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朝日新聞デジタルは4日、独自記事として、太平洋戦争開戦時に天皇裕仁の側近(侍従長)だった百武三郎(ひゃくたけさぶろう)の日記が見つかったとして、その内容の一部を報じました(写真左、中。同記事より)
そこで明らかになっているのは、裕仁が開戦に「政府や軍部の進言でしぶしぶ同意した」(東京裁判)とされているのとは違い、木戸孝一内大臣らも戸惑うほど、開戦に意欲的で前のめりになっていたことです。
以下、同記事から抜粋します(太字は私)。
天皇は(1941年)9月ごろまでは開戦に慎重な姿勢を示し続けたとされるが、10月13日、百武は日記にこう記した。
宮相本日拝謁(中略)切迫の時機に対し已(すで)に覚悟あらせらるゝが如(ごと)き御様子に拝せらると 先頃来木戸内府も時々御先行を御引止め申上ぐる旨語れることあり 先頃来案外に明朗の龍顔(天皇の顔―私)を拝し稍(やや)不思議に思ふ
松平恒雄(まつだいらつねお)宮内大臣や木戸ら天皇に会った側近から、陛下がすでに覚悟を決め、気持ちが先行している様子だと聞いた。百武から見ても、先ごろから陛下の表情が明るいので不思議に思った――との内容だ。
木戸の日記にも同じ13日、天皇が「万一開戦となる場合、宣戦の詔勅(しょうちょく)を発することとなるだろう」と開戦に触れた発言が記されている。天皇は「開戦を決意する場合、戦争終結の手段を初めから研究しておく必要がある」とも語ったと木戸は書いている。
これに対し、その4日前の10月9日。
博恭(ひろやす)王殿下参内(さんだい)(中略)稍(やや)紅潮御昂奮(こうふん)あらせらるゝ様拝す
海軍軍令部総長を務めた皇族の伏見宮(ふしみのみや)博恭王と対面した後、天皇が顔を紅潮させて興奮した様子だったと百武は記す。議論の内容は翌10日、木戸が天皇から聞いた話として記された。
昨日伏見宮殿下は対米主戦論を主張せられ之れなくば陸軍に反乱起らんとまで申されたる由(中略)又(ま)た人民は皆開戦を希望すとも申されたりと
伏見宮が「米国と戦争しなければ陸軍に反乱が起きる」「人民は開戦を希望している」などと主戦論をぶったという。
さらに11月20日。
内府(木戸)曰(いわ)く上辺の決意行過ぎの如く見ゆ
百武は、天皇が開戦に傾く様子を木戸が懸念したとみられる「陛下の決意が行き過ぎのように見える」との発言を記した。これにつながる二つの出来事が、直前の15日の大本営政府連絡会議であった。
一つは図上で作戦を説明する「兵棋(へいぎ)演習」。真珠湾攻撃を含む作戦計画が天皇に提示されたという。
もう一つが「戦争終末促進に関する腹案」の決定だ。開戦にあたり、戦争をどう終わらせるか研究しておくべきだと考える天皇を説得し、決断を促すため軍部がつくったとみられる。(編集委員・北野隆一)
天皇裕仁は、慣例を破って御前会議で積極的に発言し、開戦を決意すると、「気持ちが先行」し、顔は「明朗」「紅潮興奮」し、木戸らを「決意行過ぎの如く見ゆ」と戸惑わせたというのです。
太平洋戦争開戦から80年。NHKは例年になく様々な番組で「太平洋戦争特集」を組んでいますが、東アジア・太平洋戦争の歴史で最も重要なのは、天皇裕仁の戦争・植民地支配責任であり、それが隠ぺい・棚上げされ、今日の「象徴天皇制」に繋がっている事実です。百武の日記はその一端を示しています。
89年前の明日1931年9月18日、中国東北部(「満州」)で何が起こったか、知っている人は少なくないかもしれません。帝国陸軍(関東軍)による柳条湖満鉄線爆破事件。日本の中国侵略が本格的に始まる「満州事変」です。
ではその翌年、88年前の昨日1932年9月16日に、柳条湖爆破事件があった奉天(瀋陽)の東隣・撫順の郊外にある平頂山の麓の村で起こった事件を知っている人は果たして何人いるでしょうか。関東軍による村民皆殺し事件、「平頂山大虐殺事件」です。
撫順市委員会が調査して1964年に発表した『平頂山大惨案始末』の序文は、事件の概要をこう記しています。
「日本帝国主義は中国を侵略、中国人民に対して数えきれぬほどの罪をおかした。平頂山虐殺事件はその一つである。
平頂山は撫順市の南部にあたり…市街地より約四キロ離れた山あいの村である。およそ四〇〇世帯、三千人余りの村民が住んでいた。(中略)
三〇余年前、日本軍は平頂山村を急襲し、村を焼きはらい、三千余の村民を虐殺した。日本軍は目をおおうばかりの凶行を行ったあと、証拠隠滅を画策し、厳しい箝口令によって虐殺の事実が外部に漏れないように万全の対策を講じた。そのために今日にいたるも虐殺の事実を知る者は少ない。(以下略)」
(石上正夫著『平頂山事件 消えた中国の村』青木書店1991年より。写真は平頂山殉難同胞遺骨館と展示されている遺骨=同書より)
直接蛮行に及んだのは、関東軍奉天独立守備隊撫順隊第二中隊(中隊長・川上精一大尉)、撫順憲兵分遣隊(隊長・小川一郎准尉)ですが、虐殺の翌日から関東軍司令部が率先して事件の隠ぺいを図りました。
事件は前日(9月15日)に抗日ゲリラによって行われた撫順炭鉱襲撃への報復とされていますが、根源が日本帝国軍による中国東北部侵略にあることは言うまでもありません。抗日ゲリラは日本の侵略への対抗にほかなりません。
しかも、抗日ゲリラが行動したその日は、日本の「満州国」支配を決定づけた「日満議定書」が調印された当日でした。また、3日後の9月18日が「満州事変」1周年に当たった日であることも見過ごせません。
1932年9月16日午前11時ごろ、日本軍守備隊二百数十人が4台のトラックで平頂山村に急行。兵士は数メートルおきに銃剣を構え、村民を1人も逃がさない包囲網構築。「記念写真を撮る」と騙して村民全員を山の麓に集めました。「カメラ」と偽っていた機関銃数機をトラックから降ろし、包んでいた白布を取り払って一斉射撃。阿鼻叫喚、血の海。まだ息のある村民は、一人ひとり銃剣で突いて回りました。妊婦のおなかの子までも。家屋はすべて焼き払いました。3000余の遺体はガソリンをかけて燃やそうとしましたが、速く隠ぺいする必要から、遺体を山の麓に集め、山腹を爆破して遺体を埋めました。(生存者=約30人といわれています=の証言。石上氏前掲著より)
「平頂山大虐殺」は、「旅順大虐殺」(1894年11月)から「南京大虐殺」(1937年12月)へ、そしてその後の東アジア各地における日本軍による一連の虐殺・蛮行の歴史のなかでとらえる必要があります。
「旅順虐殺事件に対しても、平頂山事件に対しても、「あの時に責任の追及がなされていたならば、この種の行為を続発させることはなかったであろう」と多くの人が過去の歴史を振りかえるが、はたして、天皇の軍隊の性格は、生まれた時のまま変わることなく、それどころかますます大きくなった。
一九三七年に日中戦争が勃発し、暮から翌年にかけて日本軍による南京大虐殺が発生した。一九四一年アジア・太平洋戦争が起き、シンガポール・マレーシア占領後の華僑の大量虐殺、泰緬鉄道設置時の強制労働による虐待・死亡、抗日を理由とした民衆や捕虜の虐殺、毒ガス兵器・細菌兵器開発のための人体実験等、占領地の統治は残虐を極め、二〇〇〇万人以上といわれる人々を犠牲にして一九四五年の日本帝国主義の終焉まで続いた。
日本軍の虐殺の歴史に必然性があったとすれば、それは明治維新の「富国強兵」政策の中で誕生した「天皇の軍隊」に求めなければならないだろう」(高尾翠・歴史学者『天皇の軍隊と平頂山事件』新日本出版社2005年)
こうした日本軍による虐殺の実態は隠ぺいされ、いまだに詳細に明らかにされていません。「天頂山大虐殺」はとくにそうです。そして、事実を明らかにしないだけでなく、それを虚偽・誇張だとして歪曲しようとする論調が横行しています。その先頭に立つ歴史修正主義者が政権を握り、学校教育を支配し、史実をますます日本人から遠ざけてきた。遠ざけている。それが日本の現実であることを直視しなければなりません。
8月15日は何の日かと問えば、小学生でも「終戦記念日」と答えるでしょう。「8・15」=「終戦記念日」は日本社会では常識化しています。平和・民主勢力でも「終戦」を「敗戦」と言い換えはしても「8・15」自体に異議を唱える人は少ないでしょう。しかし、「8・15」=「終戦(敗戦)記念日」は事実に反するばかりか、それを当然視することは重大な政治的思惑に陥ることになります。
「15年戦争」の「終戦(敗戦)」とは何をもって言うのでしょうか。
日本はポツダム宣言を受諾して全面降伏しました。天皇裕仁が出席した「御前会議」でそれを最終的に決定したのは、1945年8月14日午前11時ごろです。そして、「ほぼ同時に外務省から連合国への回答公電がスイスとスウェーデンに向けて発信された」(佐藤卓己著『八月十五日の神話』ちくま学芸文庫2014年)のです。ポツダム宣言の受諾を持って「終戦」とするなら、それは「8・14」です。
また、「降伏文書」の調印をもって「終戦」とするなら、アメリカ戦艦ミズリー号の艦上でそれが行われたのは、45年9月2日午前9時8分です。アメリカではこの日を対日戦争記念日(VJデイ)としています。
世界で「8・15」を「終戦」としているのは、日本と、日本が植民地支配していたコリア半島だけです(コリア半島では「光復節」)。それはおよそ「グローバル・スタンダードではありえない」(佐藤卓己氏前掲書)のです。
では「8・15」は何が行われた日か。唯一、天皇裕仁がラジオを通じて「終戦詔書」を読み上げた、いわゆる「玉音放送」が行われた日です(写真中・右は「放送」を聞く人々)。
「玉音放送」とは何だったでしょうか。たんに「国民」に「終戦」を知らせるために行われた放送ではありません。そこにはきわめて周到に計画された政治的意図がありました。
「ポツダム宣言の受諾によって十五年にもわたる悲惨な戦争に、ようやくピリオドが打たれた。だが…この段階でも、「国体護持」のためにいくつかの手段が講じられていることは見逃すことができない。(中略)敗戦によって国民と皇室の間の精神的むすびつきにひびが入るのを恐れて、戦争の終結があくまで天皇の「大御心」によるものであることが、くり返し強調された。八月十五日の正午には、天皇がみずからレコードに吹き込んだ「終戦の詔書」が、ラジオを通じて全国に流された。いわゆる「玉音放送」である」(吉田裕著『昭和天皇の終戦史』岩波新書1992年)
当日の放送では、よく聞き取れない裕仁の「詔書」朗読を補う形で、「内閣告諭」とアナウンサー(現NHKの和田信賢)による「解説」が続けて流され、「天皇陛下に於かせられましては、万世の為に太平を開かんと思召され…畏(おそれおお)き大御心(おおみこころ)より詔書を御放送あらせられました」などと、裕仁の「大御心」「聖断」が強調されました(竹山昭子著『玉音放送』晩聲社1989年)。
それだけではありません。見逃せないのは「終戦詔書」の内容です。
「詔書」は全部で815字、裕仁の朗読は4分37秒(佐藤卓己氏前掲書)におよびましたが、その中に、「国民」に対する謝罪の言葉は一言もありませんでした(アジアの人々に対する言及・謝罪は望むべくもありません)。
「戦争責任という問題を視野に入れた時、この「終戦の詔書」の内容には、「国体護持」派の立場からみても問題があった。この時、高松宮(裕仁の2番目の弟―引用者)は…「詔書の中に、天皇が国民にわびることばはないね」と語ったというが、たしかに詔書では天皇自身の責任について何の言及もなかったのである」(吉田裕氏前掲書)
「玉音放送」は、第1に、「終戦」は裕仁の「大御心」による「聖断」だと思わせ、離反しかけていた天皇に対する民心を繋ぎ止め、天皇制の維持を図ること。第2に、裕仁の戦争責任を完全に棚上げしその追及をかわすこと。この二重の政治的思惑によって計画・実施されたものです。
「玉音放送」が行われた日を「終戦(敗戦)記念日」とすることは、国際常識に反しているだけでなく、天皇制擁護、裕仁の戦争・植民地支配責任すなわち日本の加害責任隠ぺいに通じます。
国家とメディアがつくりあげた「日本社会の常識」を改めることは容易ではありませんが、少なくとも私は「8・15」を「敗戦記念日」と言うのはやめようと思っています。
11月20日は「世界子どもの日」だそうです。
国際NGO「セーブ・ザ・チルドレン」は21日、内戦下のイエメン(中東南部)の子どもたちが置かれている悲惨な実態を発表しました。
イエメンでは2015年以降の3年間で、5歳未満の子どもたち約8万5000人が飢餓や病気で死亡したと推定されています。
セーブ・ザ・チルドレンの担当者は、「子どもたちは泣くこともできないほど衰弱し、両親はやせ細っていくわが子をただ見ているだけしかできないでいる」と話しています。(AFP=時事)
「アムネスティ・ニュースレター」の最新号(vol.478)は「子どもが『人間の盾』に―大切な日々、そして未来を奪われる子どもたち」の見出しで、「今もなくならない『子ども兵士』」の実態を伝えています(写真左は同誌より、紛争で破壊された学校にたたずむ少女)。
「コンゴ民主共和国で最も貧しい地域のひとつであるカサイでは、紛争で農業ができなくなったことで、深刻な食糧不足に陥り、40万人の乳幼児が重度の栄養失調に苦しんでいます。紛争が発生してから400以上の学校が破壊され、たとえ学校があっても暴力の恐怖から親が子どもを通わせず…さらに、大勢の子どもが兵士として民兵組織に徴用されています。ユニセフによれば、民兵組織の戦闘員の6割が子どもです」
「国際人道法は、国や武装組織が15歳未満の子ともを兵士として徴用することを禁じ、子どもの権利条約の選択議定書ではその年齢を18歳未満としていますが、いまだに世界で25万人以上の子ども兵士がいると言われています」(同誌)
「子ども兵士」で、亡くなった後藤健二さん(写真中)の本、『ダイヤモンドより平和がほしい―子ども兵士・ムリアの告白』(汐文社、2005年)を思い出しました。
後藤さんはダイヤモンドの産地として知られるシエラレオネ(アフリカ西部)の内戦で「市民の十人中七人が家をなくし」、多くの子どもたちが「兵士」となっている実態をリポートしています。
「兵士になった子どもたちは、大人の兵士に教えられたとおりに村をおそい、家を焼きはらい、人々の手足を切り落とす戦闘マシーンになって行きました。反政府軍に使われた子ども兵士の年齢は十歳から十六歳。その数は、五千人以上と言われています」
子ども兵士だった15歳のムリアは反政府軍から脱走し、更生センターに保護されていました。目の上には戦闘のために麻薬を埋め込まれた傷痕があります。なぜ罪もない人々を殺害する「兵士」になったのか。当時の気持ちをこう述べています。
「今は戦争なんだよ。ぼくは両親も殺された。お父さんもお母さんも何も悪いことはしていなかったのに、殺された。それが戦争なんだ」
センターでの平穏な生活で心身を回復し、学校へ通うようになったムリア。「今、生まれて初めて自分のために生きていく喜びを感じ」、後藤さんに「自分の夢」を語ります。「この国の大統領になって戦争をしないようにする」
後藤さんは本の最後でこう述べています。
「シエラレオネでは今、ストリート・チルドレンが増えています。…路上でくらす子どもたちの中に、兵士をしていた子どもたちがたくさんいます。…戦争がひとたび起これば、すべてが破壊される…貧しい生活が続けば…不満がまた新しい戦争へとつながっていくのです。
わたしたちは、そうなる前に戦争で傷ついた人たちにさまざまな方法で手をさしのべなければならないと思います。今、自分が生きているこの時を同じように生きている人(隣人)に、わたしはまず何をしたらいいのか? この本が、そう考えるきっかけになってくれればと願っています」
そんな思いを胸に戦場を取材し続け、そして斃れた後藤さん。戦場ジャーナリストの貴重で崇高な仕事にあらためて感謝です。
「子どもは宝」です。それは自分の子ども(孫)だけでなく、日本の子どもたちだけでもなく、世界中の子どもたちが宝です。とりわけ戦争・紛争地域で生命の危機に瀕し、現在の生活ばかりか未来の希望さえ剥奪されている子どもたちに、「わたしはまず何をしたらいいのか」、考え続けたいと思います。
私は2年10カ月ほど前から、手帳の裏表紙に、1枚の新聞写真を切り抜いて張っています。上中央の男の子の写真です。
先日高倉健さんが亡くなって、追悼のテレビ番組や新聞でこの写真が取り上げられました。
この写真を初めて知ったのは、2012年1月13日付の東京新聞でした。東日本大震災の3日後、2011年3月14日に共同通信が配信したものです。
健さんはこの写真を新聞で見て、遺作となった映画「あなたへ」の台本に張りつけ、毎日「気合を入れていた」という記事でした。その話に感動して、健さんに習って手帳に張りました。
昨日(26日)付の中国新聞に、健さんとこの男子の「秘話」が載っていました(おそらく共同電)(写真右)。
男の子は気仙沼の中学2年になった松本魁翔(かいと)君。「健さんに誓う被災地再興」「報道写真が縁 手紙交流」と題した記事の要点を紹介します。
<(魁翔君は)津波で流された船で自宅が壊され、母、姉、妹と今も仮設住宅で暮らす。写真は、当時10歳の魁翔君が断水の続く中、井戸まで何往復もして大きなペットボトルに生活用水を運んでいたときに撮影された。母子家庭で「男手が足りないから」とがれきの中を歩いた。
初めて手紙を出し、返事が届いたのは中学入学直前の昨年4月初め。「常に被災地を忘れないことを心に刻もうと(映画の)撮影にのぞんでいました」「遠くからですが貴方の成長を見守っています」と温かい言葉が並んでいた。
「頑張っていれば見ていてくれる人がいる」とうれしかった。特に「負けないで!」という最後の言葉は、部活のバスケットボールの練習中など諦めそうなとき、よく思い出す。仮設住宅のトイレにこもり一人で手紙を読むこともある。
高倉さんは「人生で一度しか味わえない子ども時代の日常を平穏に過ごしてほしい」とも記しており、自分とのことがマスコミで取り上げられて騒がれると魁翔君のためにならないと考えていたようだという。公にしないことを「男と男の約束だ」と捉え、手紙のことはずっと秘密にしていたが「自分のようにこの手紙で勇気づけられる人もいるかもしれない」と公開した。
将来の夢は得意なスポーツで有名になって気仙沼を盛り上げること。「震災とか悲しいことを思い出さないでいい、楽しい所にしたい」と力強く話した。>
健さんの「秘話」は被災地とのつながりだけではありませんでした。沖縄にも「秘話」があることを11月22日付の琉球新報で知りました。
初の主演映画が「電光空手打ち」(1956)で、沖縄空手の達人の役でした。その後も「網走番外地」シリーズの「南国の対決」(66)の沖縄ロケなど、仕事でも縁がありました。
しかし、健さんと沖縄のほんとうのつながりは、私的なものでした。
親交があった那覇市の石材会社社長・緑間禎さんによれば、「高倉健さんは沖縄が大好きで『世界一の海と空、そして人情の島』と話してくれた。八重山のことも本当に大切に思っていた」。
緑間さんが28年前に健さんと出会ったきっかけは「墓石」でした。健さんから直接、「恩師である映画監督の遺骨を八重山に納骨したい」と墓建立の依頼があったのです。
「(健さんは)『監督の名前や墓の場所は口外しないでほしい』と要望した。緑間さんは『多くを語らない健さんらしい願いなので、僕も健さんと会ったことすら、家族と身近な社員以外には秘密にしてきた』と明かす」
「『毎年(墓がある)八重山に来ます』と語り、本当にこられていたようだ」という緑間さん。「恩師の家族を大切に守り、若造だった僕にも敬語で話す、礼儀正しく律儀なスターだった」と振り返ります。
さらに同紙によれば、ダイビングが好きで生前何度も西表島を訪れた健さんは、石垣市立冨野小中学校と交流がありました。
1996年に石垣市を訪れた健さんが偶然同校の運動会を見て、ラジオ番組で「とっても感慨深かった」と紹介。後日その番組テープと手紙が送られてきたのがきっかけでした。
以後文通は続き、健さんから著書や双眼鏡が同校に贈られました。双眼鏡は今も児童たちが愛用しているといいます。
当時校長だった鳩間真英さんによると、「双眼鏡が届けられた時、高倉さんは学校近くまで来ていたが校舎には入らず、付添の人が手渡した」。「有名な方なので、自分が入ると困惑させると思ったのだろう。気配りのある人で高倉さんらしいなと感じた」。
表に出すことを嫌った(避けた)健さん。「大事なものは目に見えない」という言葉を思い出します。
出世作となった任侠映画にはやはり違和感があります。最晩年、叙勲を受けたことも気になります。同じ東映のスターだった菅原文太さんのように、公の場で政治的な発言・応援をすることもありませんでした。
しかし、私は高倉健さんの謙虚さ、子どもたちへのまなざし、被災地や沖縄への思いやりに、大きな感動をおぼえます。それは、政治・社会変革をはじめ、すべての活動の根っこになるものではないかとも思います。
健さんが、ファンへのメッセージを求められたとき、照れながら語ったという次の言葉とともに、同時代のほんとうの「スター」であった「高倉健」を記憶にとどめようと思います。
「みんなしんどいところで我慢してやっている。人は負けることがある。それでも負けないぞと思ってやっていれば、いい人に出会える。その出会いを信じて、頑張るしかないんじゃないでしょうか」