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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「1月1日」と天皇制の国民支配

2019年01月03日 | 天皇制と憲法

     

 今年の「新年一般参賀」には「史上最高の15万人超」が集まったとメディアは大々的に報じています。
 そんな表面的なこととは別に、「1月1日」は天皇制の意味を考えるうえで重要な日です。

 天皇の1年の”仕事始め“は、1日早朝(今年は午前5時半から)の「四方拝(しほうはい)」に始まります。天皇が東西南北の神々を拝む重要な宮中祭祀(神道儀式)です。
 天皇が個人的にどんな宗教儀式を行おうと勝手ですが、それが「国民」への天皇制の浸透に深くかかわっている以上、見過ごすことはできません。

 なぜ「1月1日」は「祝日」なのでしょうか。単純に「新年・正月」だからではありません。
 「国民の祝日」は天皇の宮中祭祀と密接な関係です。

 「その(宮中祭祀の)多くは明治維新後に創設されたもの」(島薗進氏『国家神道と日本人』岩波新書)です。明治政府は天皇制の浸透を図るため、宮中祭祀を「祝祭日」にする施策をとりました。始まりは明治天皇の誕生日を祝う天長節の布告(1868年8月26日)です。それが「宮中と社会が祝祭日を同時に祝う近代のあり方の嚆矢」(『天皇・皇室辞典』岩波書店)となりました。

  以後、宮中祭祀が次々と「祝祭日」とされました。この中で、「四方拝(1月1日)も祝日の扱いとなる」(同)のです。これが「1月1日」が「祝日」となったルーツです。

 天皇制(国家神道)を「国民生活」に浸透させる明治政府の政策は日露戦争(1904年)以降、いっそう強化されました。その中でつくり出されたのが各地の神社への「初詣」です。
 「1月1日における国民的神道儀礼としての社寺への初詣が創出され、官公庁や小学校の新年節と連動しつつ都市から農村へと全国的に広まってゆくのも日露戦争後である」(同『天皇・皇室辞典』)

 「祝祭日」や「初詣」は「国民生活」に密着していますが、「国民」の目の届かない宮中で「1月1日」に行われている重大な儀式が、「新年祝賀の儀」です。

 1日朝(今年は午前10時)から、関係者が次々と天皇・皇后を訪れ、新年のあいさつを行います。最初は皇太子・同妃をはじめとする皇族(写真中)。次に元皇族、未成年皇族と続きます。

 問題はこれからです。午前11時、宮中「梅の間」で天皇・皇后を拝したのは、安倍晋三首相以下閣僚たち。それが終わると部屋を変えて衆参両院議長(写真右)、国会議員ら国会関係者、さらに部屋を変えて最高裁長官ら司法関係者、そして全国の知事・地方議会議長らと続きます。これが「祝賀の儀」です。

  年の始まり「1月1日」の朝に、首相、衆参議長、最高裁長官の「三権の長」はじめ行政、立法、司法の関係者が揃って皇居を訪れ、天皇・皇后に拝謁し、新年のあいさつを行う。 ここには天皇と「三権」・地方との関係が象徴的に(それこそ”象徴“的に)表れています。天皇は「三権」・地方の上に立つ国家元首の扱いだということです。
 これが「主権在民」の現行憲法と相いれないことは言うまでもありません。

 明治政府が創設した「祝祭日」、「初詣」などによって無意識・無自覚のうちの天皇制(国家神道)の浸透が図られていることを知る必要があります。
 そして、「主権在民」の憲法原則に反する「祝賀の儀」による天皇の元首扱いはやめさせねばなりません。


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秋篠宮の「代替案」と「象徴天皇制」

2018年12月29日 | 天皇制と憲法

  

 25日付の朝日新聞は1面トップで、秋篠宮が「大嘗祭」についての「代替案」を宮内庁長官に示していたという独自記事を掲載しました。

 「天皇の代替わりに伴う皇室行事『大嘗祭』への公費支出について、秋篠宮さまが宗教色が強いとして宮内庁に疑義を呈した際、代替案として、宮中の『神嘉殿』を活用して費用を抑え、それを天皇家の私費で賄うという具体案を示していたことがわかった」

 秋篠宮が「誕生日会見」(11月22日、報道は30日)で「大嘗祭」への公費支出に疑問を呈した問題の続報です。記事は、「今回の会見がお気持ちを示すぎりぎりのタイミングだったのでは」という「関係者」の声で終わっているように、秋篠宮を擁護する意図がうかがえます。

 政府が発表した「大嘗祭」の関係予算(公費)は27億1900万円で、前回(1990年)を4億7000万円も上回っています。新たに造られる大嘗宮の設営関連だけで19億7000万円。使用後は解体・撤去されます。

 朝日の記事は、「神嘉殿は国中の神々をまつる神殿で、収穫に感謝する毎年の新嘗祭が行われる場」で、秋篠宮の代替案は、「これを使い、天皇家の私的な積立金のうち数億円で賄える範囲で実施を、という提案だった」としています。

 秋篠宮の会見ついてはすでに書きましたが(12月1日、11日のブログ参照)、今回の「代替案」をめぐる報道は、「象徴天皇制」について改めて考えさせるものと言えます。問題点を整理してみましょう。

    「大嘗祭」が宗教(皇室神道)行事であることは秋篠宮(皇室自身)の一連の発言でも明確。したがってそれに公費を支出することは明らかに憲法違反である。

②    「大嘗祭は公費でなく私費で身の丈に合ったものに」という秋篠宮の考え・発言はそれ自体妥当である。

③    しかし、秋篠宮の発言は閣議決定に異議を唱えたものであり、政治的発言であることは否定できない。

    皇族とりわけ来年には皇位継承順位1位の「皇嗣」になる秋篠宮が公の会見で政治的発言を行ったことは、内容の如何にかかわらず、憲法上問題である。

 ここまでは先の会見に関して述べたことです。今回あらためて考えたいのは、公費支出の閣議決定がなされる前に秋篠宮が宮内庁長官に示した「代替案」がなぜ検討もされなかったのか、なぜ安倍政権は秋篠宮の「代替案」を歯牙にもかけず門前払いしたのかということです。

 秋篠宮の「代替案」は理論上も、経済的実利上もまっとうな意見です。政府は大嘗祭の主体である皇室の意見を尊重するなら、また少しでも無駄な支出は抑える気があるなら、秋篠宮の代替案を採用してしかるべきでしょう。少なくとも十分検討すべきです。
 しかし安倍政権は門前払いした。なぜなのか。

 それは、安倍政権にとっては、「大嘗祭」に公費を支出すること自体が目的だということではないでしょうか。はじめに公費支出ありきなのです。

 安倍政権が「大嘗祭」(皇室の宗教行事)に公費を支出する狙いは、大きく言って2つあるでしょう。

 1つは、宮中祭祀を利用して憲法の「政教分離」の原則(第20条)をなし崩しにすること。

 もう1つは、天皇(皇室)は憲法の規定をも超越する特別な存在だと印象付けることです。

 この2点は、「大嘗祭」に公費支出する結果として生じる問題ではなく、逆に、これが目的であくまでも「大嘗祭」への公費支出を強行しようとしているのです。その安倍政権の狙いが今回の秋篠宮の会見発言・代替案をめぐる動きで明らかになったのではないでしょうか。

 安倍政権のこの狙いは、もちろん「大嘗祭」だけの問題ではありません。それは憲法の「政教分離」「主権在民」の基本原則を切り崩し、「天皇元首化」(自民党改憲草案)に道を開き、国家権力の支配強化を図ることに他なりません。 

 それはまた、「靖国神社公式参拝」や、先の「防衛大綱・中期防」に示された日米軍事同盟(安保体制)強化とも一体不可分です。

 こうした国家戦略を「皇位継承」の儀式を利用して推し進めようとする。ここに国家権力が「象徴天皇制」を必要としている(政治利用する)根本的理由があるのではないでしょうか。


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明仁天皇が影響を受けた4人の人物

2018年12月25日 | 天皇制と憲法

     
  来年5月1日の「退位」へ向けて、メディアは競うように明仁天皇賛美の特集を組んでいます。この傾向はさらに強まるでしょう。
 先日の「最後の会見」も含め彼の言動の特徴は、憲法の規定を無視して「象徴天皇制」のあり方を自ら考え行動した独断専行ですが、その根底には4人の人物の強い影響があります。

  1人目は、明仁12歳(1946年)から家庭教師となったアメリカ人のエリザベス・グレイ・バイニング夫人です(写真左)。

  夫人はたんなる家庭教師ではなく、明仁が成人し即位したのちも、美智子皇后とともに生涯親交を深めました。
 少年期、何事につけ侍従たちの顔色をうかがう依頼心の強かった皇太子明仁に対し、夫人が最も重視した教育方針は「自立」でした。後年、夫人は牛島秀彦氏(東海女子大教授=当時)のインタビューに答えてこう述べています。

 「私は皇太子殿下にいつも『自ら考えなさい』と言い…ご自分で決定して行動なさるように言いました。殿下はそのことを実践していらっしゃいますので、大変うれしく思います」(牛島秀彦著『ノンフィクション天皇明仁』河出文庫1990年)

  夫人が最後の授業で黒板に書いた言葉は、「Think for yourself」だったといいます(22日放送TBS「報道特集」)

  2人目は、明仁15歳(1949年)に「東宮御教育常時参与」となった小泉信三(写真中)です。

 福沢諭吉を信奉し自らも慶應義塾塾長となった小泉が、福沢の『帝室論』で皇太子明仁に「帝王学」を教え込みました(17日のブログ参照)。
 小泉が明仁と正田美智子の結婚にも深く関与し、その実現のために報道機関に圧力をかけたことも見過ごせません。

  3人目は、バイニング夫人、小泉信三ほど深いかわりはありませんが、無視できない影響を与えた、イギリス首相(当時)チャーチルです。

  明仁皇太子は19歳の時(1953年)、父・裕仁天皇の名代として英エリザベス女王の戴冠式に参列しました。戦犯・裕仁への英国民の怒り・反発を避けるための名代で、明仁にとって初の外国公式訪問でしたが、英国民、メディアの強い反発・批判は明仁皇太子にも向けられました。
 その状況をなんとかしようと、チャーチルは明仁を私邸に招き、労働組合の代表や「反日メディア」代表も呼んで昼食会を開催しました。そこでチャーチルは予定になかったスピーチでこう述べ、明仁に英国流の立憲君主制を教えました。

 「英国には、君主は君臨すれども統治せずという格言があり、もし君主が間違ったことをすれば、それは政府の責任であります」(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫2016年)

  帰国した明仁皇太子は会見で、「大いに知見を広め貴重な体験を得たことは、私にとって大きな収穫でした」と述べています(23日放送NHK「天皇・運命の物語」)

  そして4人目は、メディアは取り上げませんが、ある意味で最も影響を与えた人物、父・裕仁天皇です。

  明仁天皇は65歳の誕生日会見(1998年12月18日)で、「昭和の時代と比べて天皇としての活動の在り方も変わってきたようだが」との記者の質問にこう答えています。

 「天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です。私は、昭和天皇のお気持ちを引き継ぎ、国と社会の要請、国民の期待にこたえ、国民と心を共にするよう努めつつ、天皇の務めを果たしていきたいと考えています」
 「昭和天皇のことは、いつも深く念頭に置き、私も、このような時には『昭和天皇はどう考えていらっしゃるだろうか』というようなことを考えながら、天皇の務めを果たしております」(宮内庁HPより)

 興味深いのは、以上の4人が1つに結びつくことです。バイニング夫人を家庭教師に望んだのは裕仁であり、夫人と小泉信三は意気投合し相談しながら皇太子明仁に英国流の立憲君主制を教育しました。

 「天皇(制)の危機を察知した天皇(裕仁-引用者)自身の要請で、戦勝国アメリカからやってきた絶対平和主義を信奉するクエイカー教徒の家庭教師E・G・ヴァイニングが理想とする王室は、イギリスの場合であった。これは、皇太子の教育参与(主任)になった小泉信三の意見でもあり(注・小泉が明仁を教えた教科書は福沢の『帝室論』とともにハロルド・ニコルソンの『ジョージ五世伝』でした-引用者)、ヴァイニング・小泉の息は合っていた」(牛島秀彦氏、前掲書)

  明仁天皇が目指した「象徴天皇制」は、イギリス流の立憲君主制です。明治政府がモデルにしたのもイギリスの立憲君主制でした。それは福沢諭吉の「脱亜入欧」(アジア蔑視)とも不可分です。さらに明仁天皇の念頭には常に、父・裕仁が実践した絶対主義的天皇制がありました。

  重要なのは、こうして明仁天皇が「主権在民」とは相いれない立憲君主制を志向してきたことに対し、「民主陣営」の側から異議を唱え、批判する声が出てこなかった(あるいは微弱だった)ことです。
 明仁天皇の独断専行、国家権力によるその政治利用を許してきた責任は、メディアはもちろん、「民主的学者・知識人」そして「主権者・国民」の側にもあることを銘記する必要があります。




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「明仁天皇最後の会見」の10の問題点

2018年12月24日 | 天皇制と憲法

  

 23日報道された明仁天皇の最後の記者会見(誕生日会見。実施は20日)をメディアはこぞって最大限に賛美し、「感動した」などの「国民」の声(だけ)を報じました。

 しかし、会見内容を分析すると、そうした「賛美」とはまったく逆に、多くの問題を含むきわめて政治的な重大発言であることが分かります。
 問題点は少なくとも10あります(こうした政治的発言を行うこと自体、憲法第4条に抵触しますが、ここでは発言内容の問題に絞ります。引用した発言はすべて宮内庁のHPからです)。

     日本が戦場にならなければ「平和」なのか

 「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています

 メディアが大きく取り上げた言葉ですが、「平成」すなわち1989年~2018年に、世界で紛争・戦争が絶えなかったことは周知の事実です。にもかかわらず「平成」を「戦争のない時代」と言うのは、日本が戦場にならなかったという意味でしょう。自分の国が戦場にならなければ「戦争のない時代」なのでしょうか。あまりにも自国中心の閉鎖的利己的考えではないでしょうか。

     日本の戦争加担(参戦)は棚上げするのか

 「本土」が戦場にならなくても、日本はアメリカの戦争に加担してきました。米軍の後方基地になった朝鮮戦争やベトナム戦争は「昭和」のことですが、日本も資金提供し自衛隊の掃海艇をペルシャ湾に派遣した湾岸戦争は1991年(平成3年)のことです。その後、自衛隊の海外派兵は常態化しています。
 また、沖縄などで多発している軍事基地被害は、間接的な戦争被害ではないでしょうか。
 こうした事実を棚上げして「平成」を「戦争のない時代」というのは、戦争加担の加害責任にほうかむりするものです。

 ③    「戦後」は「平和と繁栄」か

 「我が国は国際社会の中で…平和と繁栄を築いてきました」「我が国の戦後の平和と繁栄が…築かれた

 「平成」だけでなく「昭和」も含めて「戦後」は「平和と繁栄」の時代だというわけです。ここでは朝鮮戦争やベトナム戦争への加担は完全に捨象されています。また、「繁栄」という言葉によって、深刻な貧困や格差拡大も隠ぺいされています。「戦後」を「平和と繁栄」と賛美するのは戦後政権の座に座り続けてきた自民党政治を美化するものです。

 ④    「沖縄」に「心を寄せていく」は本当か

 「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました」「沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていく

 「先の大戦」で沖縄を「本土防衛」のための捨て石にしたのは他ならぬ明仁の父・裕仁です。敗戦後、「国体(天皇制)護持」のため沖縄をアメリカに売り渡したのも裕仁です(「沖縄メッセージ」)。
 にもかかわらず、明仁天皇は「11回の沖縄訪問」でただの一度も県民に謝罪したことはありません。沖縄に「心を寄せる」というなら、今日に続く沖縄の「苦難」の元凶である裕仁天皇の所業について、子として、皇位を引き継いだ者として、まず謝罪することが出発点ではないでしょうか。

     サ体制(サンフランシスコ「講和」条約・日米安保条約)が肯定できるのか

 「その年(1952年・明仁18歳-引用者)にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は国際社会への復帰を遂げ、次々と我が国に各国大公使を迎えたことを覚えています

 こう述べてサ条約と日米安保条約によるサンフランシスコ体制を肯定しました。しかし、サ条約によって在日朝鮮人や台湾人は「外国人」として切り捨てられました。日米安保条約が米軍基地・沖縄の「苦難」の根源であることは言うまでもありません。サ体制を肯定してどうして「沖縄に心を寄せる」でしょうか。

 ⑥  アジア激戦地巡りは 「慰霊の旅」か

  「戦後60年にサイパン島を、戦後70年にパラオのペリリュー島を、更にその翌年フィリピンのカリラヤを慰霊のため訪問したことは忘れられません

 メディアが天皇の「平和」への意思を示すものとして美化するいわゆる「慰霊の旅」です。しかし、天皇・皇后が東南アジアの激戦地を訪れて「慰霊」したのは、戦死した「日本兵」です。
 それぞれの激戦地では多くの住民が犠牲になりました。「慰霊」というなら、戦争加害国としてまず日本が被害を与えた現地の人々の墓碑を訪れ、謝罪するのが先ではないでしょうか。しかし天皇・皇后が加害国として現地で謝罪したことはありません。
 たとえば、フィリピンには「死の行進」で悪名高いバターン捕虜収容所がありましたが、天皇・皇后がそこを訪れることはありませんでした。

     日本に住む外国籍の人々は視界にあるのか

 「国民皆の努力によって…平和と繁栄を築いてきました」「我が国の戦後の平和と繁栄が、このような多くの犠牲と国民のたゆみない努力によって築かれたものであることを忘れず…

 明仁天皇は「国民」という言葉を多用します。しかし、敗戦後、日本の復興に貢献したのは、「国民」すなわち日本国籍のある人間だけではありません。在日朝鮮人をはじめ、外国籍の人々も、日本で働き、税金を納めてきました。そうした在日外国人は天皇の視界に入っているのでしょうか?
 天皇が「国民」という場合、「日本人」を念頭に置いていると思われますが、そうした「国民」の強調は、「単一民族国家」思想を流布するものと言わねばなりません(これは第1条をはじめ現憲法の欠陥でもあります)。

 ⑧    天皇の交代で「時代」を区分するのは正当か

来年春に私は譲位し、新しい時代が始まります」「新しい時代において、天皇となる皇太子と…」

 天皇の交代がなぜ「新しい時代」の始まりなのでしょうか。なぜ天皇の交代で「時代」を区分するのでしょうか。天皇にはなんの政治的権限もありません。天皇によって「時代」が区分されるというのは戦前の絶対主義的天皇制・皇国史観の名残ではないでしょうか。

     なぜ「退位」と言わず「譲位」と言うのか

 「来年春の私の譲位の日も近づいてきています」「来年春に私は譲位し…」

 天皇は「退位」と言わず「譲位」と言います。「退位」と「譲位」では意味が大きく違います。「譲位」とは天皇が自らの意思で天皇の位を皇太子に譲ることです。それは「主権在民」の憲法原則とは相いれません。だから法律名は「退位」であり、政府も「退位」と言わざるをえません。全国紙で「譲位」と言っているのは産経新聞だけです。
 この違いにいち早く気付き、「退位」はおかしい、「譲位」と言うべきだと強硬に主張したのは美智子皇后です。明仁天皇はここでも美智子皇后にならって「譲位」という言葉を使っています。それが「主権在民」の憲法に反する発想であることは明白です。

 ⑩    天皇が「象徴」の在り方を自分で考え、実行していいのか

 「私は即位以来、日本国憲法の下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を求めながらその務めを行い、今日まで過ごしてきました」「天皇となる皇太子とそれを支える秋篠宮は…日々変わりゆく社会に応じつつ道を歩んでいくことと思います

 ここに「平成流」ともてはやされる明仁天皇の言動の根本的問題があります。すなわち彼は、憲法の「象徴天皇制」とはどうあるべきかを自分で考え行動してきたし、それを誇示さえしているのです。
 しかし、それは憲法の規定を逸脱するものです。何の政治的権限もない天皇が憲法(「象徴天皇制」)の解釈を自分流に行い、それに基づいて行動することは、憲法前文、第1条、3条、4条、第7条(主権在民、政治的権能、内閣の助言と承認、国事行為)に明白に反します。 
 にもかかわらず、明仁天皇はそれをやってきた。結果、「公的行為」とか「象徴としての行為」などという脱法的言葉を生み、天皇の独断専行を許してきました。その行きついた果てが「生前退位」の「ビデオメッセージ」です。
 しかも明仁天皇は、そうした憲法無視の「平成流」を皇太子や秋篠宮に引き継がせようとしているのです

 以上10の問題点を見てきましたが、まとめて言えば、明仁天皇が行ってきたことは、戦争・植民地支配の加害責任の棚上げ・隠ぺいであり、自民党政治の美化であり、対米従属のサ体制・日米安保条約の肯定であり、「天皇君主化」に通じる天皇の独断専行です。今回の会見はその集大成といえるでしょう。

 重要なのは、こうした明仁天皇・美智子皇后の言動が、「天皇崇拝」とともに「正しいこと」とされ、日本人の考え方・思想に大きな影響をあたえていることです。
 ここに国家権力にとっての「象徴天皇制」の存在価値があり、だからこそ廃止しなければならない理由があります。


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秋篠宮発言を全面肯定した日本共産党の迷走

2018年12月11日 | 天皇制と憲法

     

 天皇の代替わりに伴う「大嘗祭」のあり方についての秋篠宮の発言(11月22日、報道は11月30日)は、「大嘗祭」問題とともに、皇族の政治的発言の是非として大きな波紋を広げました(12月1日のブログ参照)。

 そんななか、日本共産党の小池晃書記局長は今月3日、国会内で記者会見し秋篠宮発言を全面的に肯定しました。

 「(秋篠宮発言を-引用者)政治的発言だと指摘する向きがあるが、天皇家の行事のあり方について、天皇家の一員である秋篠宮が発言することについては問題があるとは考えない」(4日付「しんぶん赤旗」)

 秋篠宮発言の全面肯定はきわめて問題だと言わねばなりません。

 秋篠宮の発言が憲法(第4条)に抵触すると断言するにはさらに検討が必要ですが、彼の発言は「閣議決定」および宮内庁を批判したものであり、政治的発言であることは明らかです。たんなる「天皇家の行事のあり方について」の発言とは言えません。
 しかも彼はたんなる「天皇家の一員」ではありません。来年5月には皇位継承順位1位の「皇嗣」(皇太子に匹敵)になることが内定している人物です。そんな皇族の政治的発言を無条件で肯定することはできません。

  九州大学の南野森教授(憲法)は、憲法4条が政治的発言を禁じているのは天皇だけだという学説があることに触れながら、こう指摘しています。

  「しかし私は、皇族と一口に言ってもそこには皇位継承順位や性別・年齢などの点でさまざまな皇族が含まれるのであるから、天皇との距離に応じて政治的中立性を求められる度合には差があると考えるべきであり…皇位継承順位1位の皇嗣となることが想定される秋篠宮が、今回、政府の決定した方針に疑念を表明したことは、憲法上問題があると言わねばならないようにも思われる」(5日付沖縄タイムス)

  放送大学の原武史教授(日本政治思想史)は、天皇制をめぐる今日の社会状況との関係でこう指摘します。

 「宮内庁に『話を聞く耳を持たない』と苦言を呈したことは、問題をはらんでいます。こうした発言の背景には、一昨年の天皇の『おことば』の前例が大きいと思います。宮内庁や官邸を媒介とせず、直接自分の考えを国民に語って、圧倒的に支持された。『おことば』以降、皇室と国民が直接つながるチャンネルが強まってしまった
 今回の秋篠宮も、明らかに国民を意識して発言しています。しかし、宮内庁批判を国民に発信することには、ある種の政治的意図があると言わざるをえません。皇室の政治的発言に対して、国民の受け止め方が非常に甘くなっている」(4日付朝日新聞)

 天皇が直接「国民」に語り掛けるのは、一昨年のビデオメッセージからというより、「3・11」直後のビデオメッセージ(2011年3月16日)からですが、原氏の指摘は重要です。

 今回の秋篠宮発言に限らず、明仁天皇、美智子皇后の「政治的言動」に対し、「国民」やメディアの「受け止め方が非常に甘くなっている」のは重大な事実です。それはファッショ的な安倍政権との対比で加速されていると言えるでしょう。
 しかしいくら安倍政権が最悪だからといって、天皇はじめ皇族の政治的言動に「甘くなる」のは、憲法上も、真に平等で民主的な社会を目指す上でも見過ごすことはできません。天皇制の問題を、廃止を含めて検討・議論していく上できわめて由々しき状況です。

 共産党の秋篠宮発言全面肯定会見はそうした社会状況を助長するものであり、「天皇制」に対する同党の基本姿勢に大きな問題を投げかけるものと言わねばなりません。


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秋篠宮の「大嘗祭」発言は何を示しているか

2018年12月01日 | 天皇制と憲法

     

 秋篠宮が「誕生日会見」(誕生日は30日、会見は22日)で、天皇の代替わりに行われる皇室祭祀の「大嘗祭」について、「宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか」「宗教行事と憲法との関係はどうなのかというときに、それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています」(宮内庁HPより)と述べ、「大嘗祭」に国費(「宮廷費」から22億5千万円)を支出することに反対だと明言しました。

 この発言は「宮内庁との意思疎通不足」「前例踏襲への問題提起」などという生易しい問題ではありません。(象徴)天皇制の根幹にかかわる発言であり、さまざまな角度から検討する必要があります。

 第1に、「大嘗祭」が宗教(皇室神道)の重要な行事であることは政府も裁判所も認めざるをえない紛れもない事実です。したがって憲法の政教分離の原則(第20条)から公費の支出が許されないことは明白です。その点で秋篠宮の発言の内容(持論)は正当です。

 第2に、国はその脱法行為を繕うために「大嘗祭には公的性格がある」として前回は国費の支出を強行しました。しかしそれでは憲法違反はクリアできないとする見解が当の皇族から、しかも皇位継承順位1位(皇嗣)になる人物から公式の場で行われたのです。その意味は決して小さくありません。

 第3に、ただし、秋篠宮が言う「宗教行事と憲法の関係」で問題があるのは「大嘗祭」だけではありません。「三種の神器」の継承儀式である「剣璽(けんじ)等継承の儀」もまぎれもない宗教(神道)行事です。そのほか、「即位後朝見の儀」「即位礼正殿の儀」も神道と切り離せるものではありません。これらを「国事行為」として公然と国費を支出することも憲法上重大な問題です。秋篠宮が「宗教行事と憲法の関係」を問題にするなら、当然「剣璽等継承の儀」などへの国費支出にも反対すべきです。

 第4に、秋篠宮の発言は閣議で決まったことに公然と意義を唱えたもので、まさに政治的発言です。皇族の政治的発言・行為がどこまで容認されるのか。これについて明確な基準は示されていません。
 菅官房長官は30日の会見で、「個人の見解を述べたもの」で問題はないとしましたが、そう単純なことではありません。憲法第4条が禁じているのは天皇の政治的発言・関与であり、他の皇族はそれには縛られないとする見解もあります。しかし、皇后、皇太子はじめとする皇族も憲法と皇室典範に規定されている「象徴天皇制」を構成している以上、一般市民と同じというわけにはいきません。
 今回の秋篠宮の発言は、「象徴天皇制」における天皇以外の(皇后も含め)皇族の政治的「自由」「権利」についての問題提起でもあるともいえます。

 第5に、本来天皇や皇族も人間である以上、基本的人権があるはずです。しかし憲法と皇室典範によって、天皇・皇族の人権は大きく制約されています。例えば「職業選択の自由」「婚姻の自由」「居住・移動の自由」そして「言論・集会・結社の自由」などは基本的にありません。それでいいのか、ということです。
 これは(象徴)天皇制の根本問題です。神道信者である秋篠宮が、「大嘗祭」を「身の丈にあった儀式に」したいと考えるのは、本来、「思想信条の自由」として尊重されるべきです。しかしそれが政治の力(閣議決定)によって阻害されているのが現実です。それでいいのかという根本問題を秋篠宮の発言は提起しているのではないでしょうか。

  以上の問題はすべて1つの根源から発生していると思います。それは明治政府(薩長閥)が「富国強兵」の手段として作り上げた近代天皇制、そしてそれと地続きの「象徴天皇制」は、すでに限界にきている、ということではないでしょうか。「女性天皇」問題もその一環です。

 来年の「天皇の代替わり」を機に、私たちが考えなければならないのは、「(象徴)天皇制はこの社会に必要なのか」という根本問題ではないでしょうか。

 ※明日の「日曜日記」は休みます。


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皇后が「天皇の代わり」をしていいのか

2018年07月07日 | 天皇制と憲法

     

 宮内庁は今月2日、天皇明仁が「脳貧血によるめまいと吐き気の症状」(3日付朝日新聞)のため「この日の公務をすべてとりやめた」(同)と発表しました。

 同日は高円宮絢子氏が母親の久子氏と皇居を訪れ「婚約内定」のあいさつを行いましたが、天皇は欠席し、美智子皇后が「陛下(ママ)のお祝いの気持ちをお取り次ぎ」(3日付産経新聞)したといいます。
 また同日は人事異動者の「拝謁」もありましたが、これも天皇は欠席し、皇后が「陛下のおねぎらいの気持ちをお取り次ぎ」(同)しました。

 翌3日も天皇は、「脳貧血によるめまいの症状に加え、軽い腹痛」(4日付産経新聞)があり、「2日に続いて公務をとりやめ」(同)ました。
 この日宮内庁総務課長が「地方行幸啓」について説明しましたが、皇后が「陛下のお考えを踏まえてお一人で」(同)対応しました。

 こうして明仁天皇が病気で「公務」を休んでいるあいだ、美智子皇后が天皇の「気持ち」や「考え」を「踏まえて」、事実上天皇の代役を務めたのです。

 メディアはこれをなんの疑いもなく報じましたが、ここには見過ごせない重要な問題があります。皇后は天皇の代わりができるのか、していいか、という問題です。

 日本国憲法には「皇后」についての記述(規定)はまったくありません(大日本帝国憲法にもありませんでした)。
 皇室典範には「皇后」の記述が4カ所あります。皇族の定義(第5条)、摂政の順位(第17条。皇后は3番目)、敬称(第23条)、陵墓(第27条)です。もちろん、この中に皇后が天皇を代行できるという規定はありません。

 皇后は皇室典範第17条の摂政の順位以外には、法的に何の権限もないのです。にもかかわらず天皇の「代わり」をすることは憲法や皇室典範を無視した脱法行為と言わざるをえません。

 天皇の「代わり」でなくても、皇后は日常的に天皇とともにさまざまな「公的活動」を行っていますが、それはけっして「天皇制の伝統」ではなく、3代前の「明治」以降の形態にすぎません。先鞭をつけたのは睦仁天皇(明治天皇)の皇后・美子(はるこ)でした。

 美子皇后は「慈恵・教育・殖産興業」分野で積極的に行動しました。1872年に「養蚕」を始め(今日まで引き継がれています)、74年には富岡製糸工場を「行啓」。76年に東京女子師範学校(現お茶の水女子大)の設立が決まった時は「御手元金5000円」を「下賜」しています。

 美子皇后がこうして「慈恵・教育・殖産興業」で「公的・国家的」活動を行った裏には黒幕がいました。伊藤博文です。

 伊藤は憲法調査のため欧州を訪れた際、各国の王室活動を視察し、皇后が「慈恵・教育」分野で重要な役割を果たしていることに感銘を受けます。そして帰国後、『秘録類纂 帝室制度資料』を編さんし、その中の「帝室ヘ慈恵部ヲ置カルルコト」とする文書で、皇室に「慈恵部」を設置し「慈恵賑恤(しんじゅつ=貧困者や被災者に金品を与えること-引用者)を管轄すれば、「帝室ヲ仰慕スルコト益厚カラシメン」と述べています。「慈恵部」の総裁には美子皇后が想定されていました(西川誠氏『明治天皇の大日本帝国』講談社学術文庫より)。
 皇室が国民から「仰慕」されるために、「慈恵部」をつくって皇后に担当させようという構想です。

 「伊藤は、欧州で王室と慈善・教育の関係、その中の皇后の役割を発見し、皇室と慈善・教育の関係を再編した。伊藤の提案を、国母像を模索していた美子皇后は受け入れ、公的役割を果たそうとした。美子皇后の活動は、以後の皇后のあり方の原型となった」(西川誠氏、前掲書)

 伊藤をトップとする明治(薩長土肥)政府は、女帝・女系天皇は認めず、憲法(大日本帝国憲法)にも皇后の権限はなんら明記しない一方、皇后に「慈善・教育」分野で活動させ、天皇制を浸透させる役割を果たさせたのです。

 その明治政府の意図が、新憲法下の「象徴天皇制」にも引き継がれ、今日の皇后の「公的活動」につながっています。

 今後、明仁天皇の「病気休養」は増えるでしょう。そのたびに美智子皇后が「天皇の代わり」をする可能性があります(さすがに「国事行為」は代行しないとしても「公的活動」を代行する可能性はあります)。また、明仁天皇が退位後に死去した場合、「美智子上皇后」が「明仁上皇」に代わって「公的活動」を行う可能性もないとは言えません。
 しかしこれらはいずれも、憲法・皇室典範が想定していない脱法行為であり、けっして許されるものではありません。

 「(象徴)天皇制」の是非を考える上でも、「皇后・上皇后」の動向(公的活動)に注意を払う必要があります

 


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「元号」を根本的に問い直す

2018年06月05日 | 天皇制と憲法

     

 天皇明仁の「退位」に伴う「新元号」について、メディアの報道は、それがいつ発表され、どういうものになるのかに終始しています。NHKは興味本位の特集番組を組みました(5月10日、写真左)

 政府が「新元号」の発表は「皇位継承」(2019年5月1日)の「1カ月前」という方針を固めたことに対し、朝日新聞は「準備作業に支障が出ると心配されている。くらしへの目配りを欠く日程は再考する必要がある」という社説(5月27日付)を掲げました。「元号」が「くらし」に欠かせないものだという前提に立つものです。

 こうした報道・論調は、菅官房長官が5月17日の記者会見で「新たな元号が広く国民に受け入れられ、日本人の生活に深く根ざしたものになるよう慎重な検討が必要だ」と述べた政府の「元号」普及政策と歩調を合わせるものです。

 「元号」の本来の意味、政治的意図をまったく捨象したこうした報道・論調は、「元号」「天皇制」に対する思考停止を助長しするものと言わねばなりません。

 「新元号」制定を前にしていま必要なのは、「元号」とはそもそも何なのかを根本から問い直し、それを無意識に使い続けることをやめ、使わせようとしている国家権力の狙いを許さないことではないでしょうか。

 「元号」はもともと、「皇帝は時間をも制する」という中国の皇帝制度にならったものです。今でも中国古典の「四書五経」の中から漢学者らが言葉を拾っていることにその名残があります。

 「一世一元制」も、絶対主義天皇制の下で「富国強兵」を図った明治政府が1889年、大日本帝国憲法とともに発布した「皇室典範」(旧)第12条で決めたものにすぎません。

 本家本元の中国は皇帝制の廃止とともに「元号制」も廃止しました。その「元号」をいまだに使っているのは世界で日本だけです。

 「中国文化圏にあった東アジアでは、皇帝も元号も、すべてが滅亡し、唯一、日本だけに残ったことになります。…元号が歴史年を記録するためのものではなく、皇帝の支配力を強めるためのものだということが、ここでもはっきりしています」(佐藤文明氏『「日の丸」「君が代」「元号」考』緑風出版)

  日本でも戦後、「主権在民」の新憲法のもとで、「元号」の法的根拠だった旧皇室典範(第12条)はGHQによって廃止されました。しかし、日本政府は天皇制の存続(「象徴天皇制」)とともに、「元号制」を温存することに腐心し、新たな法律をつくって合法化する機会をうかがいました。

 それに呼応して、「国家神道」の総元締めである「神社本庁」(1946年1月発足)が「元号法制化」を求める「国民運動」を展開。自民党を中心とする国会議員によって「神道政治連盟」が結成(1968年10月)されました。そうして制定を強行したのが、「元号法」(1978年6月6日成立)です。

 こうした経過からも、「元号」の最大の特徴(意味)が、「天皇制」の維持・強化にあり、、日本国憲法の「主権在民」とは根本的に相いれないことは明白です。

 かつて「昭和」から「平成」への「改元」のさい、「皇位継承」とともに「元号」の一大キャンペーンが展開されたのに抗し、歴史家の井上清は「元号をやめて国際紀年(西暦)を使おう」と呼びかけました。井上はこう指摘しました。

 「主権在民の日本国憲法の象徴天皇制から、大日本帝国憲法時代の万世一系の現人神元首への、思想的、精神的、宗教的な完全移行がいまわれわれの目前で進行している。この移行は、旧天皇制が日本国民を強力無比に統合したのと同じように、新天皇の権威のもとに国民を強力に統合されたならば、国民はどこへつれて行かれるのか。そこには軍国主義・帝国主義・侵略戦争以外のどんな道もない」(『元号制批判―やめよう元号を』明石書店1989年)

  それから「30年」。
 「元号」や天皇の超憲法行為(「公的行為」)を批判する政党、メディアが影をひそめる中、軍事費(防衛予算)は膨張の一途をたどり、自衛隊という名の軍隊と米軍との合同戦闘訓練は日常化し、戦争法(安保法)によってついに「集団的自衛権行使」まで「合法化」されました。
 一方、未曽有の歴史的大災害・事件だった「3・11」(2011年)に際し、天皇明仁は超憲法的な「ビデオメッセージ」で国民の不満・怒りを抑え、再統合を図りました。自民党は憲法改定草案(2012年4月)に「天皇元首化」を盛り込みました。

 井上清の指摘は決して杞憂ではなかったことが、その後の経過によって証明されているのではないでしょうか。

 安倍政権の下で憲法の平和条項が重大な危機にある今、そして朝鮮半島の歴史的な変化を前に日本の侵略・植民地支配の歴史が改めて厳しく問われている今、「元号」と「天皇制」、軍国主義と日米軍事同盟の関係を根本的に問い直すことこそ私たちの責務ではないでしょうか。


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美智子皇后はなぜ「五日市憲法草案」を絶賛したのか

2018年05月03日 | 天皇制と憲法

      

 美智子皇后は2013年10月20日、79歳の誕生日にあたって、宮内庁記者クラブの質問に文書で回答した中で、こう述べました。

 「今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきる野市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた『五日市憲法草案』のことをしきりに思い出しておりました。
 明治憲法の交付(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治権等についても記されています。
 当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られていたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘を覚えたことでした。
 長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に既に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産ではないかと思います」(宮内庁HPより)

 5年前の皇后のこの発言を契機に「五日市憲法草案」(以下「草案」)が注目されはじめ、その後NHKが特集し、最新の岩波新書でも『五日市憲法』(新井勝紘専修大教授)が発行されました。地元の「五日市憲法草案の会」事務局が発行している「ガイドブック」の帯には「皇后美智子さんも感銘!」とアピールされています(写真右)。

  美智子皇后が絶賛したことによって「草案」が注目・評価され、一方で絶賛した美智子皇后が「民主主義者」とみなされる、という“相関関係”が出来上がっています。

  「草案」は歴史家の色川大吉氏が1968年に大学のゼミ調査で発見したものです。その色川氏自身、「(草案が)美智子妃の目にとまって蘇った…(起草した千葉卓三郎らも)草葉の陰で、どんなに喜んでいることだろう」(『色川大吉時評論集』日本経済評論社)と書いています。皇后に絶賛されたことがよほどうれしかったようです。「民主的学者」といわれる人物のもう一つの側面を見る思いです(けっして色川氏だけではありません)。

  では、美智子皇后はなぜ「五日市憲法草案」を絶賛したのでしょうか。

  先に引用した「文書発言」では「民権意識」が強調されています。色川氏も「この草案の眼目は、第二、三、五篇(「公法-国民の権利」「立法権」「司法権」―引用者)に全力をそそぎ、とくに国民の権利を幾重にも保障するというところにあった」(『自由民権』岩波新書)1981年)と解説しています。

 たしかにその「国民の権利」意識は当時としては画期的だったでしょう。「民主的学者」らが「草案」を評価するのもその点です。しかし、「草案」の特徴はそれだけではありません。

  「草案」の冒頭・第一篇は「国帝」、すなわち「天皇」です(第一章「帝位相続」、第二章「摂政官」、第三章「国帝権理」、写真中)。全204条のうち「国帝」に関する第一篇は41箇条(全体の20%)あります。ちなみに「国民の権利」に関する条項は36箇条です。
 第1条はこうです。

 「日本国ノ帝位ハ神武帝ノ正統タル今上帝ノ子裔ニ世伝ス其相続スル順序ハ左ノ条款ニ従フ」

 天皇を「万世一系」とし、その皇位継承から「草案」は始まっているのです。条文の順序や数だけではありません。第39条にはこうあります。

 「国帝ハ国会ノ定案及判決ヲ勅許制可シ…立法全権ニ属スル所ノ職務ニ就キ最終ノ裁決ヲ為シ之ニ法律ノ力ヲ与ヘテ公布ス可シ」

  国会や裁判所の決定も最後は天皇が許可が必要だというわけです。
 これは明らかに「民権」と矛盾するものです。色川氏のゼミ生で「草案」発見に立ち会った新井勝紘氏も、「国帝に『不裁可権』を与えている条文もみえ、憲法全体のなかで矛盾が混在していることも注目しておく必要がある」(『五日市憲法』岩波新書)と指摘しています。

  「五日市憲法草案」は「君民同治」だといわれますが、「君」と「民」はけっして同列ではありません。「草案」はむしろ限りなく絶対主義的天皇制に近いと言えるでしょう。

 「五日市憲法草案は未完の人権憲法と呼ぶのがふさわしいであろう」(江村栄一氏『日本近代思想大系9憲法構想』解説)と評されるゆえんです。

 美智子皇后は当然、第一篇が「国帝」であり、その中で上記のような天皇の絶対的権限が規定されていることは知っていたでしょう。それが「草案」絶賛にどのように作用したかは分かりません。しかし仮に「草案」が「天皇制の廃止」あるいは「天皇権限の大幅制限」を含む文字通りの「人民主権憲法草案」だったとしたら、はたして絶賛したでしょうか。皇后の「民権」評価は、あくまでも天皇の絶対的権限の枠の中でのものではないでしょうか。

 そもそも皇后の発言は、「今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていた」という背景の中で行われたものです。いわば憲法(改憲)論議に割って入ったもので、その内容いかんにかかわらず、重大な政治的発言と言わねばなりません。しかもそれが、天皇の絶対的権限を強調した明治初期の憲法草案を絶賛したものであればなおさらです。

 発言の前年、2012年4月に自民党は「日本国憲法改正草案」を発表しました。その第1条で「天皇は、日本国の元首」と規定していることも、「新聞紙上」など丹念に目を通す皇后は当然知っていたでしょう。


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皇太子徳仁の危険な“勘違い”

2018年02月24日 | 天皇制と憲法

     

 徳仁皇太子は2月23日の誕生日にあたり、宮内庁記者会と会見しました(会見実施は21日)。その発言には重大な問題が含まれています。来年には「新天皇」となる人物の「所信」だけに見過ごせません。

 皇太子は「新しい時代の天皇、皇后の在り方」について聞かれ、こう答えました。

 「象徴天皇、そして、公務の在り方については…過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして日本国民統合の象徴であるという憲法の規定に思いを致して…象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います」
 「新しい時代の天皇、皇后の在り方ということについては…皇室の長く続いた伝統を継承しながら…象徴としての在り方を求めていく中で、社会の変化に応じた形でそれに対応した務めを考え、行動していくことも、その時代の皇室の役割だと思います」(宮内庁HPより)

 「象徴天皇の在り方」は自分で「考え、行動していく」という”能動的天皇“宣言です。これは「憲法の規定に思い致して」という自らの言葉とは裏腹に、憲法を逸脱した危険な「象徴天皇」観と言わねばなりません。

 こうした皇太子の「象徴天皇」観が、父である明仁天皇から学んだ(教えられた)ものであることは明らかです。明仁天皇がまさにそういう”能動的天皇”を実践してきたからです。
 それは「公的行為(象徴としての行為)」という憲法にない行為を自分で増や続けてきたことに端的に表れています。その典型が、皇太子が「厳粛な思いで拝見」(21日の記者会見)したという明仁天皇の「ビデオメッセージ」(2016年8月8日)です。この中で明仁天皇はこう述べました。

 「即位以来、私は…憲法の下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました」
 「このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ…象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました

 その具体化が実質的な「退位表明」でした。この「ビデオメッセージ」に対しては、多くの学者・識者が憲法上の問題を指摘しています。

 「『公的行為』祭祀という二つの行為を通じて自ら国民を積極的に統合していく、日本という共同体をまとめていく―そういう姿勢がはっきり現れていることに、強いショックを受けました。もう一点、実質上『皇室典範を変えろ』という要求になっていることにも驚きました。これは明らかに政治的な発言ですね」(吉田裕一橋大教授『平成の天皇制とは何か』岩波書店)

 「そもそも日本国憲法ではそこまでの行為は求められていないにもかかわらず、(明仁天皇―引用者)自らが積極的に国民を統合しようとしてきた。今回のメッセージは、そのことと直線的につながっているのかな、という感じはします」(瀬畑源長野県短期大学助教、同前)

 「はっきり言っておかしいと思います。いまの憲法下、天皇は国政に関与できないはずです。それなのに天皇が退位の気持ちをにじませた発言をすると、急に政府が動き出し、国会でも議論を始めた。『お気持ち』を通して、結果的にせよ、国政を動かしています。…本来は天皇を規定するはずの法が、天皇の意思で作られたり変わったりしたら、法の上に天皇が立つことになってしまう」(原武史放送大教授、2017年3月18日付朝日新聞)

 憲法上、天皇が行う(行うことができる)行為は「国事行為」として厳格に規定されています(第6、7条)。その他の行為は「私的行為」です。百歩譲って「政府見解」のように「公的行為(象徴としての行為)」なるものがあるとしても、それは「内閣の助言と承認」(憲法第3条)に従うものであって、天皇が自ら「考え、行動する」ことは許されず、ましてや「国政に関する権能」(第4条)にかかわるものであってはならないことには憲法学説上の争いはありません。

 ところが、明仁天皇はそれを行い、安倍政権はもちろん、国会のすべての政党・会派も、メディアも、そして「市民」も、それを容認して「特別法」で天皇の意向通り「退位」への道をつくりました。

 徳仁皇太子はこの明仁天皇の憲法蹂躙の”能動的天皇“を継承しようとしているのです。絶対に容認できません。

 明仁天皇、徳仁皇太子はともに「ビデオメッセージ」「会見」で、「天皇は日本国、日本国民統合の象徴」という憲法第1条の文言を引用しましたが、なぜかいずれもそれに続く言葉を省略しています。第1条は続けてこう明記しています。

この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく

 「象徴天皇」の「地位」、「在り方」を考え、決めるは天皇ではありません。「主権者・国民」です。徳仁皇太子にはこの言葉をかみしめてほしいものです。
 その「在り方」の中には、「象徴天皇制」という制度自体の廃止も含まれていることは言うまでもありません。


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