憲法学者の横田耕一九州大名誉教授(写真左。2016年8月9日付中国新聞より)が、「月刊・靖国・天皇制問題情報センター通信」(2018年6月号)の巻頭言に、「憲法学者による9条論の現在」と題したきわめて興味深い文章を寄稿しています。
横田氏は、「私見では、憲法9条は一切の戦力(防衛力を含む)の保持を禁止し、その結果として自衛を含む一切の武力行使を禁じている」のであるから「自衛隊は違憲である」と明言したうえで、「こうした私見は、マスメディアはもとより、『護憲運動』のなかでも受けが悪い」とし、次のような状況を紹介しています。
「ある市での『九条の会』での講演では、会の結成趣旨が自衛隊合憲論者を含む9条改悪に反対であることを理由に、自衛隊違憲や安保条約違憲を語ることを控えるよう求められることもでてきた。運動の立場からはここまでは了解できないわけではないが、『戦争法案』反対を訴えたある県の『九条の会』のチラシに、『日本国憲法では「日本本土が攻撃された場合のみ、防衛できる」という「専守防衛」を国民は認めています。そのために「自衛隊」がいるのです。』と明言されているのには、ここまで時の流れに迎合するのかと唖然とするしかなかった。自衛隊違憲は、もはや『護憲運動』でも禁句なのか!」
さらに横田氏は、「憲法学者の流れはすでに自衛隊合憲に向いている」として「3つの有力な合憲説」を紹介しています。
「憲法学者の流れ」が「自衛隊合憲」へ向かっているとは驚くべき、そして恐るべき状況です。が、ここでは横田氏が指摘する「禁句」について考えます。
「九条の会」の中に「自衛隊・日米安保違憲」を「禁句」にしているところがあるというのは、十分あり得ることです。なぜなら、その傾向は「九条の会」だけではないからです。
日本共産党は2年前の2016年6月28日、藤野保史政策委員長(当時)を突然、更迭しました。理由は、その2日前(6月26日)のNHK討論で藤野氏が、「2016年度予算で初めて5兆円を超えた防衛予算に触れ『人を殺すための予算ではなく、人を支えて育てる予算を優先する』と言及した」(同6月29日付共同配信)責任を取らされたのです。
共産党の志位和夫委員長は同27日、「不適切だ。…私からも注意した」(同28日付共同)と藤野氏を批判。同28日、藤野氏は小池晃書記局長とともに記者会見し、「自衛隊のみなさんを傷つけるものとなってしまいました。深く反省し、心からおわび申し上げます」(同29日付「しんぶん赤旗」)という「おわびコメント」を発表しました。
これは共産党が民進党(当時)などとの「野党共闘」を最優先し、「参院選への影響を最小限にとどめるため、事実上の更迭によって早期の幕引きを図った」(同29日付毎日新聞)ものです。
藤野氏のNHK討論での発言はきわめてまっとうです。それを批判(否定)したばかりか、発言者(政策委員長という重要幹部)を短時日に更迭したことは、同党の歴史に大きな汚点を残したと言えるでしょう(2016年6月30日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20160630)。
この根底には、共産党自身が「自衛隊違憲」論を事実上棚上げしていることに加え、「野党共闘」を最優先し、「安保・自衛隊容認」の他野党への”配慮“から、それを口にすることすら封じている、すなわち「禁句」にしている実態があります。
こうした共産党や「民主勢力」の中にある「安保・自衛隊タブー」は現実政治に大きな弊害をもたらしています。それが顕著に表れているのが沖縄です。
4年前に共産党など「オール沖縄」陣営が翁長雄志氏を知事に擁立して以降(写真右)、沖縄でも「本土」のように、「日米安保条約・自衛隊批判」が鳴りを潜めているように思われます。それは翁長氏が日米安保・自衛隊の積極的支持者であることと無関係ではないでしょう。
日米安保を賛美する翁長氏が沖縄県知事にふさわしくないことは再三述べてきましたが、百歩譲って翁長氏を擁立するとしても(その場合も「政策協定」が不可欠であることは言うまでもありませんが)、それによって「オール沖縄」のメンバー(個人・団体)が「日米安保条約・自衛隊反対」を主張できないわけではありません。「政策協定」に基づく共闘と、共闘の構成員が独自の政策・政治理念を主張することはまったく矛盾するものではありません。ところが実際は「共闘」の名の下に、「日米安保・自衛隊批判」は鳴りを潜めているのです。
「世論調査」で「自衛隊・日米安保支持」が多数だからといってそれに迎合していては、いつまでたっても状況を打破することができないのは明白です。いまは少数派でも、「真理・正義」はやがて多数派になる。それが歴史の歩みではないでしょうか。
「立憲主義」を標榜する陣営の中の「自衛隊・日米安保違憲」の「禁句」、タブーを打ち破ることは焦眉の重要課題です。