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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「首相に解散権」は天皇の政治利用

2023年04月27日 | 天皇制と政権
  
 

 地方選後半が終わり、「解散・総選挙」が取り沙汰されるようになりました。岸田文雄首相は24日、「今、衆院解散・総選挙は考えていない」と述べ、メディアは大きく報じました。
 
 道理に合わないことも慣習化すれば批判されることなく常態化する例は珍しくありません。「解散は首相の専権事項・伝家の宝刀」という言葉とともに流布している「首相に解散権」という俗説はその典型です。ことは国政の根幹にかかわる問題だけに、見過ごすことはできません。

 憲法が「衆議院解散」について触れているのは2個所しかありません。

 1つは、第69条「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、または信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」。
 この条項に基づく解散が、いわゆる「69条解散」です。

 もう1つは、第7条「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う」の第3項「衆議院を解散すること」です。
 この条項に基づく解散が、いわゆる「7条解散」です。

 「解散権は首相にある」という俗説の“根拠”はこの憲法7条第3項です。

 しかし、条文から明らかなように、7条は「天皇の国事行為」についての規定であり、内閣は「助言と承認」をするとされているにすぎません。首相が自らの判断(党利党略の政治判断)で解散することが「助言と承認」の枠を超えていことは明白です。

 憲法学説でも、解散は7条では不可能であり69条によってのみ可能であるとする「69条限定説」があります。ただこれは学説上少数派とされています。

 しかし、「7条解散」を合憲とする立場でも、「内閣の一方的な都合や党利党略で行われる解散は不当である」(芦部信義著『憲法』)というのが通説です。
 時の政権による解散・総選挙はすべて「党利党略」に基づくものであり、憲法学会の通説からみても「解散は首相の専権事項」などといって首相にフリーハンドの「解散権」があるとするのは憲法蹂躙と言わねばなりません。

 現憲法下でこれまで25回解散が行われています。このうち「69条解散」は4回しかありません(1948年、53年、80年、93年)。直近の30年間に行われた9回の解散は全て「7条解散」です。

 故安倍晋三元首相は、『回顧録』で、自分が行った2度の解散(2014年11月、17年9月)を「長期政権を築いた」原動力として誇示しているそうです(25日付京都新聞、私は『回顧録』を読んでいません)。

 百歩譲って「7条解散」が合憲だとしても、それが「天皇の国事行為」を利用した政権の政治行為であることは誰も否定できないでしょう。
 衆議院解散とは、立法府第1院の議員を失職させる(首を斬る)ことです。これを行政府の長にすぎない首相が自由に行えることは、三権分立の蹂躙も甚だしく、独裁政権に道を開くものと言わねばなりません。安倍晋三氏が誇示するはずです。

 この内閣の横暴が批判も受けずまかり通っているのは、「天皇の国事行為」という隠れ蓑があるからです。ここに、時の政権による「天皇の政治利用」の実態があります。

 「(象徴)天皇制」は、国家権力にとって支配強化のために利用する意義がある一方、市民にとっては民主主義を蹂躙する害悪以外の何ものでもありません。「7条解散」はそのことを示す代表的なものです。
 

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皇室情報発信強化と「批判の自由」

2023年01月05日 | 天皇制と政権
   

 政府・宮内庁は今年4月、インターネット上の皇室情報発信を強化するため「広報室」を新たに設けます。
 その狙いは、「SNSを含めた新たな情報発信の手法を検討する「プッシュ型」の発信をすることで国民に皇室への理解を深めてもらうとともに、「虚偽の情報による誹謗中傷」を減らしていきたい考え」(2022年12月31日付朝日新聞デジタル)だと報じられています。

 この動きには2つの面で警戒が必要です。

 1つは、皇室情報を市民の日常生活に浸透させることによって、天皇制の維持・強化を図る狙いです。

「宮内庁幹部によると、これまではホームページ上で、ほぼ日程のみを掲載していた皇室の日々の活動を、詳しい説明とともに、写真や動画を添えて速やかに発信することが考えられている」(同朝日新聞デジタル)

 イギリス王室は、王族が個人のアカウントを持って盛んに発信しています。何かと英王室を模範としている日本の皇室が、この点でも英王室に倣って個人のアカウントを持つ可能性も考えられます。

 もう1つの問題は、「誹謗中傷を減らす」という名目で、皇室・天皇制に対する「批判の自由」が抑圧される危険性があることです。

 秋篠宮は一昨年の「誕生日会見」(2021年11月25日)でこう述べました。

「記事に対して反論を出す場合にはですね,何かやはり一定のきちんとした基準を設けて…それを超えたときには例えば反論をする。何かそういう基準作りをしていく必要が私はあると思います」(宮内庁HPより)

 直接的には週刊誌の皇室記事について述べたものですが、「一定の基準」が皇室・天皇制に対する論評・批判記事全般に適用される恐れは十分あります。

 河西秀哉名古屋大准教授(憲法)は、「(宮内庁の)情報発信の中身と頻度によっては、過度な情報操作につながり、自由な報道や発言の抑制につながる恐れもある」と警鐘を鳴らしています(同朝日新聞デジタル)

 ここで想起する必要があるのは、昨年6月、「侮辱罪」を厳罰化する刑法「改正」が自民、公明、維新、国民民主によって強行されたことです(2022年6月15日のブログ参照)。

「侮辱罪」の厳罰化は、「批判の自由」「言論の自由」の抑圧を強化する危険性を持っています。
 山田健太専修大教授(言論法)は、「批判の自由は民主主義の根幹」だとし、「言論が弾圧された戦争の反省を踏まえ、公権力は表現行為には抑制的に対応してきた。侮辱罪の厳罰化は歴史を逆回転させており、そのことに社会が気付いていない恐ろしさがある」と指摘しました(2022年6月14日付共同配信)

「批判の自由」「言論の自由」の抑圧・弾圧が軍事国家体制づくりの重要な柱であることは歴史が示すところです。

 皇室・天皇制を市民生活に浸透させ、「批判の自由」の抑圧(現代版「不敬罪」)につながりかねない皇室情報発信強化が、「軍拡(安保)3文書」の閣議決定(2022年12月16日)と相前後して目論まれていることは、けっして偶然ではないでしょう。

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「安倍国葬」に秋篠宮を参列させる政治利用

2022年08月29日 | 天皇制と政権

   

「政府が9月27日に行う安倍晋三元首相の国葬に、皇族が参列する方向で宮内庁が調整を進めていることが関係者への取材でわかった。…吉田(茂)氏の国葬と同様に、皇太子待遇の皇嗣である秋篠宮さま、紀子さまが参列する方向で調整が進んでいるという」
 27日の朝日新聞デジタルが、独自記事としてこう報じました。

 同記事によると、「吉田国葬」では当時皇太子だった明仁・美智子夫妻はじめ9人の皇族が参列。天皇裕仁と香淳皇后がそれぞれ生花を贈り侍従を遣わして拝礼しました(写真左は「吉田国葬」に参列した皇太子夫妻=当時)。

 また、中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬(2020年)には、秋篠宮夫妻をはじめ皇族8人が参列。徳仁天皇・雅子皇后と上皇夫妻がそれぞれ侍従を遣わして拝礼し、天皇・皇后が生花を贈りました。

 今回も、「天皇、皇后両陛下や上皇ご夫妻は侍従を遣わして拝礼し、両陛下は生花を贈る可能性がある」といいます。

 「国葬」に多くの反対がある中で皇族が参列することについて、宮内庁幹部は、「政府から願い出があれば、ご都合がつく限り参列される。参列しないとなれば、皇室は『国葬に反対』というメッセージに受け取られかねない」(同朝日新聞デジタル)と述べています。

 しかし、「安倍国葬」に出るかどうかは、意見が分かれている問題でどちらにつくかという問題ではありません。なぜなら、多くの人が「国葬」に反対し、学者・弁護士グループなどが差し止め訴訟まで起こしているのは、それがさまざま点で憲法に違反しているからです。たんなる意見の相違ではありません。「国葬」に参列することは、明白な憲法違反行為に加担することに他なりません。

 「安倍国葬」に秋篠宮を参列させたり、生花を贈ったり、侍従を遣わすことは、政権(国家権力)による明白な天皇・皇族の政治利用です。

 しかも単なる政治利用ではありません。そもそも「国葬」と天皇制は切っても切れない関係にあります。

 「国葬」の原点は、1878年の大久保利通の葬儀です(喪主は大久保家でしたが、費用は国費で賄い多くの政府職員を動員した準国葬)。それにはこんな背景がありました。

葬儀を主導したのは、大久保の後継者の伊藤博文らでした。明治維新から10年余り、当時の政府は盤石ではありませんでした。前年の1877年には、大規模な士族反乱である西南戦争が起きています。…さらに自由民権運動も盛んになり、伊藤らは危機感を抱いていました。天皇が関与する形で大久保の葬儀を盛大に営み、政府に逆らうことは天皇の意思に背くことだ、ということを明確にしようとしたのです」(宮間純一・中央大教授、14日の朝日新聞デジタル)

 「国葬制度」を法的に決めたのは、天皇の命令(勅令)としての「国葬令」(1926年)でした。
 太平洋戦争中の1943年には連合艦隊司令長官・山本五十六の「国葬」が行われました(写真中=朝日新聞デジタルより)。

「当時の首相、東条英機は、国葬に際して山本の精神の継承を訴えています。戦局が厳しくなる中、より一層、国民を戦争に動員し、戦時体制の強化と戦意高揚を図るという目的がありました」(宮間氏、同)

 敗戦によって天皇の政治権力は喪失し、「国葬令」は47年に失効しました。その後、「国葬」についての法律は何もつくられていません。

国葬は、かつて天皇制のもとに国民を統合し、戦争に動員するなど危険な装置として用いられたことのある儀式です。それを何の検証もなく、ルールもなく、現代の民主主義社会によみがえらせ、前例としてしまうことに大きな疑問を感じます」(宮間氏、同)

 民主主義を数々蹂躙し、戦争法を強行し、戦時体制づくりの先頭に立ってきた改憲論者・安倍晋三氏の「国葬」は、帝国日本の侵略を先導した大久保利通や山本五十六のそれに匹敵するといえるでしょう。

 その「安倍国葬」を権威付け、政権への批判を抑えるために、戦前同様、天皇・皇族が利用されようとしているところに、「象徴天皇制」の今日的危険性が端的に表れています。


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「世襲」と自民党と天皇制

2021年10月12日 | 天皇制と政権

    

 首相に就任した岸田文雄氏は、父、祖父とも衆院議員の「3世議員」です。「この20年で自民党から出た首相6人のうち世襲議員でないのは菅氏のみ」(4日の朝日新聞デジタル)。小泉純一郎、安倍晋三、福田康夫、麻生太郎、そして岸田文雄。ちなみに、岸田氏が任命した甘利明自民党幹事長、福田達夫総務会長も「世襲議員」です。

 「世襲議員」には自分の実力以外のアドバンテージがあります。
「世襲議員は、親から継いだ地盤(選挙区)、看板(知名度)、カバン(資金)の「3バン」をもとから備えており、選挙に強いとされる。特に親が政府や党で枢要なポストに就くなど有力政治家であった場合、当選回数が浅いころから「将来のリーダー」と目されることが多い」(同朝日新聞デジタル)

 「世襲議員」は自民党の前近代性・反民主性を象徴するもので、党内に深く浸透しています。

 菅前首相は、安倍政権の官房長官だった時(2016年)、次の首相になって安倍政治を継承してはどうかとある人物に言われた時、こう答えたといいます。

「安倍さんや麻生さんとは、私は出自が全く違うんですよ。片や大宰相の孫で政界のプリンス、片や秋田の片田舎から上京して遅くに国会議員になった私。…安倍さんを全力で支える。これしかありません」(月刊誌「Hanada」2020年11月号)

 安倍氏や麻生氏の傍若無人な振る舞いの背景には、彼らの特異な思想・性格だけでなく、祖父がいずれも首相(岸信介、吉田茂)だったという“血筋”の特別視、自民党を覆う「世襲」崇拝があるといえるでしょう。

 本人の努力や才能ではなく「出自」によって特権的地位が与えられる「世襲」は、封建制の特徴であり、近代民主主義とは相容れません。
 それはもちろん、自民党だけでなく、あらゆる組織、国家体制にいえることです。

 ここで想起しなければならないのは、この反民主主義の典型ともいえる「世襲」が、日本国憲法に明記されていることです。
 それは言うまでもなく、憲法第2条「皇位は、世襲のものであって国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」です。

 憲法学者の横田耕一氏は、「憲法二条の規定する、「世襲」による皇位の継承」は「象徴天皇制の本質に関わる差別」だとして、こう指摘しています。

「「世襲」とは…天皇に就任することのできる血統を特別の血統として、他のもろもろの血統から区別していることを意味している。これは、血による差別であり、生まれによる差別である。憲法自体がこの差別を容認しているのであるから、憲法解釈的には一四条の平等原則の例外と言うしかないが、ともあれ憲法はこの血統差別、すなわち一種の身分差別を認めているのである」

「仮に象徴天皇制が憲法的に純化され、より憲法適合的になり、よりスマートになったとしても、それが世襲である限り、その制度は社会的差別意識を再生産しつづける大きな源になる」(『憲法と天皇制』岩波新書1990年)

 「世襲」は「萬世一系」の天皇制の不可分の属性であり、まさに「象徴天皇制の本質に関わる差別」です。憲法の天皇制条項(第1~8条)を削除し、象徴天皇制を廃止しない限り、日本国憲法の「人権・平等・民主主義」は絵に描いた餅です。

 日本の政治・社会を支配し腐敗させている自民党と天皇制。それがいずれも「世襲」によって支えられていることは、けっして偶然ではありません。


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「天皇の五輪開会宣言」消された官房長官会見

2021年06月10日 | 天皇制と政権

    

 <天皇陛下の五輪開会宣言 官房長官、明言避け「調整中」>―こうした見出しの記事が、8日19時01分、朝日新聞デジタルに掲載されました。記事(全文)は次の通りです(表記は原文のママ、改行、太字は私)

「加藤勝信官房長官は8日の記者会見で、今夏の東京五輪・パラリンピックでの開会式をめぐり、天皇陛下が開会宣言を行うかどうかを問われ、「現在、関係者間で調整が行われている」と述べた。

 開会宣言について、五輪憲章では開催地の国の国家元首が読み上げると規定。1964年の東京五輪、72年の札幌冬季では昭和天皇、98年の長野冬季では上皇さまがそれぞれ開会を宣言している。

 新型コロナ禍での五輪開催に世論の賛否があることを踏まえ、記者団が「国論を二分した状態の五輪を陛下が支持しているとの印象を与えかねないが、政府として何か対応する考えはあるか」と問うた。加藤氏は「開会式の具体的な内容は現在、関係者間で調整を行うということであり、それ以上の言及は差し控えたい」と述べるにとどめ、具体的な対応などへの説明は避けた」

 発言内容を確認するため、首相官邸ホームページに常設されている「官房長官会見ビデオ」の「8日」を見ました(写真左、中)。ところが、24分49秒の会見ビデオに、該当する質疑応答がありません。最初から見直しましたが、やはりありません。HPにアップする段階で、上記の質疑は削除されたのです。

 このことは、重大な問題を示しています。

 第1に、政府は都合の悪いことは、たとえ記者会見の質疑応答であっても、公式HPから削除し、「国民」には知らせないということです。首相や官房長官の会見内容を広報することは政府の最低限の責務です。それを行わず会見内容を隠ぺいすることは絶対に許すことができません。
 記者団(官邸記者クラブ)はこの件について政府にはっきり抗議するべきです。

 第2に、なぜ政府はこの質疑応答を隠ぺいしたのでしょうか。それは、ここに東京五輪開催問題にとどまらない重大問題が内包されているからです。

 あくまでも東京五輪を強行すれば、開会式に天皇が出席し開会宣言を行うことになります。「五輪憲章では開催地の国の国家元首が読み上げると規定」されている以上、それは天皇以外にありえないというのが政府の立場です。もともと、五輪開会式を天皇徳仁の国際デビューの場にすることは、東京五輪にかける政府の狙いの1つでした。

 ところが、コロナ禍での五輪開催には「国民」の大半が反対しています。その開会式に天皇が出席して開会宣言することは、天皇が大半の「国民」の意思に反した行動を行うことになり、天皇のイメージダウンは避けられない。そもそも、それは「国民の総意に基づく」(憲法第1条)という「象徴天皇」の行為として妥当なのかという疑義を生まないとも限らない―ここに政府の矛盾・苦悩があるといえるでしょう。

 もちろん、「国民」の大半が反対していなければ、天皇の五輪出席・開会宣言に問題はないのかといえば、けっしてそうではありません。五輪の「名誉総裁」となり開会宣言を行うことで天皇を「国家元首」扱いし、それを誇示すること自体、主権在民の憲法原則に反しています。

 それに加え、もしもこうした状況下で天皇が五輪開会式に出席し開会宣言を行えば、政権による天皇の政治利用が白日の下にさらされます。そもそも天皇の行為は、憲法上の「国事行為」にせよ、憲法にはない「公的行為」にせよ、政権に政治利用されていますが、一見それは分かりづらい面があります。

 しかし、今回、菅政権があくまでも東京五輪を強行し、天皇徳仁が開会式に出席して開会宣言を行えば、政権による天皇の政治利用・「象徴天皇制」の本質が明白に露呈することになるのです。


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「ラムザイヤー受章」で改めて問われる「叙勲制度」

2021年03月18日 | 天皇制と政権

    

 米ハーバード大のJ・M・ラムザイヤー氏(三菱日本法学教授。写真右=ハンギョレ新聞電子版より)が、帝国日本の戦時性奴隷(「慰安婦」)を「業者と契約を結んだ売春婦だった」などとした「論文」(「太平洋戦争における性行為契約」2020年12月)は、基本的論証もせずに事実を歪め、犠牲者を冒涜し、過去・現在にわたって日本の国家権力を擁護するとんでもない代物で、国際的に大きな批判をあびています。

 また同氏は、「底辺層における相互監視の理論―被差別出身者、在日コリアン、沖縄の人々を例に」(2020年1月)でも、辺野古新基地建設について「一般県民は賛成したのに地元エリートと本土の活動家が私欲のために反対している」としたり、普天間飛行場の経緯を偽る悪質なデマを振りまいています(2月28日付沖縄タイムス)。

 「三菱日本法学教授」とは、三菱グループが1972年、日本の法律を研究する役職を設けるためとしてハーバード大に100万㌦(当時のレートで約3億円)を寄付したことによってできたポストで、いわば氏は戦犯企業・三菱のお抱え“学者”といえます。

 ここでは氏の別の経歴に注目します。それは、2018年に日本政府(安倍晋三政権)から「旭日中綬章」という勲章を授与されていることです。
 日本の叙勲制度の本質が理解されていなければ、この経歴が氏の「学者」としてのステイタスを示すものと誤解されかねません。また氏やその支援グループがそれを誇示する可能性もあります。

 日本の叙勲制度は、勲章が1875年の「勲章従軍記章制定ノ件」(太政官布告第54号)、褒章は1881年の「褒章条例」(同第63号)が起源です。敗戦によっていったん生存者叙勲は廃止されましたが、1963年に閣議決定で復活しました。
 勲章は「国家または公共に対する功労」、褒章は「社会の各分野における優れたおこない」に対して授与されるとされ(内閣府HP)、各省庁などから首相に推薦が行われ、閣議決定をへて天皇に「上奏」し、最終的に確定します。

 大綬章は宮中で天皇が直接授与し、中綬章などの勲章や褒章は、各省の大臣から渡されますが、「いずれの場合も、受章者は勲章・褒章を着用し、配偶者同伴で天皇陛下に拝謁」(内閣府HP)し、天皇から「ねぎらいの言葉」を受けます(写真左、内閣府ビデオより)。

「勲章はその創設期から、国家にとって功績のあった人間を国家が選び、天皇が与えるもの、いいかえれば「大日本帝国」の統治者・天皇を守る人びとをつくるためのものであった」(栗原俊雄著『勲章―知られざる素顔』岩波新書2011年)のです。

 そして現在、「主権在民」の憲法の下でも、その第7条「天皇の国事行為」の「栄典授与」を“根拠”として行われており、その意味は小さくありません。

「勲章等の栄典を授与する権能が天皇に認められ、天皇を栄誉の源泉としていることは、天皇の権威を高めるために大きく寄与している。一般に栄典の授与は、忠誠心の調達にとって安価でしかも効果的な手段である…生存者叙位叙勲制度が復活したことは、天皇に対する畏敬心をかきたてる役割を果たしてきた」(横田耕一著『憲法と天皇制』岩波新書1990年)

 その勲章(旭日中綬章)をラムザイヤー氏が受章していたことは意味深長です。
 今回問題になっている「論文」はいずれも受章後に発表されたもので、それらが直接叙勲の根拠ではないでしょう。しかしそれは、三菱と関係が深い(実兄が三菱商事関連企業の社長)安倍晋三氏のよる「三菱日本法学教授」への“先行投資”、期待の表れであったと言えるのではないでしょうか。そして確かなことは、勲章の受章によってラムザイヤー氏の天皇に対する「忠誠心」「畏敬心」がいやが応でも掻き立てられたであろうことです。

 氏が事実を歪曲している「慰安婦」制度、沖縄の基地は、いずれも天皇制、とりわけ天皇裕仁がその元凶です(国際戦犯法廷、天皇メッセージなど)。すなわち氏のデマ「論文」は、稚拙なやり方で事実を偽り、天皇・日本国家の歴史的罪悪を隠ぺいしようとするものです。「旭日中綬章」の効果が見事に表れているといえるのではないでしょうか。


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徳仁天皇は「ビデオメッセージ」を発してはならない

2020年04月09日 | 天皇制と政権

    
 安倍晋三首相は7日、ついに緊急事態宣言を発しました(写真右)。その問題点については今後改めて追及していきますが、その前に危惧されることがあります。それは、「宣言」を受けて、徳仁天皇が「ビデオメッセージ」をテレビで流す可能性(恐れ)があることです。天皇は「メッセージ」を発するべきではありません。発してはいけません。

 昨今の情勢で、もし代替わりしていなければ、明仁天皇はまた「ビデオメッセージ」を出すのではないだろうか、と思っていた矢先、イギリスのエリザベス女王が5日(現地時間)、「私たちが団結すれば(コロナウイルスに)打ち勝つことができる」とするテレビ演説を行いました(写真左)。女王がクリスマス以外にテレビでメッセージを発するのはきわめて異例です。
 徳仁天皇や明仁上皇がこれに刺激を受け(日本の皇室とイギリス王室は深い関係)、日本でも、と考えることは十分予想されます。

 なぜなら、9年前、東日本大震災のさい、衝撃が収まらない2011年3月16日にテレビで「ビデオメッセージ」を流したのが明仁天皇(当時)にほかならないからです(写真中)。天皇がテレビを通して直接メッセージを出すのは初めてのことでした。

 いろいろな意味で「3・11」と比較される現在の新型コロナ感染状況下で、徳仁天皇あるいは明仁上皇がふたたび「ビデオメッセージを」と考えても不思議ではありません。

 明仁天皇のメッセージに対しても書きましたが(2016年3月17日のブログ参照https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/d/20160317)、天皇の「ビデオメッセージ」はきわめて重大で、けっして容認できるものではありません。主な理由は4点あります。

 第1に、憲法第4条は、「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行い、国政に関する権能を有しない」と厳格に規定しています。天皇の「ビデオメッセージ」(あるいはそれに類する行為)は憲法(第6条、第7条)が規定する国事行為には含まれていません。天皇が直接「国民」にメッセージを発すること憲法上許されない違憲行為です。

 第2に、憲法第3条は、「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負う」としています。しかし明仁天皇のビデオメッセージは「内閣の助言と承認」を得ず、天皇自身の発案で天皇が書いた内容で行われました。その意味で、天皇のビデオメッセージは2重の憲法違反です。

 第3に、明仁天皇のメッセージは「深い悲しみの中で、日本人が取り乱すことなく助け合い、秩序ある対応を示している」として、ことさら「日本人」を強調し、ナショナリズムを煽りました。そして「秩序ある対応」を評価する形でそれを要求しました。これは政府(国)に対する被災者・住民・国民の当然の怒り・批判を抑え込む役割を果たしました。

 もし今回徳仁天皇が「メッセージ」を出すとしても、「日本人」「秩序」「助け合い」「絆」を強調するのは必至でしょう。それは安倍首相の緊急事態宣言の危険性を隠ぺいし、安倍政権を側面援助するきわめて重大な政治的役割を果たすことになります。

 第4に、「国難」(小池百合子都知事)といわれる現在の状況下で天皇がメッセージで「国民」に結束を求めることは、天皇が「国民」を束ねるものであるかのように描くことになります。それは自民党の改憲草案が第1条で掲げる「天皇元首化」に道を開くものです。

 以上のような重大な問題をもつ「天皇ビデオメッセージ」が、安倍首相の緊急事態宣言で民主主義が危機に瀕しているいま、「3・11」に続いて出されることがないよう厳しく注視する必要があります。


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「天皇」と「五輪」のダブル政治利用

2020年01月07日 | 天皇制と政権

    

 安倍首相の「仕事始め」はやはり伊勢神宮参拝とそこでの年頭会見でした(6日)。会見の中で安倍氏は、あらためて憲法「改正」への意欲を強調しました(写真左、中)。
 安倍首相の改憲戦略を左右するのが、衆院の解散・総選挙の時期です。現在「有力視されているのは、東京オリ・パラ終了直後の解散」(6日のNHK解説)です。あるいは、「オリ・パラ」前、7月の東京都知事選とのダブル選挙の可能性も取り沙汰されています。

  いずれにしても、安倍氏が東京五輪前後に解散を考えているのは間違いないでしょう。選挙になれば五輪(誘致)の“成果”を前面に出すのは目に見えています。これはアスリートたちがもたらす感動を政権のイメージアップ・選挙の票につなげようとするもので、露骨な五輪・スポーツの政治利用と言わねばなりません。

  そもそも「解散権は総理にある」というのは、政界とメディアがつくりだしている虚妄です。首相が勝手に衆院を解散できるわけではありません。
 憲法が規定している衆院の解散は、69条の内閣不信任案可決以外にはありません(69条解散)。にもかかわらず「首相の解散権」なる虚妄が横行しているのは、7条3項(「衆議院を解散すること」)があるからです。しかし、同3項は「天皇の国事行為」として挙げられているもので、いくら「内閣の助言と承認により」となっていても内閣(首相)が勝手に「解散」を「助言」できるもでないことは憲法学の通説です。

  にもかかわらず7条を“根拠”にした解散(7条解散)が横行しているのは、時の政府(首相)による天皇(制)の政治利用にほかなりません。憲法に反するこの解散に対し、野党やメディア、そして「主権者・国民」がなんの批判もせず当然視しているのは、立憲主義の重大な陥穽であり、思考停止のさいたるものと言わざるをえません。

  安倍首相が東京五輪の前後に7条解散を強行しようとしているのは、五輪・スポーツと天皇(制)の二重の政治利用です。絶対に容認することはできません。

  留意すべきなのは、五輪・スポーツは首相に政治利用されているだけでなく、天皇制の強化にも利用されていることです。1940年の「幻の東京五輪」が、神武天皇即位を起点とした「皇紀2600年」を祝う目的だったことはあまりにも露骨ですが、今年の「東京オリ・パラ」も天皇制強化と密接な関係があります。

 「2020東京五輪」の名誉総裁は天皇徳仁です。それは徳仁天皇の国際的デビューの舞台となり、天皇の権威を内外に誇示することになります。
 開会式・閉会式・表彰式は、「日の丸」・「君が代」が大手を振り、「国民」がそれに涙する場となります。
 五輪組織委の森喜朗会長は、「国歌(君が代)も歌えないような選手は日本の代表ではない」と言い放ちました(2016年7月3日)。
 数多くのスポーツ競技の優勝杯が「天皇杯」「皇后杯」とされているのは、天皇制強化へのスポーツ利用の日常化ですが、五輪メーン会場の新国立競技場のこけら落とし(競技分野)がサッカーの天皇杯決勝であったことは象徴的です。

  こうして五輪・スポーツが天皇(制)と一体となって国家主義(雰囲気)を高め、その気分的高揚・思考停止の中で(それに乗じて)、安倍首相が「令和新時代にふさわしい憲法」を公約して解散・総選挙を強行する―いま進行しているのはこうした重大な事態であることを銘記する必要があります。

 ところで、2日のブログ(「日本の首相の1年は天皇拝謁・伊勢参拝から始まる」)で、安倍首相だけでなく、枝野幸男民主党代表、玉木雄一郎国民民主党代表もおそらく今年も伊勢神宮参拝を「仕事始め」にするだろうと書きましたが、案の定、二人とも4日に伊勢神宮を参拝しました。そのことの異常性を指摘するメディア・「識者」は皆無です。


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元号「令和」は安倍独裁政権の象徴

2020年01月06日 | 天皇制と政権

    

 改元が行われて9カ月。メディアはいまだに「令和初の○○」などと、元号キャンペーンを続けています。日常生活にも大きな影響を与えている元号・「令和」。それは安倍氏が強権を発動して強引に決めたものであることが、年末の報道や安倍氏自身の発言で明らかになってきました。
 「令和」は安倍氏による安倍氏の元号、安倍独裁政権を象徴する元号です。

  12月29日付地方紙各紙は、「関係者が28日明らかにした」として、「令和」決定の舞台裏を示す共同通信記事を掲載しました。

  「新元号『令和』は、…国書(日本古典)からの元号採用を強く望み、特に『万葉集』に執着した安倍晋三首相の意向に沿って突貫作業で誕生した。歴代の元号担当者が極秘に蓄積した候補名は一蹴され、選定最終盤は万葉集ありきで突き進んだ。…安倍政権は新時代への転換と世論形成を意識し、お祝いムードの醸成に傾注した」(12月29日付共同)

  安倍氏は万葉集以外からとった案をすべて否定し、中西進元大阪女子大学長に万葉集から新たな案を作成するよう命じました。
 「万葉集限定で新たな元号案を要請したのが、発表9日前の3月23日。…発表のわずか7日前の3月25日に令和が政府側に伝えられた」(同)

 新元号発表後に行った共同通信の世論調査では、内閣支持率が9・5㌽増えて52・8%になりました。
 「調査結果を見た首相側近が当時『支持率が大きく上がった』と話したところ、首相は『そうだね。不支持率も下がったね』と応じたという」(同)
 「令和」で「内閣支持率」が跳ね上がったことに安倍首相は上機嫌だったというのです。

 この共同通信記事を裏付けるように、安倍氏自身がこう述べています。
 「元号はこれまで基本的には漢籍の中から選ばれてきましたが、そろそろ私は国書から選ぶことも考えなければいけないと思っていました。令和は万葉集の…という文言から引用しました。…最終的に令和に決めたのですが、特に若い人たちを中心に評価をいただき、ほっとしました」(1月1日付産経新聞の対談)

 ここには、安倍氏が万葉集にこだわり、自分が令和にきめたことを誇示し、その結果が「支持」されたと思って有頂天になっている安倍氏の姿が表れています。

  しかし、新元号の決定は、「国民の声を聞く」として山中伸弥京大教授(写真右)や作家の林真理子氏ら9人による有識者懇談会が設けられ、そこに複数案が示されたうえで意見をまとめ、衆参議長にも意見を聞き、最終的に全閣僚会議で決めるという手順だったはずです。
 ところが実際は、発表の7日前に安倍氏が「令和」に決めていました。有識者懇談会なるものは世論操作のためのダミーに過ぎなかったわけです。国民を愚弄するにもほどがあります。

 安倍氏はなぜ万葉集にこだわったのでしょうか。
 「『国書がいいよね。「記紀万葉」から始まるんだよね』。首相は昨年(2018年)末、古事記や万葉集を例示しながら日本古典を典拠とする意欲を側近議員に漏らした。年末年始に読んだという百田尚樹氏のベストセラー『日本国紀』にも万葉集は登場する」(2019年4月2日付共同配信記事)

 安倍氏が万葉集にこだわった背景には、安倍氏が読んだ“おともだち”百田尚樹氏の著書があったというのです。令和は安倍氏と百田氏の合作と言っても過言ではないでしょう。

 元号は天皇が時間をも支配するという天皇制を象徴するものですが、「令和」はそれに加えて、安倍晋三氏の強権・独裁政治を象徴するものでもあります。それが日本の社会で事実上強制的に使用され続ける。なんとおぞましいことでしょうか。

 元号は、天皇制を象徴するその本質において、また今回のように時の権力者に政治利用される危険性をもつという点でも、天皇制廃止の前段階として早急に廃止されなければなりません。


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ローマ教皇はなぜ天皇に会うのか

2019年11月25日 | 天皇制と政権

    

 来日中のローマカトリック教会・フランシスコ教皇はきょう25日、徳仁天皇に会見します。なぜ教皇は天皇に会うのでしょうか。
 天皇との会見が教皇の希望なのか、それとも日本政府の設定なのか、あるいは(まさか)天皇側からの希望なのか。それは分かりませんが、いずれにしても見過ごすことはできません。

 教皇の来日の目的は、カトリック教会の最高指導者として、「平和」「核兵器廃絶」を訴えるためのはずです。その意味では、「核抑止力」論にしがみつき、核超大国・アメリカに追随して「核兵器禁止条約」に背を向け続けている安倍晋三首相に会い、直接苦言を呈するなら、目的にかなっていると言えるでしょう。

  しかし、相手が天皇では話が違います。なぜなら、憲法上、天皇に政治的権限はないからです(第4条)。教皇もおそらくそれは知っているでしょう(知らないとすればそれ自体問題)。にもかかわらず教皇が天皇に会うことを望んだとすれば、それは、天皇を日本の「元首」とみて、日本を訪れる以上「元首」にあいさつするのは礼儀であると考えたからではないでしょうか。
 そうだとすれば、たいへんな誤解・誤りです。天皇が日本の「元首」でないことは言うまでもありません。

 しかし、外国では日本の「元首」は天皇だと誤解している人は少なくないようです。それは日本(政府)がそう思わせる仕掛けをつくっているからです。
 憲法(第7条)で、条約の公布、大使の信任状認証、外交文書の認証、外国大使・公使の接受などをすべて天皇の「国事行為」とし、さらに憲法の「国事行為」でもない「皇室外交」をさかんに行っているのがその仕掛けです。身近なところでは、パスポートの表紙が皇室の菊の紋章になっていることもその一環です。

 憲法第7条の「天皇の国事行為」はすべて「内閣の助言と承認」によって行われる”形式的”なものにすぎないことは日本では常識(?)ですが、外国から見れば天皇が自ら行っているように見えるでしょう。そう思わせるところに、日本政府(国家権力)の狙いがあると言えます。

 もしも、教皇との会見が日本側(政府あるいは天皇側)の希望、設定だとすれば、宗教界に大きな影響力をもち、「平和」のイメージがある教皇を、天皇の権威付けに利用しようとする意図があることは明らかです。

 教皇にかぎらず、各国の元首・要人が来日して天皇を「表敬訪問」するのは、天皇を「元首」扱いし、「元首」のイメージづけを行うことになり、主権在民とは相いれません。日本のメディアがそれを大々的に報じることが、その印象付けに加担していることも大きな問題です。

 こうした天皇の「元首」扱いは、自衛隊(軍隊)の明記とともに、「天皇は、日本国の元首」(「改正」草案第1条)とする安倍・自民党の改憲策動とも符合するものであり、けっして容認することはできません。


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