アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

天皇訪英の狙い吐露した駐日英大使のコメント

2024年07月01日 | 天皇制と日米安保・自衛隊
   

 在日英国大使館は6月28日、訪英中の天皇が予定されていた公式行事を終えたことを受け、ジュリア・ロングボトム駐日大使の「総括コメント」を発表しました。朝日新聞デジタル(28日付)が全文掲載しました。

 その中で、今回天皇が「国賓」としてイギリスを訪れた意味、日英政府にとっての狙いがどこにあるかを示す注目すべきコメントをしています(以下、「総括コメント」から抜粋、用語はそのまま)。

「今回のご訪英は、日英関係にとってまさに絶好のタイミングで行われました。天皇陛下が国賓晩餐会のスピーチで述べられたように、英国と日本は「かけがえのない友人」であり、日英関係はかつてないほど強固なものへと発展しています。我々はこれまでCPTPP(米国抜きの環太平洋経済連携協定)、GCAP(グローバル戦闘航空プログラム)、サイバーセキュリティー、デジタル、洋上風力発電、科学技術など、さまざまな重要分野において新たなパートナーシップを築いてきました。特に、昨年の広島アコードの合意は、これらの協力関係をさらにさらに促進させる追い風となりました。

 今回のご訪英により、日英関係が未来に向かって進んでいることを世界に発信することができました。地球をより平和で安全な場所にするため両国で協力していくことが改めて強調されました。命を救うための世界との協力をテーマとする2025年の万博への英国の貢献や、来年の空母打撃群の訪問、そしてその先まで、私たちは共に歴史の新たなページを刻んでいきます」

 「GCAP(グローバル戦闘航空プログラム)」とは、日本とイギリスとイタリアが共同ですすめている第6世代ジェット戦闘機の開発プログラムです(写真右は防衛省が公表したイメージ図)。

 「昨年の広島アコードの合意」とは、昨年5月17日、G7サミットが開催された広島でスナク首相と岸田首相が会談して合意した「防衛協力などを強化する戦略協定」(23年5月18日付朝日新聞デジタル)です。
 それには、「合同軍事演習での英軍の規模を倍増させることや、2025年に英空母打撃群をインド太平洋に再び展開することなど」(同)が盛り込まれています。

 ロングボトム大使の「総括コメント」は天皇訪英がたんなる「国際親善」ではなく、きわめて政治的なものであることを明確に示しています。
 とりわけそれは、次期戦闘機の共同開発、共同軍事演習の拡大・強化など日英の軍事協力関係を「世界に発信する」「絶好のタイミングに行われた」というより、「絶好のタイミングに」設定されたものだということです。

 日英間の軍事協力の強化については、チャールズ国王も晩さん会のスピーチで述べましたが(6月28日のブログ参照)、同大使の「コメント」はそれを具体的に述べたものと言えるでしょう。

 木原防衛相が今月下旬に訪英し、次期戦闘機共同開発の段取りを進めることが、天皇訪英を無関係ではないのではないかと書きましたが(6月21日のブログ)、同大使のコメントはその疑惑を裏付けるものです。

 NHKはじめ日本のメディアは「国際親善のための天皇訪英」と繰り返し美化しましたが、そうした報道が天皇訪英の危険な実態・狙いを隠ぺいする役割を果たしていることは明らかです。

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「陸自HPに牛島司令官辞世の歌」問題の核心は何か

2024年06月06日 | 天皇制と日米安保・自衛隊
   

 3日付琉球新報は1面トップで、沖縄戦の第32軍司令官・牛島満の辞世の歌を、陸上自衛隊第15旅団が公式HPに掲載している問題を報じました(写真左は同HPより)。

 掲載されている牛島の辞世の歌は、「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国の春に 甦らなむ」。防衛省によれば2018年から同旅団の「沿革」欄に掲載されています。

 直訳すれば、沖縄の青草が天皇の治める国に甦ってほしい、という意味ですが、歌人の名嘉真恵美子さんは、「青草」には「臣民」のイメージがあり、「天皇の臣民に再び立ち上がってほしいという願いがあると解釈できる」(4日付沖縄タイムス)と指摘しています。

 4日の参院外交防衛委員会で高良鉄美議員(沖縄の風)が「極めて不見識、不適切」と削除を要求しました。しかし木原稔防衛相は、「誤解があってはならず丁寧に説明しなければならない」とするだけで、削除要求をはねつけました。

 牛島の歌が「皇国史観そのもの」(沖縄県平和委員会・大久保康裕事務局長、3日付琉球新報)であることは確かです。「「皇国史観」復活の動きは断じて認められない」(4日付琉球新報社説)のは当然です。

 しかし、3~5日に琉球新報、沖縄タイムスに掲載された「識者」のコメントや新聞論調には妥当性を欠くものが少なくありません。

 たとえば、「佐道明広中京大教授は…沖縄の自衛隊が「日本軍とは違う」と地道な活動をして受け入れられてきた経緯を振り返り、「これまで住民感情を重視して受け入れられてきたのに、もう住民感情はいいのかとなる。大臣は『日本軍との連続性を疑わせるものはあってはならない』と削除を指導すべきだ」と語った」(5日付琉球新報)。

 あるいは、「これを掲載することは、国民ではなく国と国体を守る旧軍の思想を継承するかのような行為で、沖縄県民として穏やかではいられず、恐怖すら感じる。自衛隊が「軍」となっては明確な9条違反となる。憲法を無視するような発想をする人が、自衛隊の中に入り込んでいる」(前泊博盛・沖縄国際大教授、4日付沖縄タイムス)。

 これに通じるのが、「日本国憲法下、日本には軍隊はなく、自衛隊は軍隊ではない文民統制の組織として存在してきた。天皇主権の「皇国」も、天皇の軍隊を意味する「皇軍」も、憲法で否定したはずだ」(4日付琉球新報社説)。

 これらの論調に共通しているのは、自衛隊は軍隊ではなく、住民の支持も得てきている、だから「県民感情」を考慮して、旧日本軍との連続性を疑われる(誤解される)ような牛島の辞世の歌は掲載すべきではない、ということです。

 これは何重にも誤った論調です。

 第1に、自衛隊はれっきとした軍隊であり、したがって憲法違反の存在です。

 第2に、自衛隊と旧日本軍=皇軍の連続性は誤解ではなく厳然たる事実です。
 自衛隊は発足時から旧日本軍関係者が関与しています。自衛隊が旧日本軍との連続性・一体性を追求していることは、今回の問題に限らず、6月23日の「黎明之塔」の集団参拝、最近表面化した靖国神社の集団参拝などでも明白です。
 そもそも自衛隊は、「皇軍」の象徴だった「旭日旗」を、「自衛隊旗」(陸自)や「自衛艦旗」(海自)にしています。そこに「皇軍」との連続性が端的に表れています。

 第3に、皇軍との連続性と関連しますが、自衛隊は組織として天皇(制)自体にも強い親和性を持ち、「皇軍」であることを目指しています。例えば、安倍晋三政権が2018年3月に創設した「水陸機動団」の紋章は「三種の神器」の1の「草薙の剣」です(24年3月23日のブログ参照)。

 牛島の辞世の歌を削除させる必要があるのは当然ですが、削除してすむ問題ではありません。それは上記の論調のような「誤解」や「住民感情」の問題ではないからです。

 自衛隊は生まれも育ちも、旧日本軍と連続性があり、「皇軍」であることを目指している軍隊です。憲法の主権在民にも平和主義にも反する軍隊です。憲法違反の軍隊の存在を容認することはできません。それが今回の問題の核心です。

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天皇・災害・自衛隊の危険な関係

2024年03月23日 | 天皇制と日米安保・自衛隊
   

 徳仁天皇と雅子皇后が22日、能登半島の被災地を訪れました。羽田空港から政府特別機で午前11時前に能登空港に着き、被災地へ向かうために乗り換えました。乗ったのは自衛隊のヘリコプターです(写真左=朝日新聞デジタルより)。

 現地の状況などからしても自衛隊のヘリでなければならない必然性はありません。なぜあえて自衛隊ヘリなのか。天皇・皇后を自衛隊機に乗せたいという意図が働いたと言わざるをえません。

 未曾有の大災害である2011年の「3・11」は、(象徴)天皇制にとっても大きな画期となりました。天皇制史上初の「天皇ビデオメッセージ」(2011年3月16日)も「3・11」直後でした。
 その画期の重要な内容の1つが、天皇と自衛隊の接近です(2016年3月14、15、16、17日のブログ参照)。

 天皇が自衛隊機(軍用飛行機・ヘリ)で被災地を訪れることも「3・11」直後の明仁天皇(当時)から常態化し始め、その後の熊本地震の現地訪問でも踏襲されました。今回の徳仁天皇の能登訪問もその延長線上です。

 この背景には、自衛隊側からの天皇に対する特別な思い入れがあります。明仁天皇の「ビデオメッセージ」に対する君塚栄治・陸自東北方面総監(当時)の「感動」はそれを象徴しています(16年3月14日あるいは23年10月10日のブログ参照)。

 折しも、天皇が能登を訪れた前日の21日、「日本版海兵隊」といわれる陸上自衛隊水陸機動団の3つ目の連隊(水機連)が竹松駐屯地(長崎県大村市)で発足しました。
 水陸機動団は米軍指揮の下での「南西離島奪還」を主な任務として安倍晋三政権が2018年3月に創設したものですが、その紋章は皇室の「三種の神器」の1つである「草薙の剣」です(写真右)。

 ここにも表れているように、自衛隊は「天皇の軍隊」であった旧日本軍の思想・伝統を色濃く継承しています。天皇に対する特別な感情、思い入れはそうした日本の軍隊としてのアイデンティティに根差すものです。

 憲法(前文、9条)に明確に違反している自衛隊を市民・社会に浸透させるため、自民党政権が「災害出動」を利用していることは周知の事実ですが、政府・防衛省は今回能登に対して新たな手法もとりました。自衛隊の広告塔であるブルーインパルス(酷空自衛隊アクロバット飛行チーム)を輪島市、珠洲市上空に飛ばしたのです(18日、写真中=朝日新聞デジタル)。
 ブルーインパルスは昨年10月7日の国民体育大会開会式でも上空を飛行し、徳仁天皇・雅子皇后が見上げて拍手を送ったばかりです(23年10月10日のブログ参照)。

 先に自衛隊と靖国神社の急接近について、自衛隊の旧軍意識の継続と同時に、「戦争法(安保法制)」「軍拡(安保)3文書」の下で新たな意味があると書きましたが(19日のブログ)、自衛隊と天皇の接近にも同じ危険性があることを銘記する必要があります。

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靖国神社と自衛隊の急接近は何を意味するか

2024年03月19日 | 天皇制と日米安保・自衛隊
  

 「靖国神社宮司に元海将」―16日付京都新聞(共同)に小さなベタ記事が載りました。

「靖国神社は15日、山口建史宮司が今月限りで退任し、後任に元海将の大塚海夫氏(63)が4月1日付で就任すると発表した、自衛官出身の宮司は2人目」

 朝日新聞によると、「将官を務めた元自衛隊幹部の靖国神社トップへの就任は、初めてとなる。…旧日本軍の戦没者らがまつられる靖国神社は第2次大戦当時、陸海軍の管轄下にあり、鈴木孝雄・陸軍大将が宮司を務めた。
 敗戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の神道指令で国や旧軍から切り離され、民間の宗教法人に転換。宮司には元皇族、神社関係者らが就いてきた」(15日付朝日新聞デジタル)

 敗戦後初となる自衛隊元将官の靖国神社宮司就任は、明らかに戦前・戦中回帰と言えるでしょう。

 靖国神社への自衛隊の接近が目立ちます。

 ことし1月9日、陸上自衛隊の小林弘樹陸上幕僚副長ら数十人が集団参拝したことが明らかになりました(1月13日のブログ参照)。

 憲法20条の政教分離原則から、防衛省は事務次官通達(1974年)で宗教施設への参拝を禁止しています。陸自幹部らの集団参拝が憲法はもちろん事務次官通達にも違反していることは明らかです。

 しかし木原稔防衛相は1月30日の記者会見で、「通達は50年前のもの。内容は不断に検討し、必要に応じて改正を行うべきだ」(1月30日付朝日新聞デジタル)として、次官通達の方を変えるべきだとの考えを示しました。

 その3週間後の2月20日、海上自衛隊の酒井良海上幕僚長は記者会見で、昨年5月17日に海自幹部候補生学校の卒業生ら「多くの人間」が「歴史学習として…休憩時間に…希望者が制服姿で」靖国神社を集団参拝していたことを明らかにしました。

 酒井幕僚長は「私的参拝」と強弁しましたが、靖国神社の社報(昨年7月号)は参拝する写真とともに「(初級幹部らが)航海に先立ち正式参拝した」と記しています(2月20日付朝日新聞デジタル)。

 こうした自衛隊の靖国神社への接近について、塚田穂高・上越教育大准教授(宗教社会学)は、「自衛隊には戦前と連続性を持った「旧軍意識」があるのではないか。…靖国神社は、戦前と戦後、旧軍と自衛隊を精神的につなげるシンボリックな存在と言えるのではないか」(2月22日付朝日新聞デジタル)と指摘します。

 重要なのは、靖国神社はたんなる「シンボル」ではないことです。

 靖国神社の本質は、「創建の目的が天皇に忠誠をつくして死んだ人々の慰霊と顕彰にある」(吉田裕・一橋大教授、『岩波 天皇・皇室辞典』2005年)ことです。そのためA級戦犯を含め多くの軍人や「明治維新殉難者」らが合祀されています。
 しかし、自衛隊の殉職者は合祀されていません。

 吉田裕氏は19年前の前掲書で、「自衛隊の海外活動が本格化する中で、「戦死者」が出た場合には、靖国神社や護国神社(靖国神社の地方分社-私)への合祀を求める動きが台頭してくる可能性がある」と警鐘を鳴らしました。
 それがいま、現実のものになろうとしているのではないでしょうか。

 海自幹部候補らが集団参拝したのは、岸田文雄政権が「軍拡(安保)3文書」を閣議決定(2022年12月16日)して5カ月後のことです。
 安倍晋三政権による集団的自衛権容認の「戦争法(安保法制)」(2015年9月)と「軍拡3文書」によって、日本が日米安保条約によって戦争国家となることがますます現実的になっていることと、自衛隊の靖国神社への接近はけっして無関係ではありません。

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天皇と自衛隊の危険な接近―国体とブルーインパルス

2023年10月10日 | 天皇制と日米安保・自衛隊
   

 徳仁天皇と雅子皇后は7日、鹿児島で開会した国民体育大会(国体)の開会式に出席しました。国体は来年、名称が国民スポーツ大会(国スポ)に変わり、国体の名前では最後の開催です。

 開会式で天皇・皇后は、空を見上げて感動した表情を見せました(写真左、朝日新聞デジタルより)。彼らの視線の先にあったのは、ブルーインパルスです(写真中、同)。

 ブルーインパルスは、「航空自衛隊の存在を多くの人々に知ってもらうために…アクロバット飛行を披露する専門のチーム」(防衛省・自衛隊HP)、すなわち自衛隊の広告塔です。

 ブルーインパルスが国体の開会式で飛ぶのは、2014年の第69回長崎大会以来(同HPの年表より)。徳仁天皇がブルーインパルスを直接見るのはおそらく初めてではないでしょうか。天皇・皇后は強い印象を受けたようです。

 なぜ9年ぶりに国体で飛ぶことになったのか? 説明はありませんが(報じられていない)、いくつかの意味が考えられます。

 1つは国体の名称としては最後の大会だということです。

 国体と天皇(制)の関係は浅くありません。戦前・戦中そして日本国憲法制定までの天皇制国家体制を「国体」と称していたことは言葉の偶然としても(まったく無関係とは思いませんが)、国体は天皇が恒例として出席し自らの存在を誇示する主要な場の1つです。

 第1回国体は1946年、京都市を中心に近畿一円で行われました。徳仁天皇の祖父・裕仁が初めて開会式に出席したのは翌47年の第2回大会(石川県)です。

 戦後、マッカーサーは天皇制を日本統治に利用するため、天皇に全国を回らせ「象徴天皇」の印象付けを図りました。「巡幸」の開始です(46年から)。国体出席もその一環です。49年の第4回大会(東京都)から皇后(香淳)も出席しました(写真右)。

 一方、旧日本軍の流れをくむ軍隊である自衛隊は、発足(1954年)から今日まで天皇への敬慕を隠していません。

 たとえば、安倍晋三政権は2018年3月、「日本の海兵隊」といわれる「水陸機動団」を編成しましたが、その「旗印」は「三種の神器」の1つの「草薙の剣」です。

 また、徳仁天皇の父・明仁は、東日本大震災の直後、史上初の「ビデオメッセージ」を全国に流しましたが(それ自体大問題)、その中で「消防、警察」の前に「自衛隊」の名前を挙げ、その労をねぎらいました。

 その順番を敏感に聴き取った陸上自衛隊東北方面総監(当時)の君塚栄治は、「あっと思い」「今まで以上に自衛隊が頼りにされている」と「感動した」と述べています(2014年4月28日付朝日新聞)。ちなみに君塚は、「沖縄慰霊の日(6・23)」の未明に自衛隊幹部が制服で摩文仁の丘の「黎明の塔」(牛島満、長勇を祀る)を参拝する行事を復活させた人物です。

 鹿児島国体での9年ぶりのブルーインパルス飛行は、客観的に見れば自衛隊による天皇徳仁への接近です。それが、岸田政権が「軍拡(安保)3文書」を閣議決定(22年12月16日)し、日本の戦争国家化が急速に進行している中で行われたことを、けっして軽視することはできません。


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ウクライナ戦争と「4・28」屈辱の日

2022年04月28日 | 天皇制と日米安保・自衛隊
   

 4月28日はサンフランシスコ講和条約・日米安保条約が発効(1952年)して70年です。日本国憲法が及ばない米軍占領下に取り残された沖縄は、この日を「屈辱の日」としています(写真中は51年9月8日の調印)。
 しかし、「4・28」が「屈辱の日」なのは、沖縄だけではありません。この日を境に日本全体が新たな屈辱の下に置かれました。その意味が、「ウクライナ戦争」の中であらためて問われています。

 敗戦後の最大の政治問題は講和条約の締結でした。焦点は、日本と交戦した55カ国すべてと講和条約を結ぶ「全面講和」か、アメリカ主導の「単独(片面)講和」かです。

 1948年、日本国憲法を擁護する学者・識者らが結集して「平和問題談話会」が結成されました。メンバーは、末川博、矢内原忠雄、大内兵衛、安倍能成、恒藤恭、丸山真男らそうそうたる顔ぶれです。
 1950年、「講和問題についての平和問題談話会声明」が出されました。その冒頭はこう述べています。

「今後における日本の民主化の一層の発展は…日本国民が講和の確立を通じて世界の諸国民との間に自由な交通と誠実な協力との関係を樹立することを以て、必須の条件とする。今や講和の確立及び占領の終結は一切の日本国民の切迫した必要であり要求である」(「世界」1950年3月号)

 この立場から同談話会は次の4つの方針を示しました。

①講和問題は、全面講和以外にない。
②日本の経済的自立は単独講和によっては達成されない。
③講和後は、中立不可侵とあわせて国連加盟を希望する。
④いかなる国に対しても軍事基地を与えることは絶対に反対する。

「単独講和か全面講和かの選択は、講和後の日本のあり方を決定するものであった。前者をとれば、それは在日アメリカ軍の駐留を認め、西側陣営の一員として東側陣営との対立構図に組み込まれることを意味した。反対に後者をとれば、憲法九条のもと徹底した平和主義を追求するため、中立国となることを意味した」(礒村英司・福岡国際大准教授『戦争する国にしないための中立国入門』平凡社新書2016年)

 談話会声明の主張はじめ世論に反し、日本政府(吉田茂政権)は「単独講和」(ソ連、中国など11カ国を排除)に踏み切りました。これが敗戦後日本の、今日に続く大きな分岐点となりました。

 吉田政権を単独講和に踏み切らせたものは何だったか。それは天皇裕仁の思惑です。

天皇(裕仁)早くも…四七年五月に、事実上のアメリカの軍事力による日本の安全保障という構想を、マッカーサーとの第四回会見で提起し要請していた。そして、この構想の具体化が、「池田(勇人)ミッション」に示された方針、つまり基地の「自発的なオファ」という基本方針の貫徹であった。さらに、安保条約を“根底”で支える沖縄問題についても、天皇は早い段階からイニシアティヴをとった」(豊下楢彦『安保条約の成立―吉田外交と天皇外交―』岩波新書1996年)

 沖縄問題での裕仁の「イニシアティヴ」が、沖縄を軍事植民地としてアメリカに差し出す「沖縄メッセージ」(1947年9月)であることはいうまでもありません。

 敗戦日本の歴史的分岐点となったアメリカ主導の「単独講和」。それと一体の日米安保条約締結。それは、「国体」=天皇制の維持と自らの戦争責任追及を回避するため、天皇裕仁が敗戦直後から構想していた路線です。

 いま、ロシアとアメリカの代理戦争であるウクライナ戦争で、日本政府がアメリカの戦略に追随し(写真右)、便乗してさらなる軍拡、敵地攻撃さえ検討しているのは、天皇裕仁が切望した70年前の「単独講和・日米安保条約」に根源があることを歴史の事実として銘記する必要があります。 (明日金曜日も更新します)

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日本の恥辱・天皇の「沖縄メッセージ」から73年

2020年09月19日 | 天皇制と日米安保・自衛隊

    

 沖縄の平和・民主勢力は4月28日を「屈辱の日」といいます。1952年のこの日、日米安保条約とともに締結された「サンフランシスコ講和条約」が発効し、沖縄が「本土」から切り離されてアメリカの統治下におかれることになったからです。歴代自民党政府がこの日を「主権回復の日」として式典を行うのと対照的で、沖縄の苦難の歴史を示すものです。

 しかし、敗戦後の歴史で、沖縄にとって真の「屈辱の日」は別にあるのではないでしょうか。それは今日、9月19日です。なぜならこの日は、アメリカの軍事占領、基地被害の元凶であるサ条約・日米安保条約へ軌道を敷いた、天皇裕仁(当時)の「沖縄メッセージ」が発せられた日だからです。(写真左=マッカーサー・裕仁第1回会談―1945・9・27、写真中=「主権回復」式典で明仁天皇に万歳する安倍首相―2014・4・28、写真右=「即位礼」で徳仁天皇に万歳する安倍首相―2019・10・22)

 『昭和天皇実録』(宮内庁、2014年9月公表)の「一九四七年九月一九日付」にはこう記されています。

 「この日午後、寺崎(英成)は対日理事会議長兼連合国最高司令部外国局長ウィリアム・ジョセフ・シーボルトを訪問する。シーボルトは、この時寺崎から聞いた内容を連合国最高司令官(二十日付覚書)及び米国国務長官(二十二日付書簡)に報告する。

 この報告には、天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなるとのお考えである旨、さらに、米国による沖縄等の軍事占領は、日本に主権を残しつつ、長期貸与の形をとるべきであると感じておられる旨、この占領方式であれば、米国が琉球諸島に対する恒久的な意図を何ら持たず、また他の諸国、とりわけソ連と中国が類似の権利を要求し得ないことを日本国民に確信させるであろうとのお考えに基づくものである旨などが記されている。」(豊下楢彦著『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年より)

 上記「長期貸与」の「長期」は、「メッセージ」原文では「二五年ないし五〇年、あるいはそれ以上」となっていました(豊下氏、前掲書)。

 当時米国内では沖縄の統治方式について意見が分かれていましたが、この裕仁の「メッセージ」によって方針が決まり、それがサ条約第3条「(米国が沖縄の)行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする」という規定につながりました。

 裕仁の「メッセージ」は、自らの保身と「本土保護」のため、そして「米国の利益」のために沖縄を生贄にしたものです。

 それは沖縄にとって屈辱的だっただけではありません。日本(日本人)にとっても極めて重大な意味をもっていました。

 「天皇の『沖縄メッセージ』は、憲法の制約から儀礼的役割以外何もできないはずの彼が、秘密で外交・内政上の役割を演じ続けていたことを証明するものだった。…彼も外務省も、平和条約の締結後、なおアメリカ軍が日本の内外に留まることを望んだ。同時に彼は、東京裁判の継続中は、保身のためアメリカを引きつけておく必要も感じていただろう。
 だが何よりも天皇のメッセージは、象徴天皇制と、憲法九条と、アメリカによる沖縄の軍事化との強い関連性を物語っていた」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇 下』講談社学術文庫2005年)

 裕仁の「沖縄メッセージ」が発せられた「9・19」は、沖縄にとって真に「屈辱の日」であるだけでなく、日本(日本人)にとって、対米従属の軍事同盟=日米安保体制と憲法9条、沖縄、そして天皇制の関係を象徴的に示す、今につながる「恥辱の日」にほかなりません。


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朝鮮戦争・天皇裕仁・日米安保

2020年06月25日 | 天皇制と日米安保・自衛隊

    
 朝鮮戦争勃発(1950・6・25)から今日で70年。コリア半島情勢は新たな困難を抱えていますが、この節目に私たち日本人があらためて確認する必要があるのは、朝鮮戦争(休戦中)はけっして他人事ではないということです。

 そもそも、日本がコリア半島を植民地支配しなければ、南北分断も朝鮮戦争(「6・25戦争」)もありえませんでした。戦闘中、日本は国連軍(実質アメリカ軍)の出撃・後方支援基地となりました。また、敗戦後の日本経済が朝鮮戦争特需で復興したのは周知の事実です(開戦後1年で日本の工業生産は46%上昇)。こうしたことはけっして忘れてならない重要な事実ですが、ここでは別の問題を考えます。

 天皇裕仁(昭和天皇)は敗戦後、連合軍(GHQ)最高司令官マッカーサーと計11回会談しています。第9回会談(1949・11・26)の焦点は「講和問題」でした。

 「会見の冒頭でマッカーサーは『なるべく速やかに講和条約の締結を見ることが望ましいと思います』と問いかけたが、天皇は『ソ連による共産主義思想の浸透と朝鮮に対する侵略等がありますと国民が甚だしく動揺するが如き事態となることを懼(おそ)れます…』と答えた。あたかも、七カ月後の朝鮮戦争の勃発を予見していたかのような昭和天皇の発言には驚く外はない」(豊下楢彦氏『昭和天皇の戦後日本』岩波書店2015年)

 第10回会談(1950・4・18)は朝鮮戦争の約2カ月前でした。ここで裕仁は、「日本の安全保障の問題ですが、米国は極東に対する重点の置き方が欧州に比し軽いのではないでしょうか」と懸念を表明しました。この会談では「実は重要な“すれ違い”が生じていた。…前回の会見で“約束”した米軍の駐留については、(マッカーサーが―引用者)最後まで明言を避け続けた」(豊下前掲書)からです。

 そして朝鮮戦争勃発。2日後の6月27日に米トルーマン大統領は米軍に出動を命じるとともに、国連安保理に働きかけ、「国連軍」の形式で参戦を決議させました。アメリカの素早い対応は、朝鮮の動向が「マッカーサーの極東軍によって一年前からことごとくつかまてい(た)」(萩原遼氏『朝鮮戦争』文春文庫1997年)からだといわれています。

 天皇裕仁は戦争勃発の当日と翌日に侍従長から説明を受けています。「朝鮮戦争は昭和天皇をして、米軍の存在の重要性に関する認識を決定づけるものであった」(豊下前掲書)のです。

 裕仁は直ちに行動に移しました。開戦翌日の6月26日、「天皇は自らダレス(講和問題のために来日していた国務長官特別顧問―引用者)を通じてワシントンに(米軍駐留を―引用者)働きかける道に踏み出した。それが、『口頭メッセージ』である」(豊下前掲書)。
 「口頭」だけでは足らず、裕仁は米軍駐留、アメリカの重点関与の要望を文書にしてダレスに送りました。「文書メッセージ」(8月19日)です。

 「昭和天皇は右のメッセージで、マッカーサーを“バイパスする”ばかりではなく、講和問題や日本の安全保障の問題を、首相である吉田茂に任せておくことはできないという立場を鮮明に打ち出した」(豊下前掲書)

 翌1951年9月8日、日本は「サンフランシスコ講和条約」(単独講和)とともに日米安全保障条約を締結。裕仁が望んだ通り、米軍の基地が日本全土に張り巡らされることになりました(全土基地方式)。

 同時に日本は、警察予備隊(50年8月)から保安隊(52年10月)へ、そして自衛隊(54年6月)へと、再軍備を本格的に進めていきました。

 以上から明らかなことは、日米軍事同盟(安保体制)、日本の再軍備という憲法の平和原則違反は、「共産主義から国体(天皇制)を守る」ため自らアメリカに懇願した天皇裕仁よって推進されたということです。その決定的な契機になったのが朝鮮(6・25)戦争でした。こうした裕仁の一連の言動が、天皇の政治的関与を禁じた現行憲法下で行われたことも忘れてはなりません。

 その日米安保=軍事同盟は集団的自衛権行使にまで深化し、自衛隊は年間軍事費5兆円超まで膨張し、レールを敷いた裕仁の戦後責任(戦争・植民地支配責任は言うに及ばず)は全く追及されることもなく、「天皇制」は連綿と続き、天皇キャンペーンが政権やメディアによって繰り返されている。それが今日の日本であることを私たちは肝に銘じる必要があります。


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「天皇即位パレード」と自衛隊

2019年11月12日 | 天皇制と日米安保・自衛隊

    

 徳仁天皇の「即位礼正殿の儀」(10月22日)における天皇と自衛隊の関係については先に書きましたが(10月29日のブログ参照)、10日行われた「即位パレード」(「祝賀御列の儀」)で、あらためてその密接な関係が印象付けられました。

 皇居から赤坂御所まで全長4・6㌔の「パレード」では、何カ所かで音楽隊が行進曲などを演奏しましたが、コースの最終地点、赤坂御所附近で天皇・皇后を迎えたのは、陸上自衛隊の音楽隊と儀仗隊でした。「パレード」を締めくくったのが自衛隊だったわけです。

 儀仗には「儀式を行う」という意味とともに「警護する」という意味があります。赤坂御所の前に整列した儀仗隊は、天皇を警護する自衛隊でもあります。儀仗にはそういう意味があるため、自衛隊が天皇を儀仗することはしばらくタブーでした。それが自衛隊の不満のタネでした。

 その禁を取り払って、自衛隊が初めて公然と天皇に対して「捧げ銃」(ささげつつ)で儀仗したのは、裕仁天皇の葬儀(「大喪の礼」1989年2月24日)でした。

 「天皇の代替わりは、自衛隊と天皇の結合を公然化する場となった。すなわち、昭和天皇の大喪の礼にあたっては、1900名の自衛官が参加し、天皇の柩を乗せた車は自衛官の堵列(とれつ=横に並んだ列―引用者)によって迎えられ、三カ所で着剣捧げ銃の儀仗が行われ、自衛隊は『哀しみの極』の演奏と弔砲で天皇の死を悼んだのであった。同様に、90年秋の即位の礼においても、自衛隊は祝賀御列の儀などで前面に登場することになっている」(横田耕一著『憲法と天皇制』岩波新書1990年)

 事実その通りになりました。1990年11月12日に行われた前回の「即位の礼」でも自衛隊が前面に出ました。

 「自衛隊は、即位の礼の式典のために1670人を動員した。正殿の儀の万歳三唱に合わせた礼砲、御列の儀での儀仗、奏楽、列を見送るための整列。陸自の儀仗隊、計5つの音楽隊など陸海空3自衛隊の部隊のほか、防大生…防衛医大生…。昨年2月の大喪の礼とほぼ同じ形だ」(1990年11月13日付朝日新聞)

 前回、裕仁天皇から明仁天皇への代替わりを機に公然化した天皇と自衛隊の結びつきが、今回の徳仁天皇への代替わりで継承・定着されたのです。

 自衛隊法(第7条)では、自衛隊の最高指揮・監督者は内閣総理大臣です。しかし、「自衛隊のなかには、内閣総理大臣のために死ぬというのでは隊員の士気があがらないのでふたたび(皇軍のように―引用者)天皇を忠誠の対象としようとする動きがあり、天皇と自衛隊との結びつきは、特に1960年代以降、深まっている」(横田耕一氏、前掲書)。

 1960年といえば、日米安保条約が改訂され、米軍との一体化(従属)がいっそう強化された年です。そのころから強まった自衛隊の「天皇を忠誠の対象としようとする動き」。それが、1990年の裕仁から明仁への代替わりで公然化。そしていま、戦争法(安保法制)によって米軍と一体化した自衛隊が戦争を行う軍隊になろうとしている中で行われた徳仁への代替わりで、自衛隊と天皇の結びつきはいっそう顕著になっている―。この自衛隊と日米安保条約と天皇の関係性・危険性を凝視する必要があります。
 自衛隊解散、日米安保条約廃棄、天皇制廃止はまさに一体の課題です。


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「天皇即位礼」と自衛隊

2019年10月29日 | 天皇制と日米安保・自衛隊

     

 22日の徳仁天皇「即位の礼」で見過ごすことができないもう1つの重大な問題は、天皇と自衛隊の親密な関係が強調されたことです。

 「天孫降臨」を具現化した「高御座」から徳仁天皇が「即位」の「宣明」を行い、それを受けて安倍晋三首相が「寿詞」を読み上げたのに続き、「天皇陛下万歳」を三唱。その時、大砲が鳴り渡りました。その数21。陸上自衛隊による「礼砲」です(写真左)。

 陸上自衛隊はその動画をユーチューブに投稿し、こうコメントしています。
 「陸上自衛隊は、即位の礼において、天皇陛下に対する祝意を表す礼砲を実施しました。総理大臣の万歳三唱に合わせて21発の礼砲が周囲に響き渡り、無事に任務を完遂することができました」

  自衛隊は「礼砲」によって、「即位礼正殿の儀」に参加し、その「任務を完遂」したのです。神道儀式による天皇の「即位宣明」、首相の「寿詞」と「天皇陛下万歳」、そして「皇軍」の末裔である自衛隊の「礼砲」――まさに天皇・政府・軍隊の三位一体によって戦前の天皇制帝国日本が再現された光景です。

  「天皇即位礼」にに対する自衛隊の「祝意」表明は、陸自の「礼砲」だけではありませんでした。海上自衛隊はこの日、朝から夕方まで艦船に「日の丸」を中心とした「万国旗」を掲揚しました。「満艦飾」です(写真中)。夜は電飾による「電燈艦飾」になったといいます。
 海自呉総監部の広報係長は、「天皇陛下ご即位に対する敬意を表しております」とコメントしています(22日の中国地方ローカルニュース)。

  自衛隊と天皇の関係は発足当時から特別なものがあります。帝国日本の侵略戦争・植民地支配の“旗印”となった「旭日旗」を、陸自、海自とも隊旗、艦旗として掲げ続けているのはその象徴です。

 昨年、韓国が自衛隊に済州島で行われる国際観艦式での「旭日旗」自粛を求めた時、河野克俊統合幕僚長(当時)は記者会見で、「海上自衛官にとって自衛艦旗(旭日旗)は誇りだ。降ろしていくことは絶対にない」と言い切りました(2018年10月6日付朝日新聞)。自衛隊にとって「旭日旗」は「誇り」なのです。自衛隊トップがそう公言する根底には、天皇への忠誠心、天皇制軍隊への思慕があるのではないでしょうか。

 自衛隊の天皇への特別の思いを示すものはまだあります。
 昨年3月、安倍政権は自衛隊に「日本の海兵隊」といわれる「水陸機動団」を創設しました。その団旗の意匠はなんと、「三種の神器」の1つ「草薙の剣」です(写真右)。22日の「即位礼当日賢所大前の儀」では天照大神を祀る賢所へ入る徳仁天皇を先導し、「正殿の儀」では「高御座」で天皇の横に安置された、あの「草薙の剣」です(皇居にあるのはレプリカ。本物は熱田神宮に安置)。

  天皇は自衛隊にとって特別の存在なのです。「旭日旗」や「三種の神器」を旗印にすることが彼らの「誇り」です。「礼砲」はまさに自衛隊の心からの「祝意」の表明だったのでしょう。
 「安保法制」によって日米軍事一体化、自衛隊海外派兵が公然と行われるようになったのと軌を一にして、天皇と自衛隊の特別の関係が誇示されるようになってきました。そのことの重大な意味、危険性に目を向けなければなりません。


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