沖縄の平和・民主勢力は4月28日を「屈辱の日」といいます。1952年のこの日、日米安保条約とともに締結された「サンフランシスコ講和条約」が発効し、沖縄が「本土」から切り離されてアメリカの統治下におかれることになったからです。歴代自民党政府がこの日を「主権回復の日」として式典を行うのと対照的で、沖縄の苦難の歴史を示すものです。
しかし、敗戦後の歴史で、沖縄にとって真の「屈辱の日」は別にあるのではないでしょうか。それは今日、9月19日です。なぜならこの日は、アメリカの軍事占領、基地被害の元凶であるサ条約・日米安保条約へ軌道を敷いた、天皇裕仁(当時)の「沖縄メッセージ」が発せられた日だからです。(写真左=マッカーサー・裕仁第1回会談―1945・9・27、写真中=「主権回復」式典で明仁天皇に万歳する安倍首相―2014・4・28、写真右=「即位礼」で徳仁天皇に万歳する安倍首相―2019・10・22)
『昭和天皇実録』(宮内庁、2014年9月公表)の「一九四七年九月一九日付」にはこう記されています。
「この日午後、寺崎(英成)は対日理事会議長兼連合国最高司令部外国局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問する。シーボルトは、この時寺崎から聞いた内容を連合国最高司令官(二十日付覚書)及び米国国務長官(二十二日付書簡)に報告する。
この報告には、天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである旨、さらに、米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに基づくものである旨などが記されている。」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年より)
上記「長期貸与」の「長期」は、「メッセージ」原文では「二五年ないし五〇年、あるいはそれ以上」となっていました(豊下氏、前掲書)。
当時米国内では沖縄の統治方式について意見が分かれていましたが、この裕仁の「メッセージ」によって方針が決まり、それがサ条約第3条「(米国が沖縄の)行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」という規定につながりました。
裕仁の「メッセージ」は、自らの保身と「本土保護」のため、そして「米国の利益」のために沖縄を生贄にしたものです。
それは沖縄にとって屈辱的だっただけではありません。日本(日本人)にとっても極めて重大な意味をもっていました。
「天皇の『沖縄メッセージ』は、憲法の制約から儀礼的役割以外何もできないはずの彼が、秘密で外交・内政上の役割を演じ続けていたことを証明するものだった。…彼も外務省も、平和条約の締結後、なおアメリカ軍が日本の内外に留まることを望んだ。同時に彼は、東京裁判の継続中は、保身のためアメリカを引きつけておく必要も感じていただろう。
だが何よりも天皇のメッセージは、象徴天皇制と、憲法九条と、アメリカによる沖縄の軍事化との強い関連性を物語っていた」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇 下』講談社学術文庫2005年)
裕仁の「沖縄メッセージ」が発せられた「9・19」は、沖縄にとって真に「屈辱の日」であるだけでなく、日本(日本人)にとって、対米従属の軍事同盟=日米安保体制と憲法9条、沖縄、そして天皇制の関係を象徴的に示す、今につながる「恥辱の日」にほかなりません。
朝鮮戦争勃発(1950・6・25)から今日で70年。コリア半島情勢は新たな困難を抱えていますが、この節目に私たち日本人があらためて確認する必要があるのは、朝鮮戦争(休戦中)はけっして他人事ではないということです。
そもそも、日本がコリア半島を植民地支配しなければ、南北分断も朝鮮戦争(「6・25戦争」)もありえませんでした。戦闘中、日本は国連軍(実質アメリカ軍)の出撃・後方支援基地となりました。また、敗戦後の日本経済が朝鮮戦争特需で復興したのは周知の事実です(開戦後1年で日本の工業生産は46%上昇)。こうしたことはけっして忘れてならない重要な事実ですが、ここでは別の問題を考えます。
天皇裕仁(昭和天皇)は敗戦後、連合軍(GHQ)最高司令官マッカーサーと計11回会談しています。第9回会談(1949・11・26)の焦点は「講和問題」でした。
「会見の冒頭でマッカーサーは『なるべく速やかに講和条約の締結を見ることが望ましいと思います』と問いかけたが、天皇は『ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることを懼(おそ)れます…』と答えた。あたかも、七カ月後の朝鮮戦争の勃発を予見していたかのような昭和天皇の発言には驚く外はない」(豊下楢彦氏『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)
第10回会談(1950・4・18)は朝鮮戦争の約2カ月前でした。ここで裕仁は、「日本の安全保障の問題ですが、米国は極東に対する重点の置き方が欧州に比し軽いのではないでしょうか」と懸念を表明しました。この会談では「実は重要な“すれ違い”が生じていた。…前回の会見で“約束”した米軍の駐留については、(マッカーサーが―引用者)最後まで明言を避け続けた」(豊下前掲書)からです。
そして朝鮮戦争勃発。2日後の6月27日に米トルーマン大統領は米軍に出動を命じるとともに、国連安保理に働きかけ、「国連軍」の形式で参戦を決議させました。アメリカの素早い対応は、朝鮮の動向が「マッカーサーの極東軍によって一年前からことごとくつかまてい(た)」(萩原遼氏『朝鮮戦争』文春文庫1997年)からだといわれています。
天皇裕仁は戦争勃発の当日と翌日に侍従長から説明を受けています。「朝鮮戦争は昭和天皇をして、米軍の存在の重要性に関する認識を決定づけるものであった」(豊下前掲書)のです。
裕仁は直ちに行動に移しました。開戦翌日の6月26日、「天皇は自らダレス(講和問題のために来日していた国務長官特別顧問―引用者)を通じてワシントンに(米軍駐留を―引用者)働きかける道に踏み出した。それが、『口頭メッセージ』である」(豊下前掲書)。
「口頭」だけでは足らず、裕仁は米軍駐留、アメリカの重点関与の要望を文書にしてダレスに送りました。「文書メッセージ」(8月19日)です。
「昭和天皇は右のメッセージで、マッカーサーを“バイパスする”ばかりではなく、講和問題や日本の安全保障の問題を、首相である吉田茂に任せておくことはできないという立場を鮮明に打ち出した」(豊下前掲書)
翌1951年9月8日、日本は「サンフランシスコ講和条約」(単独講和)とともに日米安全保障条約を締結。裕仁が望んだ通り、米軍の基地が日本全土に張り巡らされることになりました(全土基地方式)。
同時に日本は、警察予備隊(50年8月)から保安隊(52年10月)へ、そして自衛隊(54年6月)へと、再軍備を本格的に進めていきました。
以上から明らかなことは、日米軍事同盟(安保体制)、日本の再軍備という憲法の平和原則違反は、「共産主義から国体(天皇制)を守る」ため自らアメリカに懇願した天皇裕仁よって推進されたということです。その決定的な契機になったのが朝鮮(6・25)戦争でした。こうした裕仁の一連の言動が、天皇の政治的関与を禁じた現行憲法下で行われたことも忘れてはなりません。
その日米安保=軍事同盟は集団的自衛権行使にまで深化し、自衛隊は年間軍事費5兆円超まで膨張し、レールを敷いた裕仁の戦後責任(戦争・植民地支配責任は言うに及ばず)は全く追及されることもなく、「天皇制」は連綿と続き、天皇キャンペーンが政権やメディアによって繰り返されている。それが今日の日本であることを私たちは肝に銘じる必要があります。
徳仁天皇の「即位礼正殿の儀」(10月22日)における天皇と自衛隊の関係については先に書きましたが(10月29日のブログ参照)、10日行われた「即位パレード」(「祝賀御列の儀」)で、あらためてその密接な関係が印象付けられました。
皇居から赤坂御所まで全長4・6㌔の「パレード」では、何カ所かで音楽隊が行進曲などを演奏しましたが、コースの最終地点、赤坂御所附近で天皇・皇后を迎えたのは、陸上自衛隊の音楽隊と儀仗隊でした。「パレード」を締めくくったのが自衛隊だったわけです。
儀仗には「儀式を行う」という意味とともに「警護する」という意味があります。赤坂御所の前に整列した儀仗隊は、天皇を警護する自衛隊でもあります。儀仗にはそういう意味があるため、自衛隊が天皇を儀仗することはしばらくタブーでした。それが自衛隊の不満のタネでした。
その禁を取り払って、自衛隊が初めて公然と天皇に対して「捧げ銃」(ささげつつ)で儀仗したのは、裕仁天皇の葬儀(「大喪の礼」1989年2月24日)でした。
「天皇の代替わりは、自衛隊と天皇の結合を公然化する場となった。すなわち、昭和天皇の大喪の礼にあたっては、1900名の自衛官が参加し、天皇の柩を乗せた車は自衛官の堵列(とれつ=横に並んだ列―引用者)によって迎えられ、三カ所で着剣捧げ銃の儀仗が行われ、自衛隊は『哀しみの極』の演奏と弔砲で天皇の死を悼んだのであった。同様に、90年秋の即位の礼においても、自衛隊は祝賀御列の儀などで前面に登場することになっている」(横田耕一著『憲法と天皇制』岩波新書1990年)
事実その通りになりました。1990年11月12日に行われた前回の「即位の礼」でも自衛隊が前面に出ました。
「自衛隊は、即位の礼の式典のために1670人を動員した。正殿の儀の万歳三唱に合わせた礼砲、御列の儀での儀仗、奏楽、列を見送るための整列。陸自の儀仗隊、計5つの音楽隊など陸海空3自衛隊の部隊のほか、防大生…防衛医大生…。昨年2月の大喪の礼とほぼ同じ形だ」(1990年11月13日付朝日新聞)
前回、裕仁天皇から明仁天皇への代替わりを機に公然化した天皇と自衛隊の結びつきが、今回の徳仁天皇への代替わりで継承・定着されたのです。
自衛隊法(第7条)では、自衛隊の最高指揮・監督者は内閣総理大臣です。しかし、「自衛隊のなかには、内閣総理大臣のために死ぬというのでは隊員の士気があがらないので、ふたたび(皇軍のように―引用者)天皇を忠誠の対象としようとする動きがあり、天皇と自衛隊との結びつきは、特に1960年代以降、深まっている」(横田耕一氏、前掲書)。
1960年といえば、日米安保条約が改訂され、米軍との一体化(従属)がいっそう強化された年です。そのころから強まった自衛隊の「天皇を忠誠の対象としようとする動き」。それが、1990年の裕仁から明仁への代替わりで公然化。そしていま、戦争法(安保法制)によって米軍と一体化した自衛隊が戦争を行う軍隊になろうとしている中で行われた徳仁への代替わりで、自衛隊と天皇の結びつきはいっそう顕著になっている―。この自衛隊と日米安保条約と天皇の関係性・危険性を凝視する必要があります。
自衛隊解散、日米安保条約廃棄、天皇制廃止はまさに一体の課題です。
22日の徳仁天皇「即位の礼」で見過ごすことができないもう1つの重大な問題は、天皇と自衛隊の親密な関係が強調されたことです。
「天孫降臨」を具現化した「高御座」から徳仁天皇が「即位」の「宣明」を行い、それを受けて安倍晋三首相が「寿詞」を読み上げたのに続き、「天皇陛下万歳」を三唱。その時、大砲が鳴り渡りました。その数21。陸上自衛隊による「礼砲」です(写真左)。
陸上自衛隊はその動画をユーチューブに投稿し、こうコメントしています。
「陸上自衛隊は、即位の礼において、天皇陛下に対する祝意を表す礼砲を実施しました。総理大臣の万歳三唱に合わせて21発の礼砲が周囲に響き渡り、無事に任務を完遂することができました」
自衛隊は「礼砲」によって、「即位礼正殿の儀」に参加し、その「任務を完遂」したのです。神道儀式による天皇の「即位宣明」、首相の「寿詞」と「天皇陛下万歳」、そして「皇軍」の末裔である自衛隊の「礼砲」――まさに天皇・政府・軍隊の三位一体によって戦前の天皇制帝国日本が再現された光景です。
「天皇即位礼」にに対する自衛隊の「祝意」表明は、陸自の「礼砲」だけではありませんでした。海上自衛隊はこの日、朝から夕方まで艦船に「日の丸」を中心とした「万国旗」を掲揚しました。「満艦飾」です(写真中)。夜は電飾による「電燈艦飾」になったといいます。
海自呉総監部の広報係長は、「天皇陛下ご即位に対する敬意を表しております」とコメントしています(22日の中国地方ローカルニュース)。
自衛隊と天皇の関係は発足当時から特別なものがあります。帝国日本の侵略戦争・植民地支配の“旗印”となった「旭日旗」を、陸自、海自とも隊旗、艦旗として掲げ続けているのはその象徴です。
昨年、韓国が自衛隊に済州島で行われる国際観艦式での「旭日旗」自粛を求めた時、河野克俊統合幕僚長(当時)は記者会見で、「海上自衛官にとって自衛艦旗(旭日旗)は誇りだ。降ろしていくことは絶対にない」と言い切りました(2018年10月6日付朝日新聞)。自衛隊にとって「旭日旗」は「誇り」なのです。自衛隊トップがそう公言する根底には、天皇への忠誠心、天皇制軍隊への思慕があるのではないでしょうか。
自衛隊の天皇への特別の思いを示すものはまだあります。
昨年3月、安倍政権は自衛隊に「日本の海兵隊」といわれる「水陸機動団」を創設しました。その団旗の意匠はなんと、「三種の神器」の1つ「草薙の剣」です(写真右)。22日の「即位礼当日賢所大前の儀」では天照大神を祀る賢所へ入る徳仁天皇を先導し、「正殿の儀」では「高御座」で天皇の横に安置された、あの「草薙の剣」です(皇居にあるのはレプリカ。本物は熱田神宮に安置)。
天皇は自衛隊にとって特別の存在なのです。「旭日旗」や「三種の神器」を旗印にすることが彼らの「誇り」です。「礼砲」はまさに自衛隊の心からの「祝意」の表明だったのでしょう。
「安保法制」によって日米軍事一体化、自衛隊海外派兵が公然と行われるようになったのと軌を一にして、天皇と自衛隊の特別の関係が誇示されるようになってきました。そのことの重大な意味、危険性に目を向けなければなりません。