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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

皇室と人体実験―「虹波」問題の核心

2025年05月28日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 京都新聞は5月19日の夕刊から5回にわたって「虹波(こうは)―ハンセン病療養所と軍事研究」と題した連載を掲載しました。
 「虹波」は戦時中、帝国陸軍が国立ハンセン病療養所・菊池恵楓園(熊本県、宮崎松記所長)などで極秘裏に行った人体実験に使った薬剤です。入所者に強制的に投与され、因果関係が明確になっているだけでも9人が死亡。日本軍と療養所・医師(宮崎所長はじめ多くは京都大学関係者)が一体となった重大な犯罪行為です。

 にもかかわらず、その事実は2022年12月に京都新聞と熊本日日新聞が共同調査報道に基づいてスクープ報道するまで明るみに出ませんでした(23年6月24日のブログ参照)。
 今回の京都新聞の連載は両紙の調査報道の経緯を振り返ったもので、あらためてその意味を考えさせられました。

 ところが、この連載にはきわめて不可解な点があります。それは5回も連載しながら、問題の核心部分がすっぽり抜け落ちていることです。

 この問題の核心とは、この人体実験に天皇裕仁の母・貞明皇后(当時は皇太后=写真右)が深く関わっていたことです。

 その事実は京都新聞自身が昨年12月18日、「熊本日日新聞提供」として報じました(24年12月19日のブログ参照)。記事の要点はこうです(太字は私)。

<「虹波」について、陸軍側が1943年に皇室へ出向いて治験成績を報告していたことがこのほど、恵楓園入所者自治会への取材で分かった。

 宮内庁書陵部が59年にまとめた「貞明皇后実録」で、報告を裏付ける記述が見つかった。実録には、貞明皇后は43年11月20日午後2時に謁見所で「陸軍技術研究所長の長沢重五、陸軍軍医大佐の松崎陽、陸軍嘱託の村田正太、陸軍嘱託国立癩療養所菊池恵楓園所長の宮崎松記」と面会し、虹波に関する説明を受けたとの記録が残っている。

 明治大平和教育登戸研究所資料館の山田朗館長は、貞明皇后が当時、陸海軍の統帥権を持っていた昭和天皇と3カ月に1回程度面会していたと指摘。「皇太后から昭和天皇に虹波の有効性を伝えてもらうことで、予算を獲得し、陸軍内で開発推進に向けて基盤を固める狙いがあったのだろう」と推測している。>(24年12月18日付京都新聞)

 この重大な事実を、京都新聞はなぜ今回の連載で捨象したのでしょうか。それは結果的に「皇室と虹波=人体実験」という核心問題を隠ぺいしたことになります。

 貞明皇后はハンセン病患者の隔離・収容にも深くかかわっていました。その関係で菊池恵楓園の宮崎所長らが訪れ、治験を報告し、支援を求めたものと思われます。この問題には貞明皇后とハンセン病患者の隔離・収容という差別政策も関連しているのです。

 「虹波」をめぐるこの経過は、陸軍とハンセン病療養所、医師が結託して行い多くの犠牲者を出した人体実験に、貞明皇后と天皇裕仁がかかわっていたという極めて重大なものです。

 それは天皇制、皇室と戦争の関係史に新たな事実を付加するものと言って過言ではありません。天皇裕仁の戦争責任、貞明皇后のハンセン病患者隔離・収容責任と合わせて、徹底的に真相を究明する必要があります。


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韓国の「女嫌」と日本の「皇民化政策」

2025年01月04日 | 天皇制と戦争・植民地支配
  
 

 尹錫悦(ユンソンニョル)大統領に対する抗議行動に女性の参加が多い背景に、韓国社会に広がる「女嫌(じょけん)」という問題がある、という崔誠姫(チェソンヒ)・大阪産業大准教授(写真右)の見解を紹介しましたが(3日のブログ)、「女嫌」に関して崔氏はさらに重要な指摘をしています。

< ――「女嫌」には徴兵制や軍隊文化の影響が大きいのですか

 はい。さらに歴史的にみると、そうした軍隊文化などの背景には、日本植民地期からの影響も読み取ることができます。

 1945年に大日本帝国が解体した後に成立した韓国では、急ごしらえで軍隊を整える必要がありました。直後にあった朝鮮戦争では、満州国陸軍軍官学校出身の朴正熙(パクチョンヒ)ら、旧日本軍にルーツを持つ若手軍人たちが韓国軍の主力として活躍し、のち朴が率いた軍事政権では国家の中枢を担いました(写真は閲兵する朴正煕。写真はすべて朝日新聞デジタルより)。

 加えて、教育制度の継続性も見逃せません。植民地時代、朝鮮人の重要な社会進出先は教員でしたが、韓国建国後にこういった教員経験者が多く採用されました。軍政下の学校では、植民地期を思わせるような軍事教練も行われています。日本の教育が戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって民主化されたのとは対照的に、韓国の場合は冷戦下で植民地期の教育制度を継続することが黙認されていました。

 こうして、朝鮮王朝期から続く儒教的な男尊女卑と、日本的な家父長制とが合わさったジェンダーロールが温存されてきたといえます。

 現在でも、ソウルの名門校として知られる男子校の京畿(キョンギ)高校と女子校の京畿女子高校など、男女別学校が多くあります。これも植民地期の男女別学制度の名残です。

 こうした経緯で、軍政期までに「男がいてこそ国が成り立つ」といった現代まで続く社会の空気が成り立っていきました。>(12月29日付朝日新聞デジタル)

 朴正熙はじめ旧日本軍・政府関係者の軍人や官僚が「済州島4・3事件」(1948年)や朝鮮戦争(1950年~)で中心的役割を果たしたことはよく知られていますが、日本の植民地支配の負の遺産が教育分野で現在も韓国社会に影響を及ぼし続けているという指摘はたいへん重要です。

 こうした植民地支配における日本制度の強制が、「内鮮一体」のスローガンの下で強行された「皇民化政策」です。崔氏が指摘する「日本的な家父長制」とは天皇制にほかなりません。

天皇制は女性差別の装置であると同時に、階級差別や民族差別、部落差別などの根源でありながら、「一君万民」の欺瞞的なイデオロギーを振りかざすことによって、差別そのものの存在を隠蔽してきた」「韓国の近現代の歴史は、いうまでもなく植民地統治と分断の歴史である。植民地統治については、わたくしたち日本人は直接の当事者である」(鈴木裕子著『フェミニズム・天皇制・歴史認識』インパクト出版会2006年)

 韓国の政治・社会に広がる「女嫌」・女性差別はじめ、その近現代史と日本の植民地支配の関係はさらに徹底追究される必要があります。そこから私たち日本人は「当事者」として、加害責任と教訓を学び、これからの朝鮮半島との関係構築に生かしていかねばなりません。


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日本のタブー・「天皇の被爆責任」

2024年10月24日 | 天皇制と戦争・植民地支配
  

 日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノーベル平和賞に決まったことに関し、宮内庁は17日、徳仁天皇・雅子皇后が「長年にわたって活動を続けてこられた方々の苦労に思いをいたされている」(18日付京都新聞=共同)と発表しました。

 天皇・皇后がいかにも被爆者に心を寄せているかのように報道させるためですが、「被爆と天皇」の関係はそんなきれいごとでは済まされません。実は天皇には重い「被爆責任」があるのです。

 第1に、広島・長崎の被爆は、徳仁天皇の祖父、裕仁が「国体」=天皇制を守ろうとして敗戦を引き延ばした結果起こったことです。

 敗戦が誰の目にも明らかになっていた45年2月14日、近衛文麿元首相は裕仁に「戦争終結」を進言しました。いわゆる「近衛上奏文」です。
 しかし裕仁は、「もう一度戦果を挙げてから」とこれを退けました。少なくともこの時点で降伏していれば、東京大空襲(45・3・1)も沖縄戦(45・4月~)も広島被爆(45・8・6)も長崎被爆(45・8・9)もありませんでした。

 原爆を投下した“主犯”はアメリカですが、それを招いた(口実を与えた)天皇裕仁には“共犯”と言って過言ではない重い責任があります。

 第2に、にもかかわらず裕仁はその責任を認めるどころか、逆に開き直りました。

 1975年10月31日、訪米から帰国直後の記者会見で裕仁は、自らの戦争責任について見解を問われ、こう答えました。

「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」

 さらに、広島への原爆投下について聞かれ、こう述べました。

「この原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」(1975年11月1日付朝日新聞、ハーバード・ビックス著『昭和天皇(下)』講談社学術文庫2005年より)

 第3に、裕仁の息子、天皇明仁(現上皇)は、裕仁の戦争責任、原爆投下招来責任を謝罪するどころか、天皇として裕仁を手本としてきたことを誇示しました。現徳仁天皇はその明仁を踏襲しています。

 明仁天皇は65歳の誕生日会見でこう述べています。

「昭和天皇のことは、いつも深く念頭に置き、私も、このような時には『昭和天皇はどう考えていらっしゃるだろうか』というようなことを考えながら、天皇の務めを果たしております」(1998年12月18日の会見、宮内庁HPより)

 こうして天皇は、原爆投下を招きながら開き直った裕仁、それを手本にしてきた明仁、徳仁の3代にわたり、一貫して「被爆責任」を棚上げしてきたのです。

 さらに重大なことは、被団協はじめ日本の「被爆・平和運動」がこうした「天皇の被爆責任」をまったく追及しようとしていないことです。
 これは日本の重大な歴史的タブーです。このタブーを打ち破らない限り、日本の「被爆・平和運動」を世界に誇示することはできません。



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「8・15終戦神話」と「全国戦没者追悼式」

2024年08月15日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 きょう8月15日は「終戦記念日」とされています。しかし、「8・15」を「終戦の日」とするのはまったく根拠のない政治的神話です。

<「常識」として社会的に定着しているさまざまな認識の中には、虚構性を帯びたものや神話というべきものが少なくない。1945年8月15日に戦争が終わったという「常識」は、その最たる例のひとつだろう。

 ポツダム宣言の受諾は8月14日であり、8月15日は「玉音放送」が行われた日にすぎない。連合国への降伏文書の調印は1945年9月2日であり、連合国との講和条約の発効は1952年4月28日である。

 このように、ポツダム宣言受諾や降伏文書調印や講和条約発効といった交戦国との関係において決定的な意味のある日付が他に存在するにもかかわらず、戦後日本では、「玉音放送」の日にすぎない8月15日が「終戦」記念日とされてきた。その虚構性・神話性は、学術研究の次元ではしばしば指摘されてきた。(中略)

 それでもやはり「8・15終戦」という観念や戦争観は依然として国民の意識に浸透している。>(藤目ゆき・大阪大教授著『占領軍被害の研究』六花出版2021年)(漢数字は洋数字に変えました)

 まさに「8・15」は「玉音放送」の日にすぎないのです。では「玉音放送」とは何だったでしょうか。

<ポツダム宣言の受諾…この段階でも、「国体護持」のためにいくつかの手段が講じられていることは見逃すことができない。…敗戦によって国民と皇室の間の精神的むすびつきにひびが入るのを恐れて、戦争の終結があくまで天皇の「大御心」によるものであることが、くり返し強調された。8月15日の正午には、天皇がみずからレコードに吹き込んだ「終戦の詔書」が、ラジオを通じて全国に流された。いわゆる「玉音放送」である。>(吉田裕著『昭和天皇の終戦史』岩波新書1992年)

 「玉音放送」とは、第1に、「終戦」は裕仁の「大御心」による「聖断」だと思わせ、離反しかけていた天皇に対する民心を繋ぎ止め、天皇制の維持を図ること。第2に、裕仁の戦争責任を完全に棚上げしその追及をかわすこと。この二重の政治的思惑によって計画・実施されたものです(2020年8月15日のブログ参照)。

 重要なのは、この政治的思惑・作為が今も現在進行形で続いていることです。

 その最たるものが、政府主催の「全国戦没者追悼式」です。

 実施はサンフランシスコ講和条約が発効する直前の52年4月8日の閣議で決定されました。同5月2日の第1回から天皇裕仁が皇后とともに出席。63年から「8・15」に実施されるようになりました(「ウィキペディア」より)。

 式典は正午前に始まり、「玉音放送」が流れた正午に「黙とう」。そのあと天皇が、「三権の長」はじめ各界の代表を前に「おことば」なるものを読み上げます。
 このもようをNHKは生中継で全国に流します。甲子園でも高校球児や観客が試合を中断して「黙とう」します(させられます)(写真右)。

 「全国戦没者追悼式」のこうした光景はまさに「玉音放送」の再現にほかなりません。その政治的意図が、裕仁の戦争責任を隠ぺいしたまま天皇制の維持を図り、自民党改憲草案が明記している「天皇元首」化へつなげることにあることは明らかです。

 裕仁の戦争責任、日本の戦争加害責任を明確にし、主権在民の憲法原則を遵守するためにも、「8・15終戦神話」を打ち破らなければなりません。

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神社と戦争・植民地支配―「沖縄」「朝鮮」

2024年01月26日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 陸上自衛隊の小林弘樹幕僚副長ら数十人が1月9日に靖国神社を集団参拝していたことが問題になりましたが(13日のブログ参照)、その翌日の10日、陸自宮古島駐屯地トップの比嘉隼人宮古警備隊長ら幹部隊員約20人が制服、公用車で宮古神社(写真左)に集団参拝したことが判明しました。「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」が20日記者会見で明らかにし、抗議声明を読み上げました(写真中=沖縄タイムスより)。

 抗議声明が指摘している通り、比嘉氏らの「宮古神社参拝」は、小林氏らの「靖国神社参拝」同様、防衛省の事務次官通達(1974年)に違反していることは明白です。

 しかし、相次ぐ自衛隊幹部らの神社集団参拝は、省内の通達に違反しているかどうかではなく、その危険な意味にこそ目を向ける必要があります。

 宮古神社は、「神社本庁包括下の神社」(宮古神社公式サイト)です。そして、「神社本庁は皇祖神天照大神を祭神とする伊勢神宮を中心に全神社が結集するという基本方針のもとに構想された…いわば「組織としての国家神道」の存続という側面を有している」(『岩波 天皇・皇室辞典』)組織です。すなわち宮古神社は、伊勢神宮を頂点とする国家神道の末端神社です。

 国家神道の全国の神社が、靖国神社とともに、皇民化政策の柱となり、侵略戦争・植民地支配の強力なツールとなったことは周知の歴史的事実です。

 沖縄ももちろん例外ではありませんでした。焼失した首里城の再建にあたって、正殿前の大龍柱が正面向きか相対かが問題になっていますが、その発端は、ヤマトの天皇制政府が1933年(満州侵略の2年後)に、首里城正殿を「沖縄神社」の拝殿としたことです(写真右)。それまで正面向きだった大龍柱を天皇制政府は日本の神社に合わせて相対にしたのです(2020年10月24日のブログ参照)。

 皇民化政策のツールとしての神社の役割は、植民地・朝鮮においていっそう顕著でした。

「朝鮮では1936年3月、南次郎・陸軍大将が朝鮮総督に就任…この総督の下では「内鮮一体」(「内」は「内地」のこと、「鮮」は朝鮮をあなどってこう呼んだのです)が提唱され、朝鮮人に宮城遥拝、神社参拝を強制し、一つの面(面は日本の村にあたります)に一つの神社を設置することが目標とされました」(中塚明著『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』増補改訂版・高文研2022年、カッコ内も)

「朝鮮総督府は「日本精神」強化のために神社参拝を強要…すでに日本は三・一独立運動後の1925年に、現在のソウル南山に天照大神と明治天皇を祭神とする「朝鮮神宮」を竣工していましたが…1939年に…「内鮮一体」のシンボルとして「扶余神社」を創立します。こうして朝鮮全土に神社がつくられると同時に、各家庭にも「神棚」をまつらせました」(尹健次著『もっと知ろう朝鮮』岩波ジュニア新書2001年)

 神社は皇民化政策・侵略戦争・植民地支配と切っても切れない関係にあります。
 その神社に自衛隊(軍隊)の幹部らが制服と公用車で相次いで集団参拝した。それが靖国神社と沖縄の宮古神社だった―このことは、日本の戦争国家化がいかに危険な段階にきているかを示すとともに、沖縄がその最前線に立たされていることをものがたるものにほかなりません。


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チャーチルと戦争と天皇制

2023年07月08日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 3日のNHK「映像の世紀」は「チャーチルとヒトラー」でした。第1次世界大戦から第2次世界大戦へ至る欧州の戦争の軌跡を二人を中心に振り返ったものです。

 この中で新たな発見だったのは(私が無知だっただけですが)、チャーチルの好戦的性格でした。
 第1次世界大戦に陸軍の大隊長として前線に赴いたチャーチルは、塹壕の中で多くの兵士が死んでいく悲惨な状況を眺めながら、「幸福感」に浸ったといいます。

 第1次大戦後、「これからは科学が戦争の勝敗を決める」と察し、戦車の開発を率先指導。「戦車の父」と呼ばれました。

 ヒトラーが対ソ戦へ戦力を集中する思惑からイギリスに「和平」を申し入れたのに対し(1938年)、チャーチルの前の首相・チェンバレンはこれに応じましたが、チャーチルはあくまでも戦争遂行を主張し、結果、第2次世界大戦に突入しました。

 当初、ドイツの圧倒的な空爆によって敗北の危機に瀕したとき、日本の真珠湾攻撃によってアメリカの参戦が決定的となり、チャーチルは「これで勝てる」とほくそえんだといいます。

 チャーチルはいわば戦争の申し子でした。彼の存在がなければ欧州・世界の戦争の歴史は変わっていたかもしれません。

 ゼレンスキー大統領は昨年、イギリスの議会で演説(オンライン)し、チャーチルの言葉を引用し、ウクライナへのさらなる兵器供与を訴えました(写真右)。英政府は彼にチャーチルの名を冠した賞を授けました。
 チャーチルの好戦性は今日に受け継がれているのです。

 そんなチャーチルは、日本の皇室・天皇制とも深いかかわりがあります。

 明仁上皇は皇太子時代の1953年、父・裕仁の名代として英エリザベス2世の戴冠式に出席しました。初の訪欧でした。裕仁に代わって行ったのは、当時まだ裕仁の戦争責任を追及する欧州市民の世論が激しかったからです。

 戦犯・裕仁に対する批判は皇太子・明仁にも向けられ、彼は窮地に立ちました。それを救ったのがチャーチルでした。
 チャーチルは明仁を自宅に招き、労働組合の代表らも同席させ、宥和を演出しました(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫2016年)。

 明仁皇太子は帰国後の記者会見で、「大いに知見を広め貴重な体験を得たことは私にとって大きな収穫でした」とチャーチルに謝意を示しました(2018年12月23日放送NHK「天皇・運命の物語」)

 チャーチルはなぜ明仁に救いの手を差し伸べたのか。

 英王室(エリザベス女王)の意を体したもの(写真中は女王とチャーチル)、あるいは戦後政治における日本との関係強化という政治的思惑からと思ってきましたが、それだけではなかったのではないか?

 上述のように、ヒトラー・ドイツに対する敗北が目前だったチャーチルは、アメリカの参戦で救われ、勝利を確信しました。そのアメリカの参戦を決定づけたのは日本の真珠湾攻撃だとチャーチルは考えていました。逆説的に、日本の暴挙がイギリスを救った、その日本の侵略戦争の最高責任者は天皇・裕仁だった、という思いがあったのではないでしょうか。

 まったくの推測ですが、少なくとも、戦争を悪とは思っていなかったチャーチルに、裕仁の戦争責任を追及する意思など毛頭なかったことは確かでしょう。

 

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「被爆・敗戦」の8月を天皇制振り返る月に

2022年08月31日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 8月が今日で終わります。日本人はこの月に「戦争」を振りかえる機会が多いようです。メディアもさまざまな企画を組みます。その大きな契機はやはり、「8・6」「8・9」の原爆被爆と、「8・15」の「終戦」でしょう。

 しかし、その「戦争」回顧は被害の側からであり、侵略戦争・植民地支配の加害の視点はほとんどありません。さらに決定的に欠落しているのは、最大の加害者である天皇裕仁の責任が捨象されていることです。

 1947年12月7日、裕仁は敗戦後初めて広島を訪れ、広島市民奉迎所で行われた式典でこう述べました。

「本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対して同情はたえない」(『天皇陛下と広島』天皇陛下御在位六十年広島県奉祝委員会発行)

 1975年10月31日、裕仁は初の訪米から帰国した際の記者会見で、自身の戦争責任について聞かれ、こう答えました。

そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます

 さらに、広島の被爆について聞かれ、こう答えました。

「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」(1975年11月1日付朝日新聞)

 裕仁が「国体(天皇制)護持」に執着せずに降伏していれば、広島・長崎の被爆はありませんでした(8月16日のブログ参照)。それだけでなく、「国体護持」と原爆被爆は密接な関係にありました。

「鈴木(貫太郎)内閣と最高戦争指導会議は皇位ともっとも重要な天皇の大権の将来が絶対的に保障されないかぎり、戦争終結を決定することができなかったのであり…民衆が反軍、反戦の感情から国体の変革に向かうことを防ぐために、面子を保って降伏する口実が与えられる状況を外敵がつくり出すのを待っていた。ソ連参戦に引き続く原爆投下(長崎)は、彼らが求めていた口実を与えるものであった。
 8月12日、米内光政(海軍大臣)が高木惣吉少将に次のように語ることができたのは、このような理由があったからである。「言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天祐だ」(高木惣吉著『高木海軍少将覚え書』)」(ハーバート・ビックス著吉田裕監修『昭和天皇・下』講談社学術文庫)

 「国体護持」を「降伏」の絶対条件とする連中にとっては、原爆投下はまさに「天祐」だったのです。敗戦後の裕仁の度重なる無責任(と言うより非人間的)発言もそれと無関係ではありません。

 1945年8月15日の「終戦詔書」(「玉音放送」、写真右)は、たんに「終戦」を知らせたものではなく、天皇制を今後も維持していくと裕仁自身が表明したものです(2020年8月15日のブログ参照)。裕仁と天皇主義者らは「終戦」の日を天皇制の新たな出発の日にしたのです。

 重要なのは、その思惑が、敗戦から77年の今日まで引き継がれていることです。

 8月15日正午、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われます。それに合わせて、全国で「黙とう」が呼びかけられます。甲子園でもこの瞬間、プレーが中断し球児たちも観客も黙とうします(写真左)。

 なぜ「正午」なのでしょうか。裕仁の「玉音放送」が正午に流されたからです。黙とうが終わると、「追悼式」で天皇が「おことば」を述べます。裕仁の声がラジオから流れた時間に。

 8月15日正午のこの光景は、まさに77年前のレプリカです。

 こうして日本国民は意識するしないにかかわらず、「8・15」に天皇制を刷り込まれるのです。

 この国家権力の策略に抗い、逆に、「8・6」「8・9」「8・15」で天皇裕仁の侵略戦争・植民地支配の加害責任を明らかにし、8月を天皇制廃止の世論を広げる月にしたいものです。
 


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天皇裕仁の戦争継続責任と「フィナーレ爆撃」

2022年08月16日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

< 正午のラジオ放送で、日本政府が降伏を国民に伝えたのは8月15日。その前日から15日未明にかけ、大阪のほか、秋田市土崎、群馬県伊勢崎市、埼玉県熊谷市、山口県岩国、光両市などが猛烈な空襲を受けた。

 日本政府は8月10日、ポツダム宣言を「天皇の統治大権を変更しない」との条件付きで受諾すると連合国側に伝達した。ただ、これに対して連合国側が示した回答をめぐり、「天皇の地位が保証されていない」などとして政府や軍の内部が紛糾した。

 交渉の遅れを感じた米国は、日本各地の兵器工場や駅、市街地を爆撃し、宣言受諾を促すことにした。米軍資料で「フィナーレ爆撃」と呼ばれる作戦だ。>(14日の朝日新聞デジタルから抜粋)

 天皇裕仁が降伏を引き延ばしたことで犠牲が拡大したことはよく知られていますが、「フィナーレ爆撃」なる言葉は初めて知りました。同記事によれば、この日の京橋駅を中心とした大阪市への爆撃による死者は359人、行方不明は79人。岩国・光両市の死者は合わせて1千人以上。

 ポツダム宣言が出されたのは7月26日。当初日本はそれを拒絶しました。

「日本政府は7月27日、ポツダム宣言を受け取ったが、これを受諾する意思をまったく示さなかった。逆に、鈴木(貫太郎)内閣が最初に報道機関に命じたことは…ポツダム宣言の重要性を矮小化することだった。翌28日…鈴木首相は、午後の記者会見で正式な声明を出し、政府がポツダム宣言を拒絶することを明らかにした。…鈴木の声明の根底には、昭和天皇の戦争継続の決意と、ソ連を通じた交渉に寄せていた天皇の非現実的な期待があった」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇(下)』講談社学芸文庫2005年)

「ポツダム宣言から8月6日の原爆投下までの重要な時期に、昭和天皇はポツダム宣言の受諾について何も言わず、何の行動もとらなかった。しかし、天皇は木戸(幸一内大臣)に「三種の神器」は何としてでも護持しなければならないと話していた」(同)

 裕仁が木戸に「かくなる上は止むを得ぬ」と言って、ようやくポツダム宣言受諾が不可避とさとったのは、広島に原爆が投下された8月6日でした。
 日本政府は、9日夜から10日明け方にかけての最高戦争指導会議(天皇以下、首相、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長)で、「国体護持」を条件にポツダム宣言を受諾すると決定しました。

 これに対しアメリカ政府は11日、「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本の国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである」とする国務長官の回答(「バーンズ回答」)を発表。

「この回答をうけとった日本側では、この回答では「国体護持」について確信がもてないとする受諾慎重論が台頭し、13日の最高戦争指導会議とそれに続く閣議は再び紛糾した。そのため、14日には再度の御前会議が開催され…ポツダム宣言の最終的受諾が決定されたのである」(吉田裕著『昭和天皇の終戦史』岩波新書1992年)

 ポツダム宣言受諾が正式に連合国に伝えられたのは14日の夜でした。

 終戦・和平の機会は1945年に入ってからも、近衛文麿の「上奏」(2月14日)はじめ何度もありました。しかし天皇裕仁と側近らは一貫して戦争を終わらせようとしませんでした。彼らの頭にあったのはただ一つ、「国体護持」、すなわち裕仁の天皇大権と天皇制の維持・継続でした。ポツダム宣言の受諾をいったん決めながらなお躊躇したのも、「国体護持」の確約がなかったからです。

 木戸はのちに、ポツダム宣言(7月26日)から広島被爆(8月6日)までの11日間に通常爆弾による空襲で死亡した人は1万人以上にのぼると述べています(『昭和天皇(下)』)。

 少なくとも「近衛上奏」で降伏していれば、東京大空襲はじめ各地の空襲も沖縄戦も広島・長崎被爆も、そしてもちろん「フィナーレ爆撃」もありませんでした。

「戦中の天皇制イデオロギーは、降伏のための行動をとることをおよそ不可能にしていた。客観的には敗北していることを知りながらも、戦争が同胞にもたらす苦しみに関心を払うことなく、まして、アジアや太平洋の人々の命を奪うがままにしておきながら、天皇とその戦争指導層は、失うことなく敗北する方法、つまり降伏後の国内からの批判を鎮静化させ、その権力構造が温存できる方法を探し求めていた」(『昭和天皇(下)』)

 その天皇制イデオロギーの根幹は「男系男子」による「万世一系」論です。それは今日の「象徴天皇制」にそっくり引き継がれていることを銘記する必要があります。

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外交・国際情報と天皇裕仁・戦争責任に新事実

2022年08月15日 | 天皇制と戦争・植民地支配
 

 6日放送のETV特集は、「侍従長が見た昭和天皇と戦争」と題し、百武三郎侍従長(写真中)の日記から天皇裕仁と戦争のかかわりを特集しました。

 「百武日記」についてはこれまで、木戸孝一内大臣も「決意行過ぎの如く見ゆ」と言うほど裕仁が開戦に前のめりだったこと(21年12月6日のブログ参照)、南京大虐殺(1937年12月13日)を黙認したこと(21年12月13日のブログ参照)などが明らかになっています。

 6日のETV特集ではこれに加え、裕仁に対し外務省の外交情報や外国放送の国際情報が逐次報告されていたことが明らかにされました。

 裕仁に外交情報を報告(「御進講」)していたのは、外務省OBで宮内省御用掛の松田道一(写真右)。松田は毎週木曜、裕仁に外務省情報を詳しく説明。そのもようは「松田日記」に記されています。

 松田が特に印象深かったと日記に書いているのは、1943年7月、日本が同盟を結んでいたイタリア・ムッソリーニの失脚を「進講」したこと(イタリアは同年9月に無条件降伏)。元イタリア大使でもあった松田は、早期講和の必要性をにじませたといいます。

 しかし、裕仁は松田の報告を受けたにもかかわらず、講和はアメリカに打撃を与えてからという「一撃講和」にこだわり、戦争を継続させました。

 松田の「進講」については、「昭和天皇実録」にもほとんど出て来ず、「「百武日記」によって明らかになった事実」(古川隆久日大教授)だといいます。

 また「百武日記」には、当時一般には聞くことができなかったアメリカの「短波放送」から、百武が重要と選択したものを裕仁に逐次報告していたことも記されています。

 以上が番組の中で注目された部分です。

 侵略戦争の遂行については、「軍部の独走」として天皇裕仁の責任を軽視する論調がありますが、裕仁は大元帥として陸軍・海軍の大本営を統括する最高責任者であっただけでなく、ヨーロッパの戦況も含め、外交・国際情勢が直接リアルタイムに報告されていたわけです。

 松田がイタリアの降伏を知らせ、敗戦は必至だとの情報を「進講」したにもかかわらず、それから約2年間、裕仁は無謀な戦争の続行にこだわりました。この2年間でいかに膨大な犠牲がもたらされたかは言うまでもありません。

 敗戦から77年。侵略戦争を開始し、講和(降伏)を引き延ばした天皇裕仁の戦争責任はあらためて徹底的に追及されなければなりません。その天皇の戦争責任を棚上げして継続されている「(象徴)天皇制」は直ちに廃止しなければなりません。


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側近の日記にみる天皇裕仁の開戦意欲

2021年12月06日 | 天皇制と戦争・植民地支配

     
 朝日新聞デジタルは4日、独自記事として、太平洋戦争開戦時に天皇裕仁の側近(侍従長)だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)の日記が見つかったとして、その内容の一部を報じました(写真左、中。同記事より)

 そこで明らかになっているのは、裕仁が開戦に「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意した」(東京裁判)とされているのとは違い、木戸孝一内大臣らも戸惑うほど、開戦に意欲的で前のめりになっていたことです。
 以下、同記事から抜粋します(太字は私)。

 天皇は(1941年)9月ごろまでは開戦に慎重な姿勢を示し続けたとされるが、10月13日、百武は日記にこう記した。

 宮相本日拝謁(中略)切迫の時機に対し已(すで)に覚悟あらせらるゝが如(ごと)き御様子に拝せらると 先頃来木戸内府も時々御先行を御引止め申上ぐる旨語れることあり 先頃来案外に明朗の龍顔(天皇の顔―私)を拝し稍(やや)不思議に思ふ

 松平恒雄(まつだいらつねお)宮内大臣や木戸ら天皇に会った側近から、陛下がすでに覚悟を決め、気持ちが先行している様子だと聞いた。百武から見ても、先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思った――との内容だ。

 木戸の日記にも同じ13日、天皇が「万一開戦となる場合、宣戦の詔勅(しょうちょく)を発することとなるだろう」と開戦に触れた発言が記されている。天皇は「開戦を決意する場合、戦争終結の手段を初めから研究しておく必要がある」とも語ったと木戸は書いている。

 これに対し、その4日前の10月9日。

 博恭(ひろやす)王殿下参内(さんだい)(中略)(やや)紅潮御昂奮(こうふん)あらせらるゝ様拝す

 海軍軍令部総長を務めた皇族の伏見宮(ふしみのみや)博恭王と対面した後、天皇が顔を紅潮させて興奮した様子だったと百武は記す。議論の内容は翌10日、木戸が天皇から聞いた話として記された。

 昨日伏見宮殿下は対米主戦論を主張せられ之れなくば陸軍に反乱起らんとまで申されたる由(中略)(ま)た人民は皆開戦を希望すとも申されたりと

 伏見宮が「米国と戦争しなければ陸軍に反乱が起きる」「人民は開戦を希望している」などと主戦論をぶったという。

 さらに11月20日。

 内府(木戸)(いわ)く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ

 百武は、天皇が開戦に傾く様子を木戸が懸念したとみられる「陛下の決意が行き過ぎのように見える」との発言を記した。これにつながる二つの出来事が、直前の15日の大本営政府連絡会議であった。

 一つは図上で作戦を説明する「兵棋(へいぎ)演習」。真珠湾攻撃を含む作戦計画が天皇に提示されたという。
 もう一つが「戦争終末促進に関する腹案」の決定だ。開戦にあたり、戦争をどう終わらせるか研究しておくべきだと考える天皇を説得し、決断を促すため軍部がつくったとみられる。(編集委員・北野隆一)

 天皇裕仁は、慣例を破って御前会議で積極的に発言し、開戦を決意すると、「気持ちが先行」し、顔は「明朗」「紅潮興奮」し、木戸らを「決意行過ぎの如く見ゆ」と戸惑わせたというのです。

 太平洋戦争開戦から80年。NHKは例年になく様々な番組で「太平洋戦争特集」を組んでいますが、東アジア・太平洋戦争の歴史で最も重要なのは、天皇裕仁の戦争・植民地支配責任であり、それが隠ぺい・棚上げされ、今日の「象徴天皇制」に繋がっている事実です。百武の日記はその一端を示しています。


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