③「米軍基地」については質問なし
今回訪沖した天皇・皇后に対し、翁長雄志知事は27日那覇市内のホテルで「沖縄の伝統文化や米軍基地の現状、経済動向などを説明」(28日付沖縄タイムス)しました。翁長氏がどんな説明をしたのか注目されますが、内容は明らかにされていません。
ただ明らかなのは、天皇・皇后から「なぜ観光が伸びているのか」「農業ではどの分野が伸びたのか」などの質問はあったけれど、「米軍基地の現状では、両陛下から質問はなかった」(翁長氏の27日の記者会見、28日付沖縄タイムス)ということです。
普天間基地周辺の保育園や小学校への米軍機部品落下、民有地への米軍ヘリ墜落、そして辺野古での新基地建設をめぐる攻防が大きな問題になっているにもかかわらず、天皇・皇后は米軍基地(基地被害)については何も質問しなかったというのです、「観光」や「農業」には関心を示したけれど。
これでは「これ以上の基地負担を拒否するという県民の訴えを(天皇・皇后は―引用者)来県中に受け止めてほしい」(28日付琉球新報社説)という沖縄の声もむなしく響くだけです。
誤解のないよう付け加えますが、天皇が米軍基地についてなんらかの発言を行うべきだと言っているのではありません。憲法上、天皇が政治的発言を行うべきでないことは明白です。天皇にそうした発言を求めるのは誤りです。
しかし、明仁天皇はこれまで、憲法を無視してたびたび政治的発言を行っています。その典型は、憲法に明記されている「摂政」を否定して自ら「退位(譲位)」の意向を示した「ビデオメッセージ」(2016年8月8日)です。
政治的発言を繰り返している明仁天皇が、沖縄に来て知事から「米軍基地の現状」について説明を受けながら、アメリカや日本政府への配慮からか、何も質問しなかった。それで「沖縄に寄り添っている」と言えるのか、ということです。
④一言も「謝罪」なし。責任は「国民全体」に転嫁
初めての訪沖で「ひめゆりの塔」で火炎びんを投げられた明仁皇太子は、その夜、「談話」を発表しました(1972年7月17日、写真左・中)。それが「沖縄に寄り添う」ものとして称賛されていますが、はたしてそうでしょうか。「談話」の内容はこうです。
「沖縄は、さきの大戦で、わが国では唯一の、住民を巻き込む悲惨な犠牲を払い今日にいたったことは忘れることのできない大きな不幸であり…人々が長い年月をかけてこれを記憶し、1人1人、深い内省の中にあって…ともどもに力を合わせて努力していきたいと思います」
恒例の「誕生日にあたっての会見」でも、明仁氏はしばしば沖縄について言及しています。
「沖縄の歴史を深く認識することが、復帰に努力した沖縄の人々に対する本土の人々の務めであると思います」(1996年12月、63歳の誕生日)
「先の大戦でも大きな犠牲を払い…念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を、人々に記憶され続けていくことを願っています」(2002年12月、69歳の誕生日)
「沖縄は、いろいろな問題で苦労が多いことを察しています。…日本全体の人が、皆で沖縄の人々の苦労している面を考えていくことが大事ではないかと思います」(2012年12月、79歳の誕生日)
以上の「談話」や「会見」には共通した特徴があります。
それは、沖縄戦の「犠牲」や米軍基地などによる今日の沖縄の「苦労」を第三者的にとらえていることです。
そこには、「国体(天皇制)護持」のために沖縄を「捨て石」にし、戦後も「天皇メッセージ」で沖縄をアメリカに売り渡した張本人である父・裕仁天皇(昭和天皇)の戦争・戦後責任についての自覚は皆無です。その裕仁天皇の長男であり、裕仁天皇から「皇位」を継承して天皇となっていることへの自責の念はまったく感じられません。
火炎びんを投げられた時、同行していた屋良朝苗知事(当時)に、「『気にしないでください』と声を掛けた」(26日付沖縄タイムス)といいますが、自分を「被害者」としか考えていないこの言葉にもそれが表れているのではないでしょうか。
明仁氏は皇太子、天皇時代を通じて、沖縄(住民)に対して、一度も一言も「謝罪」したことはありません。それが沖縄に対する姿勢を端的に示しています。
自分が「謝罪」しない代わりに、「人々」「1人1人」「日本全体の人」「皆」などと、沖縄に対する責任を「日本国民」全体に転嫁しています。これは現代版「一億総ざんげ」論と言えるのではないでしょうか。
本家本元の「一億総ざんげ」論は、敗戦直後に裕仁天皇が任命した「皇族内閣」・東久邇稔彦内閣が主張したものでした。天皇の戦争責任追及を避け「国体(天皇制)」を守るためでした。明仁天皇の言葉・姿勢はそれと無関係ではないでしょう。
天皇の戦争責任を棚上げして「国民全体」に責任を転嫁する考えは、明仁氏が皇太子時代から習得してきたものです。それを教えたのは父・裕仁天皇でした。
裕仁天皇は敗戦の年(1945年)の9月9日付で、日光に疎開していた明仁皇太子に手紙を出しています。そこで敗戦の原因についてこう書いています。「我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどったことである」。自らの責任については一切口をつぐみ、国民と軍人に責任を転嫁したのです。(ハーバート・ビックス『昭和天皇 下』講談社学術文庫より)
「皇太子は敗戦の要因を、国家の指導者や政治制度よりも、むしろ日本の国民に帰していた。『日本人が大正から昭和の初めにかけて国の為よりも私事を思って自分勝手をしたために今度のような国家総力戦に勝ことが出来なかったのです』(45年の明仁皇太子の「日記」―引用者)。そして、いまやとるべき唯一の道は天皇(昭和天皇―引用者)の言葉に従うことであった 」(ハーバート・ビックス氏、同)
そして戦後、明仁皇太子が教育係の小泉信三を通じて福沢諭吉の「帝室論」に強い影響を受けたことは先に見た通りです(3月1日のブログ参照)。
結局、明仁天皇の「戦争」観、「皇室」観は、父・裕仁天皇と、教育係・小泉信三、そして福沢諭吉の「帝室論」によって形成されたと言っても過言ではないでしょう。
その要点は、天皇(制)の戦争・戦後責任は棚上げし、「国民全体」に責任転嫁し、自らは「国民」の上に立って「民心融和」を図り、もって「国体」=天皇制を護持することです。
皇太子時代からの明仁天皇の「公的活動」はその”思想と使命感”に貫かれていると言えるでしょう。「沖縄訪問」もけっしてその例外ではありません。