













来年度予算案の閣議決定(24日)に先立ち、自民党は「予算編成大綱」を発表しました。その中に次のような記述があります。
「「歴史戦」やALPS(東電福島原発―引用者)処理水の取扱いといった重要課題への対応を含め、わが国への理解と信頼を強固にするため、わが国の領土・主権・歴史等に関する情報収集や調査・研究を強化するとともに…戦略的対外発信を一層強化する」
予算編成方針で「歴史戦」が強調されるのはきわめて異例です。それは、「元慰安婦や元徴用工を巡る韓国との歴史問題を念頭に」(2日付共同配信記事)おいたものだと報じられています。
この異例の「予算編成大綱」を作成した責任者は、政調会長の高市早苗氏です。
日本軍性奴隷(「慰安婦」)や強制動員(「徴用工」)をめぐる歴史の隠ぺい・歪曲を図る「戦略的発信」の重視が自民党の来年度の方針なのです。
そんな中で、12月28日を迎えました。6年前(2015年)のこの日、「慰安婦問題」をめぐる「日韓合意」が発表されました。日本側の当事者は、安倍晋三政権で外相を務めた岸田文雄現首相です(写真中)。
韓国では元「慰安婦」のサバイバーが日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴し、韓国の司法はサバイバーの訴えを認める判決を下しました。しかし、日本政府は法廷に出ることすらせず無視し続けています。その“根拠”にしているのが「日韓合意」です。
「合意」の最大の問題は、日韓両政府の政治的思惑から、肝心の被害者・サバイバーを無視し、謝罪もなく、賠償でもないわずかな金で、「慰安婦」問題を「最終的かつ不可逆的に」なきものにしようとし、運動の象徴である「少女像」(写真左)の撤去まで要求したことです。戦時性暴力に反対する国際世論にも逆行する恥ずべき「合意」です。(2020年6月8日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20200608)
重要なのは、この問題に対する韓国市民と日本市民の受け止めの落差です。
「合意」は安倍首相とパク・クネ(朴槿恵)大統領によってなされたものですが(写真右)、パク大統領は翌2016年10月、収賄事件で弾劾裁判にかけられ、17年2月に罷免されました。失脚の背景には、「日韓合意」に対するサバイバーや支援団体をはじめとする韓国市民の批判があったといわれています。
一方日本では、自民党はもとより日本共産党を含む全ての政党、すべてのメディア、さらに「慰安婦問題」に取り組んできた一部の「識者」まで、「日韓合意」を支持しています。その結果、安倍氏はこの問題で責任を追及されることもなく、その後も政権の座に居座り、退陣後も岸田政権を操っています。
一昨日の28日、韓国ではソウルの「少女像」の前で、複数の市民団体によって「日韓合意の破棄を求める抗議集会」が行われました。
「学生団体のメンバーらは「合意は、おばあさん(元慰安婦の女性ら)の意思とは無関係に、韓日政府が密室で結んだ拙速で売国的な合意だった」と批判。別の団体も「韓日合意を破棄せよ」とシュプレヒコールを上げた」(29日付琉球新報=共同)
日本はどうでしょうか。どれほどの日本市民が「日韓合意」の問題点を、その存在自体を知っているでしょうか。
帝国日本の戦時性奴隷制度の犯罪的歴史にほうかむりし、安倍晋三元首相をはじめとする歴史修正主義者らの「歴史戦」を許しているのは、与野党の政治家、メディア、そして日本市民自身であることを直視する必要があります。
※2021年の「アリの一言」は今日までです。お読みいただき、ありがとうございました。
2022年も、1日1日を大切にし、自分のできることをやっていこうと思っています。
今後とも、よろしくお願いいたします。
日本帝国陸軍による南京事件(1937年12月13日の南京陥落前から翌年まで)で特筆すべきは30万人以上ともいわれる大量虐殺とともに、膨大な性暴力(強姦)が行われたことです。
南京事件で市民の保護に活動したジョン・ラーベ(ドイツ・シーメンス社中国駐在員)は、中国本社宛ての書簡で、「日本軍部隊は南京で数週間にわたり掠奪を繰り返し、およそ二万人の婦女子を強姦」したと報告しています(吉見義明氏「南京事件前後における軍慰安所の設置と運営」、『現代歴史学と南京事件』笠原十九司・吉田裕編・柏書房2006年所収)。
こうした事態に対し日本軍なりの“対策”として打ち出したのが、「軍慰安所」すなわち戦時性奴隷制度の本格展開でした。
「このような不法行為(掠奪・強姦など―引用者)に慌てた中支那方面軍の指示により、「軍慰安婦」制度(軍性奴隷制度)が、1937年12月から、本格的につくりはじめられた」(吉見氏、写真左は1938年1月に南京につくられた「慰安所」、前掲書より))
南京陥落直前の同年12月11日、中支那方面軍は上海派遣軍に「軍慰安所」つくるよう指示。19日、上海派遣軍は「迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼」(南京戦史編集委員会『南京戦史資料集』偕行社1989年)。その方面に詳しいと見られていた参謀部第二課の長勇中佐にその段取りを任せました(以上、吉見氏前掲論稿より)。
長勇とは言うまでもなく、沖縄第32軍の参謀長。牛島満司令官につぐナンバー2だった人物です(写真中)。長は沖縄着任(1944年7月)後、さっそく「慰安所」の設置にとりかかりました。
「日本軍は沖縄県知事・泉守紀(島田叡の前任知事―引用者)に対して兵隊のために慰安所を新設するよう要請するが、知事は軍の申し入れを拒否した。沖縄人や「慰安婦」をさげすむ日本軍の身勝手なふるまいに、知事は不快感を示していたのだ。
反撃に出た日本軍副官は遊郭の女性たちを集めて兵隊の志気を鼓舞するよう命じ、結果的に500人ほどの遊女が慰安所に送られたという」(宮城晴美氏「軍事的に支配された沖縄女性の「性」」、『沖縄にみる性暴力と軍事主義』御茶の水書房2017年所収)
結果、沖縄には約130の「慰安所」がつくられ、強制連行された朝鮮人や遊郭の女性が性奴隷とされ、国体(天皇制)護持の「捨て石作戦」に巻き込まれました(写真右は宮古島の「慰安所」跡に建てられた「アリランの碑」)。
軍が「慰安所」をつくった目的の1つは、強姦の防止でしたが、それは達成されないどころか、逆効果でした。
「軍慰安所開設後も強姦等はなくならなかった。松井石根中支那方面軍司令官は1938年2月7日になっても「軍の諸不始末」、つまり掠奪・強姦・放火などの防止について注意する訓示を各部隊長に対してしなければならないほどであった」
「強姦がなくならない原因をみると、軍慰安所制度をつくるなど、将兵の性欲・欲望を肥大化させたため、軍紀風紀が乱れていったという問題が考えられる」(吉見氏、前掲論稿)
戦争と戦時性暴力は一体不可分です。軍がつくった性奴隷(「慰安婦」)制度は、戦場での性暴力に拍車をかけました。帝国日本軍は侵略した東アジア各地でその加害行為を繰り返しました。日本国内では地上戦の戦場となった沖縄で住民と朝鮮人女性が犠牲になりました。
その歴史は、米軍基地が集中する沖縄で、軍隊による性暴力事件が絶えない現実として、今に繋がっています。
帝国日本軍の性奴隷(「慰安婦」)の存在が日本で広く知られるようになったのは、韓国のキム・ハクスン(金学順)さんが実名で名乗り出た記者会見(1991年8月14日)からですが、その16年前の1975年、すでに朝鮮人性奴隷の存在が明らかになっていました。沖縄のペ・ポンギ(裴奉奇)さん(1914~91)です(写真左。写真右はぺさんの遺品=wam発行『軍隊は女性を守らない』より)。
今年はぺさんの30年忌にあたり、沖縄では20日、追悼シンポジウム(沖縄恨之碑の会主催)が開催されました。それに先立ち、琉球新報、沖縄タイムスで追悼の連載、論稿が掲載されました。いずれも重要な論稿ですが、それらが触れていないことで、ぺさんを追悼する上で欠かせないことを、3点書きます。
第1に、ぺさんが天皇裕仁を厳しく叱責(批判)していたことです。
日本政府・軍によって性奴隷にされたぺさんは、戦後も沖縄で貧困と差別の塗炭の苦しみの中で生きざるをえませんでした。そんなぺさんに救いの手を指し述べたのが、朝鮮総連沖縄本部のキム・ヒョノク(金賢玉)さん(写真中の右。左はぺさん)、キム・スソプ(金洙燮)さん夫婦でした。
キム・ヒョノクさんの回想によれば、ぺさんは天皇裕仁の死(1989年1月7日)を聞いたとき、「いっぺんに怒って」、こう言いました。「なんで謝りもせんで逝きよったんか」
「どうすればよかったの?」「そりゃあ謝ってほしいさ」。「謝ってどうするの?」「補償もせんといかんよ」(キム・ヒョノクさんの証言映像=在日本朝鮮人人権協会制作より)
日本軍性奴隷制度の最大の責任者は天皇裕仁です。しかしその責任は隠ぺいされてきました。2000年に故松井やよりさんらが中心となって市民による「女性国際戦犯法廷」が東京で開かれ、翌年裕仁に「有罪判決」が下されました。安倍晋三官房副長官(当時)らはNHKへ圧力をかけそのドキュメント番組を妨害しました。今に至っても天皇裕仁の責任は棚上げされたままです。
性奴隷のサバイバーだったぺさんが、「戦犯法廷」から25年も前に裕仁に怒りをぶつけていた事実は記録に残される必要があります。
第2に、ぺさんが名乗り出ざるを得なかった理由です。
ぺさんはキム・ハクスンさんと違い、日本政府を告発するために自らすすんで名乗り出たわけではありません。特別在留許可を得るためにやむをえず行ったことです。それはサンフランシスコ「講和」条約(1951年)締結に伴って在日朝鮮人が「外国人」とされ、憲法上の諸権利をはく奪されたからです。
在日朝鮮人に対するこの不当な差別政策の元凶は、天皇裕仁が最後の勅令として発した「外国人登録令」(憲法施行前日の1947年5月2日)です。この点でも裕仁の責任はきわめて重大です。
第3に、名乗り出たぺさんの存在がほとんど無視されたのはなぜかという問題です。
ぺさんが名乗り出ても、日本はもちろん、韓国でもほとんど無視されました。なぜか。それはぺさんの告白が最初に掲載されたのが、朝鮮総連系とされる「朝鮮新報」だったからだと言われています(2013年6月の沖縄シンポジウムでの金美恵さんの話)
そうだとすれば、そこにも日本の植民地支配を根源とする「南北対立」が反映していたことになります。この点は事実関係を含め、さらに究明される必要があります。
<訂正>22日の「ヘイト企業「フジ住宅」断罪判決とその限界」で、第2次安倍政権の発足を「2013年12月」と書きましたが、「2012年12月」の誤りでした。申し訳ありません。(22日午後5時修正)
☆中村敦夫さんの手紙「楽しい俗世との闘い」
俳優で作家、演出家、そして環境活動家の中村敦夫さん(「木枯らし紋次郎」)(81)とは、夕刊紙の記者時代、中村さんが参院選に出馬する際に知り合った。もう20年以上前になる。
意気投合し、今日まで年に数回手紙を交換するお付き合いをさせていただいている。先日、中村さんの記事が中国新聞(9月27日付=共同)に載った感想に、手術・治療のことを付記して送ったら、さっそく返信を頂戴した。その一部―。
< 私自身、自分の晩年を、「戦場の散歩」と呼んでいます。どこから弾が飛んでくるか分からない時間に入っているからです。
仏教では、生死は同一のものであり、人間は「空」の世界を泳いでいるに過ぎません。
最終的には、すべて「空」が引き受けてくれるわけですから、人間は気楽なもんです。
一番楽しいのは、俗世の悪と闘い続けることです。結果なぞ気にすることなく、毎日、ぬけぬけと進めば楽しい限りでしょう。人生、最高のゲームだと思います。>
その言葉通り、中村さんは俗世の悪と闘い続けている。メディアへの出演の他、東電原発事故を告発する一人朗読劇「線量計が鳴る」(作・出演)を5年前から始め、全国で公演してきた(上演100回を目前にコロナで中断)。
先月は、俳人・杉田久女の生涯を描いた俳句朗読劇「翔べ久女よ!天空の果てまで」を制作し、久女ゆかりの北九州市で、女優の中井貴恵さんと二人舞台で演じ、「近代俳句における家元制度」を告発した。
中村さんは「気楽なもんです」と言うが、その闘いは自らにはたいへん厳しい。無所属で参院議員になり、「盗聴法」などの悪法に孤軍奮闘で立ち向かい、「環境会議」を立ち上げたときから、その生きざまを見てきた。
手紙は、重くならないように配慮されながら、同時に、珠玉の真理に貫かれていると思う。「生死は同一」「すべては「空(くう)」が引き受けてくれる」「毎日、ぬけぬけと進めば楽しい限り」
心が軽くなった。生ある限り「俗世の悪」と楽しく闘い続けよう、ぬけぬけと。
☆一喜一憂せず(抗がん剤治療13日目)
1週間目くらいから倦怠感、胃のむかつきが出てきた。それがきのうあたりから軽くなってきた。「必ず出る」と言われた手足のシビレ、皮膚の荒れはまだ出ていない。なにより、むかつきが吐き気までには至らず、ものが食べられていることで助かっている。
副作用の表れ方には個人差があるようだ。一喜一憂せず、自然体を心掛けよう。
きのう治療開始後初の通院で血液検査したが、異常なかった。ほっとした。
8月には「記念日」がいくつかあります。「8・6」「8・9」「8・15」。しかし、これらと同じように、いいえこれら以上に、日本人にとって重要な「記念日」があります。それは「8・14」です。その意味は2つあります。
①「敗戦記念日」
「敗戦(終戦)記念日」といえば「8・15」と思っている(思わされている)日本人が多いですが、それは危険な誤りです。「8・15」は天皇裕仁が「終戦詔書」を読み上げた日にすぎません(「玉音放送」)。それを「終戦の日」とするのは、「国体」(天皇制)温存と裕仁の戦争責任の隠ぺいという国家権力の2つの思惑のためです(2020年8月15日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20200815)
日本がポツダム宣言を受諾し世界に通知したのは1945年8月14日です。「8・14」こそ、日本帝国主義の侵略戦争・植民地支配が破綻した日として記憶すべき日です。
②「日本軍「慰安婦」告発の日」
「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私が、こうしてぴんぴん生きている」
日本軍「慰安婦」(戦時性奴隷)の被害者・金学順(キム・ハクスン)さんがソウルで記者会見し、初めて実名で名乗り出て日本政府を告発した日、それが30年前、1991年8月14日です(写真左、中)。
ハクスンさんの勇気ある告発を契機に、韓国、中国、フィリピン、台湾、東チモール、マレーシア、インドネシア、オランダ、そして日本から性奴隷の被害者が相次いで名乗り出ました。
ハクスンさんの告発は、日本軍「慰安婦」の事実を白日の下にするとともに、世界中の戦時性暴力とのたたかいの発端になった、まさに歴史的な出来事でした。「8・14」はその重要な記念日です(写真右はソウルの「平和の少女像」前で開かれた先週の水曜デモ=ハンギョレ新聞より)。
ハクスンさんは名乗り出たいきさつをこう話しています。
「1990年ごろ、日本政府が「慰安婦」を連れ歩いたのは民間業者だと言っているというニュースを聞いて、私がここに生きているのに、なんでこんなことを言うのか、日本の政府はウソを言っていると思いました。私はそれを許すことができませんでした。私はとにかく日本政府に事実を認めさせなければいけないと思いました。
私はこの時、朝鮮を植民地として支配をし、日本が起こした戦争に朝鮮人を引っ張っていき、巻き込んでおきながら、その責任をとらないということは、私は許されないと思いました」(日本軍「慰安婦」問題解決全国行動のチラシより)
ハクスンさんの告発のきっかけは、「日本政府のウソ」だったのです。
ハクスンさんはその年の12月、日本政府を相手に裁判を起こします。その時の記者会見ではこう述べています。
「一生、涙のなかで生きてきました。こんなことを金で補償できるでしょうか。私を17歳のときに戻してください」(『「慰安婦」問題と未来の責任』大月書店2017年より)
日本軍「慰安婦」問題の核心が、被害者の尊厳回復であることを、この言葉が端的に示しているのではないでしょうか。
それから30年。日本社会はハクスンさんの告発を正面から受け止めてきたでしょうか。
「日本政府のウソ」は改まるどころか、安倍晋三政権以降エスカレートする一方です。日本人はどれだけこの問題を自分のことと受け止め、政府の過ちを批判してきたでしょうか。
「敗戦の日」と「日本軍「慰安婦」告発の日」。これが同じ「8・14」なのはたんなる偶然ではない気がします。この日を、日本人が自分の国の侵略戦争・植民地支配の歴史に向き合い、加害の責任を償う決意を新たにする「記念日」にしたいものです。