アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「永遠の贖罪」像を「国際儀礼上許されない」とする不当

2020年07月30日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

    
 韓国北東部の私立植物園(韓国自生植物園)に設置された「永遠の贖罪」と題する像が議論をよんでいます。「旧日本軍の『従軍慰安婦』問題を象徴する少女像と、その前でひざまずいて謝罪する安倍晋三首相をモチーフにした像」(29日付沖縄タイムス=共同電。写真左・中)です。

 この像に対し、菅義偉官房長官は28日の記者会見で、「仮に報道が事実なら、日韓関係に決定的な影響を与える」「像の設置が事実であれば、国際儀礼上許されない」「韓国側に対し慰安婦問題の最終的かつ不可逆的な解決を確認した日韓合意の実施を引き続き強く求めていく」と述べました(写真右)。

 野党も、立憲民主党が「極めて遺憾だ。韓国政府に、速やかに像を撤去するよう求める。強く抗議したい」(福山哲郎幹事長、29日付琉球新報=共同)とし、日本共産党は「コメントしない」(志位和夫委員長、同)として、安倍政権に同調、あるいは傍観しています。

 像に対する意見・評価は様ざまでしょう。私も個人的には好みではありません。しかし、そのことと、日本(政府、与野党、市民)が「国際儀礼上許されない」と「強く抗議」し、「速やかな撤去」を要求することはまったく別問題です。それは筋違い・不当であり、またきわめて危険でもあります。

 第1に、この問題の本質は、天皇制帝国日本(政府・軍)がコリア半島はじめ中国・東南アジア・日本の女性を「従軍慰安婦」(戦時性奴隷)にしたこと、そして被害者(サバイバー)に直接謝罪もせず、法的誤りを認めて賠償もしていない、しようとしていないところにあります。その責任棚上げの先頭に立っているのが安倍晋三氏です。この歴然とした事実を抜きにこの問題は論じられません。

 像を私費で作った植物園の金昌烈園長は、「日本が心から謝罪と歴史の過ちを反省し、新たな日本に生まれ変われるよう祈る気持ちで作った」(27日付朝鮮日報日本語デジタル版)と述べています。この金園長の言葉を日本人のだれが批判できるでしょうか。

 第2に、にもかかわらず菅官房長官は28日の記者会見で、「慰安婦問題」の「日韓合意」(2015年12月28日)を改めて持ち出し、その「実施」を韓国政府に要求しました。しかしこの「合意」こそ、当事者である被害者の頭越しに、安倍政権が朴槿恵政権(当時)と口頭で交わしたもので、日本の責任を棚上げし、「慰安婦問題」を「最終的かつ不可逆的に」なきものにしようとした、安倍政権の不当性を象徴的に示すものです。
 像の批判にかこつけて最悪の「日韓合意」を改めて持ち出すのは、盗人猛々しいと言わねばなりません。

 第3に、像は芸術作品です。その評価は鑑賞者によって行われるものです。国家権力(日本政府)が圧力を加えて撤去させようとするのは、明らかに表現の自由を侵害するものです。その重大性は昨年の「アイチ・トリエンナーレ」の例を引くまでもないでしょう。

 第4に、菅氏らの言う「国際儀礼上許されない」という言い分です。それがどういう意味か定かでありませんが(意味を明確にしていないこと自体問題)、「国民から負託を受けたリーダーが侮辱的に表現される」(外務省幹部、29日付琉球新報=共同)ことだとすれば、それは「許されない」ことではありません。

 国家権力を批判する際、政治「リーダー」を揶揄する手法は世界中で行われていることです。ひざまずいて頭を下げている像を「侮辱的」というなら、安倍首相やトランプ大統領をヒトラーになぞらえて批判するブラカードも「侮辱的」とされてしまうでしょう。

 第5に、重大なのは、首相を「国民から負託を受けたリーダー」として比喩的批判を「侮辱的」だとするなら、「日本国の象徴」(憲法第1条)に対するそれはいっそう「侮辱的」とされるでしょう。すなわち、天皇(裕仁など歴代天皇を含め)への批判も「侮辱的」として封じられる恐れがあるということです。

 その恐れはすでに現実化しつつあります。例えば、韓国の文喜相国会議長(当時)が明仁天皇(当時)を、「戦争犯罪の主犯の息子」とし「元慰安婦」へ謝罪すべきだと述べたのに対し、安倍首相や河野太郎外相(当時)は国会で、「極めて無礼な発言だ」として「謝罪と撤回」を求めたのです(2019年2月12日の衆院予算委員会)。

 「国際儀礼」なるものを口実に国家権力への批判を封じることは、表現の自由、言論の自由の侵害だけでなく、天皇(制)に対する論評・批判に新たなタブーをつくる重大な危険性があることを銘記する必要があります。

 


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朝鮮戦争の休戦に反対した天皇・裕仁

2020年07月28日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

     
 7月27日は67年前のこの日、コリア半島を2分して戦われた朝鮮戦争(1950年6月25日勃発)の休戦(停戦)協定が調印された日でした(写真左)。朝鮮戦争はいまだ終結していませんが、熾烈な戦いが休戦になったことの重要な意義は言うまでもありません。

 ところが、その休戦に反対した国があります。朝鮮戦争の根本原因(植民地支配)をつくった当の国、この日本です。

 『朝鮮戦争の起源』(1981年)で著名なブルース・カミング氏(米シカゴ大教授)は、韓国・ハンギョレ新聞のインタビューで、日本が休戦、さらに平和的統一に反対してきたことを、皮肉を込めてこう述べています。

 「不幸にも、どの外国も朝鮮半島の統一に関心がない。『日本人は朝鮮のことが好きすぎて、朝鮮が二つあることを好む』という古いジョークは、おそらく朝鮮半島の統一に対して日本が何を恐れているかを示している」(2020年6月26日付ハンギョレ新聞日本語電子版)

 日本で朝鮮戦争の休戦に反対した中心はだれだったでしょうか。

 1つのグループは、「朝鮮戦争特需」で潤っていた“死の商人”・日本の財界です。

 「朝鮮戦争の継続を願っていたのが、日本の経済界なのです。日本は間接的な支援(「国連軍」という名のアメリカ軍支援―引用者)で潤ったのですが、米国の武器産業にとっては、戦争継続ははるかに望ましいことです。こうした人々が戦争開始に関与したとまでは言いませんが、戦争継続のほうに関与していくことは十分あります」(孫崎享・元外務省国際情報局長著『朝鮮戦争の正体』祥伝社2020年7月)

 そしてもう1人、朝鮮戦争の休戦に反対した決定的な人物がいました。天皇・裕仁です。

 「(一九)五三年四月二〇日、昭和天皇は離任する駐日米大使ロバート・マーフィーと会見した。この会見で天皇は何よりも、朝鮮半島情勢に危機感を表明した。実は会見の前月の三月五日にソ連の指導者スターリンが死去したことで潮が変わり始め、戦争捕虜の交換をめぐる交渉を契機に休戦への機運が動き始めていた

 ところが天皇は、こうした動向を歓迎するどころか全く逆に、『朝鮮戦争の休戦や国際的な緊張緩和が、日本における米軍のプレゼンスにかかわる日本人の世論にどのような影響をもたらすのか憂慮している』と述べるのである。

 なぜなら、『日本の一部からは、日本の領土から米軍の撤退を求める圧力が高まるであろうが、こうしたことは不幸なことであり、日本の安全保障にとって米軍が引き続き駐留することは絶対に必要なものと確信している』からなのである。

 つまり、天皇のこの論理に立てば、天皇制を防衛する最大の橋頭保としての米軍の本土駐留を確保するためには、緊張の緩和ではなく逆に、緊張状態の持続が何よりも望ましい、との結論に至るのである」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年。改行・太字は引用者)

 天皇制(国体)を守る(自己保身を含め)ためには、米軍の駐留が必要。日本から米軍の撤退を求める世論が高まるのは不幸なこと。だからコリア半島は緊張緩和ではなく緊張状態がなにより望ましい―これが天皇裕仁の“論理”です。

 裕仁は天皇制を守るために太平洋戦争の終戦(降伏)を遅らせました。結果、沖縄戦、原爆投下を招きました。これと同じ理屈で、裕仁はコリア半島の休戦、緊張緩和、平和的統一に反対したのです。

 日本人はこの事実を知る必要があります。そして、裕仁のこの“論理”が、安倍晋三に至る歴代自民党政権にそっくり引き継がれていることを肝に銘じなければなりません。

 天皇裕仁や安倍首相とは逆に、朝鮮戦争を休戦から終戦へ、そしてコリア半島の平和的民主的統一へ向けて、日本人としてやるべきことをやる。それが私たちの責任です。


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コロナ禍・いまこそ日米軍事同盟の思考停止から脱却を

2020年07月27日 | コロナ禍と政治・社会

    
 沖縄米軍関係者の新型コロナ感染者は236人にのぼり(26日現在)、その他の県内感染者(192人)を大きく上回っています。米軍基地が感染症の面でもいかに弊害が大きいか浮き彫りになっています(写真は感染者が出たキャンプキンザ、普天間基地)。

 米軍基地のコロナ感染はもちろん「本土」でも発生していますが、在日米軍基地施設の7割が集中している沖縄はコロナ感染でも被害を集中的に受けており、沖縄差別の現実が改めて問われています。

 米軍基地は感染者が多発するだけでなく、感染経路をはじめ情報が日本側に十分知らされないため、日米地位協定の改定を求めるが高まっています。
 地位協定の不平等性・不当性は言うまでもありません。しかし、コロナ禍で米軍基地の問題を考えるとき、地位協定改定の要求にとどまることは不十分であり、危険でさえあります。
 いま問わなければならないのは、軍事基地の存在そのもの、その根源である軍事同盟自体の是非です。

 第1に、基地は密閉・密集・密接(「3密」)そのものであり、本質的に感染症蔓延の温床になる。

 第2に、感染者数、経路など詳細は「軍事機密」の名の下に秘匿される。感染症対策に不可欠な情報公開と無縁なのが軍事基地。

 第3に、基地は自然を破壊する。森林など自然環境の破壊はコロナはじめ感染症蔓延の重大な誘因。

 第4に、感染症対策には、検査・治療・医療体制の強化、新薬開発、休業補償など膨大な予算が必要。軍事費は最大の無駄遣い。軍事費をコロナ対策に回すべき。

 第5に、途上国、世界の貧困地域の感染、子どもたちへの影響はきわめて深刻。国際社会の援助が不可欠。世界の軍事費をこうした国々・地域への支援に回すべき。

 第6に、感染症対策は1国では不可能。国境を超えた(物理的にも精神的にも)国際協調が不可欠。軍事同盟体制はそれに真っ向から逆行する。

 必要なのは、日本から軍事基地を一掃することです。そのために日米軍事同盟=日米安保条約を破棄することです。

 それは突飛な主張のように聞こえるかもしれませんが、決してそうではありません。

 韓国は日本と同様、アメリカとの軍事同盟で巨額の基地費用を負担させられています。その韓国のハンギョレ新聞は、「韓米同盟を見直す時期だ」と題する社説(6月29日)を掲げました。コロナ禍でトランプ政権が巨額の駐留費負担増を要求していることを踏まえ、こう主張しています。

 「韓国は独立性を主張し、自分の運命の主になるべき時かもしれない。これは何よりも米国との軍事同盟の見直しを必要とする。…米国は南北関係の改善において障害になってきた。さらに、韓国があまり望まない日本とのパートナーシップ(軍事同盟化―引用者)を強要してきた。…韓国はこのような過程を受動的にただ見ているだけではなく、先に進まなければならない。米国からの独立を主張しはじめるべきだ。韓米が“特別な”関係ではなく、“正常な”関係になる時に備えなければならない

 日本の識者からも、「コロナ後」の社会について次のような主張が出ています。

 「来るべき世界はむしろ、何の分野であれ無用の敵対的競争を抑制し、自然とも和解し、人間が境界を超えて共生する世界であるだろう。…それは他者と共に生き残ることを本気で構想する<利他的生き残り>の哲学に立ったものでなければならない」(最上敏樹・国際基督教大名誉教授、村上陽一郎編『コロナ後の世界を生きる』岩波新書2020年7月所収)

 「利他的生き残り」。それにはなによりも軍事同盟の廃棄が不可欠ではないでしょうか。

 「日米安保体制」は「天皇制」と並んで、日本人の思考停止の双璧です(「世論調査」ではともに約8割が肯定)。まるで水や空気のように必要なものとされ、メディアがそれを助長しています。しかし、けっしてそうではありません。逆に、この両者(相互に関連)こそ日本の政治・社会の悪弊の元凶です。

 いまこそ思考停止から脱却すべきです。「来るべき世界」を自分の頭で考え、「天皇制」とともに「日米安保体制=軍事同盟」の廃棄へ向かうべきです。「コロナ禍」はその絶好のチャンスではないでしょうか。

 


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日曜日記107・「コロナ」が身近に迫り、問われた選択

2020年07月26日 | 日記・エッセイ・コラム

 居住する市内の某大学で、複数の学生が新型コロナに感染したと報道された。その大学に通う学生が2人、同じコンビニでバイトをしている。同じ大学の学生の感染が明らかになった後も彼らはバイトを続けている。

 店長に、大丈夫なのかと聞くと、「本人たちが大丈夫だと言っている」とあまり気にしていない。大学に電話して確かめた。「すべての学生にアルバイトは2週間自粛するように求めています。大学としてはそれ以上言えません」とのことだった。
 そのことを店長に伝えた。「自粛は自粛。強制的に休ませることはできない」と、やはりあまり意に介していないようだ。

 2人のうちの1人に直接言った。「大学は自粛しろと言っているけど、休まないの?」「考え方の問題ですね」。意外な返事だったので、「同じ職場にいる者としては休んでほしいんだけど。私のような高齢者は感染すると重症化するから」とまで言った。彼は困った顔をしながら、「生活もかかっていますから」と小声で言った。

 2人のうち1人は母子家庭で、生活が楽でないことは知っている。彼らが、のほほんとバイトを続けているとは思わない(思いたくない)。が、彼らが自分の感染の可能性、そして他の従業員、客へうつす可能性(恐れ)をどこまで考えたのかは分からないい。それほど葛藤したとも思えない。しかし、「休んでくれ(休め)」「休めない(休まない)」の言い合いになれば、職場の人間関係は壊れるだろう。

 さて、どうするか。

 考えた末、私がバイトのシフト(彼らと重なる時間)から外れることにした。急にシフトから外してくれと言えば、店(店長)は困るだろう。2人の学生もいい気はしないだろう。それが狙いでもある。事態の重大さをもっと考えてほしい、という暗黙の要求でもある。60歳以上の従業員は私だけなので、万万一、感染してもほかの従業員は重症化はしないだろうという思いもあった。とりあえず、自分の身は自分で守ろう、と。

 これでよかったのだろうか。

 「コロナ禍」ではだれもが選択を迫られる。マスクか熱中症予防か、子どもの夏休みの思い出かステイホームか、健康・生命か生活・経済か…。低所得層ほどシビアな選択を迫られる。
 分からないことが多い。とりわけ感染しても無症状のまま人にうつす恐れがある「コロナ」の特徴が判断を難しくしている。

 現時点では完璧な選択はあり得ないだろう。しかし、より良い選択をする必要はある。そのためには、科学的判断材料を少しでも多く得ることが不可欠だ。
 感染者を出した大学で、国・県・市の責任ですべての学生にPCR検査が行われていれば、無用な葛藤・軋轢は避けられただろう。

 


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「コロナ禍」ここがおかしい―エピセンター無視・天皇接見・五輪とメディア

2020年07月25日 | コロナ禍と政治・社会

   
 アクセルとブレーキを同時に踏むような「GO TOキャンペーン」。安倍政権の「コロナ対応」はおかしなことばかりですが、ここではあまり指摘されていない問題を3点挙げます。

★エピセンター化に対する児玉教授の警告をなぜ無視するのか

 児玉龍彦東大先端科学技術研究センター名誉教授が7月16日の参院予算委員会で行った重要な警告(18日のブログ参照、写真左)。その要点は、安倍政権が「専門家会議」とともに行ってきた「クラスター(感染者集団)対策」は誤り。抗体ができない人、無症状の人も含め、感染状況を地域でとらえ、エピセンター(感染集積地)化を食い止める必要がある。そのためにPCR検査を抜本的に拡充する。総力を挙げてエピセンター化を食い止めなけらば日本はニューヨークの二の舞いになる―。

 いまや感染者は、安倍首相や小池都知事が喧伝した「夜の街」に限らず、また年齢も若者層に限らず拡大しています。感染は点から面へ、空気感染へと広がっていることは素人でも分かります。これは児玉教授の警告通りではないでしょうか。

 にもかかわらず、警告から1週間以上たったいま、児玉教授の警鐘は無視されたままです。安倍政権と御用学者たちによって貴重な指摘・警告が闇に葬られる。それを座視することはできません。

★天皇への「接見」、NPO代表は子どもたちに伝えられるのか

 貧困者救済のNPO代表が天皇・皇后のヒアリング(「ご進講」)に応じた問題(20日のブログ参照)。天皇・皇后は21日にも、貧困層の子どもたちを支援しているNPOの代表を呼んで状況を聞きました(写真中。宮内庁は今度は「ご接見」と称しています)。

 貧困層の子ども支援と天皇への「接見」は矛盾しないのか、という根本問題は前回(20日)書いた通りですが、それに加え、今回はさらに懸念されることがあります。それは、「接見」したNPO代表のW氏が、記者会見でこう述べたことです。
 「(天皇・皇后は)直接子どもたちを励まされたかったようでした。帰って子どもたちに伝えます」

 W氏はいったい、子どもたちに何をどう伝えるつもりでしょうか?「天皇・皇后」をなんと説明するのでしょうか?

 子どもたちには「人間はすべて平等」と教えなければなりません。おそらく日常的にはそうしているでしょう。そうである以上、「天皇・皇后」については説明ができないのではないでしょうか。なぜなら、身分制度と天皇制は切っても切れない関係で、身分差別の頂点に君臨しているのが天皇に他ならないからです。

 子どもたちに説明がつかないことはするべきではないのではないでしょうか。天皇・皇后へのヒアリングなど、きっぱり断るべきです。

「コロナ」と「五輪」―メディアの二枚舌

 感染者の増大で、日本のメディアもさすがに安倍政権や小池都政の不十分性を指摘するようになっています。
 ところが、今「コロナ」へ警鐘を鳴らしたかと思えば、話題が「東京五輪」に移ったとたん、「私も1年後を楽しみにしています」(23日の報道ステーション解説者、写真右)など、メディアは「五輪待望」論を前面に出します。

 アスリートたちの気持ちは推察できますが、1年後に世界からアスリート・観客を集めて五輪を行うことなど到底無理です。安倍政権の政治的思惑に貫かれている「東京五輪」は早く断念させるべきです。

 にもかかわらず、日本のメディアは「五輪期待」論を振りまき続けています。そこには、NHKにおける安倍政権との親密性、民放・新聞におけるスポンサー(大手の多くが五輪協賛企業)への配慮・忖度と視聴率の思惑が垣間見えます。

 メディアは「コロナ」と「五輪」の二枚舌をやめるべきです。「五輪待望」論が窮地の安倍政権の支援になっていることを肝に銘じるべきです。


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「海の日」と皇民化教育

2020年07月23日 | 天皇制と日本社会

     
 きょうは「海の日」(「東京五輪」で変則的になりましたが通常は7月の第3月曜日)。「海の日」とは何か、なぜ「海の日」ができたのか。それが明治以降の天皇制と深い関係にあることはこれまで何度か書いてきました(2019年7月15日、2017年7月18日のブログ参照)。ポイントを確認しておきましょう。

  • 「海の日」は当初7月20日。この日を「海の日」とした由来は、天皇睦仁(明治天皇)が1876年のこの日、「東北巡行」から明治丸で横浜に帰着した日だから。
  • その3年後の1879年3月27日、処分官・松田道之は400人の軍隊を引き連れて琉球・首里城を襲い、琉球王尚泰を暴力的に東京に連行し、琉球を植民地化した(いわゆる「琉球処分」)。その時使った船が明治丸。
  • 天皇制帝国日本が7月20日を「海の記念日」に制定したのは1941年。東南アジア侵略、真珠湾攻撃を強行し、太平洋戦争に突入した年だった。
  • 1996年、橋本龍太郎政権は「海の記念日」を「海の日」として「国民の祝日」に制定。この年は日本政府がアメリカ政府と沖縄・辺野古に新基地を建設することで合意した年だった。

 以上に関連して、「海の日」が皇民化教育とも深い関係にあったことも想起する必要があります。

 〽 うみは ひろいな おおきいな つきが のぼるし ひが しずむ

 小学校低学年の音楽の教科書に出てくる唱歌「うみ」です。いかにも無邪気でのどかな「海」の歌のようですが(私もそう思っていました)、実はこの歌は、「侵略の歌です。少なくとも帝国海軍への誘導の歌です」と、北村小夜さん(元教員)が指摘しています(『戦争は教室から始まる』現代書館2008年)

 「この歌が初めて教科書に登場するのは一九四一年、小学校が国民学校に改称されたときです。学校の在り方を大きく転換し皇民教育を徹底させようというもので、『唱歌』は芸能科音楽になりました」(同書)

 北村さんは「うみ」が「侵略の歌」であることを示すものとして、同じ1941年に改訂された初等科『修身二』(4年生用)を引用しています。

 「八 日本は海の國
  日本は海の國です。海の恵みを受け、海にまもられてきた國です。(中略)
  今の日本は海國日本の名のとほり、世界いたるところの海洋に、日の丸の旗をかかげ て、國の光をかがやかしながら活動してゐます。
  へさきに菊の御紋章を仰ぐ帝國軍艦は、み國のまもりもかたく、太平洋から印度洋にかけて、その威力を張っています。
  海國日本のほまれをあげるぶたいは、かぎりなく大きいのです。その廣いぶたいに日の丸の旗をささげて進むのが、私たちの尊いつとめです」(同書より)

 唱歌と皇民化教育の関係については、小村公次著『徹底検証 日本の軍歌』(学習の友社2011年)にもこうあります。
 「唱歌教育の転換は、一九三一年の満州事変を前後して始まる戦争の時代とぴったり符合していた。…国民学校になってから芸能科音楽が『音楽は軍需品』と言う理由で『重視』された」

 唱歌「うみ」の教科書掲載と「修身」の改訂は一体でした。戦時下の教師たちは子どもたちに「うみ」を歌わせ、「修身」を叩き込み、「菊の御紋章を仰ぐ帝國軍艦」による海外侵略を煽ったのです(写真中・右は戦艦大和<レプリカ>の菊の紋章=呉・大和ミュージアム)。

 「うみ」の3番の歌詞はこうです。〽 うみに おふねを うかばせて いって みたいな よその くに

 1941年に初めて教科書に載った「侵略の歌」=「うみ」が今も教科書に掲載され続け、同じ年に帝国日本が制定した「海の記念日」が「海の日」となって今日に続いている。これが日本の歴史、天皇裕仁が戦争・植民地支配責任から逃げ、敗戦後も天皇制が連綿と続いている日本の現実であることを、あらためて直視する必要があります。

 


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<緊急号外>五輪観客「日本人だけにするとか」森喜朗会長が暴言

2020年07月22日 | 五輪と政治・社会・メディア

    
 東京オリ・パラ組織委員会の森喜朗会長(元首相)は、22日午前6時すぎに放映されたNHKニュースのインタビューの中で、東京五輪を開催する場合、観客の入場制限はありうるかとの質問にこう答えました。

 「簡単ではない。親子で買ったチケットを半分にするわけにもいかない。(入場制限をする場合は)だれもが納得する理屈が必要だ。言いにくいことだが、例えば(観客を)日本人だけにするとか

 観客を「日本人」かそうでないかで分類し、「日本人」だけに入場を認めることも検討対象だとしたもの。人種・民族差別、「日本人」優越論に基づくとんでもない暴言です。
 しかも、それを「だれもが納得する理屈」だとして口にしているところに、森氏の異常性が表れています。

 インタビューは同日午前7時過ぎのニュースでも再度流れましたが、暴言部分はカットされていました。

 森氏の発言は一般人のそれとしてもけっして許されるものではありません。まして五輪組織委員会会長としてのインタビューに答えた公式発言です。森氏は直ちに組織委会長を辞任すべきです。

 NHKのインタビューは、「東京オリ・パラまで1年」として行われたもの。同時に報じられたNHKの世論調査では、コロナ禍で東京オリ・パラを「中止すべきだ」とする人が31%、「さらに延期すべきだ」が35%にのぼっています(「開催すべきだ」は26%)。

 森氏はあくまでも1年後に開催する姿勢を示しましたが、観客を「日本人」に限定してまで強行しようとするのは異常としか言いようがありません。

 東京五輪はきっぱり中止すべきです。その決定を早急に行うべきです。


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被災地に「旭日旗」か!

2020年07月21日 | 自衛隊・軍隊

    
 20日、豪雨災害で未だに行方が分からない方々の大規模な捜索活動が、熊本県球磨川で行われました。テレビで流れたその映像に、目を疑いました。被災者を捜索するゴムボートに立てられているのは、なんと旭日旗ではありませんか!(写真左・中)

 旭日旗は、明治以降の日本帝国の侵略・植民地支配を象徴する文字通りの旗印です。

 「海外侵略の走りであった台湾出兵(1874年)や江華島事件(1875年)でも、『日の丸』(旭日旗―引用者)は日本の力の『誇示』に使われています。…日清戦争(写真右)から日露戦争台湾割譲南樺太割譲、そして韓国併合。日本はアジアへの膨張を進めていきますが、その先頭にはいつも『日の丸』がありました。…日中戦争に突入すると、またたく間に北京を占領。12月には南京を占領して『南京虐殺事件』を引き起こします。この南京城に立てた『日の丸』は虐殺のシンボルともなっています」(佐藤文明著『「日の丸」「君が代」「元号」考』緑風出版)

 けっして遠い過去の話ではありません。この侵略・虐殺・植民地支配のシンボルである旭日旗を、現在の海上自衛隊、陸上自衛隊は「隊旗」としているのです。

 そしてさらに、安倍政権はこの旭日旗を国際的イベントで政治的プロパガンダの道具として使おうとしています。「東京五輪」の客席でそれが打ち振られることをあえて公認したのです。

 東京五輪を前に、韓国国会文化観光委員会は五輪組織委員会(森喜朗会長)に対し、「侵略と戦争の象徴である旭日旗が競技場に持ち込まれ、応援の道具として使われることがないよう求める」とする決議を採択しました(2019年8月29日)。

 これに対し組織委は、競技会場への旭日旗の持ち込みは禁止しない(許可する)とする決定をあえて行い(9月3日)、安倍政権はそれを追認・擁護したのです(9月12日)。

 旭日旗に対する批判はもちろん韓国政府・国会だけではありません。2018年10月、韓国主催の国際観艦式に自衛隊が旭日旗を掲げて参加しようとしたとき、韓国のハンギョレ新聞は次のような社説を掲載しました。

 「1870年に日本陸軍が最初に使った旭日旗は、日本が太平洋戦争を起こしてアジア各国を侵略する際に全面に掲げた旗だ。それ自体が日本軍国主義の好戦性を象徴している。韓国や中国など周辺国が旭日旗掲揚に反発するのもこのような理由からだ。それでも海上自衛隊は16本の光の筋が描かれた旭日旗を、陸上自衛隊は8本の筋の旭日旗を使ってきた。『侵略国家』『戦犯国家』という事実を否定する処置だ。(中略)国際社会は旭日旗に固執する自衛隊と平和憲法改正を公言した安倍晋三総理を見つめて、日本の軍国主義復活を憂慮している。日本が真に平和を望むならば、自ら旭日旗を降ろすべきである」(2018年10月2日付ハンギョレ新聞社説)

 その旭日旗が、豪雨災害の被災地に!被災者の捜索になぜ「隊旗」を立てる必要があるのか!

 安倍政権が災害を利用して自衛隊の活動拡大・浸透を図ろうとし、「市民」も次第にそれに取り込まれつつあることの危険性について先日書きましたが(7月9日のブログ参照)、旭日旗の掲揚・誇示はたんに自衛隊の浸透にとどまらず、日本の侵略・植民地支配の歴史を隠ぺいし、国際社会の批判に対する居直りを図るものです。

 それが被災者の深い悲しみと苦しみに乗じて行われていることに、身の震える怒りを禁じえません。


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天皇「ご進講」と貧困者救済活動のあいだ

2020年07月20日 | 天皇制と政治・社会

    

 今月12日のNHKEテレ「こころの時代」は、「今、互いに抱き合うこと―コロナ禍に読む聖書―」と題し、福岡・東八幡キリスト教会の牧師で、NPO法人「抱樸(ほうぼく)」の理事長、奥田知志氏のインタビュー・活動紹介でした(写真右、18日再放送)。

 「抱樸」とは「抱き合い、一人にしない」という意味とか。NPO「抱樸」は、「ホームレス」などの貧困層に食事や住居を提供し、自立のための支援を行っています。

 奥田氏は以前、長崎・大村の入管収容所に収容されている外国人たちを支援する活動でもテレビで紹介されたことがあります。その献身的活動には感銘を受けました。今回の番組でも、「大変と不幸は違う。大変だけど幸福な人生は山ほどある」という貧困者・社会的弱者支援の理念・思想など、たいへん示唆に富むものでした。

 ところがそれから4日後の16日――。

 徳仁天皇と雅子皇后は、コロナ禍に関連して「貧困者救済のNPO関係者」からヒアリングを行ったというニュースが流れました(写真左)。特に貧困者の住宅問題に関心を示したとか。もしやと思い、宮内庁のHPを確認しました。「ご進講(特定非営利活動法人抱樸理事長)」とありました。やはりヒアリング(宮内庁は天皇への「ご進講」といいます)は奥田知志氏からだったのです(写真中の奥)。

 コロナ禍における天皇・皇后のヒアリングはこれが6回目。明仁天皇(当時)のビデオメッセージに比べれば、明確な憲法違反とは言い難い面がありますが、天皇のパフォーマンスであり、天皇制の美化・固定化につながる問題があることに変わりはありません。

 ここで考えたいのは、天皇・皇后(あるいは宮内庁)の要請に応じて「ご進講」に及んだ奥田氏の行為、その是非です。

 奥田氏はなぜ天皇・皇后の要求に応じたのでしょうか。3つの可能性が推測されます。①天皇・皇后にはかねてから好感をもっており喜んで応じた。②相手が天皇だから断るに断れなかった。③天皇・皇后に貧困者の実態を話すことによって事態が少しでも改善されるかもしれないと考えた。

 ①は論外として、②は明らかな間違いです。天皇や宮内庁がヒアリングを要望したからといって応じなければならない義務も規則もありません。断るのはもちろん自由です。
 奥田氏のこれまでの言動からおそらく③ではないでしょうか。少しでも事態を改善したいという気持ちは貴重です。しかし、これも間違いです。なぜなら、憲法上、天皇に政治的権能はなく、政府の政策を左右することはできないからです。仮に天皇のなんらかの発言で政治・政策が変わるとすれば、それこそ憲法上の重大問題です。

 結局、奥田氏が天皇に「ご進講」を行ったことは、いかなる意味においても間違いです。

 なぜそれを問題にするかといえば、奥田氏のこれまでの様々な発言・活動と、今回の天皇への「ご進講」とがあまりにもかけ離れている、いや、真逆といっていいほど反しているからです。

 コロナ禍についても奥田氏はこう述べていました。
 「災害は平等だと言われます。確かにウイルスは人を選びません。…しかし、その被害は平等ではありません。なぜなら災害というものは、元々社会に存在した矛盾や格差、差別、あるいは構造的脆弱性が拡張し露呈する事態であるからです」(7月12日付中国新聞=共同)

 「元々社会に存在した矛盾や格差、差別」―その根源は天皇制ではないでしょうか。天皇を頂点とする差別構造こそ、日本の政治・社会の反民主性、脆弱性の元凶ではないでしょうか。
 奥田氏の貧困者・社会的弱者救済の思想・活動は、天皇制廃止と結びついてこそ真実となるのではないでしょうか。奥田氏にはそんな活動を期待したいものです。

 


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日曜日記106・「コロナ」と「風の電話」・「愛の不時着」もいいけれど

2020年07月19日 | 日記・エッセイ・コラム

☆コロナ禍に映画「風の電話」を観る

 先日(6月下旬)、シネマ尾道で映画「風の電話」(諏訪敦彦監督=広島出身)を観た。岩手県大槌町にある、死者と“通話”できる電話ボックス(実在)をモチーフにした劇映画だ。
 「風の電話」は「3・11」直後からテレビで紹介され、絵本にもなった。映画になることは去年から知っていたので楽しみにしていたが、コロナのせいか、大手の配給でないせいか、なかなか近くに来ず、シネマ尾道のおかげでやっと観ることができた。

 「3・11」の津波で家族を失った小学生が広島・呉の叔母にあずけられ、高校生に成長する。が、喪失感・心の傷は癒されることはなく、叔母の病気をきっかけに故郷・大槌へヒッチハイクする。その道程で様々な人と巡り会い、助けられながら、「風の電話」にたどりつく。

 全編、ドキュメンタリーと言っていいリアルさだ。とくに主演の高校生を演じたモトーラ世理奈さん(モデル出身)の演技は秀逸。実際の被災者かと思ったが、そうではないらしい。

 「3・11」は何も終わっていない。東電福島原発の汚染水処理、廃炉問題だけでなく。地震・津波の被災者・被災地域の真の復旧・復興は進んでいない。それを再確認させられた。同時に、現在のコロナ禍で「3・11」を再認識させてもらったことの意味を考えた。

 「3・11」と「コロナ」には多くの共通点がある。どちらも現代史の特筆すべき出来事だ。自然災害のように見えながらそうではない。日本社会のウミをさらけ出し、差別の構造を浮き彫りにしている。だからわれわれは、それを日本社会を根本的に変える契機にしなければならない。

 しかし、「3・11」は、差別を固定化しながら、風化し記憶から遠ざかろうとしている。「コロナ」はどうだろう。このままでは「3・11」と同じ轍を踏むのではないか。日本人はまた何も学ばないまま、風化させ、「日常」に回帰していくのではないか。
 そうなってはならない、と「風の電話」はいっている。 

☆「愛の不時着」もいいけれど

 韓国ドラマ「愛の不時着」(動画配信)が韓国、日本でブームだという。私は見たことはないが、はまっている友人はいる。韓国の財閥令嬢がパラグライダーの事故で朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に不時着し、現地のエリート将校と恋におちる、という話だ。

 中国新聞(7月12日付)によれば、かつてブームになった「冬のソナタ」(2004年)などが「控えめなヒロイン」だったのに対し、「不時着」は「自立した女性」を描いているのが特徴だそうだ。

 韓国の映画・ドラマ、またBTSに代表されるK―POPなどはたいへん質が高い。その背景には、「韓国政府は1990年代からエンタメ産業に力を入れ始め、本年度のコンテンツ分野への政府予算は890億円に上る」(12日付中国新聞)という事実がある。日本(政府)との決定的な違いだ。

 「冬ソナ」に始まった第1次韓流ブームから、今は第4次のブームだという。韓国のすぐれた文化に接し、日韓の交流・友好が深まるのは良いことだ。だが、同時に思う。

 エンタメもいいけれど、日本は韓国からもっと学ばねばならないものがあるのではないか。韓国・朝鮮の歴史、日本とコリア半島の関係史、日帝の植民地支配の歴史こそ学び、現代に生かさねばならないのではないか。
 日本人が歴史を学ばない、歴史を知らない「ブーム」は、何度訪れても上滑りするだけだろう。


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