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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「国民」を憲法違反の道連れにする「天皇退位法案」

2017年05月20日 | 天皇制と憲法

    

 安倍政権は19日、「天皇退位」の特例法案を閣議決定し、国会に提出しました。この問題では、天皇制廃止へ向けた根本的議論こそが必要だと再三述べてきましたが、今日はそれはひとまず置いて、この法案自体の重大な問題点について述べます。

 与野党間ではすでにこれを成立させる合意(談合)ができており、メディアも基本的に容認したうえで今後の焦点は「女性宮家」問題だなどとしています。とんでもない話です。
 この法案は、多くの点で日本国憲法に反しています。そればかりか、「国民」をその憲法違反の道連れにしようとする稀代の悪法です。絶対に容認できません。

 ① 前代未聞、法律に「敬語」…中身の前に。同法案は第1条の冒頭から、「天皇陛下」「御活動」「御高齢」など、天皇に対する敬語のオンパレードです。敬語を使った法律など前代未聞です。もちろん憲法(第1章)も皇室典範も、天皇に敬語は使っていません。
 敬語は上下関係を表すものです。法律に敬語を使うということは、法律を決める国会、「国権の最高機関」(憲法第41条)である国会を天皇の下に置くものです。それは「主権が国民に存する」(憲法前文)主権在民の原則にも反すると言わねばなりません(ちなみに明治憲法ですら敬語は使っていません)

 ② 特例法で憲法の「皇位継承」ルールを変更…「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(憲法第2条)。「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(皇室典範第4条)。これが「皇位継承」についての憲法・皇室典範のルールです。これを変えないで「特例法」で「生前退位」を認めるのは憲法に反する、というのが当初の野党の主張でした。その通りです。
 ところが結局、憲法も皇室典範も変えないまま「特例法」で「生前退位」を認めることになりました。政府・自民党に押し切られたのです。皇室典範の附則に「この法律と一体を成す」と書いたところで、皇室典範の改正にならないことは明白です。
 民進、共産など野党は、「憲法上問題」だと言ってきたことに対してどう釈明するのでしょうか。

 ③ 憲法にない「公的行為」を法律で公認…同法案は、「天皇陛下が…国事行為のほか…象徴としての公的な御活動に精励してこられた中…国民は…これらの御活動に精励されている天皇陛下を深く敬愛し…」(第1条)としています。これは「国民」の名を使って天皇の「公的行為」を法律で公認しようとするものです。
 しかし、「公的行為」は、「天皇の権能」を定めた憲法第4条に照らして問題だと指摘する憲法学者は少なくありません。横田耕一九州大名誉教授は、政府見解(1973年)を念頭に、「公的行為」を認めるかどうかは「議論のあるところ」としたうえで、「天皇は他の公人と異なりもともと儀礼的行為を行う権能しか認められておらず、しかも憲法はそれを憲法が明記するものに限定していること、などから、二行為説(天皇がなしうる行為は国事行為と私的行為の2つとする説ー引用者)が合理的であるように思われる」(『憲法と天皇制』岩波新書)と述べています。今回の法案はこうした「公的行為」に対する批判を一掃しようとするものです。

 ④ ゛天皇二人体制”図る「上皇」制度…同法案は「退位した天皇は、上皇とする」(第3条)とし、第4条で詳細を規定しています。その基本は、「上皇」については「天皇の例による」(第3条、第4条)、つまり国事行為を除く「公的行為」の分担や経済的保障、官僚体制などは天皇に準じるということです。
 すなわち「上皇」とは゛第2の天皇”にほかなりません。「上皇」が存在する限り、「天皇制」は゛二人体制”になると言っても過言ではないでしょう。これは憲法の「象徴天皇制」の実質的変更です。

 ⑤ 天皇の「政治関与」という憲法違反を「国民の理解・共感」で隠ぺい…今回の法案の最大の特徴はこれです。そもそも発端は天皇明仁の「ビデオメッセージ」(2016年8月8日)であったことは否定しようがありません。しかし天皇の「メッセージ」を受けて法律を作ったことを認めると、天皇は「国政に関する権能を有しない」(第4条)という憲法の規定に反することが明白になります。政府の操り人形である「有識者会議」が最終報告(4月21日)で、「天皇の国政への関与を禁じている日本国憲法の規定にも留意しつつ…」とわざわざ書いたのはそのためです。
 そこで法案はどうしたか。「天皇陛下が…天皇として自ら続けられることが困難となることを深く案じておられること、これに対し、国民は…天皇陛下を深く敬愛し、この天皇陛下のお気持ちを理解し、これに共感している」(第1条)ことを、特例法制定の理由に挙げたのです。
 天皇の「メッセージ」で法律を作ったのではない、天皇を「深く敬愛」している「国民」が天皇の気持ちを「理解」し「共感」し(いわば忖度<そんたく>して)、特例法を作るのだ、というわけです。あまりにも見え透いたこじつけです。天皇の「メッセージ」によって特例法が作られようとしていることは動かせない事実であり、それは天皇と安倍政権の明白な憲法違反です。
 この法案は、「国民」を天皇と安倍政権の憲法違反の道連れにし、隠れミノにしようとするものにほかなりません。

 以上は法律の門外漢である私の意見です。今こそ学者とりわけ憲法学者の出番です。この特例法は憲法に照らして許されるのか。明快な分析と勇気ある発言が求められています。
 すでに国会は、「天皇問題」では与野党が対立しない「翼賛化議会」となっています。このうえ学者・識者、市民も「天皇タブー」に侵されたのでは、前途は真っ暗です。

 ※当ブログは前身の「私の沖縄日記」から通算して、今回で1000回になりました(第1回は2012年11月26日)。読んでいただき、誠にありがとうございます。もし少しでも参考になると思っていただけるなら、「アリの一言」をお知り合いに薦めていただけませんでしょうか。私ももっともっといいものになるよう努めます。

 


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「天皇制廃止」はなぜ議論にならないか-2つの対談から

2017年05月16日 | 天皇制と憲法

     

 天皇の退位についての特例法案が19日にも閣議決定され、この問題は1つのヤマ場を迎えます(法案批判は後日)。
 昨年の「天皇ビデオ」以降の「退位問題」の致命的欠陥は、再三述べて来たように、廃止を含む天皇制自体についての議論がまったくないことです。なぜなのか。それを考える手がかりとして、2つの「対談」を紹介します。

☆1つは、テッサ・モーリス・スズキ氏(オーストラリア国立大教授・歴史学)と吉見俊哉氏(東京大大学院教授・社会学)の対談です(『天皇とアメリカ』集英社新書、2010年より)

 テッサ 不思議なのは、たとえば憲法改正論議のときに、そろそろ共和制(天皇制廃止―引用者)にすべきだという提案があっていいはずなのに、それがマスレベルでは出てこなかった。外から見ていると、共和制の議論は当たり前に存在すべきですよね。ところがそれが全然ない。実際に共和制に移行するかどうかはまったく別問題なのです。しかし討論がないことは大変不健全だと感じました

  吉見 日本でも、戦後憲法ができるころにはそういう議論があった。でも、今はなくなってしまった。それはタブーだからとか、検閲があるからとかということよりは、この国では人々の想像力そのものが、もうそこまで及ばないのだろうという気がします。そして現在では、日本国民の約八割が、象徴天皇制が現在のまま続くことを望んでいるといいます。積極的に「天皇」に何か幻想をいだいているというよりも、特にネガティブな要素があるわけでもないので、天皇制は存続させるのが「自然」だろうという感覚だと思います。「安心・安全」の天皇制ですね。今では天皇は、積極的に求められているわけでも、積極的に拒否されているわけでもありません。むしろ日本人には、天皇制のない日本というものが、もはや想像することすらできなくなっているのではないでしょうか

 吉見 天皇の存在を根底から否定する議論は、右翼を刺激しますから、メディアも気軽に流すことができない。それで世論を醸成できない。…そうすると、人々の発想のなかから共和制論議ということがなかなか生まれなくなってくる。想像力の縮減ですね。

 テッサ 想像力の欠如こそ、危険なのです。おそらく現在の天皇制に関する議論、憲法に関する議論で、いろいろな難しい問題はあるのですが、最も大きな問題のひとつは想像力の欠如ではないかと感じます。天皇制がなくなっても、さほど世の中に変化はないはずです。いちばん変わるのは、想像力が解放される部分ではないでしょうか

 ☆もう1つは、奥平康弘氏(東京大学名誉教授、憲法学)と木村草太氏(首都大学東京教授、憲法学)の対談(『未完の憲法』、潮出版、2014年)です。

 木村 そもそもの話として、君主制―日本の場合は天皇制が、いったいなぜそんなにも強く日本人を惹きつけるのでしょう?その点に、私は素朴な疑問を感じてしまうんです。

 奥平 「天皇制は廃止すべきだ」という立場の議論は、残念ながら日本人一般の中でほとんど議論の土俵にすらのぼっていません。「天皇制はなんとなく日本の伝統に即している気がするし、日本人は調和を重んじる民族なのだから、いい国であるためには残しておいたほうがいいのではないか」という、まさに「なんとなく」の天皇制肯定が当然の前提となってしまっているんですね。

 木村 一つの合理的解釈として、人々が巨大な「惰性」「慣性」の中にいるのではないか、という推察が成り立つ気がするのです。…先生がおっしゃる「天皇制に対するなんとなくの肯定」を支えているのは、案外そうした「惰性」「慣性」かもしれません。

 奥平 理論的な根拠というものを示さないままで、いわば「慣性としての天皇制」ともいうべきものが、日本には成立している。しかし、それは慣性が根拠になっているからこそ、思いのほか強力なんですね。…そう考えてみると、敗戦後に天皇制を残すことに成功した日本の支配層のやり方というのは、ある意味ですごく巧みでした。

 2つに対談には、共通した指摘(問題意識)があります。「想像力の縮減・欠如」・「安心・安全の天皇制」と、「惰性」「慣性」・「慣性としての天皇制」。

 自分の「安心・安全」のために「惰性・慣性の天皇制」に安住していていいでしょうか。「天皇制」が日本の民主主義・人権・平和にとってどういう意味をもってきたのか、持っているのか、持とうとしているのか。いまこそ「想像力を解放」して議論しようではありませんか。


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「天皇退位問題」の核心は何か

2017年03月21日 | 天皇制と憲法

     

 衆参正副議長がまとめた「立法府の総意」(17日)はじめ、「天皇の退位」をめぐるこのかんの政府、与野党、メディアの議論は、肝心な問題が最初から除外されています。
 「天皇退位」問題の核心は何でしょうか。最近注目した2つの論稿を紹介します。

 ☆ 1つは、朝日新聞(3月18日付)に掲載された原武史氏(天皇制を研究する政治学者・放送大教授)のインタビュー(写真中)です。

 明仁天皇の「ビデオメッセージ」以降の動きについてー。

 「はっきり言っておかしいと思います。いまの憲法下で、天皇は国政に関与できないはずです。それなのに、天皇が退位の気持ちをにじませた発言をすると、急に政府が動きだし、国会でも議論を始めた。『お気持ち』を通して、結果的にせよ、国政を動かしています。私が知る限り、戦後、天皇が意思を公に表し、それを受けて法律が作られたり改正されたりしたことはありません

 「本来は天皇を規定するはずの法が、天皇の意思で作られたり変わったりしたら、法の上に天皇が立つことになってしまう

 「大事なことは、退位のよしあしよりも、過程全体が憲法や皇室典範など現行法にのっとっているかどうかです

 こうした原氏の指摘はこれまで「大きな議論になっていない」という記者に対しー。

 「もっと憲法学者や政治学者たちから問題提起や疑義が出てもよさそうなものですが、なぜか聞こえてきません。…『退位の意向』が報じられた当初から私はおかしいと言っているのですが、ほとんど反応がない。孤立感を抱いています


 ☆ もう1つの注目すべき論稿は、奥平康弘氏(憲法学者・東大名誉教授、2015年没)の『「萬世一系」の研究(上)(下)』(岩波現代文庫、今月発行、初出は2005年)です。

 膨大・重厚な論稿で、簡単には抜粋はできませんが、「天皇の退位」に関する部分の中から、いくつか紹介します。

 「『天皇の退位』というテーマは、憲法学者も含めて『ふつうの日本人』の多くが好んで話題にする『天皇(または皇族)に”人権”があるか』という主題と密接不可分、一体のものであるはずなのに、市民間はもちろんのこと、憲法学説上もほとんど議論されていないという事情がある」

 「私が問題にしたいのは、天皇制がある種のひと(ひとびと)<天皇と皇族ー引用者>に不自由を強いる構造になっているという制度のつくり方それ自体である

 「皇室典範の個々の規定を個別に改正して事態を収拾しようとする政策に頭から反対するつもりはない。しかし、これは対処療法でしかなく、暫定措置的な効果が期待されるに過ぎない。天皇制(天皇家)が憲法上の制度たることをやめないかぎり、不自由・拘束は遺憾ながら制度とともに付いてまわらざるを得ない

 「『戦後六〇年』のあいだに、天皇制に関してはたくさんの議論があった。けれども、公には、天皇制の合理的な根拠を真正面から問題にする機会をわれわれは持ったことがない。いまこそが本当は、その好機だと思う(注・小泉政権下での「女性天皇」論議ー引用者)。しかし、今度もウヤムヤに終わるだろう。『女帝』論議と違って、天皇制の合理的な根拠をめぐる議論は、道具的な意味での『合理性』が問われるのではなくて、憲法体系に関わる政治原理のレベルで問われるべきものであって、いわゆる『公共理性』(public  reason)にもとづく討議とならざるをえない」

 2005年に書かれた奥平氏の指摘は、12年後の今もそっくりあてはまります。

 原氏、奥平氏の論述から学び直したいのは、「天皇の退位」問題は、抹消な法律で処理すべき問題ではなく、あくまでも憲法に立ち返って考えるべきだということ。
 さらには、戦後70年怠ってきた(「天皇制タブー」)、憲法上の天皇制の「合理的な根拠」を正面から問い直すこと、すなわち「天皇制」自体を根本的に見直すことが必要であり、今こそその「好機」だということ。
 そして、それを行うのは、「天皇」ではなく、主権者であるわれわれ自身である、ということではないでしょうか。
 

 


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「天皇退位・国会総意」-憲法上の4つの重大問題

2017年03月20日 | 天皇制と憲法

     

 政界もメディアも「森友問題」に目を奪われている間に、きわめて重大な問題が、批判も受けないまま既成事実化しようとしています。「天皇の退位」について衆参正副議長が「とりまとめ」を行った「国会の総意」(以下「総意」)なるもの(17日)です。

 「土台は固まった」(18日付毎日新聞社説)「『総意』が見えてきた」(同朝日新聞社説)など、メディアは一様に評価していますが、とんでもない話です。「総意」には憲法上の重大問題が少なくとも4つあります。

 ① 憲法が禁じている「天皇の国政関与」を二重に容認

 「総意」は冒頭、「各政党・各会派におかれては…次の諸点については、共通認識になった」として、2点挙げています。第1は、「昨年8月8日の今上天皇の「おことば」を重く受け止めていること」「「おことば」以降…立法府としても、今上天皇が退位することができるように立法措置を講ずること」です。

 8月8日の明仁天皇の「ビデオメッセージ」は、自ら生前退位への意向を強く示唆し、「摂政」を事実上否定するなど、きわめて政治的なもので、それ自体憲法第4条(国政に関する権能を有しない)に反するものでした。
 しかも「総意」は、その天皇の「メッセージ」を受けて国会が「立法措置を講ずる」ことになったと認めています。これは「天皇のお言葉をきっかけにする形では天皇の政治介入になってしまう」(横田耕一九州大名誉教授、16年8月9日付中国新聞)という指摘通りの事態です。
 「総意」は、「ビデオメッセージ」自体と、それで国会が動き出したという二重の憲法違反を容認・追認したことになります。

 ② 憲法にない「天皇の公的行為」の容認・定着

 「総意」が「共通認識になった」として挙げた第2は、「今上天皇が、現行憲法にふさわしい象徴天皇の在り方として…行ってこられた象徴としての行為は、国民の幅広い共感を受けていること」。
 「象徴としての行為」とは、憲法が規定している「国事行為」以外のいるいわゆる「公的行為」です。この中には、国会開会式での「おことば」や「皇室外交」など、きわめて政治的な「行為」が数多く含まれています。そもそも憲法に規定のない「公的行為」自体が憲法上認められるかについても諸説あります。
 ところが「総意」は、そうした問題・異論を排し(これだけでもけっして「国民の総意」=憲法第1条ではありません)、「公的行為」が「幅広い共感を受けている」と断じ、その容認・定着を図ろうとするものです。

 ③ 皇室典範の改正ではなく「特例法」で退位を認める脱法行為

 憲法は、「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」(第2条)と定めており、典範は、「天皇が崩じたときは、皇嗣が、直ちに即位する」(第4条)と明記しています。これは「皇位継承」は天皇が死亡した時に限ると「生前退位」を禁じたものです。
 明仁天皇が「生前退位」しようとすれば、この典範第4条を改定しなければならないことは明白です。だから野党はこれまで「典範の改正」を主張してきたのです。

 ところが「総意」は、「典範の付則に根拠規定を置いて特例法を制定する」という「曲芸的な法技術」(18日付朝日新聞)を弄してまで特例法にこだわりました。あくまで典範本法には手を付けないための脱法行為にほかなりません。これを安倍・自民党が強行し、野党も結局それに同調したことはきわめて重大です。

 とりわけ、「憲法の一番の根本精神に照らして考えるなら皇室典範改正が筋」(志位和夫委員長、1月24日の記者会見。写真右)とまで言っていた日本共産党が、民進党に先立って自民党に妥協したのは、いったいなぜでしょうか。「3日、共産党の小池晃書記局長は高村氏(高村正彦自民党副総裁ー引用者)の先例発言を取り上げて評価した。高村氏が『うれしい誤算』という共産の軟化で、民進は孤立した」(18日付朝日新聞)
 共産党は16日に「『とりまとめ』についての意見」を会見で発表しましたが、この中には「皇室典範」のこの字も出てきません(17日付しんぶん赤旗)。

 ④ 政府が法案をつくる前に国会が「総意」をまとめる異常

 「今回のように与野党が議長の下で大枠で合意し、それを政府が法案化するというプロセスは異例だ」(18日付毎日新聞社説)というのは動かせない事実です。なぜこんな異例(異常)がまかり通っているのでしょうか。
 「この問題で与野党が対立し、多数決で決着をつける事態は好ましくない」(18日付朝日新聞社説)という思いが与野党にあるからです。安倍首相が繰り返し言ってきた「この問題を政争の具にしてはならない」の実践です。

 しかし、この「異例のプロセス」は国会が内閣の下準備をすることにほかならず、憲法の大原則である「三権分立」を蹂躙するものです。言い換えれば、「この問題」すなわち「天皇問題」で与野党は対立してはならないという、天皇の下における議会・政党の大政翼賛化に他なりません。

 「退位」をめぐる問題はこれだけではありません。より根本的な問題があります。それについては次回書きます。

 


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「天皇退位」-「立法府の総意」という名の翼賛国会化

2017年02月21日 | 天皇制と憲法

     

 「天皇退位」をめぐって、「国権の最高機関」(憲法第41条)である国会の自殺行為ともいえる重大な事態が進行しています。

 衆参正副議長は20日、この問題で各党・会派からヒアリングを行いました。終了後、大島理森衆院議長は、「立法府の総意」を探し「国会の見解」を3月上中旬にまとめると述べました。(写真右)

 これは安倍首相の要請を受けたものです。安倍氏は1月24日、衆参正副議長を訪ね、有識者会議の「論点整理」を手渡し、「与野党論議の促進」を求めました。大島議長は「国会の見解」をまとめると約束し、安倍氏は「立法府の総意はしっかり受け止める」(1月25日付中国新聞=共同配信)と応じました。(写真中)
 大島氏はその後の記者会見で、「他の政策とは違うとの共通認識の下、立法府は総意を探る努力をしていく」(同)と述べました。

 第1に、「首相が立法府のトップを直接訪ね、議論を求めるのは極めて異例」(1月25日付中国新聞=共同配信)です。なぜなら、それは立法府が行政府の下請け機関化することであり、三権分立の憲法原則に反するからです。

 第2に、「法案策定前に与野党が意見調整するのは極めて異例」(1月24日付中国新聞=共同配信)です。「各党とも国会審議で主張が対立し、紛糾する事態を避けたい思惑は共通している」(同)とも報じられています。
 言うまでもなく、法案の是非を議論し、最後は多数決で決するのが議会制民主主義です。ところがいま行われようとしていることは、事前に与野党が水面下(密室)で擦り合わせをし、異論が出ない法案をつくって国会に出そうというわけです。これでは何のための国会=「唯一の立法機関」(憲法第41条)=「言論の府」でしょうか。

 なぜこうした異例・異常なことが横行しているのでしょうか。

 安倍首相は年頭の伊勢神宮での記者会見(1月4日)で「天皇退位」問題を「政争の具にしてはならない」と述べました。それ以来、施政方針演説(1月20日)や国会答弁で繰り返し強調しています。
 「天皇」にかかわることで各党は争ってはいけない、「政治家は良識を発揮しなければならない」(1月25日参院代表質問の答弁)というわけです。大島氏が「他の政策とは違う」と言うのも同じ意味です。

 これは「天皇タブー」を利用した言論・異論封じであり、「天皇」の名による国会の翼賛化・翼賛議会化に他なりません。

 重大なのは、憲法原則に反するこうした異常な事態に対し、異を唱え、抗議して大島氏らのヒアリングを拒否する政党・会派が1つもないということです。それどころか、すべての政党・会派が、安倍氏が敷いたレールの上で「立法府の総意」づくりに協力しようとしているのです。国会の翼賛化はすでに深刻な事態に至っていると言わねばなりません。

 そして、こうした翼賛体制づくりに最大限利用されているのが「天皇」であり、そこに国家権力にとっての「天皇(天皇制)」の存在価値があることを銘記する必要があります。

 


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「天皇制」について何を議論すべきなのか

2017年01月03日 | 天皇制と憲法

     

 今年の大きな課題の1つは、「生前退位」をきっかけにした「天皇制」をめぐる論議です。そこでは何が議論されるべきでしょうか。
 年末年始の新聞に掲載された3人の「女性識者」の主張から、手掛かりになる個所を挙げてみます。

  「古代から天皇は仏教など外来のものを率先して取り入れる役目を果たしてきた。明治以降は欧米文化、戦後は民主主義です。今後の役割があるとすれば、9条の普遍的価値つまり徹底的な戦争回避を目標に日本をまとめる方向しかないと思います」(田中優子法政大総長、1日付共同配信、加藤典洋氏との対談)

 「象徴天皇が現実に必要か、必要でないかと問われれば必要ではないが、長い歴史とともにあった天皇を、現代においてなくしていいとも思わない。…国民が天皇を象徴として受け入れているのは、長年の天皇、皇后両陛下の営みがあるからだ。…女系天皇を認めても認めなくても、皇室と国民の距離は次第に開いてゆくだろうし、国民統合の象徴という憲法の文言はいっそう形骸化するだろう」(作家・高村薫氏、12月26日付琉球新報=共同配信)

 「今の天皇が折に触れて、憲法順守を口にしたり、戦地を訪問したりすることで、国民は護憲と反戦というメッセージを受け取っている立憲主義者で平和主義という評価があるが、将来の天皇がどのような考えを持つかは分からない。…そもそも日本は民主主義国家なのにどうして共和制ではないのか。国民統合の象徴なんていらない、と私は思っている」(社会学者・上野千鶴子氏、12月26日付琉球新報=共同)

 3氏に共通しているのは、天皇明仁を「民主主義者」「立憲主義者」「平和主義者」ととらえていることです。果たしてそうでしょうか。事実に基づいて厳密に検討・議論する必要があります。〝平成の終焉”に向けて避けて通れない課題です。

 しかしここでは、3氏の主張の微妙な相違点に注目します。それは「象徴天皇制」は果たして必要なのか、という天皇制の根本問題です。

 田中氏は「今後の役割があるとすれば」と仮定法を使いながら、事実上「役割はある」という立場に立ち、憲法9条に基づいて「日本をまとめる」ことだと言います。なぜ天皇が「日本をまとめる」必要があるのでしょうか。それは天皇の「政治的行為」あるいは「政治利用」ではないのでしょうか。

 高村氏は「象徴天皇制」は「必要ではない」「形骸化する」と言いながら、「なくしていいとも思わない」と言います。きわめて矛盾した主張です。この矛盾(あるいは二股)こそ「民主的知識人」の1つの典型と言えるかもしれません。

 上野氏は「象徴なんていらない」と明言しています。「生前退位」表明以降、これほど明確な「象徴天皇制」否定論が新聞に載ったことはないのではないでしょうか。しかし上野氏はそれを、「私は思っている」とあくまで個人的見解の範囲にとどめようとしています。

 「生前退位」を認めるか否か、認めるとすれば特別立法か皇室典範の改正か、という問題は枝葉末節です。今議論すべきは、「象徴天皇制」という憲法上の制度そのものの必要性・是非ではないでしょうか。必要ないと考えるなら、それを「個人的意見」にとどめるのではなく、国民的世論にしていくことではないでしょうか。


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憲法違反を露呈した天皇の「誕生日会見」と識者の「自制」

2016年12月24日 | 天皇制と憲法

     

 23日の「天皇誕生日」に発表された明仁天皇の宮内庁記者会との会見内容には、見過ごすことができない重大な問題が含まれています。(以下、天皇発言の引用は宮内庁HPより)

 天皇が「今年1年を振り返ると、まず挙げられるのが」としたのが「フィリピン訪問」でした。その問題点については以前(2月1日、2日、4日)書いたのでここでは省略します。
 天皇はまた、「11月中旬には、私的旅行として長野県阿智村に行き、満蒙開拓平和記念館を訪れ…満蒙開拓に携わった人々の厳しい経験への理解を深めることができました」と述べました。

 天皇の「フィリピン訪問」と「満蒙開拓平和記念館訪問」には共通した問題があります。フィリピンに侵攻し現地住民に多大な犠牲を与え、また満州侵略と一体の開拓団を送り込んで多くの犠牲をもたらした最大の責任者はいずれも昭和天皇(裕仁)であること、にもかかわらず明仁天皇はそれに一切口をつぐみ、「友好」「理解」を強調することによって、天皇および天皇制帝国日本の加害責任を隠蔽する役割を果たしていることです。

 これはもちろん大きな問題ですが、ここでは、「生前退位」をめぐる天皇会見の問題を取り上げます。
 天皇はこの日の会見で、8月8日の「ビデオメッセージ」についてこう述べました。

 「8月には、天皇として自らの歩みを振り返り、この先の在り方、務めについて、ここ数年考えてきたことを内閣とも相談しながら表明しました。多くの人々が耳を傾け、各々の立場で親身に考えてくれていることに、深く感謝しています」

 問題は、「内閣とも相談しながら」です。「ビデオメッセージ」は自分の独断専行ではないとして「憲法違反」との批判をかわそうとしたのでしょうが、これは語るに落ちるの類です。憲法はこう定めています。

 「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」(第3条)
 「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」(第4条)

 この規定に基づき、憲法は第6条と第7条で天皇の「国事行為」を合計12項目列記しています。この中に「ビデオメッセージ」で「生前退位」というきわめて憲法的・政治的な問題について私見をのべるという行為が含まれていないことは言うまでもありません。この点で「生前退位のビデオメッセージ」が憲法違反であることは明白です。

 これに対し、天皇およびその擁護者は、「ビデオメッセージ」は「国事行為」ではないが「公的行為」として許されるという「公的行為」論を持ち出します。しかし重要なのは、この説においても、「公的行為」に第3条の「内閣の助言と承認」が必要だという点では争いがないことです。

 「内閣と相談」と「内閣の助言と承認」がまったく別であることは言うまでもありません。天皇が「内閣とも相談しながら表明」したと述べたことは、あの「ビデオメッセージ」は「内閣の助言と承認」によるものではなかったと認めたに等しいのです。仮に「公的行為」論をとるとしても、それが第4条に抵触する「政治的」行為である上に、第3条の「内閣の助言と承認」にも反する二重の憲法違反であることは免れようがありません。

 憲法第99条によって、天皇にも憲法を「尊重し擁護する義務」が課せられています。〝天皇の憲法違反”を主権者である「国民」は絶対に許すことはできません。

 ところがこの重大な〝天皇の憲法違反”を指摘するメディア、「学者・識者」は皆無に等しいと言わねばなりません。深刻なのは、「体制寄りメディア・識者」だけでなく、「民主的」とみられている「識者」にも「天皇タブー」が蔓延していることです。

 例えば、権力に対する辛辣な批判で知られる作家の高村薫氏は、こう述べています。

 「八月にあった天皇のお気持ちの表明について新聞社から感想を求められたとき、反射的に<これは言ってはならない>という一定の自制が働いた結果、もっとも正直な思いを迂回して「これはたいへんな事態になったと思いました」と応えていた。…政治に関わってはならない天皇が、公の電波をつかって国民に表明してしまったこと、そのことである。…これは憲法に定められている象徴天皇の範囲を越えているのかもしれない、と考えていたのだが、初めに<これは言ってはならない>と自制したのは、まさにその「憲法違反」の一語である」(「図書」11月号、岩波書店)

 ここには、オピニオンリーダーと言っていいほどの識者の鋭い分析と、「自制」という名の天皇制・権力への迎合が混在しています。
 「象徴天皇制」によって政界、言論界にこうした「天皇タブー」「自主規制」が広く深く根を張っている現実を直視する必要があります。


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天皇の明白な違憲行為、なぜ問題にしないのか

2016年12月03日 | 天皇制と憲法

    

 30日夕からのテレビニュース(写真中など)、そして1日付の新聞各紙(写真左など)。まさに前代未聞です。
 天皇が「学友」という一民間人(明石元紹氏=元日産プリンス東京販売取締役)に「生前退位」という現下の重大な政治問題について考えを吐露し、明石氏がそれをメディアを通して社会に流布する。こんなことがかつてあったでしょうか。

 前代未聞であるだけでなく、これは天皇明仁の重大な憲法違反行為です。絶対に容認されるものではありません。

 天皇が明石氏に電話を掛けたのは、「生前退位のビデオメッセージ」(8月8日)の18日前の「7月21日午後10時ごろ」。天皇は明石氏に何を語ったのか。1日付中国新聞(共同配信)から、かぎかっこで引用されている部分を抜粋します。

 「(退位について)随分前から考えていた
 「この問題(退位)は僕のときの問題だけではなくて、将来を含めて譲位が可能な制度にしてほしい
 「(明治時代より前の天皇に関しても触れ)それ(退位)がいろいろな結果を生んだのは確かだ。譲位は何度もあったことで、僕が今そういうことを言ったとしても、何もびっくりする話ではない
 「摂政という制度には賛成しない
 「(摂政に賛成しない理由として、大正天皇の摂政だった昭和天皇の例を挙げ)(大正天皇派と昭和天皇派の)2派ができ、意見の対立があったと聞いている

 天皇が電話で「生前退位」について語ったことだけでも問題ですが、その内容はさらに驚きでした。①一代限りでなく譲位(退位)の恒久的な制度を望む②自分が退位について語っても何も問題はない③摂政には反対④その理由は大正天皇派と昭和天皇派の2派の対立があったからーそれはまさに、「生前退位」をめぐる争点そのものです。。

 憲法は第4条で、「天皇は…国政に関する権能を有しない」と天皇の政治的関与(言動)を禁じています。今回の天皇の行為がこの憲法条項に反することは明白です。しかも「摂政」は憲法第5条に規定されている制度であり、それを否定することは二重の憲法違反と言わねばなりません。

 「学友」との「私的」な会話だといって許されるものではありません。憲法の「象徴天皇制」は天皇にそのような「言論の自由」を認めてはいません。
 しかも、今回の経過には、きわめて計算された天皇明仁の政治的意図を感じざるをえません。

 天皇はなぜ明石氏に電話したのか。明石氏自身がこう語っています。
 「私は多くのメディアの取材を受けていたので、間違ったことを言ってほしくない、真意を伝えたいとの思いがあったのではないか」(1日付中国新聞=共同)

 天皇は「メディアの取材を受けていた」明石氏を通して、つまり明石氏とメディアを使って自分の「真意」を世間に伝えようとしたのです。明石氏がこのことをメディアに流したのは、まさに「有識者会議」のヒアリングが終了した日というタイミングでした。
 明石氏が天皇に無断で一連の経過をメディアにリークしたとは考えにくいです。逆に天皇の方から明石氏にリークをプッシュした可能性があります。そのかんの事実は明らかになっていませんが、明石氏のリークが天皇の意向に沿ったものであることは確かでしょう。

 思い出されるのは、7月13日夜のNHKニュースです。この時の「スクープ」で「生前退位」問題は突然表面化しました。誰がNHK記者を使って流したのか、いまだに真相は闇の中ですが、今回の「明石氏のリーク」はそれに匹敵する不可解なメディア操作と言わねばなりません。

 重大なのは、この天皇の憲法違反行為(およびそれに加担した明石氏の責任)に対し、メディアも、政党も、「学者・識者」も、だれ1人として問題にしていない、しようとしていないことです(報道の限りで)。「天皇の違憲行為」という重大問題が大手を振ってまかり通っているのです。

 「生前退位」の是非や「摂政」への賛否が問題なのではありません。安倍政権が強行しようとしている「一代限りの特別立法」などもちろん言語道断です。問題は天皇の発言内容の是非ではなく、天皇が政治問題について発言し自らの政治的意向を貫こうとしたことです。そのこと自体が、見過ごしてはいけない憲法違反だということです。

 天皇・皇族のやることは何でも許されるのでしょうか。憲法違反も不問にされるのでしょうか。そんな「象徴天皇制」を続けて良いのでしょうか。


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「象徴天皇制」の下で見過ごされてきた〝首相の憲法違反”

2016年11月28日 | 天皇制と憲法

    

 23日午後、トランプ次期米大統領との「会談」やAPEC首脳会議などから帰国した安倍首相が、休む間もなく向かったのは、皇居でした。何のためか。当日の「首相動静」にこう記されています。

 「6時46分、皇居。帰国の記帳。新嘗祭神嘉殿の儀に参列

 11月23日はなぜ「勤労感謝の日」なのか。この日は、天皇がその年の新穀の収穫に感謝し「神」に供える「新嘗祭(にいなめさい)」で、「日本に農業が始まった日」とされているからです。

 「新嘗祭」の起源は、皇祖神とされる天照大神が、皇孫に稲穂を授けたこととされています。「新嘗祭は、この(天照大神のー引用者)恩恵に対し、皇孫にあたる天皇自らが、五穀豊穣の感謝を神々に奉告する祭り」(『神道としきたり事典』PHP研究所)なのです。
 つまり「新嘗祭」は神社(皇室)神道の中心的な宗教行事であり、「宮中恒例祭祀で最も重要な祭典」(三橋健氏『神道の本』西東社)です。

 「新嘗祭」の当日、天皇は夕方から翌日の午前1時ごろまで(最近は短縮されていると言われますが詳細は不明)、神主の装束で新穀を「神」に供え自らも食するなど行事を取り仕切ります(写真左、中)。

 これに安倍首相が参列したことは、きわめて重大です。

 第1に、「宮中祭祀」は明白な宗教行事であることから、その位置づけは天皇の「私的行為」とされています。それに行政府の長である首相が参列することは、天皇の私的宗教行為があたかも「公的行為」であるかのような印象を与え、憲法上の「天皇の公的行為」をあいまいにし、天皇の「公務」の範囲をなし崩し的に拡大するものです。

 第2に、「新嘗祭」への参列は安倍首相が私的に行ったことではありません。内閣総理大臣として公的に行ったことです。これは国によるのあらゆる宗教活動を禁じた憲法の「政教分離の原則」(第20条)に反する明白な憲法違反です。

 いずれの意味においても、首相の「新嘗祭」参列は日本国憲法に照らして絶対に許されるものではありません。

 重要なのは、「新嘗祭」への参列は安倍首相だけではなく、戦後綿々と続いている「首相の恒例行事」だということです(朝日新聞の縮刷版では少なくとも1980から記録があります)。
 「民主党政権」においても例外ではありませんでした。2009年は鳩山由紀夫首相、10年は菅直人首相、11年は野田佳彦首相がそれぞれ参列しています。

 さらに重大なのは、このことが国会やメディアで問題にされたことがない(私の記憶の限りで)ことです。「政教分離」に反する明白な〝首相の憲法違反”が、問題にされることもなく見過ごされ、毎年続けられているのです。

 そこには天皇(皇室)に関することは憲法上問題があろうが無条件で是認する、メディア、政界、日本社会の「天皇タブー」があると言わざるをえません。
 「象徴天皇制」を抜本的に見直さなければならない理由がここにもあります。


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「人間的、人道的観点」に反する「象徴天皇制」

2016年11月08日 | 天皇制と憲法

    

 天皇の「生前退位」をめぐる7日の有識者会議のヒアリングで、ノンフィクション作家の保坂正康氏は、「人間的、人道的観点から考える必要がある」(8日付沖縄タイムス)と述べました。

 天皇の「ビデオメッセージ」(8月8日)の直後にも、田中優子氏(法政大総長)は、「天皇と皇族は生身の人間だ。人間は人権を有している」(8月9日付中国新聞)として、天皇の意向を尊重すべきだとの考えを示しました。

 保坂氏や田中氏の主張は、この限りでは当然でしょう。しかし、肝心な問題が回避されています。それは、日本国憲法における「象徴天皇制」自体が、天皇・皇族に基本的人権を保障しない、非「人間的、人道的」制度だということです。

 憲法の「象徴天皇制」がいかに天皇・皇族の人権を蹂躙しているか、主なものを列挙してみます。

 ●憲法第2条「皇位は、世襲のものであって…」
    ⇒憲法第18条<奴隷的拘束と苦役からの自由>違反
     憲法第22条<居住・移転の自由、職業の自由、国籍離脱の自由>違反

 ●憲法第4条「天皇は…国政に関する権能を有しない
    ⇒憲法第15条<参政権>違反
     憲法第21条<表現の自由と集会・結社の自由>違反

 ●皇室典範第1条「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」。他多数
    ⇒憲法第24条<男女平等>違反

 ●皇室典範第10条「立后及び皇族男子の婚姻は、皇室会議の議を経ることを要する
    ⇒憲法第24条<婚姻の自由>違反

 こうして天皇・皇族の基本的人権をことごとく蹂躙して成り立っているのが「象徴天皇制」です。「生前退位」を「人間的、人道的観点」から考えるなら、そして天皇・皇族に「人権」を認めようとするなら、こうした「象徴天皇制」自体の問題点から目を背けることはできないはずです。

 特定の人物・一族の人権を蹂躙し間扱いする「日本国民統合の象徴」(憲法第1条)とは何でしょうか。それが「主権の存する日本国民の総意」(同)でしょうか。天皇・皇族は「象徴天皇制」の鎖から解放されて「生身の人間」として人権を保障されるべきではないでしょうか。

 「主権者」の私たちが今問い直さなければならないのは、「象徴天皇制」の存廃そのものです。
     


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