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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

神社と戦争・植民地支配―「沖縄」「朝鮮」

2024年01月26日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 陸上自衛隊の小林弘樹幕僚副長ら数十人が1月9日に靖国神社を集団参拝していたことが問題になりましたが(13日のブログ参照)、その翌日の10日、陸自宮古島駐屯地トップの比嘉隼人宮古警備隊長ら幹部隊員約20人が制服、公用車で宮古神社(写真左)に集団参拝したことが判明しました。「ミサイル基地いらない宮古島住民連絡会」が20日記者会見で明らかにし、抗議声明を読み上げました(写真中=沖縄タイムスより)。

 抗議声明が指摘している通り、比嘉氏らの「宮古神社参拝」は、小林氏らの「靖国神社参拝」同様、防衛省の事務次官通達(1974年)に違反していることは明白です。

 しかし、相次ぐ自衛隊幹部らの神社集団参拝は、省内の通達に違反しているかどうかではなく、その危険な意味にこそ目を向ける必要があります。

 宮古神社は、「神社本庁包括下の神社」(宮古神社公式サイト)です。そして、「神社本庁は皇祖神天照大神を祭神とする伊勢神宮を中心に全神社が結集するという基本方針のもとに構想された…いわば「組織としての国家神道」の存続という側面を有している」(『岩波 天皇・皇室辞典』)組織です。すなわち宮古神社は、伊勢神宮を頂点とする国家神道の末端神社です。

 国家神道の全国の神社が、靖国神社とともに、皇民化政策の柱となり、侵略戦争・植民地支配の強力なツールとなったことは周知の歴史的事実です。

 沖縄ももちろん例外ではありませんでした。焼失した首里城の再建にあたって、正殿前の大龍柱が正面向きか相対かが問題になっていますが、その発端は、ヤマトの天皇制政府が1933年(満州侵略の2年後)に、首里城正殿を「沖縄神社」の拝殿としたことです(写真右)。それまで正面向きだった大龍柱を天皇制政府は日本の神社に合わせて相対にしたのです(2020年10月24日のブログ参照)。

 皇民化政策のツールとしての神社の役割は、植民地・朝鮮においていっそう顕著でした。

「朝鮮では1936年3月、南次郎・陸軍大将が朝鮮総督に就任…この総督の下では「内鮮一体」(「内」は「内地」のこと、「鮮」は朝鮮をあなどってこう呼んだのです)が提唱され、朝鮮人に宮城遥拝、神社参拝を強制し、一つの面(面は日本の村にあたります)に一つの神社を設置することが目標とされました」(中塚明著『これだけは知っておきたい 日本と韓国・朝鮮の歴史』増補改訂版・高文研2022年、カッコ内も)

「朝鮮総督府は「日本精神」強化のために神社参拝を強要…すでに日本は三・一独立運動後の1925年に、現在のソウル南山に天照大神と明治天皇を祭神とする「朝鮮神宮」を竣工していましたが…1939年に…「内鮮一体」のシンボルとして「扶余神社」を創立します。こうして朝鮮全土に神社がつくられると同時に、各家庭にも「神棚」をまつらせました」(尹健次著『もっと知ろう朝鮮』岩波ジュニア新書2001年)

 神社は皇民化政策・侵略戦争・植民地支配と切っても切れない関係にあります。
 その神社に自衛隊(軍隊)の幹部らが制服と公用車で相次いで集団参拝した。それが靖国神社と沖縄の宮古神社だった―このことは、日本の戦争国家化がいかに危険な段階にきているかを示すとともに、沖縄がその最前線に立たされていることをものがたるものにほかなりません。


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チャーチルと戦争と天皇制

2023年07月08日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 3日のNHK「映像の世紀」は「チャーチルとヒトラー」でした。第1次世界大戦から第2次世界大戦へ至る欧州の戦争の軌跡を二人を中心に振り返ったものです。

 この中で新たな発見だったのは(私が無知だっただけですが)、チャーチルの好戦的性格でした。
 第1次世界大戦に陸軍の大隊長として前線に赴いたチャーチルは、塹壕の中で多くの兵士が死んでいく悲惨な状況を眺めながら、「幸福感」に浸ったといいます。

 第1次大戦後、「これからは科学が戦争の勝敗を決める」と察し、戦車の開発を率先指導。「戦車の父」と呼ばれました。

 ヒトラーが対ソ戦へ戦力を集中する思惑からイギリスに「和平」を申し入れたのに対し(1938年)、チャーチルの前の首相・チェンバレンはこれに応じましたが、チャーチルはあくまでも戦争遂行を主張し、結果、第2次世界大戦に突入しました。

 当初、ドイツの圧倒的な空爆によって敗北の危機に瀕したとき、日本の真珠湾攻撃によってアメリカの参戦が決定的となり、チャーチルは「これで勝てる」とほくそえんだといいます。

 チャーチルはいわば戦争の申し子でした。彼の存在がなければ欧州・世界の戦争の歴史は変わっていたかもしれません。

 ゼレンスキー大統領は昨年、イギリスの議会で演説(オンライン)し、チャーチルの言葉を引用し、ウクライナへのさらなる兵器供与を訴えました(写真右)。英政府は彼にチャーチルの名を冠した賞を授けました。
 チャーチルの好戦性は今日に受け継がれているのです。

 そんなチャーチルは、日本の皇室・天皇制とも深いかかわりがあります。

 明仁上皇は皇太子時代の1953年、父・裕仁の名代として英エリザベス2世の戴冠式に出席しました。初の訪欧でした。裕仁に代わって行ったのは、当時まだ裕仁の戦争責任を追及する欧州市民の世論が激しかったからです。

 戦犯・裕仁に対する批判は皇太子・明仁にも向けられ、彼は窮地に立ちました。それを救ったのがチャーチルでした。
 チャーチルは明仁を自宅に招き、労働組合の代表らも同席させ、宥和を演出しました(吉田伸弥著『天皇への道』講談社文庫2016年)。

 明仁皇太子は帰国後の記者会見で、「大いに知見を広め貴重な体験を得たことは私にとって大きな収穫でした」とチャーチルに謝意を示しました(2018年12月23日放送NHK「天皇・運命の物語」)

 チャーチルはなぜ明仁に救いの手を差し伸べたのか。

 英王室(エリザベス女王)の意を体したもの(写真中は女王とチャーチル)、あるいは戦後政治における日本との関係強化という政治的思惑からと思ってきましたが、それだけではなかったのではないか?

 上述のように、ヒトラー・ドイツに対する敗北が目前だったチャーチルは、アメリカの参戦で救われ、勝利を確信しました。そのアメリカの参戦を決定づけたのは日本の真珠湾攻撃だとチャーチルは考えていました。逆説的に、日本の暴挙がイギリスを救った、その日本の侵略戦争の最高責任者は天皇・裕仁だった、という思いがあったのではないでしょうか。

 まったくの推測ですが、少なくとも、戦争を悪とは思っていなかったチャーチルに、裕仁の戦争責任を追及する意思など毛頭なかったことは確かでしょう。

 

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「被爆・敗戦」の8月を天皇制振り返る月に

2022年08月31日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

 8月が今日で終わります。日本人はこの月に「戦争」を振りかえる機会が多いようです。メディアもさまざまな企画を組みます。その大きな契機はやはり、「8・6」「8・9」の原爆被爆と、「8・15」の「終戦」でしょう。

 しかし、その「戦争」回顧は被害の側からであり、侵略戦争・植民地支配の加害の視点はほとんどありません。さらに決定的に欠落しているのは、最大の加害者である天皇裕仁の責任が捨象されていることです。

 1947年12月7日、裕仁は敗戦後初めて広島を訪れ、広島市民奉迎所で行われた式典でこう述べました。

「本日は親しく広島市の復興の跡を見て満足に思う。広島市の受けた災禍に対して同情はたえない」(『天皇陛下と広島』天皇陛下御在位六十年広島県奉祝委員会発行)

 1975年10月31日、裕仁は初の訪米から帰国した際の記者会見で、自身の戦争責任について聞かれ、こう答えました。

そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます

 さらに、広島の被爆について聞かれ、こう答えました。

「原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思っていますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむをえないことと私は思っています」(1975年11月1日付朝日新聞)

 裕仁が「国体(天皇制)護持」に執着せずに降伏していれば、広島・長崎の被爆はありませんでした(8月16日のブログ参照)。それだけでなく、「国体護持」と原爆被爆は密接な関係にありました。

「鈴木(貫太郎)内閣と最高戦争指導会議は皇位ともっとも重要な天皇の大権の将来が絶対的に保障されないかぎり、戦争終結を決定することができなかったのであり…民衆が反軍、反戦の感情から国体の変革に向かうことを防ぐために、面子を保って降伏する口実が与えられる状況を外敵がつくり出すのを待っていた。ソ連参戦に引き続く原爆投下(長崎)は、彼らが求めていた口実を与えるものであった。
 8月12日、米内光政(海軍大臣)が高木惣吉少将に次のように語ることができたのは、このような理由があったからである。「言葉は不適当と思うが、原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天祐だ」(高木惣吉著『高木海軍少将覚え書』)」(ハーバート・ビックス著吉田裕監修『昭和天皇・下』講談社学術文庫)

 「国体護持」を「降伏」の絶対条件とする連中にとっては、原爆投下はまさに「天祐」だったのです。敗戦後の裕仁の度重なる無責任(と言うより非人間的)発言もそれと無関係ではありません。

 1945年8月15日の「終戦詔書」(「玉音放送」、写真右)は、たんに「終戦」を知らせたものではなく、天皇制を今後も維持していくと裕仁自身が表明したものです(2020年8月15日のブログ参照)。裕仁と天皇主義者らは「終戦」の日を天皇制の新たな出発の日にしたのです。

 重要なのは、その思惑が、敗戦から77年の今日まで引き継がれていることです。

 8月15日正午、政府主催の「全国戦没者追悼式」が行われます。それに合わせて、全国で「黙とう」が呼びかけられます。甲子園でもこの瞬間、プレーが中断し球児たちも観客も黙とうします(写真左)。

 なぜ「正午」なのでしょうか。裕仁の「玉音放送」が正午に流されたからです。黙とうが終わると、「追悼式」で天皇が「おことば」を述べます。裕仁の声がラジオから流れた時間に。

 8月15日正午のこの光景は、まさに77年前のレプリカです。

 こうして日本国民は意識するしないにかかわらず、「8・15」に天皇制を刷り込まれるのです。

 この国家権力の策略に抗い、逆に、「8・6」「8・9」「8・15」で天皇裕仁の侵略戦争・植民地支配の加害責任を明らかにし、8月を天皇制廃止の世論を広げる月にしたいものです。
 


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天皇裕仁の戦争継続責任と「フィナーレ爆撃」

2022年08月16日 | 天皇制と戦争・植民地支配
   

< 正午のラジオ放送で、日本政府が降伏を国民に伝えたのは8月15日。その前日から15日未明にかけ、大阪のほか、秋田市土崎、群馬県伊勢崎市、埼玉県熊谷市、山口県岩国、光両市などが猛烈な空襲を受けた。

 日本政府は8月10日、ポツダム宣言を「天皇の統治大権を変更しない」との条件付きで受諾すると連合国側に伝達した。ただ、これに対して連合国側が示した回答をめぐり、「天皇の地位が保証されていない」などとして政府や軍の内部が紛糾した。

 交渉の遅れを感じた米国は、日本各地の兵器工場や駅、市街地を爆撃し、宣言受諾を促すことにした。米軍資料で「フィナーレ爆撃」と呼ばれる作戦だ。>(14日の朝日新聞デジタルから抜粋)

 天皇裕仁が降伏を引き延ばしたことで犠牲が拡大したことはよく知られていますが、「フィナーレ爆撃」なる言葉は初めて知りました。同記事によれば、この日の京橋駅を中心とした大阪市への爆撃による死者は359人、行方不明は79人。岩国・光両市の死者は合わせて1千人以上。

 ポツダム宣言が出されたのは7月26日。当初日本はそれを拒絶しました。

「日本政府は7月27日、ポツダム宣言を受け取ったが、これを受諾する意思をまったく示さなかった。逆に、鈴木(貫太郎)内閣が最初に報道機関に命じたことは…ポツダム宣言の重要性を矮小化することだった。翌28日…鈴木首相は、午後の記者会見で正式な声明を出し、政府がポツダム宣言を拒絶することを明らかにした。…鈴木の声明の根底には、昭和天皇の戦争継続の決意と、ソ連を通じた交渉に寄せていた天皇の非現実的な期待があった」(ハーバート・ビックス著『昭和天皇(下)』講談社学芸文庫2005年)

「ポツダム宣言から8月6日の原爆投下までの重要な時期に、昭和天皇はポツダム宣言の受諾について何も言わず、何の行動もとらなかった。しかし、天皇は木戸(幸一内大臣)に「三種の神器」は何としてでも護持しなければならないと話していた」(同)

 裕仁が木戸に「かくなる上は止むを得ぬ」と言って、ようやくポツダム宣言受諾が不可避とさとったのは、広島に原爆が投下された8月6日でした。
 日本政府は、9日夜から10日明け方にかけての最高戦争指導会議(天皇以下、首相、外相、陸相、海相、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長)で、「国体護持」を条件にポツダム宣言を受諾すると決定しました。

 これに対しアメリカ政府は11日、「日本の最終的な政治形態はポツダム宣言に従い、日本の国民の自由に表明する意思によって決定されるべきである」とする国務長官の回答(「バーンズ回答」)を発表。

「この回答をうけとった日本側では、この回答では「国体護持」について確信がもてないとする受諾慎重論が台頭し、13日の最高戦争指導会議とそれに続く閣議は再び紛糾した。そのため、14日には再度の御前会議が開催され…ポツダム宣言の最終的受諾が決定されたのである」(吉田裕著『昭和天皇の終戦史』岩波新書1992年)

 ポツダム宣言受諾が正式に連合国に伝えられたのは14日の夜でした。

 終戦・和平の機会は1945年に入ってからも、近衛文麿の「上奏」(2月14日)はじめ何度もありました。しかし天皇裕仁と側近らは一貫して戦争を終わらせようとしませんでした。彼らの頭にあったのはただ一つ、「国体護持」、すなわち裕仁の天皇大権と天皇制の維持・継続でした。ポツダム宣言の受諾をいったん決めながらなお躊躇したのも、「国体護持」の確約がなかったからです。

 木戸はのちに、ポツダム宣言(7月26日)から広島被爆(8月6日)までの11日間に通常爆弾による空襲で死亡した人は1万人以上にのぼると述べています(『昭和天皇(下)』)。

 少なくとも「近衛上奏」で降伏していれば、東京大空襲はじめ各地の空襲も沖縄戦も広島・長崎被爆も、そしてもちろん「フィナーレ爆撃」もありませんでした。

「戦中の天皇制イデオロギーは、降伏のための行動をとることをおよそ不可能にしていた。客観的には敗北していることを知りながらも、戦争が同胞にもたらす苦しみに関心を払うことなく、まして、アジアや太平洋の人々の命を奪うがままにしておきながら、天皇とその戦争指導層は、失うことなく敗北する方法、つまり降伏後の国内からの批判を鎮静化させ、その権力構造が温存できる方法を探し求めていた」(『昭和天皇(下)』)

 その天皇制イデオロギーの根幹は「男系男子」による「万世一系」論です。それは今日の「象徴天皇制」にそっくり引き継がれていることを銘記する必要があります。

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外交・国際情報と天皇裕仁・戦争責任に新事実

2022年08月15日 | 天皇制と戦争・植民地支配
 

 6日放送のETV特集は、「侍従長が見た昭和天皇と戦争」と題し、百武三郎侍従長(写真中)の日記から天皇裕仁と戦争のかかわりを特集しました。

 「百武日記」についてはこれまで、木戸孝一内大臣も「決意行過ぎの如く見ゆ」と言うほど裕仁が開戦に前のめりだったこと(21年12月6日のブログ参照)、南京大虐殺(1937年12月13日)を黙認したこと(21年12月13日のブログ参照)などが明らかになっています。

 6日のETV特集ではこれに加え、裕仁に対し外務省の外交情報や外国放送の国際情報が逐次報告されていたことが明らかにされました。

 裕仁に外交情報を報告(「御進講」)していたのは、外務省OBで宮内省御用掛の松田道一(写真右)。松田は毎週木曜、裕仁に外務省情報を詳しく説明。そのもようは「松田日記」に記されています。

 松田が特に印象深かったと日記に書いているのは、1943年7月、日本が同盟を結んでいたイタリア・ムッソリーニの失脚を「進講」したこと(イタリアは同年9月に無条件降伏)。元イタリア大使でもあった松田は、早期講和の必要性をにじませたといいます。

 しかし、裕仁は松田の報告を受けたにもかかわらず、講和はアメリカに打撃を与えてからという「一撃講和」にこだわり、戦争を継続させました。

 松田の「進講」については、「昭和天皇実録」にもほとんど出て来ず、「「百武日記」によって明らかになった事実」(古川隆久日大教授)だといいます。

 また「百武日記」には、当時一般には聞くことができなかったアメリカの「短波放送」から、百武が重要と選択したものを裕仁に逐次報告していたことも記されています。

 以上が番組の中で注目された部分です。

 侵略戦争の遂行については、「軍部の独走」として天皇裕仁の責任を軽視する論調がありますが、裕仁は大元帥として陸軍・海軍の大本営を統括する最高責任者であっただけでなく、ヨーロッパの戦況も含め、外交・国際情勢が直接リアルタイムに報告されていたわけです。

 松田がイタリアの降伏を知らせ、敗戦は必至だとの情報を「進講」したにもかかわらず、それから約2年間、裕仁は無謀な戦争の続行にこだわりました。この2年間でいかに膨大な犠牲がもたらされたかは言うまでもありません。

 敗戦から77年。侵略戦争を開始し、講和(降伏)を引き延ばした天皇裕仁の戦争責任はあらためて徹底的に追及されなければなりません。その天皇の戦争責任を棚上げして継続されている「(象徴)天皇制」は直ちに廃止しなければなりません。


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側近の日記にみる天皇裕仁の開戦意欲

2021年12月06日 | 天皇制と戦争・植民地支配

     
 朝日新聞デジタルは4日、独自記事として、太平洋戦争開戦時に天皇裕仁の側近(侍従長)だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)の日記が見つかったとして、その内容の一部を報じました(写真左、中。同記事より)

 そこで明らかになっているのは、裕仁が開戦に「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意した」(東京裁判)とされているのとは違い、木戸孝一内大臣らも戸惑うほど、開戦に意欲的で前のめりになっていたことです。
 以下、同記事から抜粋します(太字は私)。

 天皇は(1941年)9月ごろまでは開戦に慎重な姿勢を示し続けたとされるが、10月13日、百武は日記にこう記した。

 宮相本日拝謁(中略)切迫の時機に対し已(すで)に覚悟あらせらるゝが如(ごと)き御様子に拝せらると 先頃来木戸内府も時々御先行を御引止め申上ぐる旨語れることあり 先頃来案外に明朗の龍顔(天皇の顔―私)を拝し稍(やや)不思議に思ふ

 松平恒雄(まつだいらつねお)宮内大臣や木戸ら天皇に会った側近から、陛下がすでに覚悟を決め、気持ちが先行している様子だと聞いた。百武から見ても、先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思った――との内容だ。

 木戸の日記にも同じ13日、天皇が「万一開戦となる場合、宣戦の詔勅(しょうちょく)を発することとなるだろう」と開戦に触れた発言が記されている。天皇は「開戦を決意する場合、戦争終結の手段を初めから研究しておく必要がある」とも語ったと木戸は書いている。

 これに対し、その4日前の10月9日。

 博恭(ひろやす)王殿下参内(さんだい)(中略)(やや)紅潮御昂奮(こうふん)あらせらるゝ様拝す

 海軍軍令部総長を務めた皇族の伏見宮(ふしみのみや)博恭王と対面した後、天皇が顔を紅潮させて興奮した様子だったと百武は記す。議論の内容は翌10日、木戸が天皇から聞いた話として記された。

 昨日伏見宮殿下は対米主戦論を主張せられ之れなくば陸軍に反乱起らんとまで申されたる由(中略)(ま)た人民は皆開戦を希望すとも申されたりと

 伏見宮が「米国と戦争しなければ陸軍に反乱が起きる」「人民は開戦を希望している」などと主戦論をぶったという。

 さらに11月20日。

 内府(木戸)(いわ)く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ

 百武は、天皇が開戦に傾く様子を木戸が懸念したとみられる「陛下の決意が行き過ぎのように見える」との発言を記した。これにつながる二つの出来事が、直前の15日の大本営政府連絡会議であった。

 一つは図上で作戦を説明する「兵棋(へいぎ)演習」。真珠湾攻撃を含む作戦計画が天皇に提示されたという。
 もう一つが「戦争終末促進に関する腹案」の決定だ。開戦にあたり、戦争をどう終わらせるか研究しておくべきだと考える天皇を説得し、決断を促すため軍部がつくったとみられる。(編集委員・北野隆一)

 天皇裕仁は、慣例を破って御前会議で積極的に発言し、開戦を決意すると、「気持ちが先行」し、顔は「明朗」「紅潮興奮」し、木戸らを「決意行過ぎの如く見ゆ」と戸惑わせたというのです。

 太平洋戦争開戦から80年。NHKは例年になく様々な番組で「太平洋戦争特集」を組んでいますが、東アジア・太平洋戦争の歴史で最も重要なのは、天皇裕仁の戦争・植民地支配責任であり、それが隠ぺい・棚上げされ、今日の「象徴天皇制」に繋がっている事実です。百武の日記はその一端を示しています。


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隠ぺいされてきた皇軍による「平頂山大虐殺事件」

2020年09月17日 | 天皇制と戦争・植民地支配

   

 89年前の明日1931年9月18日、中国東北部(「満州」)で何が起こったか、知っている人は少なくないかもしれません。帝国陸軍(関東軍)による柳条湖満鉄線爆破事件。日本の中国侵略が本格的に始まる「満州事変」です。

 ではその翌年、88年前の昨日1932年9月16日に、柳条湖爆破事件があった奉天(瀋陽)の東隣・撫順の郊外にある平頂山の麓の村で起こった事件を知っている人は果たして何人いるでしょうか。関東軍による村民皆殺し事件、「平頂山大虐殺事件」です。

 撫順市委員会が調査して1964年に発表した『平頂山大惨案始末』の序文は、事件の概要をこう記しています。

 「日本帝国主義は中国を侵略、中国人民に対して数えきれぬほどの罪をおかした。平頂山虐殺事件はその一つである。
 平頂山は撫順市の南部にあたり…市街地より約四キロ離れた山あいの村である。およそ四〇〇世帯、三千人余りの村民が住んでいた。(中略)

 三〇余年前、日本軍は平頂山村を急襲し、村を焼きはらい、三千余の村民を虐殺した日本軍は目をおおうばかりの凶行を行ったあと、証拠隠滅を画策し、厳しい箝口令によって虐殺の事実が外部に漏れないように万全の対策を講じた。そのために今日にいたるも虐殺の事実を知る者は少ない。(以下略)」
(石上正夫著『平頂山事件 消えた中国の村』青木書店1991年より。写真は平頂山殉難同胞遺骨館と展示されている遺骨=同書より)

 直接蛮行に及んだのは、関東軍奉天独立守備隊撫順隊第二中隊(中隊長・川上精一大尉)、撫順憲兵分遣隊(隊長・小川一郎准尉)ですが、虐殺の翌日から関東軍司令部が率先して事件の隠ぺいを図りました。

 事件は前日(9月15日)に抗日ゲリラによって行われた撫順炭鉱襲撃への報復とされていますが、根源が日本帝国軍による中国東北部侵略にあることは言うまでもありません。抗日ゲリラは日本の侵略への対抗にほかなりません。

 しかも、抗日ゲリラが行動したその日は、日本の「満州国」支配を決定づけた「日満議定書」が調印された当日でした。また、3日後の9月18日が「満州事変」1周年に当たった日であることも見過ごせません。

 1932年9月16日午前11時ごろ、日本軍守備隊二百数十人が4台のトラックで平頂山村に急行。兵士は数メートルおきに銃剣を構え、村民を1人も逃がさない包囲網構築。「記念写真を撮る」と騙して村民全員を山の麓に集めました。「カメラ」と偽っていた機関銃数機をトラックから降ろし、包んでいた白布を取り払って一斉射撃。阿鼻叫喚、血の海。まだ息のある村民は、一人ひとり銃剣で突いて回りました。妊婦のおなかの子までも。家屋はすべて焼き払いました。3000余の遺体はガソリンをかけて燃やそうとしましたが、速く隠ぺいする必要から、遺体を山の麓に集め、山腹を爆破して遺体を埋めました。(生存者=約30人といわれています=の証言。石上氏前掲著より)

 「平頂山大虐殺」は、「旅順大虐殺」(1894年11月)から「南京大虐殺」(1937年12月)へ、そしてその後の東アジア各地における日本軍による一連の虐殺・蛮行の歴史のなかでとらえる必要があります。

 「旅順虐殺事件に対しても、平頂山事件に対しても、「あの時に責任の追及がなされていたならば、この種の行為を続発させることはなかったであろう」と多くの人が過去の歴史を振りかえるが、はたして、天皇の軍隊の性格は、生まれた時のまま変わることなく、それどころかますます大きくなった
 一九三七年に日中戦争が勃発し、暮から翌年にかけて日本軍による南京大虐殺が発生した。一九四一年アジア・太平洋戦争が起き、シンガポール・マレーシア占領後の華僑の大量虐殺泰緬鉄道設置時の強制労働による虐待・死亡、抗日を理由とした民衆や捕虜の虐殺毒ガス兵器・細菌兵器開発のための人体実験等、占領地の統治は残虐を極め、二〇〇〇万人以上といわれる人々を犠牲にして一九四五年の日本帝国主義の終焉まで続いた。
 日本軍の虐殺の歴史に必然性があったとすれば、それは明治維新の「富国強兵」政策の中で誕生した「天皇の軍隊」に求めなければならないだろう」(高尾翠・歴史学者『天皇の軍隊と平頂山事件』新日本出版社2005年)

 こうした日本軍による虐殺の実態は隠ぺいされ、いまだに詳細に明らかにされていません。「天頂山大虐殺」はとくにそうです。そして、事実を明らかにしないだけでなく、それを虚偽・誇張だとして歪曲しようとする論調が横行しています。その先頭に立つ歴史修正主義者が政権を握り、学校教育を支配し、史実をますます日本人から遠ざけてきた。遠ざけている。それが日本の現実であることを直視しなければなりません。


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「8・15」を「終戦記念日」とした政治的思惑

2020年08月15日 | 天皇制と戦争・植民地支配

   

 8月15日は何の日かと問えば、小学生でも「終戦記念日」と答えるでしょう。「8・15」=「終戦記念日」は日本社会では常識化しています。平和・民主勢力でも「終戦」を「敗戦」と言い換えはしても「8・15」自体に異議を唱える人は少ないでしょう。しかし、「8・15」=「終戦(敗戦)記念日」は事実に反するばかりか、それを当然視することは重大な政治的思惑に陥ることになります。

 「15年戦争」の「終戦(敗戦)」とは何をもって言うのでしょうか。

 日本はポツダム宣言を受諾して全面降伏しました。天皇裕仁が出席した「御前会議」でそれを最終的に決定したのは、1945年8月14日午前11時ごろです。そして、「ほぼ同時に外務省から連合国への回答公電がスイスとスウェーデンに向けて発信された」(佐藤卓己著『八月十五日の神話』ちくま学芸文庫2014年)のです。ポツダム宣言の受諾を持って「終戦」とするなら、それは「8・14」です。

 また、「降伏文書」の調印をもって「終戦」とするなら、アメリカ戦艦ミズリー号の艦上でそれが行われたのは、45年9月2日午前9時8分です。アメリカではこの日を対日戦争記念日(VJデイ)としています。

 世界で「8・15」を「終戦」としているのは、日本と、日本が植民地支配していたコリア半島だけです(コリア半島では「光復節」)。それはおよそ「グローバル・スタンダードではありえない」(佐藤卓己氏前掲書)のです。

 では「8・15」は何が行われた日か。唯一、天皇裕仁がラジオを通じて「終戦詔書」を読み上げた、いわゆる「玉音放送」が行われた日です(写真中・右は「放送」を聞く人々)。

 「玉音放送」とは何だったでしょうか。たんに「国民」に「終戦」を知らせるために行われた放送ではありません。そこにはきわめて周到に計画された政治的意図がありました。

 「ポツダム宣言の受諾によって十五年にもわたる悲惨な戦争に、ようやくピリオドが打たれた。だが…この段階でも、「国体護持」のためにいくつかの手段が講じられていることは見逃すことができない。(中略)敗戦によって国民と皇室の間の精神的むすびつきにひびが入るのを恐れて、戦争の終結があくまで天皇の「大御心」によるものであることが、くり返し強調された。八月十五日の正午には、天皇がみずからレコードに吹き込んだ「終戦の詔書」が、ラジオを通じて全国に流された。いわゆる「玉音放送」である」(吉田裕著『昭和天皇の終戦史』岩波新書1992年)

 当日の放送では、よく聞き取れない裕仁の「詔書」朗読を補う形で、「内閣告諭」とアナウンサー(現NHKの和田信賢)による「解説」が続けて流され、「天皇陛下に於かせられましては、万世の為に太平を開かんと思召され…畏(おそれおお)き大御心(おおみこころ)より詔書を御放送あらせられました」などと、裕仁の「大御心」「聖断」が強調されました(竹山昭子著『玉音放送』晩聲社1989年)。

 それだけではありません。見逃せないのは「終戦詔書」の内容です。

 「詔書」は全部で815字、裕仁の朗読は4分37秒(佐藤卓己氏前掲書)におよびましたが、その中に、「国民」に対する謝罪の言葉は一言もありませんでした(アジアの人々に対する言及・謝罪は望むべくもありません)。

 「戦争責任という問題を視野に入れた時、この「終戦の詔書」の内容には、「国体護持」派の立場からみても問題があった。この時、高松宮(裕仁の2番目の弟―引用者)は…「詔書の中に、天皇が国民にわびることばはないね」と語ったというが、たしかに詔書では天皇自身の責任について何の言及もなかったのである」(吉田裕氏前掲書)

 「玉音放送」は、第1に、「終戦」は裕仁の「大御心」による「聖断」だと思わせ、離反しかけていた天皇に対する民心を繋ぎ止め、天皇制の維持を図ること。第2に、裕仁の戦争責任を完全に棚上げしその追及をかわすこと。この二重の政治的思惑によって計画・実施されたものです。

 「玉音放送」が行われた日を「終戦(敗戦)記念日」とすることは、国際常識に反しているだけでなく、天皇制擁護、裕仁の戦争・植民地支配責任すなわち日本の加害責任隠ぺいに通じます。
 国家とメディアがつくりあげた「日本社会の常識」を改めることは容易ではありませんが、少なくとも私は「8・15」を「敗戦記念日」と言うのはやめようと思っています。

 


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飢餓、少年兵…戦争・紛争地域の子どもたちは今

2018年11月26日 | 天皇制と戦争・植民地支配

     

 11月20日は「世界子どもの日」だそうです。
 国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」は21日、内戦下のイエメン(中東南部)の子どもたちが置かれている悲惨な実態を発表しました。
 イエメンでは2015年以降の3年間で、5歳未満の子どもたち約8万5000人が飢餓や病気で死亡したと推定されています。
 セーブ・ザ・チルドレンの担当者は、「子どもたちは泣くこともできないほど衰弱し、両親はやせ細っていくわが子をただ見ているだけしかできないでいる」と話しています。(AFP=時事)

  「アムネスティ・ニュースレター」の最新号(vol.478)は「子どもが『人間の盾』に―大切な日々、そして未来を奪われる子どもたち」の見出しで、「今もなくならない『子ども兵士』」の実態を伝えています(写真左は同誌より、紛争で破壊された学校にたたずむ少女)。

  「コンゴ民主共和国で最も貧しい地域のひとつであるカサイでは、紛争で農業ができなくなったことで、深刻な食糧不足に陥り、40万人の乳幼児が重度の栄養失調に苦しんでいます。紛争が発生してから400以上の学校が破壊され、たとえ学校があっても暴力の恐怖から親が子どもを通わせず…さらに、大勢の子どもが兵士として民兵組織に徴用されています。ユニセフによれば、民兵組織の戦闘員の6割が子どもです」

  「国際人道法は、国や武装組織が15歳未満の子ともを兵士として徴用することを禁じ、子どもの権利条約の選択議定書ではその年齢を18歳未満としていますが、いまだに世界で25万人以上の子ども兵士がいると言われています」(同誌)

  「子ども兵士」で、亡くなった後藤健二さん(写真中)の本、『ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白』(汐文社、2005年)を思い出しました。

  後藤さんはダイヤモンドの産地として知られるシエラレオネ(アフリカ西部)の内戦で「市民の十人中七人が家をなくし」、多くの子どもたちが「兵士」となっている実態をリポートしています。

  「兵士になった子どもたちは、大人の兵士に教えられたとおりに村をおそい、家を焼きはらい、人々の手足を切り落とす戦闘マシーンになって行きました。反政府軍に使われた子ども兵士の年齢は十歳から十六歳。その数は、五千人以上と言われています」

  子ども兵士だった15歳のムリアは反政府軍から脱走し、更生センターに保護されていました。目の上には戦闘のために麻薬を埋め込まれた傷痕があります。なぜ罪もない人々を殺害する「兵士」になったのか。当時の気持ちをこう述べています。
 「今は戦争なんだよ。ぼくは両親も殺された。お父さんもお母さんも何も悪いことはしていなかったのに、殺された。それが戦争なんだ」

 センターでの平穏な生活で心身を回復し、学校へ通うようになったムリア。「今、生まれて初めて自分のために生きていく喜びを感じ」、後藤さんに「自分の夢」を語ります。「この国の大統領になって戦争をしないようにする」

 後藤さんは本の最後でこう述べています。
 「シエラレオネでは今、ストリート・チルドレンが増えています。…路上でくらす子どもたちの中に、兵士をしていた子どもたちがたくさんいます。…戦争がひとたび起これば、すべてが破壊される…貧しい生活が続けば…不満がまた新しい戦争へとつながっていくのです。
 わたしたちは、そうなる前に戦争で傷ついた人たちにさまざまな方法で手をさしのべなければならないと思います。今、自分が生きているこの時を同じように生きている人(隣人)に、わたしはまず何をしたらいいのか? この本が、そう考えるきっかけになってくれればと願っています」

  そんな思いを胸に戦場を取材し続け、そして斃れた後藤さん。戦場ジャーナリストの貴重で崇高な仕事にあらためて感謝です。

  「子どもは宝」です。それは自分の子ども(孫)だけでなく、日本の子どもたちだけでもなく、世界中の子どもたちが宝です。とりわけ戦争・紛争地域で生命の危機に瀕し、現在の生活ばかりか未来の希望さえ剥奪されている子どもたちに、「わたしはまず何をしたらいいのか」、考え続けたいと思います。


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高倉健さんと東北被災地と沖縄

2014年11月27日 | 天皇制と戦争・植民地支配

       

 私は2年10カ月ほど前から、手帳の裏表紙に、1枚の新聞写真を切り抜いて張っています。上中央の男の子の写真です。
 先日高倉健さんが亡くなって、追悼のテレビ番組や新聞でこの写真が取り上げられました。
 
 この写真を初めて知ったのは、2012年1月13日付の東京新聞でした。東日本大震災の3日後、2011年3月14日に共同通信が配信したものです。
 健さんはこの写真を新聞で見て、遺作となった映画「あなたへ」の台本に張りつけ、毎日「気合を入れていた」という記事でした。その話に感動して、健さんに習って手帳に張りました。

 昨日(26日)付の中国新聞に、健さんとこの男子の「秘話」が載っていました(おそらく共同電)(写真右)。
 男の子は気仙沼の中学2年になった松本魁翔(かいと)君。「健さんに誓う被災地再興」「報道写真が縁 手紙交流」と題した記事の要点を紹介します。

 <(魁翔君は)津波で流された船で自宅が壊され、母、姉、妹と今も仮設住宅で暮らす。写真は、当時10歳の魁翔君が断水の続く中、井戸まで何往復もして大きなペットボトルに生活用水を運んでいたときに撮影された。母子家庭で「男手が足りないから」とがれきの中を歩いた。

 初めて手紙を出し、返事が届いたのは中学入学直前の昨年4月初め。「常に被災地を忘れないことを心に刻もうと(映画の)撮影にのぞんでいました」「遠くからですが貴方の成長を見守っています」と温かい言葉が並んでいた。

 「頑張っていれば見ていてくれる人がいる」とうれしかった。特に「負けないで!」という最後の言葉は、部活のバスケットボールの練習中など諦めそうなとき、よく思い出す。仮設住宅のトイレにこもり一人で手紙を読むこともある。

 高倉さんは「人生で一度しか味わえない子ども時代の日常を平穏に過ごしてほしい」とも記しており、自分とのことがマスコミで取り上げられて騒がれると魁翔君のためにならないと考えていたようだという。公にしないことを「男と男の約束だ」と捉え、手紙のことはずっと秘密にしていたが「自分のようにこの手紙で勇気づけられる人もいるかもしれない」と公開した。
 将来の夢は得意なスポーツで有名になって気仙沼を盛り上げること。「震災とか悲しいことを思い出さないでいい、楽しい所にしたい」と力強く話した。>

 健さんの「秘話」は被災地とのつながりだけではありませんでした。沖縄にも「秘話」があることを11月22日付の琉球新報で知りました。

 初の主演映画が「電光空手打ち」(1956)で、沖縄空手の達人の役でした。その後も「網走番外地」シリーズの「南国の対決」(66)の沖縄ロケなど、仕事でも縁がありました。
 しかし、健さんと沖縄のほんとうのつながりは、私的なものでした。

 親交があった那覇市の石材会社社長・緑間禎さんによれば、「高倉健さんは沖縄が大好きで『世界一の海と空、そして人情の島』と話してくれた。八重山のことも本当に大切に思っていた」。

 緑間さんが28年前に健さんと出会ったきっかけは「墓石」でした。健さんから直接、「恩師である映画監督の遺骨を八重山に納骨したい」と墓建立の依頼があったのです。
 「(健さんは)『監督の名前や墓の場所は口外しないでほしい』と要望した。緑間さんは『多くを語らない健さんらしい願いなので、僕も健さんと会ったことすら、家族と身近な社員以外には秘密にしてきた』と明かす」

 「『毎年(墓がある)八重山に来ます』と語り、本当にこられていたようだ」という緑間さん。「恩師の家族を大切に守り、若造だった僕にも敬語で話す、礼儀正しく律儀なスターだった」と振り返ります。

 さらに同紙によれば、ダイビングが好きで生前何度も西表島を訪れた健さんは、石垣市立冨野小中学校と交流がありました。
 1996年に石垣市を訪れた健さんが偶然同校の運動会を見て、ラジオ番組で「とっても感慨深かった」と紹介。後日その番組テープと手紙が送られてきたのがきっかけでした。
 以後文通は続き、健さんから著書や双眼鏡が同校に贈られました。双眼鏡は今も児童たちが愛用しているといいます。

 当時校長だった鳩間真英さんによると、「双眼鏡が届けられた時、高倉さんは学校近くまで来ていたが校舎には入らず、付添の人が手渡した」。「有名な方なので、自分が入ると困惑させると思ったのだろう。気配りのある人で高倉さんらしいなと感じた」。

 表に出すことを嫌った(避けた)健さん。「大事なものは目に見えない」という言葉を思い出します。

 出世作となった任侠映画にはやはり違和感があります。最晩年、叙勲を受けたことも気になります。同じ東映のスターだった菅原文太さんのように、公の場で政治的な発言・応援をすることもありませんでした。
 しかし、私は高倉健さんの謙虚さ、子どもたちへのまなざし、被災地や沖縄への思いやりに、大きな感動をおぼえます。それは、政治・社会変革をはじめ、すべての活動の根っこになるものではないかとも思います。

 健さんが、ファンへのメッセージを求められたとき、照れながら語ったという次の言葉とともに、同時代のほんとうの「スター」であった「高倉健」を記憶にとどめようと思います。

 「みんなしんどいところで我慢してやっている。人は負けることがある。それでも負けないぞと思ってやっていれば、いい人に出会える。その出会いを信じて、頑張るしかないんじゃないでしょうか」

 


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