天皇・皇后が27日、那覇市内の対馬丸記念館、およびその慰霊塔である「小桜の塔」を初めて訪れました(写真左)。
対馬丸は、1944年8月22日、米潜水艦によって撃沈された学童疎開船。学童780人はじめ1482人が犠牲になりました。
犠牲になった学童と同年代であることから、天皇かかねてから希望したものと言われています。
天皇・皇后は対馬丸記念館で15人の生存者・遺族と面会し、「優しい言葉」をかけました。
メディアがこぞって「天皇賛美」報道を行ったほか、対馬丸関係者も、「これで一つの区切りがついた」など、歓迎の意見が多いと報じられています。
しかし一方で、平良啓子さん(79)のように、「戦前の教育(皇民化教育)を考えると、足が向かない」と天皇・皇后との面談を拒んだ生存者もいます。
天皇・皇后の対馬丸記念館訪問は、沖縄にとって、さらに日本にとって、どのような意味を持つのでしょうか。私たちは、関係ないと傍観していてよいのでしょうか。
それを考える手掛かりが、、対馬丸記念館に隣接している「海鳴りの像」(写真右)にあります。
先の戦争で米軍に撃沈された沖縄の民間船舶は対馬丸だけではありません。ほかに25隻あり、犠牲者は約2000人に上ります。その人たちを慰霊する像が、「海鳴りの像」なのです。
今回の天皇・皇后の対馬丸慰霊に当たり、沖縄の戦時遭難船舶遺族会は、ぜひ「海鳴りの像」も訪れ、船舶犠牲者全体を慰霊するよう、宮内庁に文書で申し入れました(20日)。遺族会としては当然の要求です。
ところが、天皇・皇后は「海鳴りの像」には行かなかった。
遺族会の要望書が宮内庁長官から天皇に示されたにもかかわらず。
「日程の都合」だといいますが、信じられません。なぜなら、「海鳴りの像」は「小桜の塔」よりもはるかに記念館に近いからです。「小桜の塔」に行けて、「海鳴りの像」に行けない道理はありません。
ではなぜ天皇は「海鳴りの像」には行かなかったのか。
それは、対馬丸が当時の政府の決定(すなわち天皇の命令)で疎開し、撃沈されたのに対し、それ以外の船舶は直接政府の決定というものではなかったからです。
この違いは今回の慰霊訪問だけではありません。戦後、対馬丸の犠牲者には国家補償が行われている(記念館にも国家予算が投じられている)にもかかわらず、25隻約2000人の犠牲者遺族には、今も国の補償は全くおこなわれていないのです。
軍人・軍属には国家補償があるが、それ以外の戦争犠牲者には国家は何の補償もしない。
これは船舶犠牲者だけではありません。那覇大空襲を含む沖縄戦の犠牲者全体に言えることです。
また沖縄戦だけでもありません。例えば、広島・大久野島の陸軍毒ガス工場の被害者もまったく同じ状況に置かれています。
天皇・皇后が「公的行為」として行う、沖縄などへの「戦跡巡幸」は、結局、国家(政府)に都合のいいように、戦争の記憶にフタをすることではないのか。そして同時に、「象徴天皇制」の国民への一層の浸透を図るものではないのか。
そしてそれは、自民党改憲草案が明記している「天皇元首化」の動きと無関係ではないのではないか。
「海鳴りの像」を無視した今回の天皇・皇后の「対馬丸慰霊」は、そのことを示しているのではないでしょうか。
福山市人権平和資料館で「絵で語る子どもたちの太平洋戦争」という企画展が行われています(7月31日まで)。
広島県出身(三原市在住)の岡田黎子(れいこ)さん(84)が戦争体験を絵と文章で綴った画集(写真左など)から、子どもたちがいかに戦争に巻き込まれていったかを振り返る企画です。
22日、作者の岡田さんを招き、直接お話を聴く催しがありました(写真右)
岡田さん(当時中学2~3年生)には、2つの痛烈な戦争体験があります。1つは、1944年秋から約9ケ月にわたり、竹原市沖の大久野島の日本陸軍毒ガス工場に学徒動員されたこと。もう1つは、被爆直後に被爆者を救護するため広島市へ動員されたことです。
毒ガスとは知らされず、厳重な秘密保持・管理の下、危険で過酷な作業に従事させられた日々。多くの学友たちが、当時も戦後も、毒ガスの影響で命を奪われました。
それでも敗戦時、工場の養成工たちからは、「わしらが作った毒ガスをもっと使えばよかったのに」という声が聞かれたという岡田さんの言葉に愕然としました。戦争はこれほど人間性をマヒさせるのです。
被爆直後の地獄の中で、それでも必死に生きようとする人々の姿に、岡田さんは子どもながら、「人間の生と死」を深く胸に刻みました。
そして思いました。「もう少し戦争が続いていたら、日本中がこうなっていた」
過酷な戦争被害者といえる岡田さんに、戦後、大きな転機が訪れました。
旧日本軍の中国での蛮行を記録した『三光』を読んだ衝撃です。「三光」とは、殺光(殺し尽くす)、搶光(奪い尽くす)、焼光(焼き尽くす)という日本軍の作戦名です。
南京大虐殺などを知り、岡田さんは驚愕しました。原爆投下の被害国だと思っていた日本が、実は「加害の国だったんだ」。
しかしそれがまだ、「自分自身の問題になっていなかった」岡田さんに、再び襲撃的な事態が訪れました。昭和天皇の死去です。死亡を少しでも遅らせようと大量の輸血が行われました。戦争の最高責任者が、死ぬ時もなお、多くの人の血を吸うのか。
岡田さんは思いました。「何も知らされない学徒動員だったとはいえ、大久野島で毒ガスを作っていた私も、戦争加害者だ」
「私に何ができるだろう」と考え抜いた岡田さんは、大久野島の実態を描いた画集を自費で出版し、謝罪の手紙とともに、「三光作戦」の犠牲となった中国の地域に大量に送りました。
すると、受け取ってもらえるかどうかも半信半疑だった先方から、多くの手紙が届きました。「戦争こそ加害者です。力を出し合って、全人類の平和を希求しましょう」。
手紙には、南京大虐殺時の血で染まったという石の標本(写真右)が添えられていました。以来、その人たちとの親交が続きました。
中国だけでなく、風船に毒ガスを積んで飛ばし、市民に被害を与えたアメリカにも、謝罪しました。
岡田さんは言います。「私は生涯、戦争の加害責任を背負って生きていかねばなりません」
私は体が震えました。
なぜなら、4年前に肺がんで亡くなった私の父も、大久野島で毒ガスを作っていた養成工の一人だったからです。(この問題は、別途あらためて書きます)
6月23日は「沖縄慰霊の日」。
この日広島経済大学の岡本貞雄ゼミでも「戦没者追悼の集い」が行われ、岡本教授は「沖縄では沖縄戦の記憶が薄れていくことが心配されている。自分たちに何ができるか考え、協力したい」と述べました(中国新聞から)。
前日の22日、原爆ドームの対岸で、「2014年『沖縄慰霊の日』を記憶するつどい」(主催:広島・沖縄をむすぶつどい)が行われました。
広島沖縄県人会顧問の中村盛博さん(写真左)らの三線に合わせ、「月桃」「戦場の口説」「花」などを歌い、語り合いました。
「記憶するつどい」は、1984年に那覇市職労と広島の市民グループが共同で、沖縄の子どもたちを広島へ招き、平和教育を行ったのがきっかけ。
その後那覇市職労が企画を取りやめた後は広島の市民グループが引き継ぎ、今日に至っています。
「戦場の口説」という歌は、沖縄戦で米軍の捕虜になった中村さんのお父さん盛鴻さんが、沖縄戦の情景をうたったもの。こんな歌詞があります。
「頼む友軍 当てならん 神も仏も 当てならん アキヨ(ああ、なんということ)御万人 死に果てて」
「くひな戦に 生残て 又と戦の 無いらぬ如 世界平和ど 願い侍ら」
主催者を代表して一(はじめ)泰治さんが、「広島の人たちにも6・23を覚えてほしい」とあいさつ。
配られた資料には、「記憶してほしい沖縄のあの日」として、「6・23」のほか、「4・28(屈辱の日)」、「5・15(「沖縄返還」の日)」、「9・7(沖縄戦終戦調印の日)」、「10・10(那覇大空襲の日)」が書かれていました。
これに最近では、「10・1(2012年、オスプレイ強行配備)」、「10・21(1995年、「米軍による少女暴行事件糾弾・日米地位協定見直し要求県民総決起大会」8万5000人)」なども加わるでしょう。
23日、沖縄では県主催の「慰霊祭」が行われ、辺野古新基地建設、集団的自衛権行使に突き進もうとしている安倍首相が出席しました。
沖縄の現状に危機感を募らせる真栄里泰山さん(沖縄大客員教授)から、「心情を歌に託したい」とメールが届きました。
「慰霊の日 いくさ仕掛ける 輩来て 新しい遺族 また生まんとす」
「我ら皆 九条となりて この国を 見守りており 忘るべからず」
<気になるニュース>
「集団的自衛権行使反対」を言明しない翁長那覇市長
23日夜の報道ステーションで、「沖縄慰霊祭」に出席した翁長雄志那覇市長が、集団的自衛権行使について記者に意見を求められ、こう答えました。
「大変慎重に取り扱ってもらいたい。拙速すぎる」
これは、もっと慎重にやるべきだという事実上の容認論で、「集団的自衛権行使反対」ではありません。
翁長氏には、辺野古新基地建設反対の人々からも、11月の県知事選候補に推す動きがあります。
翁長氏を知事選候補者に擁立するなら、憲法9条を破壊する集団的自衛権行使に対し「断固反対」を言明することが必要条件ではないでしょうか。
「最後は金目だろ」発言で不信任案を突き付けられた石原伸晃環境相(写真左)は、不本意だったでしょう。「だってその通りじゃないか。みんなそう思っているだろ」と内心つぶやいていたに違いありません。
その通り。住民の反対をカネで「決着」させようという発想と手法は、もちろん石原氏だけでなく、歴代政府・自民党、権力者の常套手段ですから。
しかし、世の中には、そんな自民党・国家権力の「常識」が通用しない人たちもいるのです。
石原発言とは無関係に、偶然時を同じくして、1通のメールが拡散で送られてきました。
「上関原発に反対する祝島の漁師さんに500万円届けようキャンペーン」です。
中国電力が山口県上関町に建設を強行しようとしている原発。それを32年間、体を張り、生活をかけて阻止し続けている祝島の漁師のみなさん(写真右=支援グループのHPから)。
中国電力は上関町に56億5000万円の交付金(2011年時点)、周辺8漁協に計125億円(祝島漁協へは約10億円)の補償金をばらまき、反対を抑えてきました。
確かに多くはこの「金目」で懐柔されました。しかし、今なお、カネに屈服しないで頑張っている人たちがいるのです。
「キャンペーン」発起人(湯浅正恵さんら)のメッセージから。
「水揚げは減り魚価が低迷する中、補償金受け取りを強要する県漁協の下で、祝島漁協は深刻な経営危機に直面しています。漁師さんたちは原発建設の補償金を拒むためにも、年金をつぎ込んで組合員を続けてきました。追いつめられています。もう祝島の漁師さんたちだけで背負うのは限界です」
そこで「補償金を拒む組合員の負担分500万円」を7月末までにカンパで集めようという呼びかけです。
希少生物が生息する美しい海の埋め立て。それに反対する漁協をカネで抑える。沖縄・名護市の辺野古もまったく同じです。違うのは上関が原発なのに対し、辺野古が米軍基地だということ。
辺野古でも漁協は多数決で補償金の受け取りを決めましたが、今もカネに屈せず闘い続けている人たちが大勢います。
人間にとって、社会にとって、金よりも大切なものがあることを、この人たちは教えてくれています。
しかし、生活を維持しなければならないのも現実です。だから「最後は金目」発言が出てくるのです。
「キャンペーン」はカネに負けない闘いを個人だけの負担にしないで、みんなで支え合う大切さを示しています。
金よりも大切なもの、生活を賭けてでも守り抜かねばならないもの。
それは原発や基地の危機にさらされている漁師さんだけではもちろんありません。長時間労働に追われている会社員、非正規社員、アルバイト・・・。
日常生活に追われているすべての人々が問われています。
「最後は金目」ではない生き方とは?
<気になるニュース>
放射能汚染に「身を挺せ」という森元首相
18日付中国新聞の短信(共同電)。佐藤雄平福島県知事が17日の記者会見で、東電福島第1原発がある県沿岸部の国道で、「2020年東京五輪の聖火リレーをしてほしい」と述べました。
そこに同席していた森喜朗元首相(五輪組織委員長)、記者から、「福島県が合宿地に名乗りを上げても海外選手が来ないのでは」と質問され、こう答えました。
「風評被害で選手が来ないなんてことはあってはならない。そういうことがあれば、まず日本代表が身をていするという精神で合宿すればいい」
「汚染水は完全にコントロールしている」という五輪招致の時の安倍首相の国際表明が、完全にウソだったことはいまや明白です。
日本よりも放射能汚染に厳しく、敏感な外国人選手が福島での合宿を回避するとしても、それは風評被害ではありません。いまだに有効な対策をとっていない政府と東電の責任です。
放射能汚染への抜本的対策を棚上げしたまま、日本人選手に「身を挺する精神」で福島で合宿させようとする森氏。本末転倒です。「お国」のために身を捧げることが強制された戦時中の「報国挺身隊」をほうふつとさせます。
先日、久しぶりに原爆資料館(広島市中区)を訪れました。
「3・11」後、そして1年間の沖縄生活を経て訪れた(確か4回目)資料館で、いくつかの新たな感想を持ちました。
①「ピース・ボランティア」の奮闘・充実
館の内外で、緑のポロシャツ姿のボランティアガイドが数多く見られました。受付で頼めば、1人でもガイドさんがついて説明してくれます(10:30~14:30)。
もちろん無料。外国人をガイドするボランティアの英語はたいへん堪能でした(写真左)。
沖縄にもピース・ガイドはありますが、広島の経験に学んでさらに充実させたいものです。
②記述がない「3・11」「内部被曝」
戦前の広島のようすから、現代の「核兵器廃絶運動」まで、パネル中心に展示されている東館。最後は「3・11」だろうと思っていましたが、その記述はありませんでした。
原爆の恐ろしさを詳しく伝える本館の展示にも、「体内被ばく」には触れていましたが、「内部被曝」の文字はありませんでした。
原爆と原発。原爆資料館として、「3・11」、東電福島原発事故にどう向き合うのかが問われているのではないでしょうか。
③撤去してはならない「被爆人形」
原爆資料館はまもなくリニュアル工事に入ります。それに伴い、「被爆の実相」を伝える本館の展示内容が変わります。被爆時を再現した人形(写真右)が撤去されるのです。
市は遺品や写真など「実物資料」を中心にする方針だからだといいます。実物展示の充実はもちろん結構なことです。しかし、それは「人形」を撤去する理由にはなりません。
ほんとうの理由は、「被爆人形」があまりにも残酷な光景だからでしょう。
残酷な姿は見せないようにする。「はだしのゲン」(中沢啓治作)への攻撃が思い浮かびます。
しかし、写真などない被爆直後の光景は、「実物」では展示できません。そのために、人形や絵画があるのです。
時として「実物」よりも実態を伝える力を持つ、こうした創作物の価値を絶対に軽視することはできません。
端正にケースの中に展示された遺品の数々は、もちろんそれとして訴えるものがあります。しかし、次の部屋でこの人形に出会った瞬間、あたりの空気までピーンと緊張が走ったような衝撃を受けました(以前にも見たことはありますが)。この緊張感、衝撃こそ貴重なのではないでしょうか。
残酷な歴史の事実は残酷なまま伝える必要があります。実体験のない私たちが、原爆の残酷さを肌で感じることは貴重なことです。
だから、「被爆人形」の撤去には反対です。
<気になるニュース>
情けない社民党党首の「公明党頼み」
中国新聞のインタビュー連載「問う集団的自衛権」(17日付、共同配信)で、社民党党首の吉田忠智氏がこう述べています。
「公明党には歯止め役として頑張ってほしい。与野党の勢力差を考えると、現実的に首相の暴走を止められる可能性が高いのは公明党だ」
なんと情けない発言でしょう。公明党への「期待」が危険な幻想にすぎないことは何度も述べてきました。
吉田氏の発言の根本的な問題は、視点が国会の中にしかないことです。国会議員の「勢力差」だけ見ていては、絶望的にならざるを得ません。
「首相の暴走を止められる可能性」を持っているのは、もちろん公明党などではなく、国会の外の市民・国民の世論と運動以外にありません。
社民党は共産党とともに日米安保反対を掲げ、安倍政権の戦争政策に正面から対峙している貴重な政党です。多くの社民党員、支持者は市民運動で奮闘しています。中央幹部もぜひ視点を国会の外に向けてほしいものです。
広島大学で韓国人准教授がドキュメンタリ映画を教材に行った授業に対し、産経新聞が1人の「男子学生」の感想をもとに攻撃を加え、日本維新の会の国会議員が同調した問題については以前(5月29日)書きました。
その映画「終わらない戦争」(キム・ドンウォン監督)の緊急上映会が16日夜、広島市内でありました。緊急の企画にもかかわらず会場いっぱいの60人が駆けつけました。
「4ヶ国5人の被害証言(「従軍慰安婦」=戦時性奴隷)は『洗脳』『反日宣伝』なのか、あなた自身で判断して欲しい」。それが主催者(しずく工房)の意図です。
映画は、被害者の証言と、日本や韓国、国連などの研究者・当事者の証言、当時のフィルム、再現映像で構成されています。実際に見れば、産経新聞の「まったくのデタラメ」(5月24日付「産経抄」)という論評のデタラメぶりは一目瞭然です。
「学問の自由」への攻撃ももちろん重大です。同時に、「まだ戦争は決着していない。たいしたことないと言いながらたいへんな事態を招く。同じやり方がいま集団的自衛権行使で行われようとしている」という、上映後の主催者のコメントにまったく同感です。
そして、もう一つ。
産経新聞(5月21日付)は、受講した「男子学生」が「慰安婦募集の強制性があたかも『真実』として伝えられたことに疑問を呈し」たと書いています。これが本当だとしたら、この映画を見てそういう感想を持つ学生がいることに、強い危機感を持ちます。
5人の被害者の証言は、「慰安婦募集の強制性」という生易しいものではありません。強制連行、暴力的拉致以外のなにものでもありません。
そして彼女たちの証言が真実なのか、ウソなのかは、実際に映画を見れば疑問の余地がありません。
もちろん真実は多角的に追究されるべきです。しかし、それは真実への懐疑とは違います。真実は見極めていかなければなりません。その際、歴史の当事者の証言はなによりも尊重されるべきです。
家族にも、だれにも言えなかった被害の実態が、渾身の勇気を振り絞って証言された重さを、私たちはしっかり受け止めなければなりません。
ウソなのか真実なのかは、証言者の目を見れば分かります。それが分かるくらいの人間性は私たちにも備わっていると信じたい。
来年は敗戦70年。「歴史の証言(オーラルヒストリー)」の重要性がますます増してきます。
もちろん、「戦時性奴隷」だけでなく、「原爆被爆」、そして「沖縄戦」。
その「歴史の証言」にどう向き合うかは、私たち戦後生まれの日本人すべての大きな課題ではないでしょうか。
<気になる世相>
サッカーW杯と若者の熱狂 日本人は一体いつからこんなにサッカーファンになったのでしょうか?
先に「ワールドカップと集団的自衛権」の「危険な関係」を書きましたが、その後の報道を見ていると、別の危険性を感じます。
テレビニュース(特にNHK)で見る限り、その応援の熱狂ぶりは尋常ではありません。
もちろんサッカーの熱狂的なサポーターは今に始まったことではなく、またワールドカップが特別なものであることは分かっているつもりです。
それでも、多くの人々、特に若者が、「サムライブルー」のユニホームで統一し、「ニッポン、ニッポン」と絶叫している姿は、どうしても気になります。
その中には、職場や学校で、周りの熱狂ぶりに乗り遅れまいと応援に加わった、にわかサッカーファンが少なからずいるのではないでしょうか。
そこに、日本独特の「世間」「横並び」意識を感じます。
「ニッポン、ニッポン」という「国家」連呼の中、現代日本社会の不気味さと危うさを感じてしまうのです。
中国新聞(備後本社)主催で、同紙のキャラクター名を付けた「びんご・ちゅーピーまつり」という、主に子どもを対象にしたイベントが、15日、福山市内で行われます。
その企画の1つに、なんと「自衛隊73式小型トラック展示」があるのです。(写真左は5月の「ふれあい防衛展」で自衛隊車に乗って記念撮影する母娘)
集団的自衛権行使容認がまさに大きなヤマ場を迎えようとしている時に、新聞社のイベントで自衛隊展示とは!
主催者に問い合わせたところ、今年11回になる同「まつり」で、自衛隊の展示は今回が初めて。「震災などで『働く車』の一環として」という趣旨だといいますが・・・。「ご意見は担当部署に伝えます」
中国新聞と自衛隊の“距離感”で、最近気になったことがもう1つあります。
6月3日から5回にわたって連載された「海自呉地方隊60年 第3部・自衛官になる」(写真右)です。
海上自衛官になるための訓練施設が全国に4カ所あります。そのうちの1つが海上自衛隊呉教育隊(ほかに横須賀、舞鶴、佐世保)。その5カ月間の訓練をレポートしたものです。
連載は、訓練がいかに厳しいか、それに耐える自衛官候補生たちの「使命感」を伝えるだけで、批判的な視点はまったく見られません。
例えば、「近年は『人を助けたい』と入隊するケースが目立つ」としながら、「司令は若者の熱意を喜びつつも『自衛隊の本分はあくまでも国防。命令があれば突っ込まなくてはいけない』とくぎを刺す」。
若者の入隊の動機と自衛隊の軍隊としての本質との間にギャップが生じているにもかかわらず、それを上官の「くぎを刺す」発言で収めてしまっているのです。
最も気になったのは、「呉独自で取り組む、道徳を中心とした『心の教育』」なるものです。いったいどんな「心の教育」が行われているのか。
さらに、5回の連載を通じて「憲法」という言葉が出てきたのは、「集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更」という1カ所だけ。いったい自衛官の卵たちは、「憲法」についてどのような「教育」を受けているのか。
今自衛隊の連載をするなら、こうした点こそ追及すべきではないでしょうか。
被爆地の中心メディアである中国新聞にしてこれです。
安倍政権の日米軍事同盟強化、改憲路線の下、メディアと自衛隊の距離感、自衛隊報道の視点が改めて問われています。
<やっぱりそうだったニュース>
露呈した「与党協議」の狙い、公明党の本質
公明党が集団的自衛権行使容認に踏み切ると報じられています。はじめは多少「条件」を付けても、いったん歯止めをはずしてしまえば政府・自民党の思うつぼです。
この公明党の「陥落」は別に驚きでも失望でもありません。以前述べたように、これが公明党の本質だからです。
あらためて露呈した公明党の犯罪的役割をまとめると、こうなります。
①まるで政府・自民党の暴走に「反対」しているかのようにみせながら、結局政府・自民党の狙い通りに軟着陸させるため、反対世論のガス抜きをする。
②戦争政策を推進する政府・自民党に一貫して協力・加担しておきながら、「平和の党」を装って支持をつなぎとめる。
③政権の一角にしがみつきたい一心で、自民党の絶対多数を支える。
④与党内の意見調整にすぎない「与党協議」がまるで決定の場であるかのように描き、国権の最高機関である国会審議を形骸化させる。
これらは公明党の本質であるとともに、それを助長するメディアの責任であることもいうまでもありません。
このような公明党に、いささかの「期待」もかけることはできません。
「さよなら原発 歌声パレードinおのみち」が8日午後、尾道駅前でありました。
尾道、三原、福山3市の反・脱原発グループが3カ月に1度行っているもので、今回が7回目。私は3月に続いて2回目の参加でした。
参加者は約70人と、前回より減り、決して多いとは言えませんでした。しかし、素晴らしい出会いがありました。
パレードの前の「始めの集会」。後方に見慣れない女性がいました。なんと福島県郡山からたまたま尾道に観光に訪れていた女性です。
「このような集会を尾道でしてもらって感激しています」。目を潤ませて話してくれました。帰りの高速バスの時間のためパレードに参加できなかったのが残念そうでした。
すると、今度はパレード終了後の「終わりの集会」に、また初参加の女性が。この人も仙台からの観光客だというではありませんか。
「(集会・パレードに)まったく共感します。ぜひ続けてください。頑張ってください」。逆に励まされました。
わずか2時間足らずの集会・パレードで、偶然、被災地・東北の方2人とつながったのです。
観光地でのデモンストレーションの威力でしょうか。
沖縄那覇・県民広場での集会、国際通りでのパレードが思い浮かびます。
集会にはこの日も岡田和樹さん(27)の姿がありました(写真右)。
岡田さんは2009年11月、中国電力が山口県・祝島近くの田ノ浦に建設を強行しようとしている上関原発に反対する島民の支援活動で、逆に中国電力から4800万円の損害賠償訴訟を起こされました(他に島民2人市民1人)。権力・大企業が反対運動を分断し抑えるために裁判を起こす、いわゆるスラップ訴訟です。
スラップ訴訟は、沖縄・高江のオスプレイ・ヘリポート建設強行でも国が使っている反対運動妨害の手段です。
高江だけでなく、大きなヤマ場を迎えようとしている辺野古でも今後使ってくる可能性があります。
「メディアは一切報道しませんでしたが、先日も高江の人たちとの連帯の集会がありました。私たちは絶対に屈しません」
岡田さんは力強く話してくれました。
岡田さんの本業は三原市での農業です。三原市は私が生まれて高校卒業までいたところ。故郷にこんなにたくましい青年がいることを誇りに思います。
参加者は決して多くなくても、地道な集会・パレードの草の根は、東北へ、沖縄へ伸びて、つながっていきます。
その力と可能性を、信じたいと思います。
<気になるニュース>
サッカーW杯と「集団的自衛権行使容認」
今月22日の国会会期末へ向け、安倍政権の「集団的自衛権行使容認」は重大な局面を迎えています。
まさにそのさ中、サッカーワールドカップ(ブラジル大会)が13日開幕します。メディアによってつくられた「サッカーフィーバー」は佳境に入ります。
この2つ時期の一致は果たして偶然でしょうか?
W杯の日程は早くから分かっているのですから、安倍政権がこのドサクサに、集団的自衛権問題のヤマ場を計画的に設定した、とみるのははたして荒唐無稽でしょうか。
その真偽はともかく、問題は、市民の関心がいったいどっちに向くのかです。
集団的自衛権行使容認の「閣議決定」で憲法9条が事実上反故にされる重大事態が、サッカーW杯の“熱狂”報道で打ち消される可能性はけっして小さくありません。
8日の毎日新聞の1面意見広告が目に飛び込んできました(ほかに東京新聞、沖縄タイムス、琉球新報にも)。
「辺野古に基地はいらない。-『いのちの海』を『基地の海』にしないでください。」
「普天間即時閉鎖、辺野古やめろ、海兵隊いらない」沖縄・意見広告運動(第5期、山内徳信じ、武健一代表世話人)が、全国からの賛同金で行ったものです。
「戦争や軍事力にたよらない平和を!いまこそ米海兵隊は撤退を!」「人間の誇りと尊厳をかけた、平和な暮らし、命の美ら海を守る沖縄の民意に、政府は辺野古新基地建設を中止すべきです」と、主張は明快です。
しかし全体を読んで、この意見広告のさらに素晴らしい見識に気付きました。
「安倍政権は日米安保条約の下・・・『戦争のできる国』への準備を進めています」
「東アジアの平和のため『日米安保条約』はいりません。」
「今こそ、その根幹にある『日米安保条約』を見直すべき時ではないでしょうか」
「集団的自衛権-9条壊憲を絶対に許さず、日米安保条約をやめて、日米平和友好条約の締結を求めます」
「日米安保条約は、対米追従と構造的な沖縄差別の上に成立しています。これは、憲法前文と9条の平和主義に反します」
「安保条約は1年前に通告すれば終了できます」
「沖縄の基地負担と対米追従を生み出す日米安保条約を日米平和友好条約に変えることを求めます」
実に7回も、「日米安保条約」に触れ、その本質を指摘し、廃止して友好条約に変えることを主張しているのです。
指摘通り、辺野古問題も、集団的自衛権行使も、9条改悪も、その根源はすべて、「対米追従と構造的な沖縄差別の上に成立」している日米安保条約です。
その廃止なくして、辺野古・沖縄問題の根本的解決はあり得ません。
その点を明快に指摘した意見広告の見識は、今日、特筆すべきです。
なぜなら、「辺野古」「オスプレイ」阻止の運動の中で、安保条約問題が棚上げされる傾向があるからです。
その典型が「オール沖縄」です。
今沖縄では「オール沖縄」のスローガンの下、11月の知事選挙で、「保革を超えて」元自民党幹事長の翁長雄志那覇市長を擁立しようという動きが強まっています。
しかし、その「オール沖縄」の一致点には、「オスプレイ反対」「辺野古(普天間基地の県内移設)反対」はあっても、「日米安保反対」はありません。だから翁長氏を擁立できるのです。
「日米安保」を棚上げし、それを容認する知事の下で、いま沖縄が直面している諸課題が、ほんとうに前進するでしょうか。
「辺野古反対」は、集団的自衛権行使反対、9条改悪反対、日米安保条約廃止と一体・不可分でなくてはなりません。
<気になる報道>
「桂宮」Who?
桂宮宜仁氏が8日死去しました。それをニュースとして報道するのは当然です。
問題は「市民の声」です。NHKは街頭で市民の声を拾っています。「驚きました」「残念です」
しかし、いったい何人の人が、「桂宮宜仁」という人を知っていたのでしょうか。おそらく大多数の人は存在自体を知らなかったのではないでしょうか。
先日の高円宮典子さんの婚約のニュースも同じです。にこやかに「祝意」を述べていた「街頭市民」のうち、何人がその人物の存在を知っていたでしょうか。
コメントした市民を批判しているのではありません。問題は報道の側です。
おそらく多数の市民を取材した中で、報道の意図に沿うものだけを拾いだし、まるでそれが市民の総意であるかのように編集するメディアが問題なのです(放送メディアだけでなく、新聞も同じ)
もちろんこうした手法は今回だけではありません。しかし、この2つの場合、特別の意味を持ちます。
それは皇族の冠婚葬祭のたびに、さも皇族・皇室が国民に親しまれているかのように描く報道が、天皇制を定着させ日常化させる上で大きな役割を果たしているからです。
こうして作られた「愛される皇室・皇族」によって維持される天皇制。それがどういう役割を果たし、日本をどういう国にしているのか。主権者である私たちはしっかり考えなければならないのではないでしょうか。
「米の毒ガス処理文書確認 化学物質、近海投棄か」。こんな見出しの記事が5日の中国新聞に載りました。
福山から瀬戸内海沿いのJR呉線で呉に向かう途中にある竹原市忠海(ただのうみ)。その沖合3㌔の大久野島(おおくのじま)には戦時中、日本陸軍の毒ガス製造工場がありました(写真左は資料館パンフから)。
いまではうさぎがいる国民休暇村として観光地になっていますが、うさぎは毒ガス感知のために飼育されていた名残です。
製造された毒ガスは、敗戦翌年の1946年から英連邦占領軍によって太平洋などに廃棄されたと言われてきました。ところがその1年前、米軍による処分も行われていたことが、広島大学の石田雅春助教の調査で判明したのです。
45年暮れにはイペリット(びらん性毒剤)爆弾4810発が豊後水道に投棄されたと米軍文書に記されているといいます。
国際法違反の毒ガス。その製造、遺棄の事実はまだ不明な点が多く、またその実態はあまり知られていません。
戦争の非人道的性を明らかにする上でも、毒ガス製造の実態の記録、いっそうの解明が求められています。
それに関連して、ずっと気になっていたことがあります。「大久野島歴史展示ピンチ 忠海中20年前製作 校舎改築、場所足らず」という記事(4月29日付中国新聞)です。
地元忠海中学の生徒たちは、「ふるさと学習」などで学んだ毒ガス工場の実態、地域の歴史を伝えたいと、1992年、校内の一角に「資料室大久野島」を設け、生徒会が運営してきました。
そこには自分たちで作った島の全景模型や防護服姿の人形、収集した毒ガス製造容器などが展示されていました。
ところがこれが校舎改築に伴って、廃止されるというのです。
なくなる前に一度見ておこうと、忠海中や教育委員会に問い合わせましたが、すでに資料室は撤去。「展示物は段ボールの中」で、見ることはできませんでした。
改築後はぜひ再開を、と期待しましたが、「スペースがなく、その予定はない」とのこと。
忠海中の改築は、同地区内の2つの小学校と小中一貫校になるためです。それで「スペースがなくなった」わけです。
小中一貫校については、学習・教育面から問題点が指摘されていますが、こうしたところにもその影響は及んでいました。
戦争の記憶も記録も薄れようとしている中、生徒たちが自主的に展示・保存を行い、22年間引き継いできた。素晴らしい「資料室大久野島」をなんとか残したいものです。
<気になるニュース>
石牟礼道子さんが「後藤新平賞」?
中国新聞文化面(5日付)の短信に、「後藤新平賞に石牟礼さん」の記事。
「後藤新平の会」(粕谷一希代表幹事-先日逝去)が「第8回後藤新平賞」に作家の石牟礼道子さんを決定。「『苦海浄土』などの作品を通じて近代そのものを深く、広くとらえた」ことが授賞理由だといいます。
石牟礼さんは水俣だけでなく、沖縄にも熱い視線を注ぎ続けている素晴らしい方です。それだけに、このニュースには違和感があります。
なぜなら、後藤新平は、台湾総督府民政長官のほか(ちなみに第1回後藤新平賞は台湾の李登輝氏)、満州鉄道初代総裁として、帝国日本の植民地政策を先導した人物です。戦後は日本に原発を導入した正力松太郎氏に資金援助して読売新聞の経営を支えました。
その「後藤新平賞」に、石牟礼道子さんはいかにも不似合いです。
石牟礼さんが受賞を辞退したというニュースはまだ伝わってきていません。