アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

日曜日記216・報道特集・金平氏は山口敬之性暴力事件の自己検証を

2022年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
 
 24日のTBS報道特集で、永年キャスターを務めてきた金平茂紀氏がレギュラーから降りる挨拶をおこなった。

 報道特集は日本の報道番組としては傑出している。金平氏も並みのジャーナリストではないと思う。だからこそ、言わねばならない。かつて番組で公言した重要な約束がまだ果たされていない、このままうやむやにすることは許されない、と。

 フリージャーナリストの伊藤詩織さんが2015年4月、性暴力に遭った。伊藤さんは実名で告発し、法廷闘争をたたかった。結果、東京地裁は2019年12月18日、伊藤さんの訴えを認めて加害者に損害賠償を命じる判決を下した(今年1月に東京高裁でも同様の判決があり、7月7日上告棄却で判決は確定)。

 加害者は元TBS記者の山口敬之氏(事件当時ワシントン支局長)。金平氏は事件当時TBSの執行役員で、山口氏の上司だった。事件はTBSにとっても金平氏にとっても文字通り他人事ではない。

 東京地裁判決から3日後、2019年12月21日の報道特集の冒頭、金平キャスターは、判決を「画期的な出来事」としたうえでこう述べた。
「今日は残念ながらできないが、いつの日か(この問題を)取り上げたい」

 報道特集・金平氏がこの事件をどういう視点で「取り上げ」るのか注視してきた。しかし、今日に至るも取り上げられていない。

 山口氏による性暴力事件は、大手メディアの記者がその立場を利用してフリージャーナリストに被害を及ぼしたという点でも、メディアとして絶対にあいまいにしてはならない事件だ。メディア全体の中に巣くうジェンダー・性差別の氷山の一角でもある。

 さらに山口氏は、自身が公言しているように、安倍晋三元首相ときわめて親密な関係にあった。刑事事件としての起訴を免れたのも政権との関係が取り沙汰された。事件を検証することは、安倍元首相と記者(メディア)の癒着を明らかにするうえでも重要だ。

 あらゆる点から、報道特集にはこの事件を自己検証する責任がある。番組で公約したことを実行しなければならない。

 金平氏はレギュラーキャスターは降りたが、特任キャスターとして番組には関わり続けるという。今からでも遅くない(実際は遅いが)、公約通り、山口敬之性暴力事件を自己検証し、報道特集で放送すべきだ。

 一部に、金平氏は社内で検証を主張したが上層部が退けたとも言われている。もしそれが事実なら、そのことも含めて、金平氏は真相・経緯を明らかにすべきだ。
 仮にそれでTBSを去らねばならなくなるとしても、自身の言明に反してこのまま事件にフタをしてTBSに留まることと、どちらがジャーナリストとしてとるべき道であるかは、自明ではないだろうか。


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日曜日記215・朝鮮人差別と茨木のり子

2022年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
  日朝会談・平壌宣言(2002年)の約30年前、茨木のり子は在日朝鮮高校生に対する暴力事件を目の当たりにして、こんな詩を書いた。

 くりかえしのうた

日本の若い高校生ら
在日朝鮮高校生らに 乱暴狼藉
集団で 陰惨なやりかたで
虚をつかれるとはこのことか
頭にくわっと血がのぼる
手をこまねいて見てたのか
その時 プラットフォームにいた大人たち

父母の世代に解決できなかったことどもは
われらも手をこまねき
孫の世代でくりかえされた 盲目的に

田中正造が白髪をふりみだし
声を限りに呼ばはった足尾鉱毒事件
祖父母ら ちゃらんぽらんに聞き お茶を濁したことどもは
いま拡大再生産されつつある

分別ざかりの大人たち
ゆめ 思うな
われわれの手にあまることどもは
孫子の代が切りひらいてくれるだろうなどと
いま解決できなかったことは くりかえされる
より悪質に より深く 広く
これは厳たる法則のようだ

自分の腹に局部麻酔を打ち
みずから執刀
病める我が盲腸を剔出した医者もいる
現実に
かかる豪の者もおるぞ (「人名詩集」1971年所収)

 この5年後の1976年、茨木のり子は50歳でハングルを学び始めた。

 その動機(の1つ)について、こう書いている。

 あるとき、日本語を流暢に話す韓国の詩人・洪允淑さんに、「日本語がお上手ですね」というと、彼女はこう応えた。「学生時代はずっと日本語教育されましたもの」

「ハッとしたが遅く、自分の迂闊さに恥じ入った。日本が朝鮮を植民地化した36年間、言葉を抹殺し、日本語教育を強いたことは、頭ではよくわかっていたつもりだったが、今、目の前にいる楚々として美しい韓国の女(ひと)と直接結びつかなかったのは、その痛みまで含めて理解できていなかったという証拠だ。

 洪さんもまた1945年以降、改めてじぶんたちの母国語を学び直した世代である。

 その時つくづくと今度はこちらが冷汗、油汗たらたら流しつつ一心不乱にハングルを学ばなければならない番だと痛感した」(『ハングルへの旅』朝日文庫1989年)

 茨木のり子は朝鮮を植民地支配した日本の歴史の過ちを“くりかえさせない”ために、50歳でハングルを学び始め、習得した。

 孫の代に課題を残さないために、残りの人生で、私に何ができるだろうか。

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日曜日記214・喪に服する記者たち

2022年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
   

 英エリザベス女王の死去を伝えた9日朝のNHKニュースで、現地特派員は黒のネクタイを締めていた。東京のスタジオの国際部デスクも黒い服だった。同日の「ニュース9」のキャスターも黒ずくめだった。喪に服したのだ(写真)。

 NHKだけではない。10日の報道特集(TBS)でも、現地特派員は黒のネクタイだった(見ていないだけで他局も同様だったかもしれない)。

 これはジャーナリスト(ジャーナリズム)としてあるまじきことだ。

 喪に服することは、故人へのなんらかの敬意なくしてはありえない。きわめて個人的な内心の行為だ。記者がプライベートで喪に服するのはもちろん自由だ。しかし、記者として放送に登場するのは言うまでもなくプライベート活動ではない。

 エリザベス女王は「国家元首」、すなわち国家権力の頂点に位置する人物だ。喪に服した姿を公共の電波で流すことは、その「国家元首」への敬意を公に示すことになる。ジャーナリストとしてやってはならないことだ。

 岸田政権はあくまでも「安倍国葬」を強行しようとしている。このまま強行されれば、当日(27日)、日本にどんな光景が表れるのだろうか。学校や企業での「弔意」の実質的強制がおおいに心配される。

 なかでも危惧されるのは、メディアの有様だ。特番はもちろん、さまざまな形で「国葬」を大きく扱い、事実上その後押しをすることは目に見えている。記者やキャスターが喪に服した姿で登場する可能性はきわめて大きい。エリザベス女王に対してさえこうなのだから。

 それは国家権力を監視する役目の記者・メディアの自己否定であり、国家権力への拝跪にほかならない。

 暉峻淑子(てるおか・いつこ)氏(埼玉大名誉教授)は日本ジャーナリスト会議の機関紙「ジャーナリスト」(8月25日号)に、「戦後77年目、メディアの課題」を寄稿しこう指摘している。

「私は15年にわたるアジア太平洋戦争の中で育ったから、国家とメディアが共同で煽った愛国心や敵愾心なるものの実態を知っている。
…今、私たちは、地球レベルでの人類存亡の危機に直面している。そこから誰も目をそらすことはできない。それなのに、国家権力に対する監視・批判者であるメディアが弱体化していることは、メディア自身の存在理由さえも失わせる結果となっている。
 現在は報道倫理の規定よりもさらに根源的なところで、ジャーナリストの良心が問われている危機の時代なのである」

 ジャーナリストへの警告であるとともに、日本社会・日本人全体への警鐘と受け止めたい。

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日曜日記213・映画「島守の塔」で「ヤマトウォッシュ」を考える

2022年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム
 

 映画「島守の塔」を巡る那覇市内でのシンポ(昨日のブログ参照)で、沖縄タイムス編集委員の阿部岳氏が、沖縄県紙が県外の地方紙と連携したことに関し、こう述べていた。

「沖縄戦というテーマでは連携は成立しない。沖縄2紙が沖縄戦の犠牲について免罪符を与えてはならない」(8月29日付琉球新報)

 これはどういう意味だろうか。

 沖縄タイムス・米国特約記者の平安名純代氏は、コラム「想い風」(8月28日付)で、「米映画業界では、配役で白人を偏重したり、白人が好む内容に変えたりすることを「ホワイトウォッシュ」という」としたうえで、こう書いている。

「島田氏は「生きろ」と言ったかもしれない。しかし、なぜ当時の知事権限を行使して、徹底抗戦を命じる軍に抵抗し、沖縄の人々を守らなかったのか。
 映画を見た人々の心に、そうした問いよりも、「生きろ」と叫ぶ島田氏の姿が強く残ったとすれば、沖縄戦の本質を覆い隠す「ヤマトウォッシュ」と言えるだろう」

 米国の支配的マジョリティである白人が、映画で社会の実態を自分たちが好むように変えて描く。それが「ホワイトウォッシュ」だとすれば、日本のマジョリティであるヤマト(「本土」)の人間が、島田叡や荒井退造を美化して沖縄戦の本質を覆い隠すのは「ヤマトウォッシュ」だ、という指摘だ。

 阿部氏が、沖縄戦というテーマで沖縄県紙と「本土」紙との「連携は成立しない」「免罪符を与えてはならない」というのは、「ヤマトウォッシュ」が不可避だから、ということではないだろうか。

 「ヤマトウォッシュ」はこの映画だけでの話ではない。

 「本土」が製作する沖縄をテーマにした映画やテレビドラマは少なくない。それらは「ヤマトウォッシュ」ではないと言えるだろうか。

 那覇に一時住んでいた時、「琉球独立総合研究学会」が立ち上げられた(2013年5月)。その会員はウチナーンチュに限定されていた。私は、「それはおかしいのではないか。なぜヤマトンチュは会員になれないのか」と質問したことがある。「独立を前提にした学会だから主体性が必要」という答えだった。

 その時はその答えになお納得がいかなかった。しかし、いま思い返せば、これも「ヤマトウォッシュ」と無関係ではないのではないか。

 ヤマトの人間が沖縄や沖縄戦をテーマにした映画やドラマを製作できない、すべきではないとは言えないだろう。ヤマトンチュが沖縄の研究会に参加することもあるだろう。
 その際、どうすれば「ヤマトウォッシュ」を回避できるだろうか。

 その問題に明確に答える力は私にはない。ただ思うのは、自分の立場性(ポジシィナリティ)を忘れないことが必要だということだ。
 私は、琉球を武力で併合・支配し、沖縄戦で「捨て石」にし、日米安保体制に沖縄を差し出した(直接行ったのは裕仁の「天皇メッセージ」)日本の人間。沖縄の人々に対しては加害の側にいる人間だ。
 その歴史と現実を肝に銘じて忘れないことが、最低限必要だとは思う。

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日曜日記212・「死刑になりたかった」を聞き流せない

2022年08月28日 | 日記・エッセイ・コラム
  8月20日渋谷区の路上で母娘を刺傷した中学3年の少女は、「死刑になりたいと思い、たまたま見つけた2人を刺した」と供述したという。
 容疑者が「死刑になりたかった」と供述する事例はこれまでもあったが、それがついに中学生にまで及んだ。

 「死刑になりたい」という少女の言葉は聞き流せない。聞き流してはいけない。

 少女は家庭や学校でさまざまな生きづらさを抱えていたようだ。その生きづらさが周りの人への殺意に向かうと同時に自己の抹殺願望にも及んだ。「死刑になりたい」は「死にたい」と同義だ。“2人以上殺せば死刑になって死ねる。国家が殺してくれる”

 中国新聞が17日付から「ルポ尾道刑務所支所―高齢化する受刑者たち」を3回連載した。同支所が「再犯の悪循環」を断つために大切にしていることが、「司法と福祉の連携」だと言う。

 社会福祉士の小川香奈さんは出所する元受刑者らに、「人と接点を持つこと、誰かを頼ること。生きていくために必要なこの二つを、どうか心に留めてほしい」と願う。

 「人と接点を持つこと、誰かを頼ること」。この2つがあれば、出所後の生きづらい世の中でも、なんとか生きてゆける。それが小川さんの確信だ。

 少女にこの2つがあれば、おそらく事件は起こらなかっただろう。
 真情を話せる接点がある人もいず、誰にも頼ることができなかった少女は、追い詰められた。

 そこにあったのが「死刑」というこの国の制度だ。自分で死ぬ“勇気”はなくても、国家が殺してくれる。

 死刑は「人と接点を持つこと、誰かを頼ること」を拒絶する。永遠に拒絶する。

 この国は、生きづらさに悩み苦しんでいる人に、「人との接点」「頼れる誰か」の代わりに、「死」を用意している。それが死刑制度だ。

 こんな社会でいいはずがない。だから、「死刑」は絶対に廃止しなければならない。

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日曜日記211・「パパゲーノ」ではないけれど

2022年08月21日 | 日記・エッセイ・コラム
  「パパゲーノ」という言葉があることを、20日のNHK特集ドラマ「ももさんと7人のパパゲーノ」(主演・伊藤沙莉)で初めて知った。
 「パパゲーノ」とは、「死にたい気持ちを抱えながら、その人なりの理由や考え方で“死ぬ以外”の選択をしている人」のことだそうだ。名前の由来は、モーツァルトのオペラ『魔笛』に登場する自殺を思いとどまった男からきているそうだ。

 20代の「パパゲーノ」ももは、同じく生きづらさの中で「楽しいこと、わくわくすること」を見つけている人、見つけようとしている人々をネットで探し、会うために仕事を辞めて旅に出る。テントを背負って、野宿する旅だ(写真)。

 このドラマに「お説教」はない。「解答」もない。Eテレ「ハートネットTV」なども担当している演出の後藤怜亜さんは、「否定はせず、でも助長もしないことを両立させる作品にすることを大切にした」と言っている(NHKサイト)。なるほど。

 自分は「パパゲーノ」ではないけれど、生きづらい中で「楽しいこと、わくわくすること」に出会いたいという気持ちに強く共感する。

 アルバイト先でコロナ陽性者が出た。これだけ「過去最多」が続けば不思議はない。その分、シフトが増えた。自分にも感染のリスクは当然ある。3年におよぶ「ウイズ・コロナ」は精神的にきつい。自由に旅にも出られない。もちろん、みんながそうだ。

 ウクライナ戦争は出口が見えない。自分にとってきついのは、「情報戦」の中で「正しい」と断言できる情報が得られないことだ。だから確信を持ったことが言えない。でも、言わねばならない。それでヒビが入る人間関係もある。

 貧困と差別がなくならない社会。むしろ深まっている社会。この先日本(世界)がより良い方向へ向かうとはどうしても思えない。少なくとも自分が生きている間は。

 そう長くない残りの人生で、何ができるだろうか。何かできるだろうか。そもそも凡夫の身で何かしようと考えること自体が傲慢か…。

 「ももさん」の脚本を書いた加藤拓也さんは、「解決できないことは、無理に解決しなくてもいい。そのままでもいいんだよ、という優しさが全面に出ている作品になっている」と語っている(NHKサイト)。

「解決できないことは、無理に解決しなくてもいいんだよ」―確かにそれは大きな救いだ。生きづらい社会を生きる1つの指針だろう。
 でも、今の自分にそれは言えない。この社会には解決しなければならないことがたくさんある。無理にでも解決したいと思う。だが解決する力も解決される展望もない。それはけっこうきつい。

 だから、「楽しいこと、わくわくすること」に出会いたい。どうすれば出会えるだろう。「パパゲーノ」のみなさんと一緒に、探し続けたい。

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日曜日記210・「8・14」を「記念日」に

2022年08月14日 | 日記・エッセイ・コラム
 かつて天皇明仁(当時、現上皇)は、「忘れてはならない日」として4つの「記念日」を挙げた。現天皇もそれに倣っているという。「6・23」と「8・6」と「8・9」と「8・15」だ。

 いずれも日本(国民)にとって大切な日で「国民とともにある天皇」を示している、とメディアは言う。しかし実はそうではない。この4つの「記念日」には国家(政府)がけっして認めようとしない隠された共通点がある。

 それは、いずれも日本(国民)の「被害」が強調され、その「加害」の意味が隠ぺいされていることだ。

 広島・長崎の被爆はそれを招いた日本の侵略戦争の責任とともに語られることは少ない。「6・23」の「沖縄慰霊の日」も、米軍による被害は告発されるが、日本軍の住民虐殺、沖縄を「捨て石」にした帝国日本の責任は追及されない。「8・15」は「終戦記念日」とされているが、実はそうではない。そこには重大な政治的思惑が隠されている(2020年8月15日のブログ参照)。

 先の戦争にかかわる4つの「記念日」でいずれも日本の加害性が隠ぺいされている。ということは、最大の戦争責任を負うべき天皇裕仁が免罪されているということだ。明仁が「忘れてはならない日」としている本当の意味はここにある(本人がどこまで認識しているかは別として)。

 翻って、「8・14」は何の「記念日」か、と聞かれて答えられる日本人はどれだけいるだろう。

 韓国では「8・14」は「国の記念日」だ。「日本軍「慰安婦」被害者メモリアルデー」。
 1991年8月14日、日本軍「慰安婦」(戦時性奴隷)の被害者だった故・キム・ハクスン(金学順))さんが、その事実を初めて告発した日だ(2018年8月14日のブログ参照)。

 韓国ではキムさんの告発をきっかけに、「日帝下の日本軍慰安婦被害者に対する保護・支援および記念事業などに関する法律」(2017年12月)が成立し、「国の記念日」に指定された(11日付ハンギョレ新聞デジタル日本語版)。

 韓国では今年もこの日を前に、10日(水)から「私たちは今よりもっと強く、歴史の真実に向き合え!被害者の勇気を記憶せよ!」をテーマに、水曜集会はじめさまざまな取り組みが行われている(同上、写真も)。

 歴代天皇が本当に「忘れてならない」のはこの日だ。

 国家は重要な「記念日」に官製の「式典」を行い、その本当の意味を隠ぺい・歪曲する。歴史の修正であり否定だ。明日もまた政府主催の「慰霊式典」が行われる。

 多くの「日本国民」がそれに馴らされ、関心をもつこともなく流されている。知らないということは恐ろしい。知ろうとしないことはもっと恐ろしい。

 ひとごとではない。この年になっても知らないことが多いことに自己嫌悪する。この国で近代の歴史を知ることがいかに難しいか。それにしても勉強不足は否めない。

 「8・14」は日本がポツダム宣言を受諾した日でもある。ほんとうの「敗戦記念日」は今日だ。奇しくも同じ日となった「8・14」を、歴史の大切さ、歴史を学び続ける大切さを胸に刻む「記念日」にしたい。


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日曜日記209・「名付け」による思考停止に抗って

2022年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
  「みんながもやもやと気になっているけれど言語化できない事象を、名付けることでクローズアップさせる名人」(7月3日の朝日新聞デジタル)といわれるエッセイストの酒井順子氏(55)が、「今、気になっていること」としてこう述べている。

「シングルマザーの恋人や再婚相手が、シングルマザーの連れ子を虐待する事件。この事象に何らかの名前を付けたい。…名付けることで注目され、困窮するシングルマザーのケアにもつながるのではないかと思うんです。パッとわかりやすい名前がないゆえに、問題が放置されている気がする。…「セクハラ」とか「ヤングケアラー」みたいに、できれば英語で、わかりやすく呼びやすい名前がいいです」(同朝日新聞デジタル)

  一方、映画「PLAN75」の早川千絵監督(45)は、「いまの日本、早川さんが名付けると、何社会ですか?」という質問に、こう答えている。

「いまの社会をネーミングするのは難しいですね。そうやってキーワードやわかりやすい短い言葉で表現されすぎていることに、抵抗、違和感があります。なんとか社会という言葉ですべてが語られていると思うのは、危険な気がして。ここからこぼれ落ちてしまうものがすべてないものとされたり、わかりやすい言葉で言った瞬間に問題がわかったような気になったりすると、考えることをやめてしまう。SNSで短い言葉が生産されるようになった故に、短絡的な考え方が増えている気がします」(6月27日の朝日新聞デジタル、写真も)

 酒井氏、早川氏、どちらもなるほどと思う。それだけ言葉、とりわけ名付けの力は大きい。諸刃の剣だ。早川氏が警鐘を鳴らす通り、とりわけ「危険」なのは、国家権力が意図的に流布させている「名付け」だ。

 「従軍慰安婦(実際は戦時性奴隷)」「集団自決(強制死)」「臨調行革(公共資源払下げ)」、近くは「反撃能力(敵地攻撃能力)」、そもそもの「日米安保(従属的軍事同盟)」「自衛隊(日本軍)」。枚挙にいとまがない。

 いま、もっとも要注意なのが、「民主主義」という名付けだ。

 アメリカは中国、ロシア、朝鮮民主主義人民共和国などを「権威主義国家」、自らをはじめG7を「民主主義国家」と名付けて二分する。日本の政府やメディアはそれをオウム返しする。「権威主義」には悪のイメージ、「民主主義」には正義のイメージが付く。

 しかし、外ではウソをついて他国を侵攻・侵略し、内ではさまざまな差別が後を絶たないアメリカが「民主主義国家」であるはずがない。そのアメリカに追従して憲法の諸原則を蹂躙して恥じない日本も「民主主義国家」であるはずがない。

 しかし日本人は、「民主主義」という「わかりやすい言葉」が使われた瞬間に、「問題がわかったような気になって考えることをやめてしまう」のである。

 「民主主義」とは何なのか。

 プレイディみかこ氏は、「民主主義とアナキズムとエンパシーは密接な関係で繋がっている。というか、それらは一つのものだと言ってもいい」(『他者の靴を履く』)と述べている。

 「アナキズム」は「無政府主義」と名付けられてきた。これも国家による名付けだ。その「分かりやすい言葉」によって「恐ろしいもの」という印象を植え付けられ、それ以上の思考を停止させられてきた。しかし、その名付けは誤り(国家による意図的誤訳)で、実は「無支配主義」というべきだと最近分かった。

 国家の名付けによる思考停止を打破し、「アナキズム」について、とりわけ「アナキズム」と「民主主義」の関係について学び考えることが、目下の私の重要テーマだ。

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日曜日記208・ふたたび「迷惑をかける」を考える

2022年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム
 先週の「日曜日記」で、映画「PLAN75」から「迷惑をかける」について考えた。その後、期せずしてこの言葉にかかわる2人の論考を読んだ。いずれもなるほどと思った。

 1人はプレイディみかこさん。『他者の靴を履く』(文藝春秋)の中に次の文章がある(抜粋)。

< ネットで日本語のコロナ関連報道を読んでいると、ある言葉が繰り返し使われていることに気づかずにはいられない。
「コロナをうつされるより、うつしたら迷惑をかけるのが怖い。ここに住めなくなる」
「迷惑をかける」という言葉がやけに目につくのだ。

「迷惑をかけたくない」という日本独自のコンセプトは、一見、他者を慮っているようで、そうでもないのだろう。人を煩わせたくないという感覚は、人にも煩わされたくないという心理の裏返しだからだ。

 互いを煩わすことを「悪いこと」とする社会は、表層的には他者を慮っているように見えても、実は誰ともかかわらず「ひとり」で生きて行く人の集団だ。>

 もう1人は、社会福祉学者の堅田香緒里さん。「〇活」が世の中にあふれている背景についてのインタビュー(23日の朝日新聞デジタル)でこう述べている。

<「活」で想定されるのは、女性や貧困層など強者でない場合が多いのです。それなのに市民の側が福祉を求める声を強く上げられないのは、「がんばらなければいけない」という価値観を内面化しているからかもしれません。弱者を生む社会のゆがみや矛盾に目が向きにくくなっている。

 4月から滞在している英国では、この数カ月の間にも、大学や鉄道で、労働格差の是正や待遇の改善を求めるストライキがありました。日常的な風景の一つです。日本ではストはほとんどなく、実行してもおそらく市民の共感は得られないでしょう。「権利をよこせ」と声を上げるのではなく、なぜか統治者の目線で「迷惑をかけるな」と忖度してしまう。>

 2人の論考を読んで気付くのは、「迷惑をかけない」と「自己責任」はコインの表と裏ということだ。「自己責任」論もまだ克服されているわけではないが、かつてほど声高には唱えられなくなったように思う。その代わりに「迷惑をかけない」が台頭してきているということか。プレイディみかこさんによれば、「コロナ禍」がその契機になった。

 堅田さんが指摘するように、「権利をよこせ」と声を上げるのではなく「迷惑をかけるな」という「統治者目線」の「価値観」が「内面化している」とすれば、たいへんなことだ。

 ではどうするか。堅田さんはこう主張する。

< 本当は「活」をしなくても、ただ生きていける社会の方がいいはずです。そのためにできることは、小さな「ノー」を積み重ねていくことです。自分がやりたくないことや、いいと思っていない制度に、いやだと表明する。それだけでも意味のある一歩になるはずです。>

 なるほど。たしかに「いやだ」という表明には社会を変える力があるだろう。ストライキも一種の「いやだ」の表明だ。
 ただ、「いやだと表明する」こと自体、「わがまま」「和を乱す」と封じられてきたのが日本社会だ。「いやだ」の表明も簡単ではない。「小さなノー」から始めよう。

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日曜日記207・映画「PLAN75」の本当の恐怖

2022年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
  映画「PLAN75」(監督・早川千絵=45歳、主演・倍賞千恵子)は、恐ろしい映画だ。

 近未来の日本。政府が「PLAN75」という制度を決定した、というテレビニュースの淡々とした声で始まる。

 75歳を過ぎるとこの制度に加入できる。申請すると10万円が直ちに給付される。何に使ってもいい。申請者は自宅で待機する。思い残すことがないように好きなことに使ってくださいという金だ。待機中、センターから担当者が1日1回15分間電話を掛ける。話し相手になっているようで、申請者の心変わりを防ぐのが狙いだ。

 数日後、センターから順番がきたと通知がある。申請者は自ら施設に出向く。個室で独りベッドに横になる。薬が注射され、眠るように生涯を閉じる。

 75歳以上の健康な高齢者が、自ら「安楽死」を選択する制度が、たんたんと機械的に進行する。政府のプラン広告に書かれたキャッチフレーズは、「日本の未来を守りたいから」。

 軍拡に狂奔して福祉を切り捨て続けている自民党政権のもとで、とても作り話とは思えないリアリティがある。形を変えた「PLAN75」はすでに存在していると言えるかもしれない。だからとても怖い。

 だが、本当の恐怖は別の所にある。

 早川監督は製作に向けて多くの高齢者に「プラン75という制度をどう思うか」聞いたという。その結果は―。

「「利用します」とはおっしゃっていないのですが、肯定的な意見、こういう選択肢があったほうが安心できると言う方が多かったです」(6月27日の朝日新聞デジタルインタビュー)

 この感想は実に分かる。10年ほど前までの私なら「利用する」と言い切ったかもしれない。寝たきりになって子どもたちに迷惑をかける前に、自分の人生は自分で始末をつけたい、という思いが強かった。それには「PLAN75」は最適だ。

 その考えはこの10年くらいで変わってきた。変わった要因はいろいろあるが、8年前から認知症の母(要介護5)とつきあってきたことがやはり大きいだろう。子どもたちや周囲の人々に「迷惑をかける」ことは、必ずしも「悪」ではないと思うようになった。

 だから「PLAN75」を「利用する」とは断言しない。だが、「あれば安心できる」という思いはよく分かる。なぜなら、「迷惑をかけることは必ずしも悪ではない」という今の思いが、この先変わらないとは言い切れないからだ。ほんとうに寝たきりになった時、なりそうな時もそう思い続けられるか―。

 その自信のなさが、この映画の本当の恐怖だ。

 早川監督はこう話している。

「実は私も人に迷惑をかけたくないという思いが、映画をつくるまでは強くありました。けれど、一概に迷惑をかけることは悪いことではないはず。この映画をつくっていくなかで、「迷惑をかけて当たり前」「困ったときはお互いさま」という考え方のほうが、みんなにとって生きやすい世の中になると思い始めました」(同朝日新聞デジタル)

 その通りだと、頭では分かる。だが、その考え(思想)を、自分がどのような状態(寝たきり・認知症など)になっても、自分が「迷惑をかける」側になっても貫けるか。
 貫くためには、まだ何かが足りない。


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