広島市は今年度、「家族の被爆体験や平和への思いを本人に代わって伝える「家族伝承者」の養成に乗り出す」(20日付中国新聞)といいます。「これまで証言活動をしてこなかった人を含めた幅広い被爆者の体験継承につながると期待。埋もれた被爆体験の掘り起こしや家族間の記憶の継承も見込む」(同)とか。
「家族間の記憶の継承」―これは被爆体験だけの問題ではありません。
長崎市内に「岡まさはる記念長崎平和資料館」という民間の博物館があります。日本の侵略戦争・植民地支配の加害責任に照射した稀有で貴重な博物館です(写真左。写真中は館内の展示)。
そこの主催で毎年「長崎と南京を結ぶ集い」が行われています。昨年、その集会(12月12日)で田中信幸さん(熊本在住)が、「父の戦争責任を一緒に背負って」と題して講演されました。
<田中さんは1972年、熊本大在学中に沖縄返還反対闘争に加わり逮捕・投獄された。東京拘置所から父親へ「あなたが戦った戦争は侵略戦争だったのではないか」と手紙を書いた。
父親は1936年に入隊し、1937年の南京戦に参加するなど、大日本帝国軍の一員として青年時代を送った。
田中さんは父親との10年に及ぶ「戦争責任」を巡る対話を経て、1995年に父親から中国戦線での1年間の日記や300通以上の手紙を託された。南京陥落後の南京市の見聞や、「慰安所」に関する記述もあった。
田中さんは父親に言った。「これまでの対話を終わるにあたり、これから先、あなたの戦争責任を私も一緒に背負って生きていく」
父親は黙って大きくうなずいた。
その発言を裏切らず、田中さんは1990年代以降、自衛隊のカンボジア派遣、イラク派兵反対など、さまざまな活動に積極的に関わっていった。
田中さんによれば、父親は生前、「あの戦争は侵略戦争だった」と明言したことはなかった。しかし、息子の田中さんに中国戦線の日記や手紙を託したこと自体が、自らの行いや日本軍のあり方を無批判に肯定せず、後世の審判に委ねたのではないか。
そこには10年に及ぶ対話の末に、息子を信頼し、託そうとした戦争体験者の深い思いがあったのではないか。>(岡まさはる記念長崎平和資料館会報「西坂だより」2022年1月1日号、文責・新海智広氏より)
私の父は敗戦時、18歳でした。戦地には行きませんでしたが、広島県の大久野島にあった帝国陸軍の毒ガス製造工場に勤めていました(写真右は大久野島の毒ガス資料館)。学校の教師から「働きながら勉強できるし給料ももらえる」と勧められたといいます。父子家庭の5人きょうだいの長男でした。
しかし、どんな事情があろうと、父が国際法違反の凶悪兵器の製造に携わっていたことは否定できない事実です。父にも戦争責任があることは明らかです。
でも、私は田中さんと違って、父と面と向かって対話をしてきませんでした。父も大久野島の体験を語ろうとはしませんでした。
それではいけないと気づいて、父の話をしっかり聴こうと思ったときは、父は認知症の入口にいました。それから数年して、父は83歳で他界しました。毒ガスの後遺症の肺がんが死因でした。
後悔先に立たず。
私たちの世代(60~70代)は、親から直接戦争体験を聴くことができる最後の世代ではないでしょうか。
田中さんのように、父が生きているうちに、戦争について対話すべきでした。
そして言うべきでした。「これから先、あなたの戦争責任を私も一緒に背負って生きていく」と。