「精神障害兵」の実態を報じた。

 先の戦争で中国や南方に送られた兵士の多くが戦争神経症を発病した。しかし帝国日本政府・軍は、「皇軍」には精神障害兵はいないと公言。その一方で国府台陸軍病院(千葉県市川市)に患者を収容していた。焼却処分を免れた8002人分の「病床日誌」が見つかった。

  戦場の恐怖と飢餓・疲労が兵士の精神を破壊した。上官による「私的制裁」の暴力が発病の原因になったことも日本軍兵士の大きな特徴だったという。日本に送還されないまま戦死した精神障害兵ももちろん数知れない。敗戦が近くなると、精神障害者と知りながら徴兵し戦地へ送るという信じられない無法も強行された。敗戦後もトラウマは生涯癒えることはなく、苦悩は家族にも及んだ。

  きのうまで家族と日常生活を送っていた庶民が徴兵され、殺すか殺されるかの戦場に送られ、実際人を殺し、体力の限界の上に上官の暴力が重なる。精神が侵されないほうがおかしい。
 帝国政府・軍はその実態を隠してきたが、隠してきたのは当時の政府だけではない。戦後になっても、その実態が明らかにされることは、今に至るまで、なかったのではないか。
 それが障害者に対する無理解、差別、果ては政府による「障害者雇用」の改ざんという醜悪な現実つながっていると思う。

 知っていなければならないのに知らない、知らされていない戦争の事実が、まだまだ多いことを改めて痛感する。

 ☆「死体遺棄罪」というけれど

  トイレでミイラ化していた夫(74)の死体を放置したとして妻(68)が「死体遺棄」の容疑で逮捕されるという事件が先日あった。夫婦は2人暮らしで、仲が良かったという。
 この種の「事件」が後を絶たない。高齢夫婦の2人暮らしで、一方が死亡するとそのままにしておく。介護中だったこともある。残された方が「死体遺棄罪」で逮捕される。

 これは果たして「犯罪」だろうか。「犯罪事件」として処理されていいのだろうか。
 事情は千差万別だろうが、好きで放置したのではないと思う。少なくとも犯意があったとは思えない。
 これは一種の「孤独死(孤立死)」ではないだろうか。2人暮らしでも「孤独・孤立」はある。誰かに相談したいが、相談する者はいない。死後の処理・手続きをする気力も体力もない。失意の中、「犯罪者」として逮捕される。これほどの絶望があるだろうか。

 文字通りの単身者とともに、高齢夫婦の孤独死(孤立死)がこれから増えていくと思う。最期をどのように迎えるかは人にとって最も重要なことだ。少なくとも、配偶者を失ったうえに「犯罪者」のレッテルを張られて人生を終えなければならないという悲劇はなくさなければならない。それは政治の最小限の責任ではないだろうか。


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玉城氏は「基地ある沖縄」「自衛隊配備強化容認」を引き継ぐのか

2018年08月25日 | 沖縄・選挙

     

 沖縄県知事選の「オール沖縄」陣営の候補者選びは、翁長氏の異常な「後継指名」に従って、異常な展開をみせています。

 県政与党などで構成する「調整会議」は、「録音テープ」の存在を確認しないまま、翁長氏が「後継指名」したとされる玉城デニー衆院議員(自由党幹事長、写真左の右側)に「全会一致」で出馬要請しました。玉城氏は26日に出馬表明するとみられています。

  こうした異常な展開の中で、肝心の知事選で問われるべき政策論議は置き去りにされ、「翁長氏の遺志」なるものが独り歩きしています。

  玉城氏は「調整会議」の出馬要請を受諾した23日、記者団の「どのような点で翁長知事の遺志を引き継ぐのか」との質問にこう答えました。 

 「私はかねて翁長知事の姿勢を尊敬していた。…これ以上沖縄に新しい米軍基地はいらないと断言していたこと、全てが翁長知事の遺志だと思う。あらゆる遺志を引き継いでいけるよう…にしたい」(24日付沖縄タイムス)

  この玉城氏の言明は重大です。

  第1に、「これ以上沖縄に新しい米軍基地はいらない」ということです。

 「これ以上…いらない」とは、今のままならいいという現状容認論に通じます。少なくとも「すべての米軍基地撤去」の要求とは相いれません。

 翁長氏はそれを隠そうとはしませんでした。今年3月13日のアメリカでのシンポジウムで翁長氏は、「沖縄県は日米安保条約の必要性を理解する立場だ。全ての基地に反対しているのではない」(3月16日付琉球新報)と明言しています。

 「基地なき沖縄」ではなく「基地ある沖縄」。これが「日米安保条約賛美」と一体の翁長氏の持論です。

 それは「核も基地もない沖縄」を望み目指す県民・国民の意思とは相いれません。たとえば、米軍嘉手納基地の撤去を求めてたたかっている「第三次嘉手納爆音差し止め訴訟団」の主張も、2016年から「嘉手納基地の撤去を含めた全基地撤去」に変わっています(中村重一共産党県副委員長、「前衛」9月号)。「全基地撤去」の声は切実に広がっているのです。

 「これ以上沖縄に新しい米軍基地は…」という翁長氏の言葉を強調した玉城氏は、翁長氏の「全ての基地に反対ではない」すなわち「基地ある沖縄」を引き継ぐつもりでしょうか。

 第2に、安倍政権が狙う離島・本島への自衛隊配備強化の問題です。

 翁長氏は県議会で何度も見解を求めらながらこの問題にけっして「反対」とは言いませんでした。宮古島や石垣島など現地で懸命の反対運動が行われているなか、「黙認」という形で容認したのです。
 翁長氏の「あらゆる遺志」を引き継ぐという玉城氏は、沖縄への自衛隊配備強化を容認してきた翁長氏の「遺志」も引き継ぐつもりでしょうか。

 ここで注目されるのは、玉城氏と自衛隊のただならぬ関係です。

 沖縄には沖縄県防衛協会(会長・國場幸一那覇商工会議所顧問)なる組織があります。「陸・海・空自衛隊、沖縄地方協力本部及び沖縄防衛局等の支援防衛思想の普及・啓発を目的に」(同協会HPより)、1972年3月に創設されました。「本土復帰」で自衛隊が沖縄に進出するに際し、反対運動に対抗するための組織です。

 玉城氏はなんとこの防衛協会の「顧問」に名を連ねているのです。
 同協会の役員名簿には、自民党国会議員らに交じって玉城氏の名前があります(写真中・右)。国政野党で同協会の役員になっているのは日本維新の下地幹郎衆院議員と玉城氏だけです。

  「沖縄防衛局の支援」を使命とする同協会の「顧問」である玉城氏が、防衛局が至上命題としている「辺野古新基地建設」に本気で反対できるのでしょうか。

 3年前、前年2014年衆院選挙の際、辺野古新基地建設で本体工事を受注した沖縄市の建設会社が、沖縄県選挙区から出馬して当選した6人の議員に対し、衆院解散直後から公示日までに計90万円の寄付を行っていたことが発覚したことがあります。
 「6議員は国場幸之助、宮崎政久、比嘉奈津美、西銘恒三郎(以上自民)、下地幹郎(おおさか維新)、玉城デニー(生活)の各氏」(2015年12月5日付琉球新報、所属政党は当時)。「公職選挙法は、国と契約した業者の国政選挙に関する寄付を禁止しており、抵触する可能性がある」(同琉球新報)

 辺野古新基地建設受注業者から違法性の強い「寄付」を受けた「6議員」は、すべて「沖縄県防衛協会顧問」でした。玉城氏もその1人だったのです。

 玉城氏は、「全米軍基地撤去=基地のない沖縄」に賛成なのか反対ないのか、「離島・本島への自衛隊配備強化」に反対なのか容認なのか。「出馬表明」をするのなら、少なくともこの2つの問題に明確に答える必要があります。


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映画「焼肉ドラゴン」と「済州島4・3事件」

2018年08月23日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

     

 久しぶりに感動的な映画を観ました。「焼肉ドラゴン」(原作・脚本・監督:鄭義信=写真中)です。評判の舞台を映画化したものです。しかし、私たち日本人にとっては、ただ「面白かった、感動した」ではすまされない映画です。

 映画のキャッチフレーズは「小さな家族の、大きな歴史」。確かに激烈な「家族愛」が描かれていますが、そこに視点が集中すると、肝心の「歴史」がかすんできます。

 時は大阪万博(1970年)前後、場所は大阪・伊丹空港のそば。そこに暮らす在日家族の物語です。父親の名前から店の屋号が「ドラゴン」。父親は帝国日本軍に動員され戦争で左腕を失っています。敗戦でいったん祖国・韓国に帰りましが、再び来日せざるをえず、「働いて働いて」やっと土地を買い、焼き肉店を構えています。

 家族は妻(再婚)と娘3人、息子1人。息子は「日本で生きねばならない」という父親の覚悟から私立の中学校に通わせます。が、そこで「在日」であるがゆえのすさまじい暴力(いじめ)を受け、ついに自ら命を絶ちます。

 熾烈な”いじめ“の描写は舞台にはないもので、鄭監督は「周囲の話から作ったシーンです。周囲にはいじめられた経験のある人、それが原因で自殺した人もいました。その『痛み』を自分なりに追体験し、作品の中に刻んでおきたかった」(「パンフレット」)と語っています。

 やっと手に入れて店(自宅)を構えた土地は、実は国有地でした。繰り返し立ち退きを求められ、抗議しますが、ついに立ち退きを余儀なくされます。父親は泣きながら訴えます。「土地を返せ、腕を返せ、息子を返せ!」

 後半、父親が、いったん帰国しながらなぜ再び来日せざるをえなかったかを語ります(長回しノーカット)。クライマックスです。
 父親の故郷は済州島(チェジュド)。1948年の抗争・弾圧で親兄弟は全員殺され、故郷は地上から姿を消しました。「済州島4・3事件」です。「4・3事件」こそこの物語の陰の主役なのです。再婚した妻も「4・3事件」で家族を失っていました。

 私たち日本人にとって、「済州島4・3事件」はけっして他人事ではありません(写真右は済州4・3平和記念館の「白碑」=ハンギョレ新聞電子版より)。

 この父親と同じように「4・3事件」で日本に来ざるをえなくなった詩人の金時鐘氏はこう指摘します。
 「一言でいえば『四・三事件』とは、『信託統治』の具体化に向けた米ソの話し合いが決裂し、便宜的な分割統治が恒久的な南北分断へと向かうなかで起こった悲劇であった。
 ソ連との話し合いに見切りをつけたアメリカは、一九四八年、南朝鮮だけの分断国家樹立にむけた総選挙を実施しようとするが、『四・三事件』は、直接的には、この『単独選挙』に反対する済州島での四月三日の武装蜂起に端を発し、その武力鎮圧の過程で三万人を超える島民が犠牲となる。
 この血なまぐさい弾圧に投入された警察・軍・右翼団体は、おおむね、植民地期に日本がつくり育てた機構や人員を引き継ぐ存在であったことを忘れてはならない。つまりそれは、ほかならぬ日本の朝鮮支配の申し子たちであった」(『朝鮮と日本に生きる』岩波新書)

 「済州島4・3事件」から今年は70年。「明治維新150年」と違い、日本人が銘記しなければならない歴史です。 

 もう1つ。聞き流すことのできない父親の台詞があります。

 「たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとええ日になる。」

 チラシにもパンフレットにも書かれている言葉で、鄭監督が最も伝えたかったことでしょう。過去がどんなに悲惨でも、未来は明るい日になる、なってほしいという希望の言葉です。

 父親がこう語った時から半世紀。在日の人たちにとって、「明日はええ日」になったでしょうか。なっていません。差別もいじめもなくなってはいません。それどころか安倍政権は国家権力による差別を強め(たとえば高校無償化制度からの朝鮮学校の排除)、「ヘイトスピーチ」という当時はなかった犯罪的行為も蔓延しています。

 「明日は信じられる。たとえ昨日がどんなでも、明日はきっとええ日になる」

 これは、現在の日本政府・日本社会・私たち日本人に対する逆説的な告発ではないでしょうか。
 在日の人々がほんとうに「明日はきっとええ日になる」と思える社会を、私たち日本人はつくっていかねばなりません。

 


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杉田水脈議員のもうひとつの妄言

2018年08月21日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義

     

 「LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるのか。彼ら彼女らは子どもをつくらない、つまり『生産性』がない」(7月18日発売月刊「新潮45」)と暴言を吐いた自民党の杉田水脈衆院議員(比例中国ブロック、写真左)。妄言はこれだけではありません。

 今年2月26日の衆院予算委員会分科会で杉田氏は、文科省と日本学術会議が交付する科学研究費助成事業(科研費)を取り上げました。

 「杉田氏は、科研費の一部が韓国の市民団体とともに朝鮮半島統治時代の徴用工問題に取り組む日本人学者に支給されたと報じた昨年12月13日付の産経新聞記事を紹介し、『科研費で研究を行う研究者たちが韓国の人たちと手を組んで(プロパガンダを)やっている』と指摘。外務省が歴史問題の発信に前向きな中で『文科省が後ろから弾を撃っている構図のようなものではないか』とただした」(2月27日付産経新聞)

 杉田氏が国会で取り上げた産経新聞の記事(写真右)とは、「歴史戦 結託する反日」と題した連載の2回目で、「『徴用工』に注がれる科研費」の見出しで、水野直樹京都大教授や徐勝立命館大教授ら朝鮮・韓国の現代史を研究している学者・研究者に科研費が交付されていることを攻撃したものです。

 私が杉田氏のこの質問を知ったのは、海部宣男国立天文台名誉教授の新聞寄稿によってでした。海部氏は、「『反日研究者に税金を使うな』という主張には、見過ごせない本質的問題がある」として、こう指摘しています。

 「学問の自由が大事なのはもちろんだし多くの(科研費についての-引用者)誤解もあるが今はそれには触れない。ここで言いたいのは、言い古されたことだが『政権は国そのものではない』ということだ。
 『国』は国民全体のもの、民意で運営してゆくものである。時々の『政権』は、一時のものにすぎない。だから、政権が進める政策を非難するのは『反日』ではない。もしそうなら、野党やそれを支持する国民はすべて『反日』になる。…民主主義を掲げる以上、時の政権を『国』と同一視することは決してできない」(7月28日付中国新聞)

 関連して注目されたのが、柿木伸之広島市立大教授の論考です。
 柿木氏は相模原市「津久井やまゆり園」事件を記憶にとどめることの重要性を強調する中で杉田氏の「生産性」発言に触れ、こう指摘しています。

 「これは、同性愛者に対する差別をむきだしにしながら、生き方の価値を権力の側から決めつける思想であり、突き詰めれば、一種の優生思想を国家主義と結び付けながら主張するものともいえる」(8月11日付中国新聞)

 杉田氏の「科研費」質問は、海部氏が指摘する問題とともに、朝鮮・韓国に対する民族差別、日本帝国の植民地支配の隠ぺいが表れたものです。彼女においては、「LGBT(性的少数者)」も「朝鮮史研究者」も敵視の対象であり、それを「国家予算(税金・科研費)」配分という国家権力をテコに排除しようとするものであり、差別主義(レイシズム)と国家主義(ナショナリズム)が混然一体と結合したものにほかなりません。

 それが杉田氏だけのものでないことは、彼女が「安倍チルドレン」の1人であり、安倍氏と同じ派閥に属し、安倍氏や二階自民党幹事長が彼女を擁護していることに端的に示されています。

 同時に考えねばならないのは、「死刑廃止の世界的な潮流に背を向け、合法的に人を死なせる力を公権力に担保し続けているのが、現在の日本社会である。そして、この社会はいまだ、生きることをその多様性において尊重する状態にはない」(柿木氏、前掲中国新聞)ことです。

 岡田憲治専修大教授もこう指摘します。
 「(杉田氏の「生産性」発言に対し-引用者)憤怒と抗議が街頭にあふれているわけではない。杉田議員の認識を許容する『何か』が日本社会に隠然と共有されているからだ。…我々の反応は、実はまだ『差別はいけない』という戒めの域を大きくは出ていない。…『人権問題』という冷たい看板言語だけではなく、リアルな生活に根ざした言葉で、その内実に向き合わねばならない」(8月14日付中国新聞=共同配信)

 杉田議員の相次ぐ妄言は、安倍・自民党の本質を露呈しただけでなく、「日本社会」すなわち私たちに対する反面教師でもあるのです。


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「翁長氏が後継指名」という異常

2018年08月20日 | 沖縄・翁長知事

     

「翁長知事、後継2氏指名 知事選 音声で呉屋、玉城氏」(琉球新報)
「呉屋・玉城氏を後継指名 知事選 翁長知事が生前録音」(沖縄タイムス)

 19日の沖縄県紙はいずれも、亡くなった翁長雄志氏が「後継指名」をおこなっていたとする記事を1面トップで大きく報じました。記事の内容はほぼ同じ。情報源も同じと推察されます。呉屋氏とは呉屋守将金秀グループ会長、玉城氏は玉城デニー自由党幹事長。 

 さらに両紙とも、県政与党側(「オール沖縄」陣営)の知事選候補は「呉屋・玉城氏から選出か」(沖縄タイムス)と、翁長氏の「後継指名」通りに候補者が決まる可能性が大きいとしています。

 開いた口がふさがりません。沖縄県知事選は自民党の派閥ボス選びではありません。しかも翁長氏は言うまでもなく、「オール沖縄」陣営の「政策・組織協定」によって当選した知事です。それを派閥のボスのように亡くなる直前に「後継指名」するとは、知事のポストを私物化するものにほかなりません。

 しかも、人選をすすめていた「調整会議」(写真右)が、これまでの選考を白紙にしてそれを受け入れ、また「オール沖縄会議」などからもなんの異論も出ず、翁長氏の「指名」で候補者が決まろうとしている。選挙共闘の民主的原則・手続きのあからさまな蹂躙と言わねばなりません。

 「後継指名の録音」が表面化した経緯も極めて不明瞭です。 

 「音声は膵臓がんで死去する数日前に病院で録音されたもの」(19日付沖縄タイムス)といいます。しかし「関係者」がそれを県紙にリークしたのが死去から10日たった18日。なぜ10日間も秘匿していたのでしょうか。陣営が候補者選びを急ピッチで進めていたのは周知の事実。にもかかわらず「遺言」を10日間も隠していた理由は何でしょうか。

 しかもこれは公式の発表ではありません。琉球新報、沖縄タイムスとも情報源は「関係者」「複数の関係者」というきわめてあいまいなものです。なぜ匿名にする必要があるのでしょうか。
 「音声は17日に新里米吉県議会議長が遺族から受け取った」(19日付沖縄タイムス)といいます。新里氏は受け取った時になぜみずから記者会見して公表しなかったのでしょうか。

  17日は県政与党が候補者選考を行っている「調整会議」が、「選考委員会を開き、各団体から推薦する候補者を募ったばかりだった。(新里米吉氏らが)推薦された候補者への意向確認を進めていた。そのさなか、音源の存在が明らかになった」(19日付琉球新報)。このタイミングはどういう意味を持つのでしょうか。

 17日の「調整会議」では、呉屋氏、謝花喜一郎副知事、赤嶺昇県議が推薦されましたが、「呉屋氏、謝花氏には意志確認があった一方、赤嶺氏には打診がないという。赤嶺氏を推した会派おきなわなどからは選考の在り方に不満が漏れて」(19日付沖縄タイムス)いたと、「調整会議」の民主性に疑問が出ていた矢先でした。

 もともと共闘で当選した知事に「後継指名」などありえません。その上に、こうした不明瞭さ。にもかかわらずその「指名」に沿って候補者が決まろうとしている。それに対して「オール沖縄」陣営から何の疑問・批判も出ていない。何重にも問題が重なっています。

  知事選候補者は翁長氏の「後継指名」を度外視して選考されるべきです。そして、選挙共闘で肝心なのはなによりも「共通の政策」(政策協定)です。「オール沖縄」陣営は「共通政策」づくりを急ぎ、その実行にふさわしい人物を候補者に擁立するという共闘の原則に立ち返るべきです。

 


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日曜日記16「ウルトラマンボヤと沖縄」「点滴事件と相模原事件」「命の重み」

2018年08月19日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「ウルトラマンボヤ」と沖縄 
 
16日のNHK「日本人のおなまえ」で、生物の珍しい名前を紹介していた。その中に、「ウルトラマンボヤ」というホヤの仲間がいた(写真)。3つの白い目のようなものがウルトラマンの顔に似ているからだそうだ。生息地は沖縄近海。

 ここまで紹介したのなら、「ウルトラマン」と沖縄の関係について触れてほしかった。が、言及はなかった。おそらくディレクターは知らないのだろう。

 「ウルトラマン」の生みの親は沖縄出身の金城哲夫だ。学生時代(玉川大)から「沖縄と本土の懸け橋になりたい」と友人と沖縄を伝える通信を手作りした。「ウルトラマン」シリーズの中にも沖縄を連想させるものがある。円谷プロをやめて沖縄海洋博(1975年)を演出し、批判も浴びた。37歳の若さで事故死した。自殺説もある。

 5年前、那覇にいたときに金城哲夫の実妹・上原美智子さんの講演を聴く機会があった。上原さんはこう言われた。「哲夫がもし生きていたら、今は『本土との懸け橋に』とは言わないのではないか。今問われているのは『われわれウチナーンチュは日本人なのか』ということではないか」

 「ウルトラマン」誕生から半世紀。「本土」への沖縄の不信感は強まるばかりだ。「本土」の罪はそれほど深い。

 ☆点滴事件と相模原事件
 
横浜市の病院で点滴に消毒剤を入れて入院患者を相次いで殺害した元看護師が18日再逮捕された。この事件が報道され始めたときから、相模原市「津久井やまゆり園」事件との類似性が気になってならない。

 いずれも福祉・医療現場の(元)職員による入所者・患者への行為だ。逮捕される以前、この元看護師は「この病院は末期の患者が多い」という趣旨のことをテレビで話していた。事件の動機・背景はこれから明らかにされる必要があるが、最期が近い高齢入院患者の「命」への軽視があるように思えてならない。その狂気が本来入院患者に寄り添うべき看護師を捉えたところに、相模原事件に通底する深刻さがあり、個人に還元できない問題がある。

 相模原の事件から2年。解明され議論されるべきことがなされないまま2年たち、忘れようとしている社会現象が、点滴事件の背景にあるように思える。このままでは、同種の事件が繰り返される恐れがある。

☆命の重み
 
9日付の中国新聞にノンフィクション作家・堀川恵子さんの「死刑執行と日本社会 問われる私たちの選択」という見出しの寄稿文が載った。堀川さんは、死刑囚と日々面会し最後は死刑執行を見届ける「教誨(きょうかい)師」を取材した著書がある。

 オウム事件の同時大量死刑執行に関連して、堀川さんはこう言う。
 「法務省は情報公開を拒み、死刑制度を支える人々の献身と犠牲は顧みられることがない」「人間が制御できないのが『命』である。災害や病気、事件や事故、そして寿命。私たちの人生は、避けようのない別離の哀しみに満ちている。だからこそ、どんな命も尊いし、誰にも奪うことは許されない」「死刑の存廃、そのいずれにも『正解』はない。問われるのは、私たちが命の重みをどう受け止め、どんな社会を目指していくかという『選択』である」

 「命の重み」。一般論でなく、また死刑制度との関連だけでなく、それをあらためて凝視し直さねばならない社会、時代になっていると思う。


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「翁長県政」を検証する(下)「保革を超える」とは?

2018年08月18日 | 沖縄・翁長知事

     

 翁長氏が「民主的人びと」に高く評価されている背景には、今日の歴史的な政治状況があるるように思えます。
 キーワードは、「保革の対立を超える」です。翁長氏の支持母体である「オール沖縄」がそれを象徴していますが、「保革の対立を超える」とはどういうことでしょうか?

  従来、「保守」と「革新」を分ける理念・政策上の重要な相違点は、「天皇制」「日米安保」「憲法」の3点だと言われてきました。このうち、現在の沖縄に直接関係するのは、言うまでもなく「日米安保」です。

 「日米安保条約堅持・強化」が「保守」の重要な理念・政策です。安倍政権が強行した戦争法ももちろんその一環です。
 これに対し、「革新」を標榜する日本共産党は、少なくとも公式には「日米安保条約廃棄」の旗を降ろしていません。
 
 したがって「保革にお対立を超える」という場合、「日米安保条約」に対するこの理念・政策の対立を「超える」ということになります。
 共産党は現在、安保条約をめぐる意見の相違を共闘の障害にはしていません。その場合、不一致点は保留するのが共闘の原則です。
 つまり、「保革の対立を超える」とは、日米安保条約に関してそれを支持するとも反対するとも明言せず、態度を「保留」するということです。それが「オール沖縄」の一致点であり、「オール沖縄」を支持母体とする翁長知事も当然それに基づいた県政を行うべきでした。

 しかし、実際はどうだったでしょうか。 

 翁長氏は「知事就任会見」(2014年12月10日)で早くも、「わたしは日米安保体制にはたいへん理解をもっているわけです」(同12月12日付沖縄タイムス)と言明しました。以来、ことあるごとに「日米安保体制支持」を表明してきました。

 たとえば、注目を集めた辺野古訴訟(代執行訴訟)の1回口頭弁論の意見陳述(2015年12月2日)でも、翁長氏はこう述べました。

 「日米同盟の維持についてですが…私は日米安保体制を十二分に理解しているからこそ、そういう理不尽なこと(「沖縄県民の圧倒的な民意に反して辺野古に新基地を建設すること」)をして日米安保体制を壊してはならないと考えております。日米安保を品格のある、誇りあるものにつくりあげ、そしてアジアの中で尊敬される日本、アメリカにならなければ、アジア・太平洋地域の安定と発展のため主導的な役割を果たすことはできないと考えております」(同12月2日付琉球新報「翁長知事陳述書全文」より)

 日米同盟が世界に冠たる軍事同盟でることは言うまでもありません。「品格・誇りのある」軍事同盟などというものは私には理解不能ですが、この陳述には翁長氏の日米安保に対する基本的な思想・理念が表れているのではないでしょうか。そして、これこそが「保守」のイデオロギーにほかなりません。

 翁長氏は、自身の政治信条が「日米安保支持」であることを表明し続けただけではありませんでした。

 今年3月13日、訪問先のアメリカでのシンポジウムで翁長氏は、「(アメリカと日本・沖縄が)日米安保体制の強い絆で結ばれるのはいい」(3月15日付沖縄タイムス)、「沖縄県は日米安保条約の必要性を理解する立場だ。全ての基地に反対しているのではない」(3月16日付琉球新報)と述べ、「沖縄県」として日米安保条約を支持して全基地に反対しているのではない言明しました。

  また翁長氏は、在沖米軍トップ・ニコルソン四軍調整官との会談(2017年11月20日、写真右)では、「日米が世界の人権と民主主義を守ろうというのが日米安保条約だ」(2017年11月21日付沖縄タイムス「会談要旨」)とまで述べて日米安保条約を絶賛しました。

 こうした翁長氏の一連の言明が、日米安保についての不一致点を保留する共闘の原則から逸脱していることは明白です。
 翁長氏は知事就任以来一貫して、「日米安保」という重要な柱において、けっして「保革の対立を超え」てはいませんでした。自らの「保守」の立場・イデオロギーを明確に表明し続けてきたのです。これは「翁長県政」を評価するときに絶対に見過ごすことができない点です。

 同時に強調しなければならないのは、こうした翁長氏の共闘原則違反に対し、「革新」の日本共産党が一言の抗議・批判もせず、逆に翁長氏を支持・賛美し続けてきたことです。

 共産党の志位和夫委員長はかつてこう述べたことがあります。
 「沖縄の基地問題が今日までなお解決しない根本、沖縄県民ぐるみ反対している『辺野古移設』をかくも強引にすすめようとする根本に、マッカーサー・ダレス以来の『望むだけの軍隊を望む場所に望む期間だけ駐留させる』ことがアメリカの『権利』なのだという、『全土基地方式』という屈辱的な従属構造があることを、私は、告発したいと思うのであります。
 今日のこの日を、日本全土を従属の鎖にしばりつけた日米安保条約をこれ以上続けていいのかということを、全国民が真剣に考える日にしようではありませんか。そして、安保条約第一〇条では、国民の相違によって安保条約廃棄を通告すれば、安保条約は一年後にはなくなると書いてあります。米軍には荷物をまとめてアメリカに帰ってもらう。沖縄からも日本からも帰ってもらう。そういう安保条約廃棄の国民的多数派をつくっていこうではありませんか」(2013年4月28日「安保条約廃棄・真の主権回復を求める国民集会」で。志位氏著『戦争か平和か』新日本出版社より)

 安保条約に対してこう述べた志位氏(共産党)が、安保条約を「世界の人権と民主主義を守ろう」とするものだと言う翁長氏をどうして支持できるのか、「みじんも揺らぐことのない不屈の信念と、烈々たる気概」(志位氏の弔電。11日付「赤旗」)を持った政治家とまで絶賛できるのか、理解に苦しみます。

  共闘の上に立って知事になった翁長氏が共闘の一致点で行動しなければならないのとは違い、「オール沖縄」の構成員である団体・政党・個人は独自に政策を宣伝することができるし、するべきです。

 「辺野古新基地の建設に反対するという一致点で声をあげつつも、普天間基地の撤去を含めた基地問題の解決のためには、日米安保への批判を独自に強めていくことが不可欠である」(渡辺治一橋大名誉教授、「世界」2015年6月号)

 共産党は「翁長県政」の3年半の間、安保条約廃棄へ向けた独自の宣伝・運動をどれだけやってきたのでしょうか。

 「保革の対立を超える」という「オール沖縄」の共闘は結局、「日米安保」に対する批判を封印し、結果、「日米安保体制」を容認することになったのではないでしょうか。

 そして翁長氏は、そうした「革新」を横目に、日米安保を礼賛する自らの「保守」のイデオロギーを繰り返し表明してきたのです。

 そんな翁長氏が、「民主的人びと」から絶賛されているのは、日本の政治から日米安保体制の是非を問う根本問題が後景に追いやられ、結果、日米安保体制が維持・強化されている歴史的現実の反映ではないでしょうか。

 それは「基地のない沖縄」を願う沖縄県民の意思に反するとともに、朝鮮半島・東アジアの新たな情勢の下で、いまこそ日米安保条約を廃棄して軍事同盟を解消すべき歴史的使命にも逆行しているのではないでしょうか。


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