アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「自衛隊違憲」は「護憲運動」で禁句か?!

2018年06月30日 | 憲法と日米安保・自衛隊

     

  憲法学者の横田耕一九州大名誉教授(写真左。2016年8月9日付中国新聞より)が、「月刊・靖国・天皇制問題情報センター通信」(2018年6月号)の巻頭言に、「憲法学者による9条論の現在」と題したきわめて興味深い文章を寄稿しています。

  横田氏は、「私見では、憲法9条は一切の戦力(防衛力を含む)の保持を禁止し、その結果として自衛を含む一切の武力行使を禁じている」のであるから「自衛隊は違憲である」と明言したうえで、「こうした私見は、マスメディアはもとより、『護憲運動』のなかでも受けが悪い」とし、次のような状況を紹介しています。

  「ある市での『九条の会』での講演では、会の結成趣旨が自衛隊合憲論者を含む9条改悪に反対であることを理由に、自衛隊違憲や安保条約違憲を語ることを控えるよう求められることもでてきた。運動の立場からはここまでは了解できないわけではないが、『戦争法案』反対を訴えたある県の『九条の会』のチラシに、『日本国憲法では「日本本土が攻撃された場合のみ、防衛できる」という「専守防衛」を国民は認めています。そのために「自衛隊」がいるのです。』と明言されているのには、ここまで時の流れに迎合するのかと唖然とするしかなかった。自衛隊違憲は、もはや『護憲運動』でも禁句なのか!

  さらに横田氏は、「憲法学者の流れはすでに自衛隊合憲に向いている」として「3つの有力な合憲説」を紹介しています。

 「憲法学者の流れ」が「自衛隊合憲」へ向かっているとは驚くべき、そして恐るべき状況です。が、ここでは横田氏が指摘する「禁句」について考えます。

 「九条の会」の中に「自衛隊・日米安保違憲」を「禁句」にしているところがあるというのは、十分あり得ることです。なぜなら、その傾向は「九条の会」だけではないからです。

 日本共産党は2年前の2016年6月28日、藤野保史政策委員長(当時)を突然、更迭しました。理由は、その2日前(6月26日)のNHK討論で藤野氏が、「2016年度予算で初めて5兆円を超えた防衛予算に触れ『人を殺すための予算ではなく、人を支えて育てる予算を優先する』と言及した」(同6月29日付共同配信)責任を取らされたのです。

 共産党の志位和夫委員長は同27日、「不適切だ。…私からも注意した」(同28日付共同)と藤野氏を批判。同28日、藤野氏は小池晃書記局長とともに記者会見し、「自衛隊のみなさんを傷つけるものとなってしまいました。深く反省し、心からおわび申し上げます」(同29日付「しんぶん赤旗」)という「おわびコメント」を発表しました。

 これは共産党が民進党(当時)などとの「野党共闘」を最優先し、「参院選への影響を最小限にとどめるため、事実上の更迭によって早期の幕引きを図った」(同29日付毎日新聞)ものです。

 藤野氏のNHK討論での発言はきわめてまっとうです。それを批判(否定)したばかりか、発言者(政策委員長という重要幹部)を短時日に更迭したことは、同党の歴史に大きな汚点を残したと言えるでしょう(2016年6月30日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20160630)。

 この根底には、共産党自身が「自衛隊違憲」論を事実上棚上げしていることに加え、「野党共闘」を最優先し、「安保・自衛隊容認」の他野党への”配慮“から、それを口にすることすら封じている、すなわち「禁句」にしている実態があります。

 こうした共産党や「民主勢力」の中にある「安保・自衛隊タブー」は現実政治に大きな弊害をもたらしています。それが顕著に表れているのが沖縄です。

 4年前に共産党など「オール沖縄」陣営が翁長雄志氏を知事に擁立して以降(写真右)、沖縄でも「本土」のように、「日米安保条約・自衛隊批判」が鳴りを潜めているように思われます。それは翁長氏が日米安保・自衛隊の積極的支持者であることと無関係ではないでしょう。

 日米安保を賛美する翁長氏が沖縄県知事にふさわしくないことは再三述べてきましたが、百歩譲って翁長氏を擁立するとしても(その場合も「政策協定」が不可欠であることは言うまでもありませんが)、それによって「オール沖縄」のメンバー(個人・団体)が「日米安保条約・自衛隊反対」を主張できないわけではありません。「政策協定」に基づく共闘と、共闘の構成員が独自の政策・政治理念を主張することはまったく矛盾するものではありません。ところが実際は「共闘」の名の下に、「日米安保・自衛隊批判」は鳴りを潜めているのです。

 「世論調査」で「自衛隊・日米安保支持」が多数だからといってそれに迎合していては、いつまでたっても状況を打破することができないのは明白です。いまは少数派でも、「真理・正義」はやがて多数派になる。それが歴史の歩みではないでしょうか。

「立憲主義」を標榜する陣営の中の「自衛隊・日米安保違憲」の「禁句」、タブーを打ち破ることは焦眉の重要課題です。


「ミサイル防衛」は「拉致問題言及」とのディールか

2018年06月28日 | 自衛隊・日米安保

     

 朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)とアメリカの会談(6月12日)によって、朝鮮半島情勢は大きく変わろうとしている時、それに逆らう言動をしているのが日本の安倍晋三首相です。

 韓国のハンギョレ新聞(電子版・6月25日付)は、「朝鮮半島和解ムードにも『ひとりMD強化する安倍』」のタイトルで、「歴史的な朝米首脳会談で北朝鮮の安保脅威が顕著に減ったにもかかわらず、日本政府は『ひとりで』ミサイル防衛(MD)網の強化に出ている。日本国内でも膨大な金をかけてむだな事業を展開する必要があるのかという指摘が出ている」と報じました。

 安倍首相は6月18日の参院決算委員会で「イージス・アショア」(地上配備型迎撃システム)について、「真に必要な防衛力は今後も強化を図っていく必要がある」(19日付中国新聞=共同)と、あくまでも導入を強行する考えを強調しました。

 安倍政権は「イージス・アショア」を2023年までに山口県萩市(陸上自衛隊むつみ演習場)と秋田県秋田市(陸自新屋演習場)の2カ所に1基ずつ設置する計画。費用は1基約1000億円。それに伴う迎撃ミサイル(SM-3ブロック2A)の購入を加えると約1200億円。2基で計2400億円というとてつもない軍事費の出費です。

 小野寺防衛相は22日に山口、秋田両県に行き、導入計画を説明しましたが、村岡嗣政・山口県知事、佐竹敬久・秋田県知事の両知事から、「北朝鮮情勢は変わった。納得できる説明をしてほしい」(村岡氏)などと不満が表明されました。

 防衛省はこれまでも現地で住民説明会を行ってきましたが、必要性への疑問のほか、「電磁波の影響は」「農作物の風評被害が心配だ」(20日付中国新聞)など、生活上の不安から設置に反対する声が噴出しています。

 にもかかわらず、安倍政権があくまでも「イージス・アショア」の導入を強行しようとしているのはなぜか。

 もちろん、朝鮮半島・東アジアの平和・安定を忌避する安倍氏の特異な政治観・歴史観が根底にありますが、それだけではないでしょう。

 ここで、朝米会談の直前に安倍氏が急きょワシントンへ飛んで行ったトランプ大統領との会談(日本時間6月8日)を想起する必要があります。

 会談後の共同記者会見(写真右)で、安倍氏はトランプ氏が朝鮮の金正恩委員長との会談で「拉致問題」を取り上げると約束したと誇示しました。一方、トランプ氏は会見のかなりの時間を「日米貿易摩擦問題」にあて、こう言いました。

 「ボーイング社などの数十億㌦の製品を日本に購入してもらうことになる。…安倍首相はやると言った」(NHK同時通訳のメモ)

 日本のメディアはこのトランプ発言をほとんど無視しました。しかし、これこそ朝米会談を前にした日米会談の主要な内容ではなかったでしょうか。

 「ボーイング社などの数十億㌦の製品」とは、日本円で数千億円にのぼる武器・兵器装備品の購入にほかなりません。それを安倍首相は約束した。
 2基で2400億円にのぼる「イージス・アショア」の導入(アメリカからの購入)を計画通り実行することはもちろん、さらにアメリカ製の兵器を数千億円購入すること。それが安倍氏が政権維持のためにトランプ氏に懇願した「拉致問題への言及」(実際に言及したかどうかは疑わしいですが)に対するトランプ氏のディール(取り引き)ではなかったでしょうか。

  安倍氏が「ひとりで」強行しようとしているように見える「MD強化」の背景には、アメリカの兵器売り込み戦略、対米従属の日米安保体制=軍事同盟があることを見落とすことはできません。


『万引き家族』と「権力からの距離」

2018年06月26日 | 国家と文化・芸術・スポーツ

     

 カンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した「万引き家族」は、さまざまな感想を生む映画ではないでしょうか。おそらく多くの鑑賞者は「あのあとあの”家族“はどうなるのだろう」と思うでしょう。特に「妹」のその後が気にかかります。

  作家の角田光代さんは、「この家族が、言葉に拠らず共有している暗号を、当然ながら家族以外の他者は理解できない。理解できないものを、世のなかの人はいちばんこわがる。理解するために、彼らを犯罪者というカテゴリーに押し込める。…よく理解できないこと、理解したくないことに線引きをしカテゴライズするということは、ときに、ものごとを一面化させる。その一面の裏に、側面に、奥に何があるのか、考えることを放棄させる」(朝日新聞6月8日付)と述べています。とても共感できる評論です。

  ただ、角田さんは、彼らがそうして身を寄せ合って生きていることと、「彼らが罪を犯すことはまったく矛盾しない。…罪を犯し、また罪を犯させることに躊躇がない」と言っていますが、私はそうは思いません。彼らは罪を犯し犯させることに深層部分で躊躇し矛盾に悩んでいたのではないでしょうか。

 それはともかく、こうして観た者が様々な感想をもち、「その後」に思いを致す。それこそが是枝裕和監督の狙いではなかったでしょうか。

 是枝監督は「万引き家族」の受賞に関連して自身のブログ(6月7日)でこう言っています。

 「実は受賞直後からいくつかの団体や自治体から今回の受賞を顕彰したいのだが、という問い合わせを頂きました。有り難いのですが現在まで全てお断りさせて頂いております」

 「映画がかつて、『国益』や『国策』と一体化し、大きな不幸を招いた過去の反省に立つならば、大げさなようですがこのような『平時』においても公権力(それが保守でもリベラルでも)とは潔く距離を保つというのが正しい振る舞いなのではないかと考えています

  映画に限らず、国家(権力)は文化・芸術・学問・スポーツが社会的評価を受けると、その文化人・学者・選手を国家に取り込もうとします。歴代首相の中でもそれに異常なほど執着しているのが安倍晋三氏でしょう。

 「国民栄誉賞」は文化人・スポーツ選手らを国家に取り込む手段の1つですが、それが最も制度化されているのが、天皇が授与する褒章・勲章です。

 褒章・勲章制度は何段階にもランク付けされ、その授賞は全ての新聞・メディアが細かく報じ、受賞者は家族も含めそれを「名誉」とする”文化“が、日本では草の根まで浸透しています。

 そんな「世間」に抗し、権力に対して「距離」を置くことはけっして容易なことではありません。

  かつて大江健三郎氏は、文化勲章を辞退したことがありますが(1994年)、「民主主義に勝る権威と価値観を認めないからだ」と「ニューヨークタイムズ」に語ったといわれます。
 文化勲章は天皇裕仁が自分の代に創設した(1937年2月11日)、唯一の勲章です。

 大江氏の辞退に対し、作家の城山三郎氏は「スジを通して立派なことだと思う」として、こう述べています。
 「言論・表現の仕事に携わるものは、いつも権力に対して距離を置くべきだ。権力からアメをもらっていては、権力にモノを言えるわけがないから」(朝日新聞1994年10月15日付夕刊)
 城山氏は自らそれを実践し、紫綬褒章を辞退したうえ、夫人に「自分が死んでも決して受け取らないように」と遺言したといいます。

  国家が褒章・勲章で文化・芸術・スポーツを取り込もうとするのは、角田さんが言う「よく理解できないこと、理解したくないことに線引きをしカテゴライズする」類だと言えるかもしれません。そしてそれは「『国益』や『国策』と一体化」させようとすることに通じます。

  是枝監督の作品は、「万引き家族」に限らず、どれも直接「権力」を批判したものではありません。しかし、「家族」を描きながら、「人間」を問いながら、その根底には「国家権力」の非人間性に対する激しい怒り・批判があるように思います。

 是枝作品を支えているのは、「公権力とは潔く距離を保つ」という監督自身の基本姿勢ではないでしょうか。

 是枝監督がその信条を失わないことを願いながら、次回作を楽しみにしたいと思います。


翁長知事で「基地なき島」が実現できるのか

2018年06月25日 | 沖縄・翁長知事

     

  6月23日の沖縄「慰霊の日」にあたり、日本共産党の機関紙「しんぶん赤旗」は23日、「『基地のない平和な島』実現を」と題する「主張」(社説)を掲げました。まさに時宜に適したタイトルです。ところが、その内容に唖然としました。なぜなら、それはこう結ばれていたからです。「11月の県知事選で翁長県政を守り、発展させることが何より必要です」

  「基地のない島」を実現するためには知事選で「翁長県政を守り発展させることが何より必要」だというのです。これはたいへんな錯誤と言わねばなりません。「翁長県政」と「基地のない島」はとうてい結びつかない、いや、相反するものだからです。

  翁長氏が「基地のない島」すなわち沖縄からの「全ての基地撤去」を口にしたことは一度もありません。それどころか、翁長氏は確信的な「基地必要」論者です。

 それは23日の「追悼式典」における「平和宣言」にも表れていました。「平和宣言」で翁長氏はこう述べました。

 「辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行していると言わざるを得ず、全く容認できるものではない。『辺野古に新基地を造らせない』という私の決意は…これからもみじんも揺らぐことはない」

 「沖縄の米軍基地問題は、日本全体の安全保障の問題であり、国民全体で負担すべきものである。国民の皆さまには、沖縄の基地の現状や日米安全保障体制の在り方について、真摯に考えていただきたい」(24日付沖縄タイムスより)

  これは翁長氏の持論で、目新しいものではありません。この発言(考え)が意味するのは何でしょうか。

 第1に、辺野古に新基地を造るのは反対(額面通りだとして)としながら、岩国と並んで極東最大級の米軍の拠点基地で事故も頻発している嘉手納基地をはじめ、他の米軍基地の縮小・撤去にはまったく触れていません。
 第2に、米軍基地は「日本の安全保障」のためなのだから、その負担は「国民全体」がすべきもの。それが「日米安全保障体制」の在り方だ、ということです。

 つまり翁長氏は、日米安保体制=軍事同盟は必要だという前提に立って、その負担の公平化を主張しているのです。これでは沖縄が「基地のない島」にならないばかりか、基地負担・被害が分散することになります。

 この根底には、翁長氏の「日米安保体制礼賛」があります。それは永年自民党幹部として政界に身を置いてきた翁長氏の偽らざる信念です。

 例えば翁長氏は、今年になっても「沖縄県は日米安保条約の必要性を理解する立場だ」(3月16日付琉球新報)、「(アメリカと日本・沖縄が)日米安保体制の強い絆で結ばれるのはいい」(3月15日付沖縄タイムス)と公言しています。
 昨年11月20日の在沖米軍トップ・ニコルソン四軍調整官との会談では、「日米が世界の人権と民主主義を守ろうというのが日米安保条約だ」(2017年11月21日付沖縄タイムス)と日米安保条約に最大級の賛辞を送りました。

 小野寺防衛相は23日、「追悼式典」出席に乗じて沖縄県内の自衛隊3施設を視察し、「諸君らなくして我が国を守ることはできない」(24日付琉球新報)と自衛隊を鼓舞しました。「県民感情を逆なで」(石原昌家沖縄国際大名誉教授、同琉球新報)するのも甚だしいものですが、自衛隊という軍隊に対する翁長氏の姿勢は、さらにいっそう政権よりです。

 安倍政権が強行しようとしている石垣、宮古など八重山諸島や沖縄本島への自衛隊配備強化に対し、翁長氏は一貫して反対せず容認しています。それどころか、県知事として沖縄の陸上自衛隊(第15旅団)に「感謝状」を贈ったことさえあります(2016年10月21日)。

 このような日米安保・自衛隊礼賛者である翁長氏の県政を「守り発展させる」ことが、どうして「基地のない平和な島」の実現に結びつくのでしょうか。

 大きな錯誤は「赤旗」(共産党)だけではありません。

 24日付琉球新報も「基地なき島の実現誓おう」と題する「社説」を掲げましたが、翁長氏の「平和宣言」を賛美し、「慰霊の日に誓いたい。…いつか、基地のない平和な島にすることを」と結んでいます。「いつか」とは?翁長氏を支持する限り「いつか」と言わざるを得ないのかもしれませんが、「基地なき島の実現」は「いつか」ではなく今現在の喫緊の課題ではないのでしょうか。

 沖縄タイムスの「社説」(24日付)に至っては、「基地は国民全体で負担すべき」という翁長氏の「平和宣言」を引き、「翁長知事の指摘を、私たちもまた全国に向かって投げ掛けたい」と結んで翁長氏と一体化しています。「基地のない島」=基地撤去には一言も触れていません。

 朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)と韓国の歴史的な会談・板門店宣言、さらに「朝米会談」直後の「沖縄慰霊の日」。まさに「基地のない沖縄」を決意し合う好機でした。
 にもかかわらず、安倍首相の厚顔無恥な「あいさつ」は論外として、「基地撤去」に触れない翁長知事の「平和宣言」、それを手放しで賛美する「赤旗」「琉球新報」「沖縄タイムス」。きわめて深刻な状況だと言わねばなりません。

 

 


日曜日記8・ 「コンビニ哀歌」「サイレント・ブレス」「65歳」

2018年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム

 コンビニ哀歌…ファミマが「ドンキ方式」を採り入れて店舗の外にも商品を並べるとか、セブンやファミマが「民泊」の鍵の受け渡しを始めたとか、コンビニ「改革」のニュースが相次ぐ。消費者はさらに便利になると歓迎するかもしれないが、コンビニで働いている(バイト)者からすると、いい加減にしてほしい。

 ただでさえ人手不足だ。だから私のような「中高齢者」でも採用される(経験があることもあるが)。店長も自ら深夜のシフトに入らざるをえない。コンビニがさらに「便利」になることは、従業員にとってはさらなる「労働強化」を意味する。

 そもそもコンビニの多くは個人(家族)や地方企業のフランチャイズであり、本社は勝手に経営方針を決めて末端に押し付ける。売上が下がると一方的に納品を増やす。「24時間営業」だって進んでやっている店は少ない(ように体験上思う)。上の方針だから仕方なく従っている。

 コンビニ業界の過当競争のしわ寄せ・犠牲は末端にかかっている。どんな産業も同じ。これが耐用年数を過ぎた資本主義の実態だ。

  「サイレント・ブレス」…21日の「ラジオ深夜便」で、医師で作家の南杏子さんが、「無理な延命治療ではなく、静かな看取りの医療を」と話していた。それを著す言葉が「サイレント・ブレス」。南さんの造語であり、作家としての第1作の題名でもある。

 その本『サイレント・ブレス』(幻冬舎)の巻頭にこうある。「静けさに満ちた日常の中で、穏やかな終末期を迎えることをイメージする言葉です。多くの方の死を見届けてきた私は、患者や家族に寄り添う医療とは何か、自分が受けたい医療とはどんなものかを考え続けてきました。人生の最終章を大切にするための医療は、ひとりひとりのサイレント・ブレスを守る医療だと思うのです」

 たいへん共感できる。本を読んでさらに考えたい。

  65歳…もうすぐ65歳になる。自分がこの歳だとはどうしても信じられない。自己意識は「50代」だ。この自己意識と現実のギャップが時として悲劇を生むことに注意しなければならない。

 それはともかく、1953年生まれの歴史的位置・役割は何だろう、とこのごろよく考える。戦後8年して生まれ、11歳で「東京オリンピック」、17歳で「大阪万博」。大学に入った時には「学生運動」はほとんど残り火程度。社会に出ると、ワープロからPCへ、ポケベルから携帯、スマホへと目まぐるしい変化に追われ続けた。

 親は戦争体験者で、その話を直接聞いて戦争を疑似体験できた。しかし自分には子どもたちに語り伝える戦争体験はない。

 自分が生まれて生きた「時代」は、歴史(戦後史)の中で、どういう時代だったのだろうか。後世に何を語り継ぐべきだろうか。今からでも何か遺せるだろうか…。残りの人生でそれを考えていきたいと思う。


日本新聞協会は「伊藤詩織さん性被害事件」の真相を究明せよ

2018年06月23日 | 安倍政権とメディア

     

 日本新聞協会(会長・白石興二郎=読売新聞)は20日、テレビ朝日の女性記者に対する福田淳一前財務次官のセクハラに関連して、「セクハラ問題に対する決議」を行い発表しました。

  この中で、「記者へのハラスメントは人権侵害にとどまらず、取材活動を阻害し国民の知る権利にも悪影響を及ぼす重大な問題である」とし、「女性を取材現場から遠ざけることを肯定するような言動も、見過ごすことはできない」と述べたうえで、「課せられた使命に対する自覚を深め、加害者にもならないよう自らを律していく」とうたっています。

  そこで想起されるのが、フリージャーナリストの伊藤詩織さんが、TBSワシントン支局長(当時)の山口敬之氏に、性被害(レイプ)を受けた(2015年4月)と告発した問題です。

  この問題は、「刑事訴訟」的には、検察が「不起訴」とし(2016年7月)、検察審査会も「不起訴相当」と判断したことによって「決着」がついたことになっています。しかし伊藤さんは泣き寝入りせず、昨年10月に『ブラックボックス』(写真中)を著し、あらためて山口氏を告発し、問題の重大性を社会に訴えています。

  日本新聞協会はこの問題について、これまでどのような検討・対応をし、いかなる見解を発表してきたのでしょうか。

  21日、新聞協会に電話で確認しました。答えは「何も見解は出していない」(編集委員会担当主幹)でした。見解は出さないまでも、議論はしたのか?との質問に、担当者は当初「そこまで答える必要があるのか」と回答を渋りましたが、何度かのやりとりの末、「話し合ったこともない」と答えました。

  新聞協会は伊藤さんの「レイプ被害告発」に対し、今日までまったくなんの協議・対応もしていないのです。これは重大な責任放棄と言わねばなりません。

  なぜなら、告発されている山口氏は当時、TBSの幹部社員であり、TBSは日本新聞協会の正式な会員だからです。つまり自分の協会の加盟社の幹部がセクハラどころかレイプの「加害者」だと告発されている問題なのです。

  そしてさらに、この問題には他の「レイプ事件」にはない、新聞協会として絶対に看過できない特徴があります。

  1つは、伊藤さんが『ブラックボックス』で指摘し、その後国会でも質問されたように、逮捕直前だった山口氏が逮捕を免れ、不起訴になった背景に安倍晋三首相(官邸)の動きがあったのではないかとの疑惑が持たれていることです。

 山口氏が「記者活動」を通じて安倍氏ときわめて親密な関係になっていることは本人も認める周知の事実です。山口氏は自著『総理』(幻冬舎文庫、2017年4月)で、「安倍氏と私は…出会った当初からウマが合った。時には政策を議論し、時には政局を語り合い、時には山に登ったりゴルフに興じたりした」と、公私にわたる親密ぶりを誇示しています。

 山口氏の不逮捕・不起訴の背景に安倍氏(官邸)のカゲがあったとの疑惑がもしも事実であれば、これはもちろん山口氏一人の問題にとどまらず、日本のメディア全体の重大事であり、新聞協会が座視できないことは言うまでもありません。

  もう1つは、そもそもこの問題は、伊藤さんがフリージャーナリストとして活動する場を求め、知己を得た山口氏に紹介・斡旋を依頼しようとしたことが発端だということです。つまり問題の背景には、フリージャーナリストと大手メディア幹部という絶対的な力関係の差があるということです。

 新聞協会が、メディア企業がお互いをかばい合う”仲間組織“ではなく、フリージャーナリストの活動も含め、本当に「国民の知る権利」を守る組織だというのなら、フリージャーナリストと加盟社幹部との間で生じている重大な疑惑は自ら率先して究明するのが当然ではないでしょうか。

  新聞協会がこの問題に触れようとしないのが、もしも「すでに不起訴が確定している」ことが理由だとしたら、言語道断と言わねばなりません。なぜなら、言うまでもなく新聞・メディアの存在意義は「権力を監視し続ける」(新聞協会の20日の「決議」)ことにあるからです。国家権力機構である検察、裁判所が「結論」を出したからそれで終わりというのは、自ら新聞・メディアの存在意義を否定することに他なりません。

  伊藤さんは『ブラックボックス』を著したほか、記者会見(2017年5月。写真左)を行って自ら経過と見解を明らかにしました。これに対し山口氏は、「月刊Hanada」(2017年12月号)に、「私を訴えた伊藤詩織さんへ」と題する「独占手記」なるものを投稿し、「レイプ」を否定する一方、伊藤さんに対し「普通の思考回路ではない」などと人格攻撃を行っています(写真右)。

 しかし、山口氏がどれだけ紙幅を費やして弁明しても、氏自身が吐露しているように、「密室での出来事ですから、誰も証言してくれる人はいない」(同誌262㌻)のです。被疑者の一方的な弁明の域を出ていません。

  つまりこれは、検察の「不起訴」で終結する問題ではないのです。国家権力による「捜査」とは別に、メディア自身が自らの自浄作用として、真相を究明する必要があります。日本新聞協会はその先頭に立つべきではないでしょうか。

  ところで、山口氏の『総理』の巻末「解説」で、新谷学氏(「週刊文春」編集長)が、山口氏を持ち上げながら、興味深いことを言っています。
 「週刊誌記者なら、親しい政治家のスキャンダルを書いて、その結果、相手に関係を切られたとしても、仕方ないと諦めるしかない。…それに対して山口さんは、おそらく、書く時期や書き方に細心の注意を払っているはずだ。だからこそ多くの政治家と継続的な人間関係を維持できているのだ

 つまり、山口氏は「親しい政治家のスキャンダル」を握っていながら、「書く時期」や「書き方」に注意を払っている、すなわち手心を加えているから、「政治家と継続的な人間関係を維持できている」というのです。
 山口氏は自ら「親しい政治家」と誇示する安倍氏の、いったいどんな「スキャンダル」を握り、どんな「細心の注意」を払っているのでしょうか?


「原理原則」「真実・正義」踏みにじる強権国家に抗う力は?

2018年06月21日 | 安倍政権と民主主義

  

 「もはや腹を立てるだけ虚しい。それほどの惨状です。一国の首相の配偶者の振る舞いに振り回されている政治の現状も、取り繕うのに必死の内閣も、ひたすら追従するだけの与党や官僚も、そして次元の低さを冷笑するだけの有権者も、全てが最低・最悪。けれども、これが民主主義国家を標榜する日本の、掛け値なしの実像なのです」(6月3日付中国新聞=共同)

 作家の高村薫さんはこう書き出し、「時代がどんなに変わっても、変えてはならないものを原理原則と言います。公文書の保存はその一つ。それを改ざんしても罪を問われないとなると、歴史の検証ができなくなる」と「原理原則」の重要性を強調し、それを蹂躙することは「真実や正義」の崩壊に通じると言います。

 「今回の不祥事では、官邸も官僚も一線をはるかに越えていても、のうのうとしらを切る。この事態を、私たちは心底恐れるべきです。というのも、これは真実正義が価値を持たなくなった世界の出現を意味するからです。
 …真実や正義や公正が意味をなさない時代になり、原理原則が崩壊した社会に私たちは生きています。文明の終わりの始まりなのかもしれません」

 専修大教授の岡田憲治さん(政治学)は、「条理と事実」の危機だと言います。

 「私情と無法に対して『条理と事実』を突きつけ、未来の失敗の確かさを下げることこそが言論の役割である。とは、言論人がこの世に存在する根本原理であり、それは『問われていることに道理を持って答える』基本前提のことである。

 …どれだけの理を尽くしても『でもそんなの関係ねぇ』とばかりに笑う、憲政史上例のない政治家と、彼らを支持する複数のメディアとの連携に対して、一体我々は何ができるのか? これは未知の領域の問題だ。理で言葉が機能しなければ仕事になりようがない者たちの存在意義が無化されつつある。絶望ここに極まれり」(6月13日付中国新聞=共同)

 高村さんの「文明の終わりの始まり」、岡田さんの「極まれる絶望」。いずれもかなり以前から私も感じていることです。

 この「絶望」から脱出する出口はあるのでしょうか?

 岡田さんはアメフトの反則問題で記者会見した日大の宮川泰介選手の姿を示します。「事実をつまびらかにすることが己の再生の端緒だとこうべを垂れた。それは、久しく見なかった理の姿だった」とし、こう言います。

 「古今東西、強権者に徒手空拳の戦いを挑めば全敗する。だが、上からの理不尽に対して、横並びの者たちが心を一つにして『かような体制では良き生を全うできない』と宣言し不服従を貫けば、あしき支配に動揺を与えられる。勇気ある会見と指導者の失脚を可能にしたのは、条理に寄り添った彼と一緒に、未来の拠点を模索した友人たちの存在である。

 …疑念を持ったら、勇気と力をふりしぼった者たちをかばう。しがらみゆえに応援できずとも、決して孤立はさせず、圧力に苦しむ者の生を支える別の選択肢を準備する。…戦う者は『理不尽を理解してくれる人がきっといるはずだ』と信じる
 他者へのこの基本的信頼に支えられる何かを、私は『社会』と呼んでいる。別名、希望である」

 「他者への基本的信頼」。それを生むものは何だろう?

 埼玉大名誉教授の暉峻淑子さん(経済学)は、「働き方」に関連して、「対話」の意義を強調します。

 「どんな働き方をしたいのか。どうすれば健康に働けるか。使用者はきちんと聞かなくてはいけない。生産性の高い仕事をするためには、人が働く場に対話が必要なんです。

…過度に効率を重んじ、手間暇を嫌う環境では『対話はまどろっこしい』となりがち。でもそんな風潮が、民主主義を劣化させるのですよ。

権力によって人間的な暮らしが壊されそうな時、対抗力を持つのは人間性を持つ個人であり、個人をつなぐ対話です」(5月23日付中国新聞)

 「対話」。そういえば沖縄大学前学長の加藤彰彦さんにこういう言葉があります。

 「『戦争』の反対は『平和』ではなく、『対話』である」(「暮らしのノート」5月号)

 社会(世界)の闇は深く、ますます深く、簡単に出口が見つかるとは思えません。
 でも、「原理原則」「真実と正義」「条理と事実」を踏みにじる国家の強権に対抗できるのは、やはり、「人間性を持つ個人」「個人をつなぐ対話」、そこから生まれる「横並びの者」としての「他者への信頼」しかないのかもしれません。


「拉致問題の解決」とは何かを明確にしよう

2018年06月19日 | 朝鮮と日本

     

  「言葉」に込める意味は人それぞれ違います。人はその前提の上でなるべく相手の言葉を理解しようと努めることで、この社会は成り立っているのでしょう。

  しかし、ある言葉が社会で広く使われ、重要な役割を果たしている場合、その解釈は人それぞれだといってすませる訳にいかないことがあります。「拉致問題の解決」はその典型ではないでしょうか。

 18日付の朝日新聞は世論調査の結果として、「安倍首相のもとで拉致問題が解決に向けて進むことに期待できますか」という問いに、「期待できる40% 期待できない51%」と報じました。

 報道ステーションも同日、「拉致解決前の経済支援」について、「よいと思う12%、わからない・言えない9%、よいと思わない79%」という世論調査を示しました(写真左)。

 それぞれの「世論調査」における「拉致問題の解決」とはいったいどういう意味なのでしょうか? その説明はなく、回答者はそれぞれ自分の「拉致問題の解決」の基準で答えたとみられます。

 定義を明確にしないまま「拉致問題の解決」を多用(流布)しているのはもちろん「朝日」や報道ステだけではありません。日本のメディアすべての傾向です。

 例えば、朝米会談(6月12日)後の社説でも、「トランプ米大統領が金正恩朝鮮労働党委員長に拉致問題を提起したことはプラスではあるが、根本的な解決にはならない」(14日付毎日新聞社説)、「拉致解決へ米韓と連携を深めよ」(15日付読売新聞社説)、「拉致解決へ真剣勝負せよ」(15日付産経新聞社説)など、「拉致(問題)の解決」を前面に出していますが、それはどういう意味で言っているのか明確にされていません。

 安倍首相は16日、読売テレビの番組で、「拉致問題が解決されなければ経済援助は行わない」と明言したうえで、「北朝鮮が知っていることをきれいさっぱり話して、全ての拉致被害者を日本に帰国させた時に問題は解決する」(17日付読売新聞)と述べました。
 「読売」や「産経」の社説にも安倍氏と同様に、「拉致の全容を明らかにし、被害者を帰国させる」(「読売」)、「拉致被害者全員の即時帰国」(「産経」)という言葉があります。

 しかし、「拉致被害者全員」という言葉はきわめて曖昧です。少なくとも2つ問題があります。

 1つは、「拉致被害者」とは何をさすのかです。政府の「拉致問題対策本部」は、「政府認定」の「拉致被害者」は「17人」(うち5人はすでに2002年10月15日に帰国-写真右)、そのほかに「拉致の可能性を排除できない人」が「883人」いるとしています。「可能性を排除できない」とはどういう意味でしょうか。日本政府自身「拉致」の明確な定義はできていないのです。

 もう1つは、「全員」という言葉の意味です。それは日本政府が「可能性を排除できない」とする「883人」も含むのか。また、朝鮮は2002年9月の日朝会談で「8人は死亡」と回答しています。「家族会」とともに日本政府はそれを否定していますが、あくまでも「全員」生存しているという前提に立ち、その「帰国」がない限り「解決」にはならないと言い続けるのか、という問題です。

 それらの「定義」を明確にした上で、考えなければならないのは、「被害者の帰国」が果たして「拉致問題の解決」なのかということです。

 仮に「拉致」によって朝鮮に連行されたとしても、その後それぞれの人はそれぞれの人生・生活を生きて今日に至っています。人がどこに住むかはその人の自由です。決めるのはその人自身です。それは日本国憲法(第22条「居住・移転の自由」)も定めている基本的人権です。
 政府(どの国であっても)が「移転の自由」を禁止するのが誤りであるように、逆に本人の意思を確認することもなく「帰国」させようとし、それが「解決」だというのも誤りではないでしょうか。

 「拉致被害者の帰国」とは、「生存する被害者のうち日本への帰国を希望する人の帰国を直ちに実現する」という意味であるべきです。

 安倍首相(および「読売」「産経」)が内容をあいまいにしたまま、あるいは朝鮮が到底受け入れない意味のまま「拉致問題の解決」を流布するのは、朝鮮への「経済支援」や「国交正常化」に進みたくないという本音があるからですが、他のメディアがそれに追随して意味不明確なまま「拉致問題の解決」と言い続けるのは、メディアとしての責任放棄と言わねばなりません。

 そしてなにより、私たち「日本国民」は、安倍政権やメディアに流されることなく、何がほんとうに「拉致問題の解決」につながるのかを自分で考え判断する必要があるのではないでしょうか。

 その際、「拉致問題」というなら、朝鮮に対する日本の植民地支配、「戦時性奴隷(慰安婦)」、「強制連行・徴用」こそ重大な「拉致問題」であることを忘れることはできません。


知事選目当ての「承認撤回」は安倍・自民党の思うツボ

2018年06月18日 | 沖縄・翁長・辺野古・...

     

 沖縄県知事選まで5カ月。安倍政権は辺野古埋め立ての土砂投入を8月17日に行うと沖縄県に通告し、翁長雄志知事の「埋め立て承認撤回」があらためて取り沙汰されています。

 翁長氏は14日、記者団に「県民投票の時期や結果に縛られない。環境保全措置などについて看過できない事態となれば、ちゅうちょすることなく必ず撤回する」(15日付琉球新報)と語ったといいます。埋め立て工事が日々強行され深刻な事態に至っているにもかかわらず(写真左)、今もなお、「看過できない事態」ではないという翁長氏の認識にはあらためてあきれます。

 「撤回」については次のように報じられています。
 「翁長雄志知事は土砂投入前の埋め立て承認撤回に踏み切るかどうか慎重に見極めている」「知事周辺は『撤回は一度しかないチャンスだ。早く撤回して知事選の時にはもう意味がないということだったら(選挙を)戦えない』とけん制する。『撤回の勢いで知事選を勝利し、2期目に入った後に県民投票で民意を示して最高裁にメッセージを送るという流れがベストだ』」(16日付琉球新報)

 先の翁長氏の発言やこの「知事周辺」の発言で明らかなことは、翁長氏とその周辺が「承認撤回」を知事選を有利にするための材料にしようとしていることです。これまで辺野古新基地に反対する市民が何度も何度も「直ちに撤回を」と要求してきたにもかかわらず、翁長氏が頑として「撤回」せず、ここまで引き延ばしてきた狙いもここにあったと言えるでしょう。

 知事選への出馬表明と前後して「撤回」というパフォーマンスを行い、「オール沖縄」勢力にそれを誇示し、離れかけている(すでに離れている)支持をつなぎとめ、絶賛を受ける中で知事選の再選を狙う。これが翁長氏の再選戦略でしょう。

 当選直後に実行すべきだった選挙公約の「承認撤回」を3年半棚上げし続け(工事強行を許し)、それを次の選挙を有利にするための材料にしようとする。まったく言語道断の党利党略、私利私略と言わねばなりません。

 しかし留意しなければならないのは、翁長氏が知事選目当てに行おうとしている「撤回」は、逆に安倍・自民党にとって格好の”渡りに舟“として利用されかねないということです。

 安倍・自民党は名護市長選(2月4日)で辺野古新基地反対の稲嶺進氏を破った(写真中)ことに味を占め、知事選でも同じ戦術をとることは確実でしょう。その戦術とは-。

 「渡具知武豊氏が勝利した要因は、最大争点である米軍普天間飛行場の辺野古移設を『裁判の行方を見守る』と容認を明言せず、前回自主投票だった公明の推薦を得て政権与党が一枚岩での選挙態勢を築いたことが大きい」(2月5日付琉球新報)

 選挙では「辺野古新基地容認」という本音を明言しない“争点そらし“戦術です。それは新基地反対が圧倒的多数の世論(有権者)対策であると同時に、「新基地容認」を広言できない公明党に対する配慮としても必要な策術でした。
 そのために安倍・自民党が利用したのが、県が提訴した「岩礁破砕」をめぐる裁判でした。「裁判の行方を見守る」ことを口実に本音を隠したのです。

 この事情は知事選でもまったく同じです。「新基地容認」の本音を隠し、争点をそらす戦術にでることは目に見えています。では知事選では何を口実にするのか。「撤回」に伴う「裁判」がそれに利用される可能性が大です。
 「撤回後は国との『裁判闘争』に移行する」(新垣勉弁護士、17日付沖縄タイムス)のは関係者周知のことです。翁長氏がこれから「撤回」すれば(土砂投入の前であろうと後であろうと)、知事選までに最高裁で結論が出る可能性は小さく、知事選で安倍・自民陣営は、「裁判を見守る」と言って本音を隠すでしょう。名護市長選と同じように。

 その危険性は「県民投票」も同じです。

 15日付の琉球新報は、「辺野古の埋め立ての是非を問う県民投票について、実施される場合でも11月に予定されている知事選より後になる公算であることが、14日までに分かった。県が…最短でも12月以降になると判断した」と報じました。
 県民投票が知事選後になるなら、知事選で安倍・自民党陣営は、「県民投票を見守り、結果を尊重する」と言えば、「新基地容認」の本音を隠すことができます。

 辺野古新基地を阻止するために行うはずの「県民投票」が逆に安倍・自民党を助けることになりかねない。このパラドクスも、これまで「撤回」を棚上げしてきた翁長氏が招いたものにほかなりません。

 ではどうすべきでしょうか。

 「撤回」は率直に言ってすでに手遅れでしょう。今まで棚上げしてきた翁長氏の責任・罪が厳しく問われなければなりません。
 しかしそれでもやはり「撤回」はすべきです。今すぐに。重要なのは、「撤回」をたんなる「裁判闘争」にしないことです。現場でのたたかい、さらには「本土」を含む世論形成と一体となった「撤回」にしなければなりません。

 さらにもっと重要なのは、知事選の争点を「辺野古」だけにしないことです。

 「辺野古」はもちろん大きな争点ですが、もともと、「辺野古新基地」だけを阻止すればいいというものではありません。問われなければならないのは、沖縄に基地を集中させてきた日米両政府の軍事植民地政策と、それを”黙認“してきた「本土・日本国民」の責任です。
 したがって、知事選で掲げるべきは、「辺野古」だけでなく、嘉手納基地(写真右)を含む「すべての米軍基地の撤去」です。

 そして、「安保法制(戦争法)」で米軍と自衛隊の一体化が急速に進行しているいま、石垣、宮古、与那国など八重山諸島や本島への「自衛隊配備強化反対」も重要な課題です。

 これらの根源はいうまでもなく日米安保条約による日米軍事同盟ですから、日米安保条約(「地位協定」ではありません)の見直し・廃棄も目標とすべきです。

 こうした課題・政策を掲げて安倍政権と真正面から対決してこそ、朝鮮半島・東アジアの平和にもつながる、沖縄の知事選となるでしょう。

  「すべての米軍基地撤去」も「自衛隊配備強化反対」も「戦争法反対」も言えない(言わない)、「日米安保体制礼賛」の翁長氏が、そうした選挙の候補者になりえないことは明白です。


日曜日記7・「マラソンと皇居」「正義の代償」「介護の技術」

2018年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム

 マラソンと皇居…「2020年東京オリンピック」のマラソンコースが正式に決まり、5月31日発表された。新国立競技場をスタートして浅草寺、日本橋、新橋から東京タワーで折り返し、競技場に戻ってくるのだが、神保町から急に左折し、”最後の名所“である二重橋まで行って戻ってくる。なぜ二重橋なのか?皇居のそばを走るためだ。
 「五輪の花」といわれるマラソンの、終盤の勝負所に「皇居」を置いた。意図的と思えてならない。
 「2020東京五輪」は徳仁皇太子が新天皇になって初の大舞台であり、名誉総裁となるのは確実で、開会式でのあいさつをはじめ国際的な”お披露目”の場となる。その締めくくりのマラソンまで「皇居」というわけだ。
 たたでさえ「日の丸」「君が代」が乱舞するオリンピック。「天皇の権威」高揚の場にされることは確実だ。「1964東京五輪」がそうだったように。

 正義の代償…16年前、雪印乳業の「産地偽装事件」があった。不正は内部告発によって発覚した。雪印製品を保管していた西宮冷蔵(水谷洋一社長)の勇気ある告発だった。その後、西宮冷蔵はどうなったか。6月12日未明のNHK「事件の涙」シリーズの中で報じられた(おそらく再放送)。
 取引先は激減し、「世間の風当たり」も強く、西宮冷蔵はいま倒産の危機に直面している。水谷社長の長男が他にアルバイトをしながらなんとか倒産を回避しようと孤軍奮闘している。当時高校進学を控えていた長女は進学を断念せざるをえず、マンションから飛び降り、頚椎損傷で寝たきりになった。水谷社長は長女の介護に忙殺される日々…。
 「今まで耐え忍んでいるというか、生きながらえているというか…。必ず”桜の咲く春“は来るだろうと信じて、生きていく」。水谷さんは笑顔で長女の車いすを押す。
 番組は詳しく報じなかったが、西宮冷蔵の経営危機が雪印・業界の圧力によるものであることは想像に難くない。これが正義の代償だ。正直者がバカをみるどころか、正義を貫く者が社会的に抹殺される。そんな「社会」が許されていいはずはない。

 介護の技術…グループホームで母を喜ばせようと後ろからほっぺたに軽く触れると、母は「びっくりした」とほんとうに驚いていた。部屋でカーテンを開けると、普通に引いたつもりだったが、ここでも「びっくりした」と目を見開いた。
 これはまずかった、とはっきり気づかされたのは、6月15日のNHKラジオ深夜便(「明日への言葉」)で、国立病院機構東京医療センター内科医長・本田美和子さんの「ユマニチュードを日本に紹介して」を聴いた時だった。
 認知症などの看護・介護法としてフランスで生まれたユマニチュード。その言葉は知っていた。立ったまま上から目線(文字通り)で相手を見てはならない、話す時は同じ目の高さで正対しなければならない、というくらいは気を付けていた。が、急な声掛けや音で驚かせてはいけないことは念頭になかった。
 きのうは「カーテン開けるよ」と一声かけてカーテンを引いた。母の表情は穏やかだった。ユマニチュード、介護の技術の重要性を改めて痛感する。