アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

親の「戦争責任」をどう「背負う」か

2022年01月31日 | 戦争の被害と加害

    
 広島市は今年度、「家族の被爆体験や平和への思いを本人に代わって伝える「家族伝承者」の養成に乗り出す」(20日付中国新聞)といいます。「これまで証言活動をしてこなかった人を含めた幅広い被爆者の体験継承につながると期待。埋もれた被爆体験の掘り起こしや家族間の記憶の継承も見込む」(同)とか。

 「家族間の記憶の継承」―これは被爆体験だけの問題ではありません。

 長崎市内に「岡まさはる記念長崎平和資料館」という民間の博物館があります。日本の侵略戦争・植民地支配の加害責任に照射した稀有で貴重な博物館です(写真左。写真中は館内の展示)。
 そこの主催で毎年「長崎と南京を結ぶ集い」が行われています。昨年、その集会(12月12日)で田中信幸さん(熊本在住)が、「父の戦争責任を一緒に背負って」と題して講演されました。

<田中さんは1972年、熊本大在学中に沖縄返還反対闘争に加わり逮捕・投獄された。東京拘置所から父親へ「あなたが戦った戦争は侵略戦争だったのではないか」と手紙を書いた。

 父親は1936年に入隊し、1937年の南京戦に参加するなど、大日本帝国軍の一員として青年時代を送った。

 田中さんは父親との10年に及ぶ「戦争責任」を巡る対話を経て、1995年に父親から中国戦線での1年間の日記や300通以上の手紙を託された。南京陥落後の南京市の見聞や、「慰安所」に関する記述もあった。

 田中さんは父親に言った。「これまでの対話を終わるにあたり、これから先、あなたの戦争責任を私も一緒に背負って生きていく

 父親は黙って大きくうなずいた。

 その発言を裏切らず、田中さんは1990年代以降、自衛隊のカンボジア派遣、イラク派兵反対など、さまざまな活動に積極的に関わっていった。

 田中さんによれば、父親は生前、「あの戦争は侵略戦争だった」と明言したことはなかった。しかし、息子の田中さんに中国戦線の日記や手紙を託したこと自体が、自らの行いや日本軍のあり方を無批判に肯定せず、後世の審判に委ねたのではないか。

 そこには10年に及ぶ対話の末に、息子を信頼し、託そうとした戦争体験者の深い思いがあったのではないか。>(岡まさはる記念長崎平和資料館会報「西坂だより」2022年1月1日号、文責・新海智広氏より)

 私の父は敗戦時、18歳でした。戦地には行きませんでしたが、広島県の大久野島にあった帝国陸軍の毒ガス製造工場に勤めていました(写真右は大久野島の毒ガス資料館)。学校の教師から「働きながら勉強できるし給料ももらえる」と勧められたといいます。父子家庭の5人きょうだいの長男でした。

 しかし、どんな事情があろうと、父が国際法違反の凶悪兵器の製造に携わっていたことは否定できない事実です。父にも戦争責任があることは明らかです。

 でも、私は田中さんと違って、父と面と向かって対話をしてきませんでした。父も大久野島の体験を語ろうとはしませんでした。
 それではいけないと気づいて、父の話をしっかり聴こうと思ったときは、父は認知症の入口にいました。それから数年して、父は83歳で他界しました。毒ガスの後遺症の肺がんが死因でした。

 後悔先に立たず。
 私たちの世代(60~70代)は、親から直接戦争体験を聴くことができる最後の世代ではないでしょうか。
 田中さんのように、父が生きているうちに、戦争について対話すべきでした。
 そして言うべきでした。「これから先、あなたの戦争責任を私も一緒に背負って生きていく」と。


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日曜日記182・これはもう医療崩壊だ

2022年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム

 コロナ感染者の「濃厚接触者」への連絡を感染者本人にやらせることにした東京都の方式に不安と疑問を感じたが(23日のブログ参照)、25日、同じやり方を広島県が行うことを決めた。福山市も同様だ。
 連絡だけでなく、「接触者の特定を感染者の通勤、通学先に委ねる」(26日付中国新聞)という。このやり方は全国に広がっていく(広がっている)のではないだろうか。

 そもそも「濃厚接触者」の定義もあいまいな中、その特定を感染者が通う会社や学校に任せ、連絡も任せれば、「濃厚接触者」の正確な把握は不可能となる。特定される数が激減するのも目に見えている。

 つまりこのやり方は、事実上「濃厚接触者」の把握・管理を放棄するに等しい。保健所の体制が追い付かないというのが理由だが、実際は、「濃厚接触者」を正確に把握し待機させれば、経済が回らなくなることを避けるためではないのか。

 磯崎仁彦官房副長官が感染したと28日発表があった。「官房副長官は岸田文雄首相にも頻繁に面会する立場」(28日の朝日新聞デジタル)だ。27日にも「自民党岸田派の会合に出席。首相も同時に出席していた」(同)。ところが、政府は、「首相官邸内に濃厚接触者はないという」(同)。

 そんなバカな話があるだろうか。多くの政治家・官僚と接触している官房副長官に「濃厚接触者」がいない? いったい「濃厚接触者」とは何なんだ。

 「濃厚接触者」をめぐるこの迷走は、日本がすでに医療崩壊に陥っていることを示している。

 検査キットの不足もそうだ。不足してきたから今後は検査する対象を絞っていくという。「重症化を防ぐ」と言えば聞こえはいいが、感染予防の鉄則である「積極的疫学調査」を事実上放棄するということだ。

 保健所体制は手一杯、検査が増えたからキットが不足してきた。そう言われれば、なんとなく納得して順応してしまう。それは日本人の特性だ。

 しかし、保健所の体制が追い付かないのは、これまで保健所を削減してきた結果にほかならない。検査キットの不足も広範な検査を軽視してきたツケだ。

 今日の医療崩壊は、歴代自民党政権の新自由政策の結果であり、新型コロナ禍の当初から検査を軽視し、医療体制を抜本的に強化してこなかった安倍・菅・岸田3代の自民党政権失政の結果だ。

 その責任を明らかにし追及しなければならない。政治の責任、権力者の責任を追及しないで、体制に順応するのは日本人・日本社会の根本的欠陥、宿痾だ。それがコロナ禍でも表れている。
 その体質を改めることは、コロナ感染対策よりも重要である。


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「佐渡金山」推薦は安倍・高市氏の“歴史戦”

2022年01月29日 | 日本人の歴史認識

     
 「政府が「佐渡島の金山」(新潟)の世界文化遺産への推薦を2021年度は見送る方向で検討していることが20日、分かった」(21日付中国新聞=共同)と報じられて1週間。岸田文雄首相は28日、一転して「佐渡金山」のユネスコ世界文化遺産への推薦を表明しました(写真左)。

 この急転換は、安倍晋三元首相、高市早苗自民党政調会長のゴリ押しの結果です。

 1月19 高市氏は記者会見で、「日本国の名誉に関わる問題だ」「政府には登録に向けて本気で頑張ってほしい」と主張。

 20 安倍氏は自民党安倍派の会合で、「論戦を避ける形で登録を申請しないというのは間違っている」「しっかりとファクトベースで(韓国政府に)反論していくことが最も大切だ」と政府をけん制(写真中)。

 24 高市氏は衆院予算委員会で、「国家の名誉に関わる。必ず今年度に推薦すべきだ」と政府に要求(写真右)。

 26 高市氏は記者会見で、「来年度の(ユネスコへの)推薦になると、今よりもはるかに状況が不利になることを心配して衆院予算委員会で質問した」「今年度に推薦できない理由というかハードルはない、と日本政府も考えていることが明らかになった」と発言。

 安倍、高市両氏の発言は、彼らが「佐渡金山」の世界文化遺産登録に固執するのは、「日本国の名誉」にかけて韓国の反対に対抗するためだということを示しています。

 韓国が「佐渡金山」の登録に反対しているのは、帝国日本の植民地支配によって多数の朝鮮人がそこで強制労働させられた歴史があるからです(1月11日のブログ参照)。
 その韓国の反対に安倍氏や高市氏が対抗するのは、朝鮮人強制労働の歴史を隠ぺいしようとするからです。それは、高市氏が自民党の「来年度予算編成大綱」で強調した「歴史戦」の実行に他なりません(12月30日のブログ参照)。

 今回の「佐渡金山」推薦の急転換は、岸田政権を操っているのが安倍晋三氏とそのグループの歴史修正主義者らであることを示しています。

 韓国政府傘下の「日帝強制動員被害者支援財団」の報告書(2019年)では、「佐渡金山での朝鮮人強制動員は1939年2月に始まった。以後、1942年3月まで6回にわたって1005人を募集で連れて来るなど、計1200人を強制動員した」とされています。

 一方、「佐渡金山」があった旧相川町(現・佐渡市)が1995年に発行した町史では、「当時の資料をもとに千人以上の朝鮮人労働者が佐渡鉱山(戦時中の名称―引用者)に移入したと見積もっている」(28日の朝日新聞デジタル)といいます。「佐渡金山」における朝鮮人の人数は韓国側の調査と地元の町史がほぼ一致しています。

 朝鮮人強制動員・強制労働の歴史を隠ぺいしたまま、「佐渡金山」を世界文化遺産登録に推薦することは絶対に許されません。

 それは韓国政府が反対しているからではありません。日本のメディアは「閣僚の靖国神社参拝」と同様に、この問題を日本政府と韓国政府の問題に矮小化していますが、問題の本質は、日本人が日本の植民地支配の歴史的とその責任にどう向き合うかにあります。
 その視点に立って、安倍氏や高市氏らの歴史の隠ぺい、「佐渡金山」の世界文化遺産登録推薦は容認することができません。


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伊藤詩織さん勝訴!居直る山口敬之氏を支える者たち

2022年01月27日 | ジェンダー・性暴力と日本社会

     

 ジャーナリストの伊藤詩織さんがTBS記者(当時)の山口敬之氏から受けた性暴力に対し、1100万円の損害賠償を求めた控訴審判決が25日、東京高裁でありました。中山孝雄裁判長は「同意なく性行為に及んだ」と断じ、一審判決を追認して山口氏に約332万円の支払いを命じました。

 伊藤さんは判決後の記者会見で、「同意がなかったと認められたのは大きい。裁判を通じて、性被害をめぐる社会や法律がどう変わっていくべきか光をあてたかった」と述べました(25日の朝日新聞デジタル、写真も)

 これに対し山口氏は同日の会見で、「判決全体に不満がある」として上告する意向を示しました(写真中)。1審に続いて2審でも断定された性暴力にまったく反省の色を見せない山口氏の厚顔無恥は驚くばかりですが、これは同氏だけの問題ではありません。同氏の背後には同氏の居直りを支える者たちの存在があることを見逃すことはできません。

 その筆頭は、安倍晋三元首相です。
 山口氏は自著『総理』(幻冬舎文庫、2017年)で、「安倍氏と私は…出会った当初からウマが合った。時には政策を議論し、時には政局を語り合い、時には山に登ったりゴルフに興じたりした」と、公私にわたる親密ぶりを誇示しています。

 山口氏は準強姦容疑で書類送検されましたが、東京地検は2016年「嫌疑不十分」として不起訴にしました。その背景には官邸(安倍氏)筋の圧力あるいは安倍氏への忖度があったのではないかと言われ、国会でも取り上げられました。安倍氏は、「私の番記者だったから取材を受けたことはある」「それ以上でも以下でもない」と答えました(2018年1月31日付中国新聞=共同)。

 安倍氏の後を継いだ菅義偉前首相も山口氏と親しい関係です。
 山口氏は、「2016年、私は菅氏と二人で食事をする機会があった」とし、「憲法改正という安倍政権の最重要課題は…あなたが総理となって安倍政治を継承すべきではないか」と進言したことを誇示しています(「月刊Hanada」2020年11月号)

 山口氏が伊藤さんに性暴力を行ったのが2015年4月3日。伊藤さんが被害届・告訴状を提出したのは4月30日。山口氏が書類送検されたのが8月26日。2016年1月には検事による聴取。そして同年7月22日「不起訴」確定。この前後に山口氏は菅氏(当時官房長官)と「二人で食事」をして親密な話をしていたわけです。

 「月刊Hanada」(発行人・花田紀凱)は、自民党・右派勢力のオピニオン誌ですが、山口氏はそのレギュラー執筆者です。同誌は2017年12月号で山口氏の「独占手記」を掲載し、性暴力事件に対する弁明させたのをはじめ、一貫して山口氏に発言の場を与え続けています(写真右)。

 事件当時山口氏が勤めていたTBSの責任も見逃せません(山口氏がTBSを退社したのは2016年5月30日)。TBSの看板番組「報道特集」は、1審判決の直後、2019年12月21日の番組で、「今日は残念ながらできないが、いつの日か(この問題を)取り上げたい」(金平茂紀氏)と公言しました。しかし、それはいまだに実行されていません。

 山口氏の伊藤さんへの性暴力は、同氏が「TBS記者」の立場を利用して行ったものです。事件とTBSが無関係でないことは言うまでもありません。TBSは、山口氏の雇用主だった企業として、またメディアの一員としても、山口氏の性暴力に対する見解・責任を明確にしなければなりません。

 さらに、山口氏が居直り続けていられる根底には、性暴力、セクシャル・ハラスメントに対する日本社会、日本人の認識の不十分さがあると言えるでしょう。

 藤原辰史京大准教授は、「年始評論」で伊藤さんの裁判に触れ、「安倍晋三元首相を称賛する元記者を、不可思議な動きをして擁護しているようにみえる人々の身の処し方も注目される」(7日付中国新聞=共同)として、この問題で日本人の「自浄」能力が問われていると述べています。

 伊藤さんの勇気ある告発、1審、2審の勝訴を力に、山口氏の居直りを許さず、性暴力、セクシャル・ハラスメントを見逃さない社会をつくっていかねばなりません。


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「辺野古新基地反対」をどう発展させるか

2022年01月25日 | 沖縄と日米安保・自衛隊

    
 沖縄・名護市長選(23日投開票)で、辺野古新基地反対を掲げた岸本洋平氏(「オール沖縄」支援)が敗れました。しかし、この選挙で「名護市民が(辺野古新基地)建設を容認したとはいえない」(24日付琉球新報社説)のは明らかです。なぜなら、当選した渡具知武豊氏(自民、公明推薦)は新基地建設については「見守る」とするだけで、立場を明確にしなかったからです。

 琉球新報、沖縄タイムス、共同通信が共同で行った電話調査(1月16、17日)では。「辺野古新基地反対」が62・1%にのぼっており、世論は明白です。

 しかし同時に、「辺野古新基地反対」のたたかいが、壁にぶつかっていることも否定できないでしょう。

 沖縄の季刊オピニオン誌「けーし風」(2021年10月号)に、「「9・11」から20年、8月アフガニスタンからの米軍撤退を受けて」と題する座談会が掲載されています。その中で、鳥山淳琉球大教員が、沖縄の市民・平和運動の現状についてこう述べています(太字は引用者)。

「沖縄の現状は、「辺野古(新基地建設)阻止」は堅持しているけれど、同時にそれ以上は踏み込まない、踏み込めないところにあって、…いまの沖縄だけを見ていると、どうしても辺野古の問題に焦点が狭まっていって、しかも辺野古をめぐる状況には根本的な変化がない。構造が固まって新たな局面が見えなくなっていくなかで、なぜ辺野古阻止なのかという原点が希薄化しかねない状況があるかもしれないと感じています」

 これを受けて、新城郁夫琉球大教員がこう応答します。

「そこで思うのは、思想とか批評の役割なんですね。「現実的」と呼ばれるロジックとは違う別の論理、それを言う必要があったのではないか、今もあるのではないか。それは、「戦争に反対する」とか「平和」という原則なんですよ。それが、この20年間でずいぶん言いにくくなったように思います。…沖縄のたたかいは、どこに立ちかえるべきなのかと考え直す必要があるのかもしれません」

 両氏の指摘には共感する部分が少なくありません。両氏が「希薄化」し「言いにくくなった」という「なぜ辺野古阻止なのかという原点」「「平和」という原則」、それは日本国憲法(前文・9条)の非武装・非戦の平和主義ではないでしょうか。そして、それに真っ向から反する日米軍事同盟=安保条約に反対する「思想」ではないでしょうか。

 「辺野古新基地」には反対するけれど、なぜなのかという原点の希薄化、すなわち「辺野古反対」が「日米安保条約反対・廃棄」に繋がっていない、繋がらないところに、「辺野古新基地反対」運動、沖縄の市民・平和運動の最大の問題点があるのではないでしょうか。

 この「座談会」のテーマは「「9・11」から20年」ですが、突き詰めれば、第1次安倍晋三政権(2006年9月~07年9月)、第2次安倍政権(2012年12月~2020年9月)による歴史修正主義、新自由主義が、「原点の希薄化」に拍車をかけたと言えるでしょう。

 そして、沖縄においては、「オール沖縄」による翁長雄志県政(2014年12月~18年8月)が果たした負の役割を見過ごすことはできません。なぜなら、翁長氏は、「日米が世界の人権と民主主義を守ろうというのが日米安保条約だ」(2017年11月21日付沖縄タイムス)などと公言する日米軍事同盟=安保条約の強い支持者だったからです。

 その翁長氏をかついだことによって、沖縄の平和・市民運動から「日米安保条約反対・廃棄」の声が消えていきました。「翁長県政」と「オール沖縄」のリアルな検証が必要です。

 こうした状況はもちろん沖縄だけの、否、沖縄の問題ではありません。日本の「平和・市民運動」の根本的弱点が、たたかいの最前線の沖縄で表面化していると言えます。

 名護市長選で岸本氏に投票した自営業の女性(32)は、「目の前の利益ではなく未来に本当に必要なことは何かを考えている」とのべています(23日の朝日新聞デジタル)。

 米軍と自衛隊の一体化が進み、沖縄のミサイル基地化が強行されようとしている今、「辺野古新基地反対」を「日米軍事同盟=安保条約反対・廃棄」に結びつける「思想の役割」がかつてなく重要になっています。それこそが「未来に本当に必要なこと」ではないでしょうか。

 


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政界のジェンダー差別、問われる参院選

2022年01月24日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義

   

 日本社会のあらゆる分野にはびこっているジェンダー差別。中でも顕著なのが政界(中央・地方)における女性差別です。
 世界経済フォーラム(WEF)による男女平等度順位(2021年版)では、日本は世界156カ国中120位。「女性議員の少なさが大きな要因」(14日付中国新聞=共同配信)です。

 女性議員の少なさは、セクシャル・ハラスメントの横行に直結しています。

 中国新聞が中国地方5県と全107市町村の議会に所属する全女性議員265人に行ったアンケート調査によると、「ハラスメントを受けたことがある」女性議員は43・5%にのぼっています(17日付中国新聞)。
 その主な内容は、「議員より愛人になれ」など言葉のセクハラが最多。続いて、「女のくせに生意気」などの侮辱的発言や、体を触られたり抱きつかれるなどの性暴力となっています。
 ハラスメントを行った相手は、所属議会の男性議員が最も多く、次いで支援者、一般住民、自治体の首長、自治体職員の順です(同上中国新聞)。

 この現状について上智大の三浦まり教授はこう指摘しています。

「多くの女性議員がセクハラなどのハラスメントに悩んできたのに、いまだに対策が十分でないのは、政治の世界の倫理観が一般社会の周回遅れである証しです。そもそも女性の地方議員の数が少ないのが問題です。ハラスメントの背景にあるこの構造を変える必要があります」(19日付中国新聞)(写真右=各党の党首も社民党の福島氏を除いて全て男性)

 地方議会における女性議員の割合は、全国平均で14・3にすぎません(2020年12月31日現在)

 問題はもちろん地方議会だけではありません。国会議員の実態はさらに深刻です。

 昨年10月に行われた衆院選では、当選者に占める女性の割合は9・7。前回(2017年)の衆院選の10・1%よりさらに減少し、1割を割り込みました。列国議会同盟(IPU)によると、各国議会における女性比率は平均約26%。日本は193カ国中165位の低さです。

 2018年には各党に候補者数の男女均等を求める「政治分野の男女共同参画推進法」が全会一致で成立しました。その施行後初の衆院選となった昨年の結果が上記のありさまです。

 女性の当選者が少ないのは、そもそも立候補の段階で女性が少ないという大きな差別を受けているからです。昨年の衆院選における各党の立候補者に占める女性の割合は、次の通りでした。

自民党9・8%、公明党7・5%、立憲民主党18・3%、日本共産党35・4%、維新の会14・9%、国民民主党29・6%、社民党60・0%、全体で17・7%。

社民党を除くすべての党が、自ら賛成して成立させた「男女共同参画推進法」に反して立候補者数の男女格差・差別を解消しようとしていませんでした。

 日本のジェンダー差別解消のためには、まず政界における差別をなくさねばなりません。その第一歩は、女性議員を増やすことであり、前提条件として立候補者の男女格差を解消することです。それはすべての政党の責務です。

 今年7月には参院選挙があります。立候補者の男女格差・差別は解消へ向かうのか。各党の姿勢が根本的に問われます。

 


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日曜日記181・「濃厚接触者」とは?・茨木のり子「小さな渦巻」

2022年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム

☆「濃厚接触者」とは?

 広島県では連日コロナ感染者が「過去最多」を更新している。福山市も例外ではない。感染者、その疑いがある人の情報が身近に迫ってきた。その際、不安と困惑を助長しているのが「濃厚接触者」という規定だ。

 福山市内のA小学校で感染者が出た。A校はその子と同じクラスの子全員、そしてその家族も「濃厚接触者」として検査を義務付けた。B小学校でも感染者が出た。B校はその子と親しかった子のみを「濃厚接触者」としたが、その家族は対象としなかった。同じ市内の小学校でも「濃厚接触者」の規定が違うのだ。

 東京都は「濃厚接触者」の調査について、「感染した本人から濃厚接触者とみられる人に連絡する」対応を検討するよう保健所に通知した(21日付東京新聞)。保健所の手が回らなくなったからだ。だが、もし自分が感染して、「濃厚接触者」に連絡をと言われると戸惑うだろう。だれを「濃厚接触者」にすればいいのか。なるべく迷惑をかけたくないと思うと、連絡する人は最小限にするだろう。

 「濃厚接触」といっても状況は千差万別だ。新型コロナの実態自体がまだ解明されていない中で、「濃厚接触者」を正確に規定することは困難・不可能だろう。だが、「濃厚接触者」まで待機(隔離)することが感染拡大に重要であることは分かる。

 このジレンマをどうすればいいのか。「専門家」の見解を聞きたいものだ。

☆茨木のり子「小さな渦巻」に励まされ

 19日のNHKクローズアップ現代+「茨木のり子“個”として美しく」で、ノンフィクション作家の梯久美子さんが、茨木のり子の初期の詩「小さな渦巻」(1955年発表)を紹介した(写真の右)。

 この詩は、昨年はじめに読んだキム・ジヨン(金智英)さんの『隣の国のことばですもの 茨木のり子と韓国』(筑摩書房2020年)で知り、ノートに書き留めていた。

 昨年9月、思いもしなかった大腸がんの手術で入院したとき、いつも笑顔を絶やさず話し掛けてくれた看護師さんに、この詩を紙片に書いて渡した。

 ひとりの人間の真摯な仕事は
 おもいもかけない遠いところで
 小さな小さな渦巻をつくる

 それは風に運ばれる種子よりも自由に
 すきな進路をとり
 すきなところに花を咲かせる

 たしかに、「人間の真摯な仕事」は「小さな渦巻」をつくる。その渦巻がだれかの人生を後押しする。
 そんな「小さな小さな渦巻」をつくることができるような、真摯な仕事をしたい、真摯な人生を送りたいと、あらためて思う。

 


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NHKが触れなかった茨木のり子の天皇(制)批判

2022年01月22日 | 天皇制とメディア

     
 19日のNHKクローズアップ現代+は、「詩人・茨木のり子“個”として美しく・発見された肉声」でした(写真)。
 「発見された肉声」とは茨木のり子(1926~2006)が79歳で亡くなる2年前に収録された100分におよぶテープでした。放送された限りでは目新しい内容はなかったようです。しかし、「自分の感性くらい」「倚りかからず」などに表された茨木のり子の、戦争体験から導かれた「個」の尊重、時流に流されない自律精神は、あらためて示唆的でした。

 茨木のり子は50歳でハングルを学び始めました。その動機を、友人の韓国詩人・ホン・ユンスクさん(写真中の右)に送った手紙にこう書いています。
「(植民地支配で)言葉(韓国語)を奪ったことは日本の罪と考え、私は汗を流しながら韓国語を勉強しています

 茨木のり子の素晴らしさを再認識させる番組でした。しかし、肝心なことが欠落していました。それは、彼女が侵略戦争・植民地支配の最高責任者だった天皇裕仁、そして天皇制に対し、タブーを恐れず鋭い批判を行ったことです。

 それが端的に示されたのが、「四海波静」(1975年11月)という詩です。

 1975年10月31日、天皇裕仁は記者会見で「戦争責任について」聞かれ、こう答えました。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」
 この裕仁の発言に対して書かれたのが「四海波静」です。

  < 戦争責任を問われて その人は言った(中略)
   思わず笑いが込みあげて どす黒い笑い吐血のように 噴きあげては 止り また噴きあげる
   三歳の童子だって笑い出すだろう 文学研究果さねば あばばばばとも言えないとしたら
   四つの島 笑(えら)ぎに笑ぎて どよもすか
   三十年に一つのとてつもないブラック・ユーモア(後略)>

 鋭い皮肉に、心底からの怒りが溢れています。

 1990年、親族とともにボストン交響楽団の演奏会をNHKホールに聴きにいった時のこと。交響楽団は本番の前に「君が代」を演奏し、ほとんどの聴衆が起立しました。しかし、彼女はじっと座っていた。そして親族に小声で言いました。「今日、私は音楽を聴きに来たのでね…。私は立たないけれど、あなたたちは好きにしなさい」(後藤正治著『清冽 詩人茨木のり子の肖像』中公文庫2014年より)

 それから4年後の1994年、茨木はボストン交響楽団演奏の日を想起して、「鄙(ひな)ぶりの唄」という詩を書きました。

 <  それぞれの土から 陽炎のように ふっと匂い立った旋律がある 愛されてひとびとに 永くうたいつがれてきた民謡がある
   なぜ国歌など ものものしくうたう必要がありましょう
   おおかたは侵略の血でよごれ 腹黒の過去を隠しもちながら 口を拭って起立して 直立不動でうたわなければならないか 聞かなければならないか
   私は立たない 坐っています
   演奏なくてはさみしい時は 民謡こそがふさわしい(後略)> 

 天皇裕仁の発言、「君が代」へ向けられた茨木のり子の鋭い感性・批判は、戦争体験から得た「個」の尊重・自律、そして植民地支配した朝鮮半島に対する謝罪、ハングル習得への思いと無関係ではありません。深く結びついています。

 天皇(制)批判を抜きに茨木のり子の詩・文学・思想を語ることはできません。それは彼女の詩が持っている歴史的意味の大きな要素であり、それこそ私たちが学ぶべきものではないでしょうか。


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京都大「盗骨」にみる植民地主義の継続

2022年01月20日 | 差別・人権・沖縄・在日・アイヌ

     
 京都大学(写真左)を被告とする「琉球遺骨返還等請求事件」がきょう20日、京都地裁で結審します(判決は今春の見通し)。
 1928・29年、金関丈夫京都帝大助教授(当時)が、沖縄・今帰仁村(なきじんそん)の百按司墓(むむじゃなばか)から、琉球人の遺骨を「人骨標本」として遺族に無断で盗み取りました。そのうちの26体(男性15体、女性11体)が今も、京都大学に置かれています。

 遺族らは再三にわたって京都大に返還を要求してきましたが、京都大当局は交渉の場にすらつこうとしませんでした。そのため、照屋寛徳前衆院議員ら琉球民族5人が原告となって京都大を提訴しました(2018年12月4日)。

 これまで11回の弁論が行われました。この中で、原告は京都大の不正を追及し、琉球民族の苦しみを訴えてきました。たとえば、亀谷正子さんはこう陳述しました。

「琉球民族は歴史も文化も言葉も日本民族とは異なります。琉球・沖縄の人々は日常的に先祖の霊と密に交流していて、それには遺骨・骨神の存在が重要で、不可欠です。90年間、歴史も文化も言葉も異なる異郷の地に置かれ続け、子孫と交流もできず、霊魂がさまよい続けているのかと思いますと、切ない気持ちになります」(2021年10月29日、第11回弁論。山内小夜子・琉球遺骨返還請求訴訟全国連絡会事務局長「京大よ、還せ!」、季刊「アジェンダ」2021年冬号所収より)

 日本の大学による琉球人遺骨の盗骨に対しては、国際的批判が高まっています。

 大城尚子・沖縄国際大非常勤講師によれば、昨年10月の国連総会で行われた国連人権理事会の特別報告「植民地支配における大規模人権侵害に関する移行期正義」でも、「沖縄の人々は1928年と1929年に墓から取り出され、日本に持ち込まれた26体の人骨の返還を求めている」と明記されています。

 大城さんはこう指摘します。

「大日本帝国は旧日本領の先住集団の墓地から遺骨を収集した。…所蔵されている遺骨返還は日本が脱植民地化を進める一歩だ。
 アイヌ民族の遺骨を所蔵する北海道大学や東京大学では、訴訟和解を経て現地のアイヌ民族団体に返還が始まっている。世界各地でも遺骨返還が進んでいる。京都大学も所蔵する沖縄の人骨の返還を当事者と協議し、進めなければならない」(1月7日付琉球新報)

 遺骨盗骨問題は、日本の大学・「学問」のレイシズム(人種差別)という根深い問題に直結しています。

「遺骨返還問題は、日本植民地主義の「学問」によるレイシズムを浮き彫りにした。大日本帝国時代に植民地主義を理論化した殖民学や文化人類学。第二次大戦後、日本国憲法の下で自らの植民地主義を清算することなく、継承した経済学や人類学。返還要求を前に、先住民族の声を圧殺しようとする現在の学問の権威主義。日本の学問にはレイシズムが貫かれている。そのことを自覚できないレイシズムである」(前田朗・東京造形大教授、「学問という名の暴力―遺骨返還問題に見る植民地主義」、木村朗氏ら編著『大学による盗骨』耕文社2019年所収、太字は引用者)

 天皇制帝国日本の侵略戦争・植民地支配を「理論的」に支え後押しした帝国大学のレイシズムは、いまも生き続けているのです。それが、京都大の琉球人遺骨の盗骨・所蔵・返還拒否に端的に表れています。

 それを許しているのは、植民地支配・レイシズムに対する日本人の歴史的無知と無関心です。
 京都大は直ちに遺骨を返還しなければなりません。それをさせるのは、私たち日本人の責任です。

 


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NHK字幕捏造問題と五輪記録映画の政治性

2022年01月18日 | 五輪と政治・社会・メディア

     

 NHKが東京オリ・パラ公式記録映画を製作している河瀨直美監督(写真左)を追ったドキュメント(昨年12月BS1放送)で、ある男性が報酬をもらって五輪反対デモに参加した、という事実確認のない字幕を流したことが問題になっています。

 これは「チェック体制の不備」などという技術的な問題ではありません。NHKは安倍晋三・菅義偉両政権が世論の反対を押し切って東京五輪を強行したことを一貫して後押ししてきました。そのNHKの「五輪反対デモ」への偏見が表れたものと言わねばなりません。

 こうしたNHKの体質は徹底的に追及しなければなりません。同時に、ここで考えたいのは、「五輪公式記録映画」がもつ政治性についてです。

 そもそも近代オリンピックは、「五輪憲章」に反して、開催国の思惑に利用されるきわめて政治性の強いイベントです。それは開催時だけでなく、その後の公式記録映画にも貫かれます。

 公式記録映画の政治性が最も色濃く表れたのは、ナチス・ドイツのヒトラーが国威発揚・世界制覇を狙って開催したベルリン大会(1936年)の公式記録映画、「オリンピア」です。第1部「民族の祭典」と第2部「美の祭典」の2部構成で、監督はヒトラーが直々指名した女性監督レニ・リーフェンシュタールです(写真中は「民族の祭典」の開会式場面=ユーチューブより)。

 「民族の祭典」は世界的に高い評価を受けましたが、ナチス・ドイツのポーランド侵攻による第2次世界大戦勃発(1939年)で欧州各国では上映が中止されました。しかし日本では1940年8月に公開され、爆発的な人気を呼びました。

日本における『民族の祭典』の上映開始は、世界的にみてまさに異例の事態だったのであり、日本とドイツが運命共同体的な深い絆によって結ばれていることを内外にさし示すものであった」(坂上康博著『スポーツと政治』山川出版社2001年)

 その「民族の祭典」には、リメイク、すなわち後から修正した捏造部分(棒高跳びの場面)がありました。作家の沢木耕太郎氏は、その事実を確認するため、1996年、ミュンヘンにレニ監督を訪ねました。レニ監督は、「あなたの言うとおり、棒高跳びは試合後に撮り直しました」と認めました(沢木耕太郎著『オリンピア  ナチスの森で』集英社文庫2007年)

 前回の東京五輪(1964年)の公式記録映画は、黒澤明監督に依頼しましたが、辞退されたため、市川崑氏の監督になりました(写真右=JOCのサイトより)。日本政府がレニ監督の「民族の祭典」の再現を狙ったことは想像に難くありません。しかし、市川監督はレニ監督と違い、政府(国家権力)の言いなりにはなりませんでした。

 そのことに試写会で不満をぶつけたのが、当時の自民党の重鎮・河野一郎五輪担当相でした(河野一郎は河野太郎元防衛相の祖父)。河野一郎は試写会のあと、記者団にこう言いました。

「あの映画には、いちばん大事な、日本の金メダル獲得バンザーイ、日の丸が揚がってバンザーイというシーンが、ちゃんと出てこないではないか。どうでもいい外人選手の汗やら筋肉のアップばかりで、肝心の日本の選手の活躍ぶりがすっかりおろそかになっている。じつにがっかりさせられた」(山口文憲編『やってよかった東京五輪 オリンピック熱1964』新潮文庫2020年)

 河瀨直美監督ははたしてどんな「公式記録映画」を作るのでしょうか。政府・組織委員会の意図に唯々諾々と従う国策映画なのか。それとも五輪反対の声・運動も公正な視点で取り上げる文字通りの「記録映画」なのか。河瀨監督の評価のみならず、日本の映画界にとってもきわめて重要な問題です。


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