アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「日本と朝鮮戦争の関係」いつ「決着」をつけるのか

2024年06月25日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 今日6月25日は、朝鮮戦争が勃発(1950年)して74年です。1953年7月27日に朝鮮軍、アメリカ(国連)軍、中国軍の間で休戦協定が調印されましたが、戦争はまだ終結していません。

 この戦争の死傷者は、朝鮮軍52万人、韓国軍58万人、中国軍(死者)13万人、アメリカ(国連)軍13万人。民間人の犠牲者は「北」28万人、「南」36万人とされています(韓国国防部軍史編纂研究所統計、21日付ハンギョレ新聞)。

 日本人の犠牲者は統計上はありません。では日本は朝鮮戦争と無関係だったのか。とんでもありません。
 歴史学者のガマン・マコーマック氏(オーストラリア国立大教授)は、著書『侵略の舞台裏-朝鮮戦争の真実』(シアレヒム社発行・影書房発売、1990年)の「日本語への序文」で、「日本と朝鮮戦争の関係」を7点指摘しています(以下、抜粋)。

<第一に、朝鮮の分断、南北の対立、戦争に立ち至った悲劇の根源的理由は、朝鮮が長い間日本帝国の下に従属を強いられていたということと、もし日本にそのつもりさえあったら分断されない独立した朝鮮国家の樹立に手をかすという選択肢が残されていたにも拘わらず、またそれをなしうるだけの力が日本にあったにも拘わらずそうはしなかったということにある。

 第二に、日本に対するアメリカの占領が比較的寛大なものであったのにたいし、同じアメリカによる1945年の朝鮮分断とそれによってもたらされたこの国のその後の運命は苛酷で不当なものであった。侵略の犠牲者である朝鮮は分断され、逆に、侵略を犯した日本は分断をまぬがれたばかりか、政治体制、官僚機構の連続性さえが保障された。戦後の日本に降りかかって然るべきだった運命は、日本の上にではなく、朝鮮の上に降りかかった。

 第三に、日本は巨大な規模の間接的役割のみならず、直接的に重要な軍事的役割を果たした。日本は(国連軍)戦闘司令部の所在地であり、供給、通信、兵站の中心地であり、米軍(国連軍)将兵の休息と娯楽の場所であった。それのみでなく、極秘の軍事作戦にも直接関与した。

 第四に、戦後日本の経済復興とその後の高度成長は、その土台が、朝鮮戦争の「特需」によって据えられた。日産、トヨタ、いすず、その他のグループはすべて朝鮮戦争中、戦場から送りこまれてくるトラックや戦車の修理、組立からの巨大な利益を飛躍のバネとして成長した企業である。船舶、飛行機、制服、セメント、爆薬、ナパームその他数えきれない軍需品の生産でドルをかせいだ。

 第五に、日本は朝鮮戦争を絶好の機会として、日本に住む在日朝鮮人に対する差別を強化した。日本は朝鮮人に対するアメリカ軍の敵意を煽りながら、朝鮮系の組織、新聞、学校等に対し、解体、閉刊、閉鎖の手段で弾圧を加えた。

 第六に、日本がこの戦争中、開発した技術と蓄積した経験を通じて、アメリカが朝鮮に対して実験したと思われる細菌戦に寄与したのではないかという問題。真相が究明されなくてはならない。

 第七に、日本人は、少数の例外を別にすれば、隣国の朝鮮人が蒙った心の傷に対して無関心であり続けた。人びとは安易に、いずれにせよ朝鮮戦争は自分たちの力の及ぶ問題ではないと片付けてきた。>

 そしてマコーマック氏はこう結んでいます。

「大部分の日本人にとって、朝鮮戦争という隣人の悲劇は高度成長の春霞の中では見えにくいものであった。いつの日か日本はこの時代になしたこと、なさなかったことについて決着をつけるべき日がくるだろう」

 この指摘から37年。マコーマック氏が挙げた7点はどれも「決着」がついていません。
 日本人は、「見えにくかった」のではなく「見ようとしなかった」のです。「決着をつけるべき日」はとうに来ていたのに、決着をつけないまま今日に至っています。それどころか、「朝鮮戦争」を知らない日本人は増えるばかりです。

 「朝鮮戦争と自衛隊の関係」(23年6月26日のブログ参照)を含め、「日本と朝鮮戦争の関係」から目を逸らすことは絶対に許されません。だいいち、朝鮮戦争はまだ終わっていないのです。



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済州島レポート<下>沖縄とのもう1つの共通点

2024年04月05日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 済州島(チェジュド)と沖縄には多くの共通点があります。

 前回の訪問(2017年10月)では、民意に反して基地が建設されようとしていること、そして空港などが軍民共用化されようとしていること、さらに日本とアメリカによって「加害の島」にされてしまったこと(済州島は南京大虐殺の、沖縄はベトナム戦争の出撃基地)に注目しました(2017年11月11日、12日、14日のブログ参照)。

 以前、沖縄タイムス(23年7月2日付)に、「済州と沖縄 多い共通点」と題した新里紹太・沖縄県ソウル事務所長のコラムが載りました。新里氏が指摘していたのは次の5点です。

①地理と歴史 最南端の島の自治体。済州島も1402年まで「耽羅(たんら=島国)」という名の独立国だった。

②方言 本島の言葉との違いが大きく、ユネスコの消滅危機言語に認定されている。

③トイレ かつて沖縄には豚小屋に直結する「フール」という便所があり、済州にも80年代まで「トンシ」という同様の便所があった。

④水族館 「アクアプラネット済州」という水族館は、済州道知事だった金泰煥氏が美ら海水族館を視察して造ったもの。

⑤平和の希求 「4・3平和公園」にある犠牲者の名前を刻んだ石板(写真左・中)は沖縄の「平和の礎」を参考に造られた。

 これに加えて、今回の再訪で気付いたことがいくつかあります。

 1つは、空港、商店街はじめ済州のいたるところに建っている(立っている)トルハンバンという石像です(写真右)。「石製の爺さん」という意味の守り神だそうです。沖縄のシーサー、あるいは石敢當を想起させます。いたる所にある守り神は、両島の苦悩の歴史・現実と無関係ではないと思えました。

 もう1つは、いずれも観光が主力経済のリゾート地であること。空港は観光客でにぎわっていました。しかし、多くの観光客のうちどれほどの人が「4・3」を「沖縄戦」を知っているでしょうか。「観光(経済)」と「政治・歴史」の乖離を感じずにはおれません。

 そしてもう1つ。

 「4・3平和記念館」ハンドブックにこう書かれています。
「沖縄が米軍によって陥落させられると、日本軍は米軍の日本本土への上陸を防ぐ最後の砦として、済州島に大軍を配置し、島を要塞化した。…済州島での「第2の沖縄戦」は辛うじて免れた」

 「捨て石」です。沖縄は実際に「捨て石」にされ、済州島は「第2の捨て石」にされる寸前だったのです。

 この一節を読んで、文京洙・立命館大教授の指摘を思い出しました。

「何よりも朝鮮人にとって不幸だったのは戦争が長引いたことがソ連の参戦を招き、そのことが朝鮮半島の分割占領、ひいては朝鮮の南北分断につながったということであろう」(『新・韓国現代史』岩波新書2015年)

 敗戦が誰の目にも明らかだったにもかかわらず戦争を長引かせた張本人は天皇・裕仁でした。それは裕仁が終戦を進言した「近衛上奏文」(1945年2月14日)を一蹴したこと一事をとっても明白です。裕仁が降伏を引き延ばしたのは「国体護持」すなわち天皇制の存続(自らの延命)のためだったことも周知の事実です。

 裕仁が近衛の上奏を受け入れていれば、沖縄戦はなかった、沖縄は「捨て石」にされることもなかったのです。東京大空襲も広島・長崎への原爆投下もありませんでした。そして、ソ連参戦もなかったのです。

 沖縄と済州島の過去・現在の苦難は日本によってもたらされたもの、さらに言えば、天皇制(直接には裕仁)によってもたらされたもの、と言って過言ではありません。
 これが今回再認識した済州島との沖縄(琉球)の共通点です。


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済州島レポート<中>「4・3」4つのナゼ?

2024年04月04日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 「4・3平和記念館」は入場無料。しかも嬉しいことにカメラ撮影OKです。そして日本語の「ハンドブック」(以下、冊子)もいただけます。たいへんよく出来た冊子です。これをもとに、「4・3事件」を4つの疑問符から理解し直したいと思います。

①「4・3事件」の正式名称は? 

 実はありません。展示会場は入口から瓦礫が両側に置いてある薄暗い道を通って地下1偕に向かいます。まず出会うのが「白碑」です(写真左)。何も書いていない巨大な碑です。「4・3にふさわしい「真正なる名前」を待ちわびながら横たわっている」(冊子)のです。

 事件・蜂起・抗争・暴動など様々な表現がなされますが、「今なお歴史的評価に基づく名称は定まっていない」(同)のです。それほど複雑な要素があるということです。私もこれから「4・3」と言うことにします。

②いつから始まった?

 韓国では2000年1月12日に「4・3特別法」(「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」)が制定されました。それによると、「4・3」の起点は1948年4月3日ではなく、1947年3月1日とされています。

 朝鮮は1945年8月15日に「解放」を迎えましたが、日本に代わってアメリカの支配が継続し、真の独立は実現しませんでした。そこで人々は47年の「3・1節記念式」を契機に立ち上がりました。1919年3月1日に帝国日本の植民地支配に抗して立ち上がった「3・1運動」の記念日です。
 このデモに対して警察官が発砲し、民間人6人が死亡しました。これが「4・3」の起点とされているのです(48・4・3は武装蜂起が始まった日)。
 これは「4・3」と日本の関係を理解するうえでたいへん重要です。

③いつまで続いた?

 虐殺は48年で終わったわけではありません。北村里の大虐殺は49年1月17日でした。
 特別法によれば、「終息」は1954年9月21日とされています。パルチザンが潜んでいた漢拏山の禁足令が解除された日です。

 「4・3」は1947年3月1日~54年9月21日まで実に7年7カ月にわたり、アメリカと李承晩傀儡政権によって弾圧が続いたのです。
 韓国政府の「済州4・3事件真相調査報告書」(2003年)によれば、このかんの犠牲者は2万5千人~3万人と推定。そのうち女性が21.3%、61歳以上が6・1%、10歳以下の子どもが5.8%、合わせて33%超にのぼっています。この実態もガザを想起させます。
(写真中は発掘された遺骨とその中にあった銃弾。発掘されていない遺骨が済州国際空港地下などに膨大に残されています。写真右は平和公園内・飛雪にある母子像)

④なぜチェジュなの?

 アメリカは朝鮮半島を分断して南を支配下に置くため、48年5月10日に「単独選挙」を強行しました。これに最後まで抵抗したのがチェジュ(済州)だったのです。
「済州島は米軍政によって実施された5・10選挙を拒否した南朝鮮で唯一の地域となった」(冊子)
 武装蜂起した部隊が掲げたスローガンは、「弾圧に抵抗し、統一国家の樹立を阻む5・10単独選挙に反対する」でした。
 これは「4・3」の本質を理解するうえでたいへん重要です。

 以上が、新たに学んだことを含めた「4・3」です。しかし、冊子は最後にこう強調しています。

「4・3が朝鮮半島の分断と東西冷戦に始まった悲劇だったとしても、どうしてそんなに多くの人が犠牲になったのかについては、いまだに疑問符が残っているのです。また、非武装の民間人、特に子どもやお年寄り、女性が無惨に虐殺されたことも、大きな疑問のテーマです」

 「4・3」の「ナゼ」は尽きません。真相究明はまだ途上です。

 ただ、確かなことは、韓国では市民が政府を動かし、自国の重大な歴史事件の真相を解明し、被害者の補償と再発防止を図る努力が続けられているということです。そのために特別法を制定し、調査委員会が活動しています。
 このことこそ日本(市民・政府)が学ぶべき最大のものではないでしょうか。

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済州島レポート<上>ジェノサイドとディアスポラ

2024年04月03日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 私はいま、韓国・済州島(チェジュド)にいます。一昨日(1日)来島し、今日(3日)帰ります。

 チェジュは今日、76年目の「4・3」を迎えました(住民の約3万人が虐殺・犠牲になった1948年4月3日の「4・3事件」)。

 当地は2回目です。前回(2017年11月)は南部の米軍基地を中心に取材したので、「4・3事件平和記念館」(写真左)を訪れたのはきのうが初めてでした。

 島(火山島)中央部の国立公園山腹にたたずむ記念館は、すでに満開に近い桜の並木と黄色いスイセンに囲まれ静かな空気に包まれていました。

 続いてタクシーで約30分の「北村ノブンスンイ記念館」(写真中)へ。北村里はとりわけ苛烈なジェノサイドが行われた地です。

 「4・3事件」についてはこれまで何度も書いてきましたが、初めて訪れた2つ記念館・慰霊地はまた新たな気づきを与えてくれました。それについては明日書きます。

 今日は「前夜祭」のもようをお伝えします。

 来島前に「4・3事件」についての資料を見直す中で「前夜祭」があることを知りました。韓国在住の友人の尽力で予約をとってもらい、参加することができました。

 76年記念のことしのテーマは「DIASPORA」(ディアスポラ=写真右)。

 十数人のコーラス、3人グループの歌唱、追悼朗読、そして創作ミュージカルというプログラムです。

 素晴らしい歌唱力と演技に魅了されました。もちろん(?)言葉は分からないのですが、それでも感動は伝わり、聴いていると涙がこぼれてきました。会場(アートセンター)いっぱいの人たち(おそらく大部分はチェジュの人々)と一緒になって手が痛くなるほど拍手を送りました。音楽・ミュージカルには言語を超えて伝わるものがあるとあらためて思いました。

 プログラムの中で突然日本語の歌が聞こえてきて驚きました。シンガーソングラーターのパク・ボさん(日本名はキタさん)の3人グループです。日本から移住されたようです。

 「1日も早く戦争がない世界がくることを願って」パク・ボさんがつくった「4・3チェジュド」はこううたっています。

「大地を吸い込む強い悲しみ しめった土の中から 骨たちが生き返ろうとしている なぜその声は届かずに消えたのか どこに行ってしまったのか 今は幸せって本当かい? 大切な命と引き換えに 人は立ち上げる 自由を求めて 風の中で チェジュドは泣いている 心配しないで なんくるないさ 心を開いて話せば きっと分かり合えるさ 時代が変われば 笑って泣いて 1つになれるさ だって人間は 愛し合うために生まれてきたのだから」(聴きながら暗闇でメモしたので正確ではありません)

 ジェノサイド(民族大虐殺)とディアスポラ(民族離散)。チェジュドの2つの歴史・顔は、沖縄(琉球)とガザにつながります。
 パク・ボさんの悲しくも力強い歌が、胸に沁みました。

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いまこそ学びたい「3・1独立運動」の非暴力精神

2024年03月01日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 105年前の1919年3月1日、帝国日本に武力併合(植民地化)されていた朝鮮半島で独立を求める朝鮮市民の運動が始まりました。「3・1独立運動」です。

 独立運動はその後約1年、朝鮮半島全土に広がりました。帝国日本はこれを軍隊、警察で弾圧し、「少なくとも7000人とされる死者と約1万6000の負傷者、約4万7000の検挙者」(梶村秀樹著『朝鮮史』講談社現代新書1977年)を出しました。

 「3・1運動」の歴史的意義、とりわけ日本人がくむべき教訓は数多くあります。これまで「中立宣言」「強制動員」の点からそれを見てきましたが(22年3月1日、23年3月2日のブログ参照)、今回は別の側面に注目します。それは、「3・1運動」の非暴力の精神です。

 「3・1運動」は「基本的には平和的な大衆集会とデモに限られていた行動」(梶村前掲書)でした。
 その精神的支柱となったのは、33人の「民族代表」によって起草され、「3・1」にソウル・タプコル公園(写真中)で読み上げられた「独立宣言文」
(写真右は同公園内にあるその碑)です。その一節はこうです。

「いま、わが朝鮮を独立させることは、朝鮮人が当然、得られるはずの繁栄を得るというだけではなく、そうしてはならないはずの政治を行ない、道義を見失った日本を正しい道に戻して、東アジアをささえるために役割を果たさせようとするものであり…」(中塚明著『日本と韓国・朝鮮の歴史 増補改訂版』高文研2022年より)

 歴史家の故・中塚明氏は、「「独立宣言文」は、日本人への理性の呼びかけでもありました。…3・1独立宣言は、秩序を尊重し非暴力で主張を訴えることを宣言していました」と評価しています(前掲書)。

 この非暴力運動に対し、日本は苛烈な暴力で弾圧し、前掲のように多大な犠牲をもたらしましたが、それによって「日本の朝鮮植民地支配は一歩後退をよぎなくされ、従来の「憲兵政治」を「文化政治」に改めることに」なったのです(中塚氏前掲書)。

 しかし、その後日本は「満州事変」(1931年)から15年間の侵略戦争・植民地支配に突き進んだことは周知の事実です。
 第2次世界大戦の反省から、国連憲章、世界人権宣言などが制定されましたが、世界から戦争・紛争が絶えることはありませんでした。いま私たちはウクライナ、ガザ、ミャンマーなどでその悲しい現実を目の当たりにしています。

 「3・1独立宣言文」はこう結ばれています。

「ああ、いま目の前には、新たな世界が開かれようとしている。武力をもって人びとを押さえつける時代はもう終わりである。過去のすべての歴史のなかで、磨かれ、大切に育てられてきた人間を大切にする精神は、まさに新しい文明の希望の光として、人類の歴史を照らすことになる」(前掲書より)

 「過去のすべての歴史のなかで、磨かれ、大切に育てられてきた人間を大切にする精神」―105年前の「独立宣言」が高らかに謳ったこの精神こそ、いま日本が、世界が最も学び直さねばならないものではないでしょうか。

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「拉致問題」中学生を洗脳し政府広報に利用する卑劣

2023年08月14日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 <「親世代と会わせたい」横田代表が拉致解決訴え>―11日付の京都新聞第2社会面下段にベタ(1段)で短い記事(共同配信)が載りました。朝日新聞デジタルも10日付で短い記事を配信しました。見出しは<政府が拉致問題考える「中学生サミット」 横田めぐみさん弟が講演>。以下、朝日新聞デジタル記事の全文です。

「北朝鮮による拉致問題を若い世代に知ってもらおうと、政府は10日、都内で「中学生サミット」(内閣官房主催)を初めて開いた。被害者の帰国から20年がたつなかで、問題の風化を防ぐ狙い。全国から中学生約60人が参加した。

 拉致問題を担当する松野博一官房長官は冒頭、「被害者の帰国実現への強い意思を国民が示すことが、問題解決の後押しとなる。とくに若い世代が理解を深めることは重要だ」と述べた。拉致被害者の横田めぐみさんの弟で、拉致被害者家族連絡会代表の横田拓也さんが講演し、「自分や自分の家族が拉致されたらと考え、調べ、行動することを若いみなさんにお願いしたい」と呼びかけた。

 参加した中学生は、拉致問題を伝えるための動画広告を作る想定で、内容について意見を交わした。内閣官房の拉致問題対策本部は、今後作成する動画広告に中学生の意見を反映することも検討するという」

 これは決して見過ごしてはならない重大な問題です。

 「中学生サミット」(写真)は内閣官房の主催で初めて行われ、全国から60人が選ばれて東京に集められた。きわめて計画的な政治行為です。政府主催の会で「拉致問題」の背景・経緯の真実、あるいは日本の「拉致犯罪」である植民地支配当時の強制連行が語られることはあり得ません。政府・自民党の見方が中学生に刷り込まれたことは明らかです。

 たとえば、朝鮮敵視から制裁を強めている日本政府が、「日朝国交正常化交渉なくして、拉致問題の進展なし」(江口昌樹・敬和学園大非常勤講師『拉致問題を超えて-平和的解決への提言』社会評論社2017年)という見解があることに触れるはずがありません。

 拉致被害者家族が自身の心情を訴えるのは自然なことかもしれませんが、感受性の鋭い中学生にとってそれは「拉致問題」を感情的・感覚的に受け止めることにならざるをえません。

 一言でいって、この「中学生サミット」なるものは、「拉致問題」についての政府・自民党の考えを注入し、「北朝鮮」(朝鮮民主主義人民共和国)に対する憎悪をかき立てる洗脳の場にほかなりません。

 しかも政府は、この場での中学生の発言・討論を「今後作成する動画広告」に使おうとしています。中学生を政府の広報に利用しようというのです。

 こうした政治的策動は、日本国憲法の「思想及び良心の自由」(第19条)に反し、教育基本法の「幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養(う)」(第2条)という基本精神にも反しています。

 しかも政府は、「北朝鮮脅威」論を大軍拡の口実にしており、「拉致問題」の政府広報に中学生を使うことは、中学生を大軍拡に利用することに他なりません。それは、朝鮮との国交回復・朝鮮半島の平和にも逆行し、今日的な“軍国少年”をつくるものと言えるのではないでしょうか。

 政府主催の卑劣な「拉致問題・中学生サミット」に断固抗議します。中学生の討論を政府広報に利用することは絶対に許すことができません。

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「朝鮮戦争と日本の関係」徹底追究は大きな宿題

2023年08月11日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 「休戦協定」調印(1953年7月27日)から70年の今夏、朝鮮戦争(1950・6・25~)をテーマにした市民団体主催の講演会・シンポジウムが京都市内でもいくつか行われました。

 そこでの共通した特徴は、「朝鮮戦争と日本の関係」について追究することの必要性が強調されたことです。

 これまで、日本は朝鮮戦争でアメリカ(「国連軍」)の後方支援基地となったことや、「朝鮮戦争特需」による経済復興が知られていましたが、それだけではなく、日本が直接参戦したことがクローズアップされました。

 藤目ゆき・大阪大学大学院教授は、「日本人にとって、女性にとって朝鮮戦争とはなんだったのか」と題した講演で、1950年10月、日本は元山(ウォンサン、平壌東方)湾沖の機雷掃海作戦にあたり、特別掃海隊員の中谷坂太郎氏が戦死したことに言及。「掃海作戦は「国際貢献」の先駆例として美化された。日本は朝鮮戦争のエスカレーションを支えた」と指摘しました(7月26日、「朝鮮戦争停戦協定70周年記念シンポジウム」、写真左)。

 康宗憲(カン・ジョンホン)・韓国問題研究所代表も、「朝鮮戦争は、なぜ終結しないのか」と題した講演で、「ウォンサン機雷掃海作戦で日本は直接参戦した。公表されていないだけだ」と指摘し、日米・韓米軍事同盟の問題を追及しました(6日「平和のための京都の戦争展」、写真中)。

 「元山機雷掃海作戦」に加わった海上保安庁は後に、参戦は秘密裏に行われ、25隻、延べ1200人が投入されたと公表しました(1日付沖縄タイムス=共同)。「米軍の海上輸送に関わった日本人は数千人に達するとの推定も」(同)あります。

 こうした事実を知る日本人は多くありませんが、実はかなり以前から識者によって指摘されてきました。たとえば、ガバン・マコーマック・オーストラリア国立大学名誉教授は、1990年発行の『侵略の舞台裏 朝鮮戦争の真実』(シアレヒム社発行・影書房発売)の「日本語への序」で、「朝鮮戦争と日本の関係」として次の7点を指摘しています。

朝鮮の分断・対立・戦争の根源的理由は日本帝国主義の植民地支配である。

アメリカの日本占領が比較的寛大であったのに比べ、朝鮮は過酷だった。侵略の犠牲者である朝鮮は分断され、侵略を犯した日本は分断を免れた。

日本は直接的に重要な軍事的役割を果たした。供給、通信、兵站の中心地だったのみならず、帝国海軍将校たちは機雷特別掃海隊の指揮にあたった。この軍事行動は日本が自発的に行ったもので、その狙いはアメリカと有利な平和条約を締結することだった。それはサンフランシスコ講和条約・日米安保条約(1951年)に大きな影響を与えた。

戦後日本の経済復興とその後の経済成長の土台が「朝鮮戦争特需」だった。日産、トヨタ、いすずその他のグループはすべて朝鮮戦争で成長した企業である。

日本は朝鮮戦争を絶好の機会として在日朝鮮人に対する差別を強化した。

アメリカが朝鮮に対し実験したと思われる細菌戦に日本が寄与した疑惑がある。

日本人は、少数の例外を別にすれば、隣国の朝鮮人が蒙った心の傷に対して無関心でありつづけた。

(前掲書から要約。写真右の左がマコーマック氏。その右はジャーナリストの乗松聡子氏=2013年5月、沖縄国際大学)

 藤目氏は、「朝鮮戦争の実態を知れば知るほど、現在の日本の議論、たとえば北朝鮮非難のおかしさがよく分かる。朝鮮戦争の歴史を学び、知ることを平和運動の柱にする必要がある」と提起しました。

 マコーマック氏は前掲書でこう述べています。

「大部分の日本人にとって、朝鮮戦争という隣人の悲劇は高度成長の春霞の中では見えにくいものであった。いつの日か日本はこの時代になしえたこと、なさなかったことについて決着をつけるべき日がくるだろう

 その決着はまだつけていません。それどころか霞は濃霧となり前が見えなくなっているように思われます。朝鮮戦争の歴史を学び、現在とこれからの日本人の生き方に生かすことは、私たちの大きな宿題です。

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朝鮮戦争の休戦・終戦に抗った天皇裕仁と安倍晋三

2023年07月27日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
   

 7月27日は、70年前(1953年)のこの日、朝鮮戦争の休戦協定が締結された日です(当事国は朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)、中国、韓国、アメリカ=写真左)。朝鮮戦争はまだ終わっていません。朝鮮とアメリカ(「国連軍」)・韓国の戦争は継続中です。それを理解することが朝鮮半島情勢と日本の関係を把握するための必須条件であり、1日も早く平和協定を締結して朝鮮戦争を終結させる必要があります。

 ところが日本は、そもそも植民地支配で朝鮮戦争の根源をつくったうえ、アメリカの兵站基地となり、機雷掃海など直接朝鮮戦争に参戦したばかりか、その休戦・終戦(平和協定締結)に一貫して反対してきました。その中心人物が、天皇裕仁と安倍晋三元首相です。

 スターリンが死去(1953年3月5日)し、「朝鮮戦争休戦」の機運が高まっていた最中の1953年4月20日、天皇裕仁は離任する米国特命全権大使ロバート・ダニエル・マーフィーを皇居に招きました。その時のもようを豊下楢彦氏はこう記しています。

「(裕仁は休戦を)歓迎するどころか、全く逆に「朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本における米軍のプレゼンスにかかわる日本人の世論にどのような影響をもたらすか憂慮している」と述べるのである。なぜなら「日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している」からなのである」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)

 裕仁は敗戦直後、「国体」=天皇制護持と自らの戦争責任追及を回避するため、沖縄をアメリカに差し出す「沖縄メッセージ」(1947年9月19日)をアメリカに送りました。
 そして、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約(1951年9月8日調印)締結を裏で工作し、それによって植民支配した朝鮮人や台湾人を切り捨て、沖縄はじめ全国を米軍の基地化しました(全土基地方式)。

 そうやってアメリカ従属体制をつくった裕仁は、朝鮮戦争が終わって半島に平和の機運が訪れ米軍が日本から引き揚げるような事態になることを「不幸」と考え怖がったのです。「朝鮮戦争は昭和天皇をして、米軍の存在の重要性に関する認識を決定づけるものであった」(豊下氏、前掲書)のです。

 その裕仁の対米従属を引き継いだのが安倍元首相でした。

 5年前の2018年4月27日、韓国・文在寅大統領と朝鮮・金正恩委員長の歴史的会談が行われ、「板門店宣言」が発表されました(写真右)。「宣言」には、「(朝鮮戦争)停戦協定締結65年になる今年、終戦を宣言し、停戦協定を平和協定に転換し、恒久的で堅固な平和体制構築」に向かうと明記され、平和協定締結の機運と期待が大きく高まりました。

 それに水を差したのが安倍氏でした。
 「板門店宣言」の翌日、安倍政権は、朝鮮のいわゆる「瀬取り」を監視するためと称して、「オーストラリア軍とカナダ軍の哨戒機が沖縄県の米軍嘉手納基地を拠点に警戒監視活動を行うと発表」(2018年4月29日付朝日新聞)したのです。

「両国軍機の嘉手納飛来は異例」(同日付沖縄タイムス)のことでした。それは、「豪州、カナダ両軍が今回、在日米軍基地を拠点に活動する根拠は朝鮮戦争に伴う国連軍地位協定に基づくもの」(同朝日新聞)だという意味を持っていました。安倍氏は「異例」の手段を使って「朝鮮戦争に伴う地位協定」をアピールし、平和協定締結に抗ったのです。 

 天皇裕仁や安倍元首相のこうした朝鮮戦争休戦・終戦への敵対を、日本人は歴史の事実として知る必要があります。
 そして逆に、朝鮮戦争平和協定の早期締結、朝鮮半島の平和的・民主的統一の世論を日本で広げることによって、裕仁や安倍がつくった負の歴史を塗り替える必要があります。

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韓国日記<下>陜川原爆資料館の力

2023年05月30日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
     

 5月28日午後2時、ソウル市内から高速バスで約4時間、中南部の慶尚南道の陜川(ハプチョン)に移動。翌朝「陜川原爆資料館」を訪れるためだ。陜川は「韓国の広島」と言われている。今回の韓国訪問で最も楽しみにしていたものだ。

 広島、長崎の原爆被害者の約10%にあたる10万人が韓国被害者で、その70~80%が陜川出身者だ。

 陜川自体が山あいの自然豊かな町で、資料館も緑に囲まれた静かなところにある。2017年8月6日オープン。韓国で唯一の原爆資料館だ。
 資料館の隣には、被爆者らが利用できる福祉施設が赤十字に委託して運営されている。

 29日午前9時、開館と共に同館へ。学芸員の金藝志さんがコーヒーで迎えてくれた。事前に連絡していたので、韓国原爆被害者陜川支部の沈鎮泰支部長もわざわざ駆けつけてくださった。

 入ってすぐのドーム型展示室では、被爆の実相を映像で見ることができる。展示室はぐると1周して、原爆の解説から被爆者補償の問題点まで分かるしくみになっている。被爆物の実物は被爆者・支援者から寄贈されたものだと金さんが説明してくれた。

 2階は資料室だ。沈支部長に案内していただいた。被爆認定書などの実物や書籍が書庫に収められている。安重根の本もあった。

 展示スペースはけっして広くない。しかし、内容は充実している。最も感心したのは、資料館しおりの解説文だ。

日本の植民地時代(1910~1945)、戦争に狂奔した日本軍国主義により、強制的に徴用工として連れて行かれ、軍事基地の要塞だった日本広島に強制的に配置され、飢えと人権さえ踏みにじられ、大変苦労していた中…多くの原爆被害者が発生した」(日本語版より)

 この短い一文には、原爆がなぜ広島に落とされたのか、なぜ陜川出身者の被害者が多いのが、端的に凝縮されている。とりわけ、広島が「軍事基地の要塞だった」すなわち軍都だったために原爆が投下されたという記述は、広島の原爆資料館にはない。

 同じ原爆資料館だが、広島のそれは10日まえにはG7 広島サミットで世界のメディアが注目した。片や陜川のそれは、訪れる人とて多くなく、世界はもとより日本でもその存在自体を知っている人は多くないだろう。

 しかし、その「被爆解説」の的確さでは、陜川はけっして広島にひけをとっていない。否、むしろ広島よりも優れていると言って過言ではない。

 韓国語ができない私は、スマホの翻訳機能で、そして金さんも同じくスマホの翻訳機能で、「会話」した。結構できるものだ。
 金さん(のスマホ)を通じて、沈支部長に、「日本人に一番望むことは何ですか?」と訊いた。沈支部長の答えは、「二度と戦争を起こさないこと」だった。

 沈さん、金さんのご厚意ご親切に感謝し、笑顔で資料館を後にした。

 ここにもいまなお原爆の被害に苦しみながら、不十分な補償の改善を要求し、平和を希求してたたかっている人々がいる。加害国の日本人の自分が日本の軍事大国化を阻止するためにたたかわなくてどうする。

 短い時間だったが、素晴らしい出会いで決意を新たにした貴重な時間だった。

(写真は陜川原爆資料館の外観、館内、そして沈さんと金さん)

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韓国日記<中>安重根と伊藤博文・渋沢栄一

2023年05月29日 | 朝鮮半島の歴史・政治と日本.
  
   

 5月27日、プサン港から歩いて15分ほどでプサン駅。KTX(高速鉄道)に約2時間40分乗ってソウルへ。

 まず向かったのは「安重根(アンジュンクン)義士記念館」だ。
 安重根(1879~1910)は日帝の植民地支配(強占)に抗し、祖国の独立を求めて抗日運動の先頭に立った。1909年10月26日、ハルピン駅で伊藤博文をピストルで射殺。ちょうど5カ月後の1910年3月26日、早々と死刑が執行された。

 日本政府は今日まで一貫して「安重根は暗殺者」と規定するだけで、その経歴や事件の背景には触れようとしない。日本の教科書もその政府方針に従っている。

 しかし、韓国では違う。安重根は「義士」であり、「民族の英雄」なのだ。

 「記念館」には公判での安重根の陳述が紹介されている。伊藤射殺の動機は「祖国の独立と東アジアの平和」のためであり「けっして伊藤への私恨ではない」と強調している。

 安重根の評価は、日本と韓国で見方がまったく異なる典型的な例だ。
 必要なのは、歴史の事実を、その経緯と背景を含めて多面的に知ること、教えることだ、とあらためて思う。ウクライナ戦争下、なおさらそう思う。

 記念館展示の最後には、来館者が一言感想を欠いて付箋を貼る壁がある。多くの付箋が貼られていたが、日本人(日本語)のものは1枚もなかった。日本語で「日本では伊藤博文が美化されていて恥ずかしい」と書いて、隅に貼らせてもらった。

 次に行ったのは「韓国銀行貨幣博物館」だ。「安重根義士記念館」からタクシーで5分ほど、同じ南大門エリアにある。近い。

 ここもぜひ行きたかった。この目で確かめたいものがあったからだ。それは1907年に始まったこの建物の建設工事の「定礎」と書かれた石碑だ。この文字を書いたのが伊藤博文だからだ。これが「安重根記念館」の近くにあるのは興味深い。

 石碑の説明版には、伊藤が「植民地支配の元凶」であること、その歴史を忘れないためにこの碑を残すのだということが明記されている。

 この(旧)韓国銀行の建物は、もともと日本第一銀行が使用するために造られた。通貨・経済面から植民地支配を完成・強化する拠点となった。伊藤が「定礎」を書いたのはそのためだ。

 伊藤と二人三脚で経済面から植民地支配の先頭に立ったのが、日本第一銀行の頭取だった渋沢栄一だ。「貨幣博物館」には韓国歴代の紙幣が展示されているが、最初の紙幣の肖像は3種類ともすべて渋沢だ。

 日本では伊藤とともに渋沢も美化されている。NHK大河ドラマのモデルにもなった。
 そして、来年の貨幣肖像画変更では、福沢諭吉に代わってついに渋沢が最高額紙幣の肖像になる。渋沢が韓国紙幣の肖像になったのは植民地支配の象徴だったが、それが来年から日本紙幣で再現される。あまりにも象徴的・戦略的と言わねばならない(福沢も朝鮮侵略主義者であり、その本質が隠蔽されて美化されていることでは渋沢と変わらないが)。

 伊藤博文、渋沢栄一、そして安重根。この3人の歴史的評価が韓国と日本で百八十度違うのは、日本が植民地支配の歴史を風化・隠ぺいしてきたこと、さらにさせようとしていることに共通の原因がある。根は1つなのだ。

(写真は上左から、記念館入ってすぐにある安重根の像と血で書かれた「大韓獨立」の旗のレプリカ、安重根の写真、射殺される直前の伊藤=正面奥、「貨幣博物館」、伊藤の筆による定礎の石碑、渋沢が肖像にあった韓国紙幣)

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