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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

明仁天皇の「沖縄に寄り添う」は本当か<下>

2018年03月31日 | 沖縄と天皇

     

③「米軍基地」については質問なし

 今回訪沖した天皇・皇后に対し、翁長雄志知事は27日那覇市内のホテルで「沖縄の伝統文化や米軍基地の現状、経済動向などを説明」(28日付沖縄タイムス)しました。翁長氏がどんな説明をしたのか注目されますが、内容は明らかにされていません。

 ただ明らかなのは、天皇・皇后から「なぜ観光が伸びているのか」「農業ではどの分野が伸びたのか」などの質問はあったけれど、「米軍基地の現状では、両陛下から質問はなかった」(翁長氏の27日の記者会見、28日付沖縄タイムス)ということです。

 普天間基地周辺の保育園や小学校への米軍機部品落下、民有地への米軍ヘリ墜落、そして辺野古での新基地建設をめぐる攻防が大きな問題になっているにもかかわらず、天皇・皇后は米軍基地(基地被害)については何も質問しなかったというのです、「観光」や「農業」には関心を示したけれど。

 これでは「これ以上の基地負担を拒否するという県民の訴えを(天皇・皇后は―引用者)来県中に受け止めてほしい」(28日付琉球新報社説)という沖縄の声もむなしく響くだけです。

 誤解のないよう付け加えますが、天皇が米軍基地についてなんらかの発言を行うべきだと言っているのではありません。憲法上、天皇が政治的発言を行うべきでないことは明白です。天皇にそうした発言を求めるのは誤りです。
 しかし、明仁天皇はこれまで、憲法を無視してたびたび政治的発言を行っています。その典型は、憲法に明記されている「摂政」を否定して自ら「退位(譲位)」の意向を示した「ビデオメッセージ」(2016年8月8日)です。

 政治的発言を繰り返している明仁天皇が、沖縄に来て知事から「米軍基地の現状」について説明を受けながら、アメリカや日本政府への配慮からか、何も質問しなかった。それで「沖縄に寄り添っている」と言えるのか、ということです。

④一言も「謝罪」なし。責任は「国民全体」に転嫁

  初めての訪沖で「ひめゆりの塔」で火炎びんを投げられた明仁皇太子は、その夜、「談話」を発表しました(1972年7月17日、写真左・中)。それが「沖縄に寄り添う」ものとして称賛されていますが、はたしてそうでしょうか。「談話」の内容はこうです。

 「沖縄は、さきの大戦で、わが国では唯一の、住民を巻き込む悲惨な犠牲を払い今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり…人々が長い年月をかけてこれを記憶し、1人1人、深い内省の中にあって…ともどもに力を合わせて努力していきたいと思います」

 恒例の「誕生日にあたっての会見」でも、明仁氏はしばしば沖縄について言及しています。

 「沖縄の歴史を深く認識することが、復帰に努力した沖縄の人々に対する本土の人々の務めであると思います」(1996年12月、63歳の誕生日)

 「先の大戦でも大きな犠牲を払い…念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を、人々に記憶され続けていくことを願っています」(2002年12月、69歳の誕生日)

 「沖縄は、いろいろな問題で苦労が多いことを察しています。…日本全体の人が、で沖縄の人々の苦労している面を考えていくことが大事ではないかと思います」(2012年12月、79歳の誕生日)

 以上の「談話」や「会見」には共通した特徴があります。
 それは、沖縄戦の「犠牲」や米軍基地などによる今日の沖縄の「苦労」を第三者的にとらえていることです。
 そこには、「国体(天皇制)護持」のために沖縄を「捨て石」にし、戦後も「天皇メッセージ」で沖縄をアメリカに売り渡した張本人である父・裕仁天皇(昭和天皇)の戦争・戦後責任についての自覚は皆無です。その裕仁天皇の長男であり、裕仁天皇から「皇位」を継承して天皇となっていることへの自責の念はまったく感じられません。

 火炎びんを投げられた時、同行していた屋良朝苗知事(当時)に、「『気にしないでください』と声を掛けた」(26日付沖縄タイムス)といいますが、自分を「被害者」としか考えていないこの言葉にもそれが表れているのではないでしょうか。

 明仁氏は皇太子、天皇時代を通じて、沖縄(住民)に対して、一度も一言も「謝罪」したことはありません。それが沖縄に対する姿勢を端的に示しています。

 自分が「謝罪」しない代わりに、「人々」「1人1人」「日本全体の人」「皆」などと、沖縄に対する責任を「日本国民」全体に転嫁しています。これは現代版「一億総ざんげ」論と言えるのではないでしょうか。

 本家本元の「一億総ざんげ」論は、敗戦直後に裕仁天皇が任命した「皇族内閣」・東久邇稔彦内閣が主張したものでした。天皇の戦争責任追及を避け「国体(天皇制)」を守るためでした。明仁天皇の言葉・姿勢はそれと無関係ではないでしょう。

 天皇の戦争責任を棚上げして「国民全体」に責任を転嫁する考えは、明仁氏が皇太子時代から習得してきたものです。それを教えたのは父・裕仁天皇でした。

 裕仁天皇は敗戦の年(1945年)の9月9日付で、日光に疎開していた明仁皇太子に手紙を出しています。そこで敗戦の原因についてこう書いています。「我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである」。自らの責任については一切口をつぐみ、国民と軍人に責任を転嫁したのです。(ハーバート・ビックス『昭和天皇 下』講談社学術文庫より)

 「皇太子は敗戦の要因を、国家の指導者や政治制度よりも、むしろ日本の国民に帰していた。『日本人が大正から昭和の初めにかけて国の為よりも私事を思って自分勝手をしたために今度のような国家総力戦に勝ことが出来なかったのです』(45年の明仁皇太子の「日記」―引用者)。そして、いまやとるべき唯一の道は天皇(昭和天皇―引用者)の言葉に従うことであった 」(ハーバート・ビックス氏、同)

 そして戦後、明仁皇太子が教育係の小泉信三を通じて福沢諭吉の「帝室論」に強い影響を受けたことは先に見た通りです(3月1日のブログ参照)。

 結局、明仁天皇の「戦争」観、「皇室」観は、父・裕仁天皇と、教育係・小泉信三、そして福沢諭吉の「帝室論」によって形成されたと言っても過言ではないでしょう。
 その要点は、天皇(制)の戦争・戦後責任は棚上げし、「国民全体」に責任転嫁し、自らは「国民」の上に立って「民心融和」を図り、もって「国体」=天皇制を護持することです。

 皇太子時代からの明仁天皇の「公的活動」はその”思想と使命感”に貫かれていると言えるでしょう。「沖縄訪問」もけっしてその例外ではありません。


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明仁天皇の「沖縄に寄り添う」は本当か<上>

2018年03月29日 | 沖縄と天皇

     

 明仁天皇、美智子皇后の沖縄訪問に対し、「本土」メディアも沖縄県紙も「沖縄に寄り添う平和天皇」という賛美一色です。天皇・皇后の「沖縄に寄り添う」は本当でしょうか。

 皇太子時代を含め11回の天皇・皇后の沖縄訪問を振り返ります。

 ①   県民の「訪問要請」は8~11年棚上げ

 明仁天皇(当時皇太子)が沖縄県民から最初に直接「沖縄訪問」を要請されたのは、少なくとも54年前の1964年です。

 当時ハワイ大の留学生だった高山朝光氏(後の知事公室長)は、皇太子夫妻がハワイを訪れた際、交流会で、「何としても早い時期に沖縄訪問を」(27日付沖縄タイムス)と「直訴」。高山氏は「天皇のため、国を守るために犠牲になった人々のみ霊に直接花を手向け、慰霊してほしかった」(同)と述懐しています。

 しかし、明仁皇太子が沖縄を訪れたのはそれから11年後の1975年7月が最初でした。県民の直接の訪問要請は11年間棚上げされたのです。「復帰(1972年)」から数えても3年たっています。

 「対馬丸記念館」も同様です。

 同記念館理事長の高良政勝氏は、06年計2回、宮内庁に記念館への訪問を要請」(26日付沖縄タイムス)しました。2012年の天皇訪沖(4回目)の際は那覇のホテルで、「(ここから)車で5分ほどです。ぜひいらしてください」(同)と直接要請。

 しかし、天皇・皇后が「対馬丸記念館」を訪れたのは2014年6月。宮内庁への2回の要請から8年、那覇での「直訴」からも2年たっています。

 「沖縄に寄り添っている」と絶賛するには、あまりにも鈍い県民要請への反応ではないでしょうか。

 ②   天皇・皇后が行かなかった所こそ

 今回の与那国島を含め、天皇・皇后はこれまでに5つの離島を訪れています(石垣島、宮古島、伊江島、久米島)。いずれも米軍、自衛隊にとって軍事的に重要な島です。それだけではありません。

 宮古島には戦時、強制的に皇軍(日本帝国軍)の「慰安婦」とされた「朝鮮人慰安婦」の碑・「アリランの碑」(写真左)があります。与那国島にも「朝鮮人慰安婦」埋葬地があります。

 久米島は皇軍(鹿山隊)によって「スパイ」の濡れ衣を着せられた住民(朝鮮人家族を含む)が虐殺された島です。鳥島地区には虐殺事件の追悼碑・「痛恨之碑」(写真中)があります。碑の正式名称は、「天皇の軍隊に虐殺された久米島住民久米島在朝鮮人 痛恨之碑」です。

 天皇・皇后は宮古島、久米島を訪れながら、これらの追悼碑には目もくれませんでした。

 「対馬丸記念館」(那覇市)訪問(2014年6月27日)は「平和を願う天皇」の代表例のように言われていますが、そうでしょうか。

 そもそも対馬丸の撃沈で780余人の学童が犠牲(1944年6月22日)になったのは、「軍の作戦上住民は邪魔。食糧確保も困難になる」(第32軍・長参謀長)という皇軍の戦略で強制的に「疎開」させられたからです。天皇にその認識(罪の意識)はあったでしょうか。

 「記念館」のすぐ横には、沖縄戦の民間船舶の犠牲者(沖縄関係者約3400人)の追悼の碑・「海鳴りの像」(写真右)があります。天皇が「対馬丸記念館」を訪れると聞いた戦時遭難船舶遺族会は、「ぜひ海鳴りの像へも」と文書で宮内庁に要請しました。しかし天皇・皇后は行きませんでした。対馬丸の碑「小桜の塔」には行きながら、目と鼻の先の「海鳴りの像」は素通りしたのです。沖縄戦で遭難した船舶26隻のうち対馬丸を除く25隻を追悼しているのが「海鳴りの像」であるにもかかわらず。

 「対馬丸記念館」と「海鳴りの像」の違いは何でしょうか。対馬丸が国の命令による疎開の犠牲であり、記念館の運営には国家予算が投じられているのに対し、「海鳴りの像」の民間船舶には何の補償も予算措置ないことです。

 沖縄には約600といわれる「ガマ・壕」があります。住民の逃げ場所でありながら、皇軍(日本軍)に追い出されたり、「集団強制死(集団自決)」を余儀なくされた場所です。不衛生のためマラリアの犠牲になった住民も多数ありました。

 読谷村には「恨之碑」があります。日本によって朝鮮から強制連行され奴隷的に軍務に従事させられた「朝鮮人軍夫」を悼む碑です。

 天皇・皇后はこうした場所には見向きもしませんでした。

 結局、天皇・皇后の「沖縄訪問」は、「海洋博」(開会式1972年、閉会式76年)、「海邦国体」(87年)、「植樹祭」(93年)、「海づくり大会」(2012年)などの国家的イベントであり、「慰霊」で足を運んだのは「国立」の「墓苑」です。
 これは「沖縄の靖国化」といえるのではないでしょうか。

 天皇・皇后が素通りした所、見向きもしなかった所こそ、沖縄戦、「天皇の軍隊」の実態・本質を示す場所ではないでしょうか。本当に「沖縄に寄り添う」というなら、こういう所にこそ行くべきではないでしょうか。

 次回(明後日)は、天皇自身の発言から「沖縄訪問」の意味を検証します。


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「朝鮮半島情勢」を傍観していていいのか

2018年03月27日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

     

 「森友問題」の後景に退いているように見えますが、朝鮮半島をめぐる情勢が現在の最重要問題であることは変わりません。しかし、日本では「南北会談」「米朝会談」を第三者的に傍観している状況があるのではないでしょうか。

  朝鮮半島の非核化、さらに平和的・民主的統一へ向けて、いま日本の私たちは何をするべきでしょうか。
 それを考える上で、最近注目した2つの論考(要点)紹介します。

 ☆「北朝鮮の核と禁止条約」 ヒロシマ学研究会世話人・田中聰司氏(元中国新聞記者)(20日付中国新聞)

 < 米朝首脳の言動が世界を振り回し、画期的な核兵器禁止条約がかすんでいる。被爆国の存在感が薄い。

 米国ファースト、核保有国ファーストの身勝手が北朝鮮の暴走を許してきたともいえよう。

 北朝鮮の非核化を進め、禁止条約に力を与える鍵は何だろうか。元来、核兵器の廃絶責務を真っ先に負う(核)保有国が、他国が持つのはまかりならぬというのは理不尽、横暴と言わざるを得ない

 核軍縮を怠れば核拡散を助長することは歴史が教えている。説得役を期待される中国やロシアも、かつては米国に対抗する「平和の核」と称して核実験を重ね、ため込んだ核を手放そうとしない。「あんたに言われたくない」と反論されれば、それまでである。

 6カ国協議で非核化を言うなら、米中ロも同様に廃棄(削減)の意思を示して翻意を促すのが道理だろう

  (日本)政府は核保有国と非核国の「橋渡し役」を自認する。だが、米国と一体で北朝鮮に圧力をかけ、核抑止力、核の傘が必要だと(核兵器禁止)条約に加わらない。核に頼りながら非核化を求める論法は矛盾がある。さらに(アメリカの)小型核兵器を「歓迎」し、核軍拡競争に丸乗りするかのような姿に「橋渡し」を期待できるだろうか。

  最大の橋渡しとは核保有国と北朝鮮を道連れにして禁止条約の合流すること。それにはまず、ヒバクシャが求める核兵器廃絶署名に応じ、核の軍縮―廃絶交渉の要請に乗り出さねばならない。朝鮮半島の被爆者援護は非核化につながる宿題でもある。>

 

「驚天動地の北南、朝米首脳会談を読む」 国際問題研究者・浅井基文(元広島市立大広島平和研究所所長)(14日付朝鮮新報)

 < 北南首脳会談及び朝米首脳会談開催の基本的合意は、金正恩委員長の周到な国家戦略方針を抜きにしてはあり得なかった。重要なポイントは、「国家体制の尊厳ある存立」が目標であり、核デタランス(「核抑止力」)はそのための手段であることだ。米国が朝鮮敵視政策を改めるのであれば、核デタランスは手段としての役割を終える。
 具体的には、(朝鮮戦争)休戦協定を平和条約で置き換えること及び米朝国交関係の正常化に米国が応じることが確約されれば、朝鮮は非核化に応じることができる。

  安倍政権は、念願の9条改憲の実現を図る上で、「北朝鮮脅威論」で国民の政治意識を自らが望む方向に誘導することが至上課題だ。しかも、森友学園問題で政治基盤が脅かされている難局を打開する必要に迫られている。
 安倍首相は訪米してトランプ大統領に働きかけて歴史的合意の実現を妨げ、自らの存在感を誇示することで、これらの課題・難局を打開しようと図っているに違いない。

  しかし、北南首脳会談及び米朝首脳会談の実現を阻もうとする安倍首相の行動は、絶対に許すことのできない政治的犯罪と言っても決して過言ではない。日本国民が安倍首相に唯々諾々と従うことは、その犯罪に加担することと同義だ

 国民は今こそ安倍首相の繰り出す催眠術(「北朝鮮脅威論」)の呪縛から自らを解き放ち、安倍首相に鉄槌を下さなければならない。

 それは、朝鮮民族に対して植民地支配を行い、朝鮮の南北分断に道を開いてしまった日本国家の歴史的責任を負う主権者・国民に課せられた、逃れることのできない責任である。

 私たちは、明治以降の朝鮮侵略・植民地化、朝鮮戦争への加担、日米軍事同盟(安保体制)、今も続く在日朝鮮人差別などに「歴史的責任」を負う日本の主権者として、その責任を果たさねばなりません。


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明仁天皇の沖縄・与那国訪問と“日本版海兵隊”創設

2018年03月26日 | 沖縄と天皇

        

 天皇・皇后が沖縄・与那国島を訪れる「3月27日」(与那国は28日)とはどういう日でしょうか。

 佐川宣寿前国税庁長官の証人喚問は、天皇の訪沖日程決定後に決まったことですが、それ以前から分かっていた重要なことがあります。1つは、73年前に米軍が慶良間諸島に上陸して沖縄戦が始まった(1945年3月26日)翌日だということ。

 そしてもう1つは、この日が自衛隊(とくに陸自)にとって新・自衛隊誕生ともいえる大きな転換点だということです。

 安倍政権・防衛省は27日、全国5つの陸自方面隊(北部、東北、東部、中部、西部)を一元的に指揮・監督する「陸上総隊」を新たに設置します。同時に、「陸上総隊」の直轄部隊として、水力両用作戦の専門部隊である「水陸機動団」を発足させます。いわゆる”日本版海兵隊”です。

  陸自はすでに10年来、米海兵隊との合同訓練で、米軍から水陸両用作戦の指導を受けてきましたが、それを組織的にも制度的にも本格化させようとするものです。

 この陸自新組織について纐纈厚山口大名誉教授は、「最も軍隊らしい軍隊にする。たたかえる軍隊に脱皮していく大きな一里塚だ。”新軍部“の成立ともいえる非常に大きな問題だ」(23日付「しんぶん赤旗」)と指摘します。

 自衛隊の新たな”門出“ともいえるこの日、”日本版海兵隊“が活動することになる与那国島を天皇が訪れるのです。自衛隊にとってこれほどの“祝砲”はないでしょう。

 天皇が沖縄行きを希望していることは昨年末から報じられていましたが、宮内庁が日程を正式に発表したのは今月5日。安倍政権はこの日がどういう日か当然知ったうえで天皇の日程を最終決定したはずです。

 自衛隊にとって「天皇」は特別な存在です。

 例えば、現在自衛隊や防衛大学校の観閲式で使われている行進曲は、戦時中の「学徒出陣」などで流された大日本帝国陸軍(皇軍)の公式行進曲(別名『抜刀隊』)そのものです(辺見庸氏『完全版1★9★3★7<上>』角川文庫より)。

  言うまでもなく、天皇が統帥権を持っていた大日本帝国憲法と違い、現憲法においては天皇と自衛隊には何の特別な関係もありません。自衛隊の最高指揮官は首相です。しかしー。

 「自衛隊のなかには、内閣総理大臣のために死ぬというのでは隊員の士気があがらないので、ふたたび天皇を忠誠の対象としようとする動きがあり、天皇と自衛隊との結びつきは、特に一九六〇年代以降、深まっている」(横田耕一氏『憲法と天皇制』岩波新書)

 「3・11」でも「天皇と自衛隊との結びつき」は深まりました(写真中。2016年3月14日、15日のブログ参照 https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20160314https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20160315)。

 さらに、自民党の改憲草案(2012年4月27日決定)は、前文の冒頭で「日本国は…国民統合の象徴である天皇を戴く国家」であると明記し、「第1章 天皇 第1条」で「天皇は、日本国の元首」と規定しようとしています。「天皇元首化」は「憲法への自衛隊明記」と一体です。「ふたたび天皇を(自衛隊=軍隊の)忠誠の対象」にしようとする動きの典型です。

 「島嶼防衛」とは島が戦場になることです。逃げ場がない島が戦場になれば、だれよりも島民が多大な犠牲を被ることは、悲惨な沖縄戦で実証されています。その歴史になにひとつ学ぶことなく、安倍政権はふたたび沖縄で、それを繰り返そうとしているのです。与那国島、宮古島、石垣島などへの自衛隊配備強化に対し住民から不安・恐怖・批判が高まっているのは当然でしょう。

 そうした住民の不安に対し、防衛省は住民説明会(宮古島、2016年10月18日)で、「本来任務に支障のない範囲において、可能な限り避難住民の運送を支援する」と述べています(瀬戸隆博・恩納村史編さん室嘱託員、22日付琉球新報「沖縄戦にみる島嶼防衛」)。あくまでも軍隊としての「本来任務」を優先し、住民の安全は二の次、「可能な限り」にすぎないと公言しているのです。

 「島嶼防衛」を口実にした自衛隊強化は、「戦争法」(安保法制)による”戦争をする国“の実践計画であり、絶対に許すことはできません。

 天皇・皇后は、まさにその重大局面で「沖縄・与那国島」へ行くのです。自衛隊配備強化に反対する島民・世論を抑え、慰撫する役割を果たすことは明白です。

 今回の「沖縄・与那国島訪問」は、天皇の「公的活動」なるものが「国家」「国家権力」にとってどういう意味をもつものかをあらためて突きつけています。


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明仁天皇の「沖縄・与那国訪問」と福沢諭吉

2018年03月24日 | 沖縄と天皇

     

 明仁天皇と美智子皇后が27日に沖縄を訪れます(29日まで)。皇太子時代も含めて11回目(初回は1975年)。来年「退位」することから、天皇としての訪沖は今回が最後といわれています。

 天皇が頻繁に沖縄に行くのはなぜでしょうか。「沖縄に向き合い続ける」(24日付琉球新報)ためでしょうか。

 明仁天皇が皇太子時代から「公的行為」として沖縄を訪れている意味を、瀬畑源氏(長野県短大助教)はこう指摘します。

 「皇太子の行動の特徴を分析すると、国民統合の周縁にいる人たちを再統合する役割を担う意思を感じる。天皇や指導者に対してわだかまりを持っている人が一定数いる戦没者遺族・戦傷病者や、公害や災害などの被害者を『公的行為』を利用して慰撫している。これらは、天皇即位後の活動が注目されているが、皇太子時代から行っていたものが多い」

 「米軍基地問題など、『本土』に対する反発が強く残る沖縄は、国民統合の周縁にあって、『国民』として括られることに反発する人たちが数多く存在する。皇太子の活動は、その沖縄の人たちを『日本国民』として国家の中に統合する役割を、結果的に果たしてきた。皇太子のまなざしは、あくまでも『国民国家』の枠内に『国民』を統合する点が徹底されている」(『平成の天皇制とは何か』岩波書店所収)

 現代の「皇民化政策」ともいえるこうした「公的行為」を、明仁天皇(皇太子)は自らの使命と考え、積極的に行ってきたと考えられます。なぜなら、それは明仁天皇が尊敬する皇太子時代の教育係・小泉信三元慶應義塾塾長の教えだからであり、その元は小泉が信奉する福沢諭吉の「天皇(制)論」だからです。

 しかし、福沢の「天皇(制)論」は、たんなる「国民統合」(小泉の解説では「日本民心融和」)ではなく、「内に社会の秩序を維持して外に国権を皇張す可きものなり。…帝室の為に進退し、帝室の為に生死するものなり」(「帝室論」)と、朝鮮・中国侵略、軍人勅諭と一体です(3月1日のブログ「明仁天皇と福沢諭吉」参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20180301)。

 今回、明仁天皇は初めて与那国島を訪れ、「日本最西端の碑」を視察する予定です。これによって、文字通り日本の端から端まで「国家の中に統合」しようとする意図がうかがえます。

 同時に、天皇の「与那国島訪問」には別の重大な意味があります。
 それは、安倍政権が「中国脅威」論を掲げ「島嶼防衛」強化を口実に自衛隊配備を強化しようとしている八重山諸島の一角に与那国島があるということです。

 明仁天皇がどこまでそれを意識(自覚)しているかは別にして、結果として、天皇は「島嶼防衛」を名目にした軍備(自衛隊)配備の最前線に出向くことになります。その意味は小さくありません。

 実はこの点も、福沢の「天皇(制)論」と無関係ではないのです。

 日清戦争の10年前の1884年12月4日、日本と中国(清)が朝鮮の覇権を争い、日本が排撃される事件が起こりました(甲申事変)。

 「日本国内では、言論界や政府内の一部が、このような事態を屈辱的なものとして、中国と一戦することを主張しました。なかでも、朝鮮政府内の親日派を改革派として応援してきた福沢諭吉の『時事新報』は、その最たるものでした」(坂野潤治著『帝国と立憲』筑摩書房)。

 甲申事変直後の「時事新報」の社説(1884年12月27日付「戦争となれば必勝の算あり」)で福沢は、「朝鮮は固(もと)より論ずるに足らず、我目ざす当の敵は支那なるが故に、先づ一隊の兵を派して朝鮮京城の支那兵を鏖(みなごろし)にし…」(「全集」第10巻)と、露骨に侵略戦争をけしかけました。

 それから数日後の1885年1月8日の同社説(「御親征の準備如何」)で、福沢はさらにこう主張しています。

 「我輩の特に期望する所は御親征の準備是なり。…天皇陛下の御稜威に因て我軍の大功を期するこそ万全の策なれと信ずるなり。…神功皇后の故例に倣ふて海を渡らせらるる杯は思ひも寄らぬ次第なれども…仮に馬関を以って行在所と定められ…」(「全集」第10巻)

 天皇が陣頭指揮を執ることがベストで、海を渡って朝鮮半島に出征することができないとしても、せめて下関までは行ってほしい、と天皇の「御親征」を切望しているのです。

 この福沢の“天皇陣頭指揮”論に同調したのが伊藤博文でした。

 「福沢に劣らぬ智恵者の伊藤博文首相は、日清戦争を天皇のリーダーシップのもとで戦うことで、『皇軍』意識の創出と戦争への国民統合を図るとともに…天皇制の社会的支持基盤を一挙に確立することを狙って、大本営の広島進出を進言・推進した」(安川寿之輔著『福沢諭吉のアジア認識』高文研)

 福沢の主張は10年後の1894年9月15日、明治天皇が広島へ出向き、広島城本丸の第五師団司令部内に大本営を開設して日清戦争の指揮を執ったことで現実のものとなったのです。

 明治天皇の「広島親征」と明仁天皇の「与那国訪問」を単純に比較するつもりはありません。しかし、明仁天皇は日清戦争における「明治天皇親征」の意味は当然知っているだろうし、それにつながる福沢の“天皇陣頭指揮”論も小泉から学んだ可能性は小さくありません。

 そして、明仁天皇が自覚しているかどうかは別にして、今回の「与那国島訪問」には、まるで福沢の「期望」に応えるかのような現実的な意味があるのです(次回に続く)。


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翁長知事が犯した大きな過ちは何か

2018年03月22日 | 沖縄・翁長・辺野古・...

     

 翁長雄志沖縄県知事の今回の訪米(3月11日~16日)で、「代替案」をめぐる背信が明らかになったことは先に書きましたが(19日のブログ)、実は翁長氏は訪米でもっと大きな過ちを犯しました。それは今後の辺野古新基地阻止のたたかいや知事選にもかかわる重大な問題です。

 今回の訪米の主要な目的は、アメリカ、日本の6人の「有識者」らによるシンポジウム(13日、ワシントン)でした。しかし、「有識者らが強調したのは『沖縄の重要性はさらに増している』『在沖米軍は有事に必要だ』といった肯定論ばかり」(19日付沖縄タイムス)でした。
 「パネル討論では、米軍の民間施設使用や既存の基地の活用、自衛隊の強化など、議論を呼ぶ案も上がった」(16日付琉球新報)といいます。

 シンポが新基地反対の沖縄の民意に逆行するような様相を呈したのはなぜか。翁長氏がシンポ冒頭の「講演」で述べたことと無関係ではありません。翁長氏は約100人の参加者を前に、「開口一番」(16日付琉球新報)、こう強調したのです。

 「沖縄県は日米安保条約の必要性を理解する立場だ。すべての基地に反対しているのではない」(16日付琉球新報)
 さらに翁長氏は、「(アメリカと日本・沖縄が―引用者)日米安保体制の強い絆で結ばれるのはいい」(15日付沖縄タイムス)とも言いました。

 これは重大です。

 翁長氏が熱心な「日米安保条約礼賛」者であることは周知の事実です。在沖米軍トップ・ニコルソン四軍調整官との会談(2017年11月20日、写真中)では、「日米が世界の人権と民主主義を守ろうというのが日米安保条約だ」(同11月21日付沖縄タイムス)とまで持ち上げました。根っからの「保守」であり自民党幹部だった翁長氏が安保条約を礼賛するのは不思議ではありません。私的立場で述べるのは自由です。

 問題は、その持論を知事として「講演」で公言し、それがまるで「沖縄県」の総意であるかのように言い、その誤ったサインをアメリカ側に送ったことです。これは絶対に許されることではありません。

 なぜなら、「日米安保賛成」が「沖縄県」の総意でないことは言うまでもなく、それは翁長氏を知事に擁立した「オール沖縄」陣営でさえ一致点にはなっていないからです。
 現に、翁長氏が知事選に際して市民団体と結んだ「政策協定「知事選に臨む基本姿勢および組織協定」2014年4月6日発表)は、、日米安保肯定論には立っていないどころか、むしろ否定的です。「オール沖縄」の出発点となった「建白書」(2013年1月28日)も同様です。

 にもかかわらず翁長氏は、県議会での「所信表明」などでも「日米安保礼賛」を繰り返してきました。それは許されないだけでなく、重大な結果を招きます。それが表面化したのが、今回のシンポジウムです。

 翁長氏が冒頭で「日米安保条約の必要性」「日米安保条約の強い絆」を強調したことで、それがシンポ全体の基調になったと言えるのではないでしょうか。結果、ケビン・メア元米国務省日本部長は「沖縄が果たす抑止力の役割は、現在はより増している」(19日付沖縄タイムス)と「日米安保抑止力」論を強調し、進行役を務めたジョージワシントン大のマイク・モチヅキ教授は、「沖縄の声を安全保障環境に反映させることがより大事だ」(16日付琉球新報)と言い、野添文彬沖国大准教授は、「日本本土での自衛隊と米軍の共同施設使用を検討すべきではないかと提案」(15日付琉球新報)する始末です。
 シンポ参加者から「これでは沖縄の軍事化が進むだけだ」(16日付琉球新報)という声が出たのも当然でしょう。

 これは今回の訪米シンポだけの問題ではありません。「辺野古」のたたかいが困難に直面している根源の1つはここにあるのではないでしょうか。

 日米安保条約(安保体制)=軍事同盟を肯定する限り、沖縄・日本の基地問題と正面からたたかうことはできません。なぜなら、沖縄・日本に米軍基地が存在する元凶は日米安保条約だからです。
 また、「辺野古新基地阻止」のたたかいは、嘉手納基地を含めすべての在沖米軍の撤去、さらに米軍との一体化を進める八重山諸島や沖縄本島における自衛隊配備強化反対と一体不可分です。
 新基地を阻止し、沖縄・日本から軍事基地を撤去するたたかいは、日米安保条約=軍事同盟反対と結び付いてこそ、前進することができます。

 もちろん、「辺野古新基地反対」の人の中には安保条約に反対ではない人も少なくないでしょう。「辺野古」のたたかいにおいて「日米安保」への見解・立場は一致点になっていないし、すべきではありません。その意味でも翁長氏の発言は許されません。

 「辺野古新基地」を阻止する中で、日米安保条約(体制)の実態・本質、「抑止力」論の誤り、東アジアの平和と安定にとって日米安保=軍事同盟がもつ重大性を学習し、宣伝し、日米安保条約廃棄の世論を沖縄・日本「本土」に広げていく。
 それが「辺野古」のたたかいの目指すべき方向ではないでしょうか。


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「森友文書」改ざんと「前川授業」圧力

2018年03月20日 | 憲法と安倍政権

     

 「森友文書」改ざんに関する19日の参院予算委員会集中審議(写真左)。

 矢面に立って議員の質問に答えていた財務省の太田充理財局長が気色ばんだ場面がありました(写真中)。野田政権(民主党)の秘書官だった太田氏が安倍首相を貶めるための答弁をしているのではないか、という自民党・和田政宗議員の質問。それに対し、こう反論したのです。 

 「私は公務員としてお仕えした方に一生懸命仕えるのが仕事なので、いくらなんでも…」
 
 なんとしても安倍首相を守ろうと荒唐無稽な質問をした和田議員は醜悪ですが、太田氏の発言もおかしくないですか?

 森友学園への国有地払下げ決裁文書から、「安倍昭恵総理夫人」や「日本会議」の記述が削除された公文書改ざんが問題になっているさ中、前川喜平前文科次官の中学校での授業(2月16日、名古屋市)に対し、文科省が学校側に15項目の「質問」をし録音データの提出を求めて圧力をかけた(3月1日)問題が発覚しました(写真右)。

 2つの問題は、直接的な関連はありませんが、根っこは一つではないでしょうか。

 「森友文書」の改ざんは、「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」(公文書管理法第1条)である公文書を、時の政権が改ざん・偽造し、国会に虚偽報告を行ったという、憲法(第66条)の議院内閣制の根幹を揺るがす大問題です。

 一方、「前川授業」への圧力は、「教育は、不当な支配に服することなく」(教育基本法第16条)とする公教育の基本を侵害します。

 いずれも憲法、教育基本法という国の根幹中の根幹の法規に反する点で共通していますが、ここではもう1つの重要な共通点に着目します。それは、行政官庁・国家公務員と政権党(自民党)・政治家の関係です。

  「森友文書」改ざんは、安倍首相(官邸)筋の指示、あるいはその意向を忖度して財務省が行ったことは明白です。一方、「前川授業」に対する文科省の圧力は、自民党文科部会長の赤池誠章参院議員、部会長代理の池田佳隆衆院議員からの「問い合わせ」という名の圧力によって文科省が行ったことが明らかになりました。

 共通しているのは、政権や政権党(自民党)の議員が、行政官庁(財務省、文科省)を自分の領地であるかのようにとらえ、官僚を家来のように使っていることであり、官僚の側はあたかも領主に仕えるかのように政権(党・議員)の指示・意向に従っていることです。

 これは根本的な誤りです。その誤りの意味を、関連法規で確認しておきましょう。

憲法第15(公務員の選定)
 第1項「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」
 第2項「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」

国家公務員法第1(目的)
 第1項「この法律は、国家公務員たる職員について…職員がその職務の遂行に当たり、最大の能率を発揮し得るように、民主的な方法で、選択され、且つ、指導さるべきことを定め、以って国民に対し、公務の民主的且つ能率的な運営を保障することを目的とする」

 公務員(官僚)が「奉仕」すべきは、時の政権(党・議員)ではなく、「国民全体」です。それが公務員の義務であり、公務員の「選定・罷免」は「国民固有の権利」なのです。

 冒頭の太田理財局長の発言。太田氏は「公務員として」、時の政権(首相)に「一生懸命仕えるのが仕事」だと公言しましたが、それは間違いです。中央官庁の官僚が「公務員として」「一生懸命仕える」べきは政権(党・議員)ではなく「国民」です。公務員が「忖度」すべきは政権の意向ではなく、「国民」の利益です。

 この原則が、永年の自民党政権により、とりわけ安倍政権によって踏みにじられ、政権党と官僚の間に事実上の「主従関係」ができあがり、それが当たり前のように通用してきた。そこに日本の政治・行政の根本的な病巣があるのではないでしょうか。

 その政権(党・議員)は、公務員を利用するだけ利用して不要・邪魔になれば、責任を公務員に転嫁して情け容赦なく切り捨てて我が身を守ろうとします。それが今、佐川宣寿前国税庁長官に対して安倍政権が行おうとしていることではないでしょうか。

 「森友文書」改ざんと「前川授業」への圧力の同時進行は、偶然のようであってけっして偶然ではありません。
 憲法、国家公務員法、教育基本法などの原則に立ち返り、主権者・国民と公務員の関係を再構築することが急務です。


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訪米で判明した翁長知事の「辺野古代替案」の背信

2018年03月19日 | 沖縄・翁長・辺野古

     

 翁長雄志沖縄県知事の4回目の訪米(3月11日~16日)は見るべき成果もなく(というより逆効果ー後日書きます)終わりましたが、1つ重要なことが明らかになりました。「辺野古代替案」をめぐる翁長氏の背信(県民裏切り)です。

 辺野古岩礁破砕をめぐる那覇地裁判決(13日)が出る重要な時期にもかかわらず(だからこそ?)沖縄を留守にし、あえて訪米した目的は何だったか。

 「これまで3回の訪米では、米政府や連邦議会関係者との面談に力を入れてきた。だが今回、県は『反対の次を示す時期を迎えた』(県幹部)と方針を変更」(13日付沖縄タイムス)したといいます

 「反対の次」とは何か。「代替案」を公然化させることです。翁長氏自身、出発前はこうでした。

 「知事は那覇空港で記者団に『沖縄の負担軽減につながる現実的な代替案を探求することが重要だ』と述べ、ワシントンで開くシンポジウムでの研究者らの提言に期待を表明した。知事は…『シンポジウムでいい形で代替案がでてくれればいいと思う』と期待を寄せた」(12日付沖縄タイムス)

  ところが、帰国すると一転、「翁長雄志知事は…代替案を県独自で策定する考えについて『代替案には妥協が必要になる。沖縄県民が妥協する要素はない』と否定した」(17日付沖縄タイムス)のです。
 「訪米前に『代替案を模索する』と言及したことには、『頭の中でぐるぐる巡るものもあるが…沖縄側から発言して良くなることはない。権力として弱い立場の沖縄が代替案を出すのは簡単ではない』と語った」(同。写真左は14日のシンポ後の記者会見。沖縄タイムスより)。

  手のひらを返すようにとはこのことですが、わずか5日でなぜ一転したのか。期待していたシンポジウムで「厳しいものを感じた」(翁長氏、17日付沖縄タイムス)からです(写真中はシンポの琉球新報記事)。

 しかし、帰国後の翁長氏の「代替案策定を否定」(17日付沖縄タイムス)の意味は正確にとらえる必要があります。翁長氏は記者団にこう語っているのです。

 「代替案が出るということは歩であり、県民がまだそれを理解するような状況ではない。代替案を出すからには妥協が大事だが、県民が妥協する要素は今のところない」(17日付琉球新報)

 翁長氏が「代替案に慎重姿勢」(17日付琉球新報)を見せたのは、あくまでも「県民」が「まだ」「今のところ」、「譲歩」「妥協」する状況にないからというにすぎません。5日間で「県民」が変わるわけはありません。出発前に「現実的代替案に期待」(12日付沖縄タイムス)した自らの言明は何だったのか。

 重要なのは、翁長氏の「代替案」模索・提示は今にはじまった話ではないということです。翁長氏はこれまで県民の目の届かない水面下で、安倍政権に「代替案」を示し、「妥協・譲歩」の交渉を行おうとし続けてきたのです。今回、翁長氏はそれを自ら認めました。

 「翁長雄志知事は米軍普天間飛行場の移設先について、過去に日本政府に辺野古移設以外の『代替案』の再考を求めたものの政府側が『辺野古が唯一』と取り合わなかったことを明かした。…県が政府に再考を求めた『代替案』は、過去に識者らが提案したものなどで、中には『県内移設』を伴うものもある」(15日付琉球新報)

 「翁長雄志知事は…これまでの政府との水面下の交渉で、専門家やシンクタンクが唱える代替案を提示したことを明かした上で『一顧だにされなかった』と説明」(17日付沖縄タイムス)
 「代替案提示に消極姿勢の背景には、4年前の就任以降、水面下で政府に代替案を示してきたが、一顧だにされなかった経験がある」(18日付沖縄タイムス)

 驚いたことに、水面下での「代替案」提示、「妥協・譲歩」交渉は「4年前の就任以降」から行われていたというのです。

 県議会で、翁長氏の意を受けた謝花喜一郎知事公室長は、「県が代替案を検討している事実はない」と再三答弁してきましたが、それは議会と県民をだます虚偽答弁でした。

 翁長氏は「代替案」をあきらめたわけではありません。

 「県は…模索を続けている。知事は『官房長官や副長官、防衛大臣と1、2時間しっかり議論させていただく場をつくっていただかないと、(県が)代替案を出すことはできても、(日米)両政府がそれをどう議論してくれるのか、そこがポイントになると思う』と述べた」(15日付琉球新報)

 「代替案」をぜひ議論してほしいという安倍政権への懇願です。

 翁長氏は新基地に反対する県民の声・要望を無視して一貫して「承認撤回」を棚上げし続けていますが、その理由は、「代替案」による安倍政権との水面下交渉のためだったわけです。

 「代替案」という「妥協・譲歩」が、新基地を絶対に許さない県民の意思に逆行することは明白です。それは「まだ」とか「今のところ」という話ではありません。

 そもそも「代替案」は、「オール沖縄」の原点である「建白書」(2013年1月28日)にも反しています。

 ここには、この4年間の「辺野古新基地」をめぐる沖縄の構図が凝縮されているのではないでしょうか。

 アメリカに追随し、民意を無視して辺野古埋立・新基地建設を強行しようとする安倍政権。それを現場で体を張って阻止してきた県民・市民、支援する全国の世論。それに対し、翁長氏は安倍政権と正面からたたかうことなく、現場に足を運ぶこともなく、一貫して水面下で「県内移設」を含む「妥協・譲歩」工作を続けてきたのです。 

 翁長氏の背信・裏切りの罪はきわめて重いと言わねばなりません。


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東京大空襲と朝鮮人強制連行

2018年03月17日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

            

 「3・11」と「3・10」が1日違いというのは、あまりに悲しい歴史の偶然です。いまでは「3・10」を知る人の方が少ないかもしれませんが、どちらも決して忘れてはならない日です。

 1945年3月10日未明、米軍B29・130機によって無数の焼夷弾が投下され、東京(特に墨田区、江東区など)は火の海となりました。死者は推定10万人以上。東京大空襲です。

 その全容・被害実態は、73年たった今日でも不明な点が多い(というより日本政府が調査してこなかった)のですが、中でも見過ごされているのが、この空襲によって多くの朝鮮人が犠牲になったことです。

 東京大空襲で死亡した朝鮮人は「1万人余」といわれています。「10万人余」の実に10です。

 当時の特高警察の資料(「内地在住朝鮮人戦災者」1945・9・25)によれば、東京在住朝鮮人9万7632人中、戦災者は4万1300人(42・3%)で、「死者はこのうちの多数、少なくとも1万人を軽く超えるとみられる」(李一満・東京朝鮮人強制連行真相調査団事務局長、「季刊・戦争責任研究」2006年秋季号)。

 東京大空襲についての記録・書物は少なくありませんが、実数でも割合でもこれほど甚大な朝鮮人犠牲者について記されたもの(日本人による記録)はほとんどありません。そんな中で、早乙女勝元氏の『東京大空襲』(岩波新書1971年初版)には次のような記述があります。

 「この夜、日本人のみならず、多くの朝鮮人が下町庶民とともに貴重な生命を奪われた。…当時の軍需産業には、相当数の朝鮮人が動員されており、豊洲の石川島造船所には数千をこえる朝鮮人徴用工が働いていた。その上さらに、祖国から無理じいに引っぱってこられた十五歳前後の青少年二百数十名が、同造船所洲崎寮へたどりついたのが、三月九日夜七時のこと。かれらが形ばかりの夕食をすませ、はじめて他国で眠りについた夜は、死の夜だった。生き残った者はわずか四名にすぎなかったという。しかも、その四名とも、二目と見られぬ大火傷を顔に残した。なんと悲惨なことだろうか。二百数十名の朝鮮青少年が、地理もわからぬ場所を逃げまどい、ほとんど全員があっけなく焼死

 なぜ朝鮮人の犠牲者が多かったか。早乙女氏も指摘しているように、多くが軍需産業に動員されていたからです。

 「米軍は軍関連企業・軍需工場を集中的に狙った。…連行された朝鮮人が主に軍需工場で働かされ、渡日した朝鮮人も下町でを形成していたことを考慮すれば、大空襲での朝鮮人被害は日本人より高率と見るのが妥当であろう」(李一満氏、前出)

 「東京大空襲で犠牲になった朝鮮人は、日本による植民地支配と強制連行の被害者たちである」(李氏、同)

 私たちはこの言葉を肝に銘じる必要があります。日本が朝鮮を侵略・植民地支配しなければ、死なずにすんだ人たちです。東京大空襲に限らず、各地の空襲、あるいは戦地で犠牲になった多くの朝鮮人は、戦争自体の犠牲者であるとともに、日本の侵略・植民地支配の被害者なのです。

 「半世紀が優に超え、名前と本籍地はもとより遺骨すらほとんど残っていない現状はまことに厳しい。しかし遺族たちは今尚、肉親の行方・消息を捜しており、遺骨の欠片でも還して欲しいと願っている。死者(遺骨)と遺族に思いを馳せるべきである。日本政府の、関係企業の責任は実に重い」(前出)。こう強調していた李一満さんは、今年1月亡くなられました。

 今月3日、「東京大空襲73周年朝鮮人犠牲者追悼会」が東京都墨田区の東京都慰霊堂で行われました(写真右。朝鮮新報より)。

 会では「強制連行被害者に対し徹底的に謝罪・賠償し、全ての遺骨を探し出し、遺族の意志にそった解決を図るための措置」を要求。朝鮮総連中央会館への銃撃事件や強まるヘイトスピーチにも触れ、「日本政府は差別や嫌悪を助長するような態度をやめ、植民地と戦争犠牲者に対する追悼と歴史教育に取り組んでいくべきだ」などの発言がありました(7日付朝鮮新報)。

 10歳で東京大空襲に遭った体験を語った李沂碩さん(千葉県在住)は、最後にこう述べました。
 「朝鮮人と、日本の人々と、悲しみも、怒りも、真の平和への決意も、共に分かち合いたい」(同)

 私たち日本人はこの声に応えねばなりません。

 


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改めて知る那覇空港・米軍優先空域の恐怖

2018年03月15日 | 日米安保・沖縄

    

 在沖米軍によって那覇空港(写真中。右は機内から)の離着陸がたへん危険な状況に置かれていることは知っていましたが、その内容が具体的にわかると、改めて恐怖が迫ってきました。

 琉球新報が連載「駐留の実像」の中で2回にわたって報じた那覇空港の実態(11日、12日付)を要点転載します。

 ●一般的に飛行機は離陸からエンジンをフルパワーに維持し、より高い場所に上昇し続ける。騒音対策と、飛行中にトラブルが起きた際に立て直すため。そうして航空機事故のほとんどが発生する「魔の11」の危険性低減を図る。

 だが、那覇空港を離着陸する旅客機は、日本の民間空港で唯一この動作が禁じられている。高度約300㍍より高い場所に「見えない天井」が張り巡らされている

 なぜか。米空軍嘉手納基地と米海兵隊普天間飛行場の離着陸機のために担保された「アライバル・セクター」という空域が存在するからだ。

 ●国交省はその存在を公には認めていない。だがこの空域は、嘉手納基地の滑走路を中心に南北への長方形で広がっている。600~1500㍍の高度にあり、冬には西側、夏には東側に50にわたる。那覇空港を離着陸する旅客機は米側の許可なくこの空域に入れない。

 ●1975年5月8日に結ばれたに日米合同委員会の「航空交通管制に関する合意」で米軍機に航空管制上「優先的取り扱い」を与えると定めた。

 2010年3月、嘉手納基地内にあった進入管制区域・嘉手納ラプコンが返還されたが、「米軍優先」の構造は温存され、「アライバル・セクター」は残った。

 ●官民の航空関係労組でつくる航空安全推進連絡会議は「高度制限の撤廃やそれにかかる軍事空域の削減」を国に要請してきた。同会議沖縄支部の野田昭洋議長は特に、風向きや風速が急変するウインド・シアーの問題を指摘する。「ウインド・シアーになると警報が鳴る。追い風になると高度を上げる必要がある。しかし(那覇では)千㌳(約300㍍)までしか上げられない状況が離陸後しばらく続く」

  近年は海外のLCC(格安航空会社)進出も相次ぎ、那覇空港の事情を熟知していないパイロットが離陸後すぐに高度千㌳以上まで上昇しようとし、米軍機との衝突を懸念した管制が慌てて止める事情も起きている。

  ●沖縄の夏・秋は積乱雲が急速に発達しやすい。目前の雷雲を避けようにも、本島東側には米軍の訓練空域があり、西に大きく遠回りせざるを得ない。その分、時間も燃料費も余計にかかる。
 進路上の悪天候を回避するために与えられた時間はわずか数分のこともある。「米軍の訓練空域に入れないかと官制にリクエストしても、『調整するので3~5分待ってくれ』と言われる。現場を飛んでいる側には、それくらいの時間はもう厳しい」と野田議長は説明する。

 ●やむを得ない緊急時は米軍訓練空域に突っ込むこともある。日本側の官制関係者は「あくまでパイロット個人の判断という位置づけだ。仮に事故が起きた場合、操縦士の責任になりかねない」と不安を明かす。

 ●アライバル・セクターは、実は那覇空港で運用されている。だが同空域を扱う官制席に座るのは国交省職員ではなく、米軍属2人だ。日米合同委員会にのっとりアライバル・セクターを優先した上で、民間航空機の交通を整理している。

 ●安全会議は米軍空域の「部分開放」を求めてきたが、米軍の「同意」なく日本側が米軍訓練空域の運用ルールを決めることはできない。もしくは米軍の訓練空域を本島から離せば民間機が運航する「道幅」は広くなる。だが航空関係者は「その場合、米軍が嘉手納基地や普天間飛行場と訓練空域を往復する時間が増える」と解説する。
 結局、「米軍優先」の区域割り当ての結果、民間機がリスクを背負いながら細い経路を飛行するしわ寄せが続いている。

 以上、まさに軍事優先・対米従属によって市民・航空機利用者・乗務員の生命が危険にさらされている実態です。目に見えず、音に聞こえないだけに、その恐怖はなおさらです。

 2点付け加えます。1つは、米軍優先空域は「本土」にもあることです。最大のものは、1都8県の上空を覆う「横田ラプコン」(米軍横田基地が管理)です。

 羽田空港から西方面へ向かうには「どのルートを通る飛行機も、4000~5500㍍の高さがある『横田ラプコン』を越えるために、一度房総半島(千葉)方面に離陸して、急旋回と急上昇を行わなければならない」(前泊博盛編著『日米地位協定入門』創元社)のです。「まるで首都東京をとりかこむような形で米軍基地が存在しているのです。さすがにこんな国は、世界中さがしてもどこにもないでしょう」(同)。

 ほかにも、山口県・岩国基地の上空には「岩国ラプコン」があります。

 もう1点は、那覇空港は航空自衛隊那覇基地も共用していることです。自衛隊機が緊急着陸する事故は何件も起きています。那覇空港は米軍と自衛隊の「2つの軍事基地」の犠牲・危険にさらされているのです。

 こうした「米軍優先空域」が「日米地位協定」に基づくものであり(日米合同委員会は同協定第25条によって設置)、自衛隊増強も含め、その元凶が日米軍事同盟(日米安保条約)であることは言うまでもありません。



 


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