アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

戦前・戦中の教訓「図書館の自由に関する宣言」が危ない

2022年10月31日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義
   

 30日のNHKスペシャルは「岐路に立つ民主主義」と題してEU諸国の状況を報じましたが、「民主主義」が岐路に立っている、危機に瀕しているのはなによりもこの日本です。

 侵略戦争・植民地支配の教訓から、「知る権利」「表現の自由」の拠点とされてきた「図書館の自由」が岸田・自民党政権によって侵害されようとしています。

 文科省は8月30日、「北朝鮮当局による拉致問題に関する図書等の充実に係る御協力等について」と題した「事務連絡」を各都道府県の教育委員会などに出しました。
 学校の図書館に「拉致問題」に関する図書を多くそろえるようにという事実上の通達です。内閣官房拉致問題対策本部の要請を受けたもので、「文科省が特定のテーマの本の充実を図書館に求めるのは異例」(9月21日付琉球新報=共同)です。

 全日本教職員組合(全教)は直ちに、「撤回を求める要請」(9月8日)を行い、「政府が図書館に対して、内容やテーマを指定して図書の充実や展示を求めたりすることは、子ども、国民の思想を縛るきわめて危険なことである」と指弾しました。

 日本図書館協会(公益社団法人)は今月11日、「「図書館の自由に関する宣言」の理念を脅かすものである」とする「意見表明」を行いました。

 「図書館の自由に関する宣言」は1954年に採択(1979年に改訂)されました。

 「宣言」は、「図書館が国民の知る自由を保障するのではなく、国民に対する「思想善導」の機関として、国民の知る自由を妨げる役割さえ果たした歴史的事実があることを忘れてはならない。図書館は、この反省の上に、国民の知る自由を守り、ひろげていく責任をはたすことが必要である」とする基本理念によって採択されたものです。

 その上で「宣言」は、「第1 図書館は資料収集の自由を有する」「第2 図書館は資料提供の自由を有する」「第3 図書館は利用者の秘密を守る」「第4 図書館はすべての検閲に反対する」という4項目にわたって詳述。「権力の介入または社会的圧力に左右されることなく、自らの責任にもとづき…収集した資料と整備された施設を国民の利用に供する」と宣言しています。

 「宣言」は全国の図書館に掲示されているといいます(写真は朝日新聞デジタルより)。
 今回の岸田政権・文科省の通達が、この「宣言」を踏みにじるものであることは明白です。

 図書館協会の「意見表明」はさらにこう指摘しています。

「今回の文書は、今後、外部からの圧力を容認し、図書館での主体的な取り組みを難しくする流れとなる怖れがあります」「内閣官房からの文書が、そのまま文部科学省からの文書となることは、学校や図書館への指示や命令と受け取られることにもなり、国民の知る自由(知る権利)を保障するうえで、とても危険なことだと考えます」

 ことは「拉致問題」にとどまらず、また、図書館だけにもとどまらず、日本社会・市民の「知る自由」「知る権利」「表現の自由」全体の問題です。

 戦前・戦中の天皇制国家の「思想善導」に加担した苦渋の教訓から生まれた「図書館の自由に関する宣言」。それが、日米軍事同盟のかつてない深化、軍事費の大膨張の流れの中で侵害されようとしている。このことの歴史的意味を直視する必要があります。

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日曜日記221・マルクス主義学者はなぜ発言しないのか

2022年10月30日 | 日記・エッセイ・コラム
 雑誌「世界」10月号に、「戦争の起源、NATOの役割、ウクライナの将来シナリオ」と題した座談会が載った。「欧州のマルス主義学者」4人によるものだ。
 同じ「マルクス主義学者」でも、米国やNATOのウクライナへの軍事支援について、不可欠だと主張する者もいれば、強く批判する者もいて、たいへん興味深い。

 だが、座談会の内容よりも気になったのは、「解説」を書いている佐々木隆治・立教大准教授の次の言葉だ。

「日本ではそもそもマルクス主義者による意見表明そのものが少なく、相互の論争はほとんどなされていないだけに、これら(座談会)の論点から多くの示唆を得ることができるはずである」

 常々そう思っていた。日本ではマルクス主義(科学的社会主義)の学者(とりわけ人文・社会学者)による「意見表明」があまりにも少ない。「相互の論争」などまずお目にかからない。

 なぜだろうか?

 10月23日付朝日新聞デジタルに、「東大教授、成果あげても雇い止め 研究者殺す「毒まんじゅう」の罠」と題した記事(岡崎明子記者)が掲載された。
 2004年の国立大学法人化以降、大学教員の有期雇用、雇い止めが横行し、生活を維持して研究を続けようとすれば、政府の意に沿う研究(毒まんじゅう)をせざるを得ない。

 学者・研究者は兵糧攻めに遭っている。国家権力による学問の統制は、「学術会議任命拒否」など目に見える形だけではないことを改めて教えられた。

 マルクス主義学者の意見表明が乏しいのも、こうした学者・研究者の全体状況ともちろん無関係ではないだろう。

 同時に、マルクス主義学者の場合、特有の問題がありはしないだろうか。日本共産党との関係だ。
 マルクス主義学者の多くは共産党員だと推測される。そのことが、たとえばウクライナ情勢、朝鮮民主主義人民共和国、天皇制などの問題で、自由な見解表明、とりわけ党の方針とは異なる(反する)意見の表明・議論を阻んではいないだろうか。党の規約には、「党員の義務」として「党の決定に反する意見を、勝手に発表することはしない」(第5条第5項)とある。

 もしそうだとすれば、学者・研究者としては致命的な誤りである。共産党にとっても大きなマイナスである。杞憂であってほしい。

 様々な問題で混迷しながら、日本は確実に米国に追随した戦争国家への道を猛進している。それを阻止し政治・社会を変革する展望は、見えていない。
 その原因の1つは、マルクス主義に限らず平和・民主を信条とする学者・研究者の発言が少ないこと、その理論・思想が市民に共有されていないことだ。

 一方、国家権力および体制化したメディアは、御用学者を駆使し、権力に迎合する見方・考え方を日々流布させている。

 これでは勝てるはずがない。「革命的理論なくして革命的運動はありえない」のだ。

 マルクス主義学者、市民の立場に立つ学者・研究者の奮起を心から望む。
 個人に期待するだけでなく、巨大なメディアに対抗しうる「市民メディア」の構築が切望される。


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ウクライナ戦争と戊辰戦争―武器供与と列国干渉

2022年10月29日 | 国家と戦争
   

 23日のNHKスペシャル「新幕末史」は、薩長を中心とする新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争(1868年)の「新事実」を放送しました。その要点はこうです。

〇戊辰戦争は日本の「内戦」というのが通説だが、実は欧米列国の強い干渉・介入があった。

〇旧幕府軍は当初劣勢だったが、一時勢力を盛り返した。アメリカからガトリング砲など新式の武器を購入したからだ。アメリカは南北戦争(1861~65)の終結で大量の武器があまり、武器商人がそれを仲介した。

〇欧州各国の中では、プロイセン(現在のドイツ)が旧幕府の奥州列藩同盟を支援した。榎本武揚に軍艦も提供した。その背景には、北海道を植民地化する思惑があり、そのために東北諸藩の協力を得る計算があった。

〇これに対し、新政府軍を支援した中心はイギリス(パークス公使)だった。イギリスは「国際法」を都合よく解釈し、旧幕府軍に対するプロイセンの支援を封じる一方、最新の軍艦を提供した。その背景には、プロイセン、ロシアとの植民地競争があった。

〇その後明治新政府は、イギリス、フランス、プロイセンなど列強の強い影響を受けることになった。

 Nスぺの基調は、プロイセンによる北海道植民地化の思惑がイギリスの尽力によって阻止された、というものでした。
 しかし、この「新事実」は、たんにプロイセンやイギリスだけの問題ではなく、「戦争」の普遍的な本質にかかわる重要な教訓を示しているのではないでしょうか。

 それは第1に、戦争の帰趨は武器によって決まるということです。どちらが新型兵器(大量破壊兵器)を手にするかで戦局は二転三転します。そのため、戦争当事国は新型兵器の入手に躍起になります。戦争大国は日常的に兵器を増強し、新兵器を開発します。

 第2に、戦争大国=欧米「先進国」は、覇権主義・大国主義から途上国の「内戦」に干渉・介入し、その従属化・植民地化を図ろうとします。

 これは、150年以上たっても変わっていません。それを私たちはいま、「ウクライナ戦争」で目の当たりにしているのではないでしょうか。

 ロシアの軍事侵攻が許されないことは言うまでもありません。同時に、NATOという軍事同盟で結束している欧米諸国によるウクライナへの武器供与・軍事支援も大国の思惑によるものです。

 兵器ではなく外交、軍事同盟ではなく非同盟・中立による自主・独立こそ戦争を終結させ、平和を維持する道。その原点にいまこそ立ち返る必要があります。

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鉄道と天皇と戦争・植民地支配

2022年10月28日 | 日本の近現代史
   

 新橋―横浜間に日本初の鉄道が開通(1872年10月14日)して150年。NHKはさかんにキャンペーンを行い、6日には国とJRなどが主催する式典が行われ、徳仁天皇が出席してあいさつしました。
 101年前(1921年)に行われた「50周年記念式典」には、皇太子時代の裕仁が出席しました(写真中=NHKより)。

 鉄道の歴史は、天皇(制)、さらには天皇制帝国日本が強行した侵略戦争・植民地支配と深くかかわっています。

 広島は今でこそ「平和都市」などといわれていますが、敗戦までは代表的な「軍都」でした。帝国日本の本格的なアジア侵略のはじまりといえる日清戦争(1894年)で、大本営が置かれたのは旧広島城内。そこで明治天皇が戦争の陣頭指揮を執り、広島は出兵拠点になりました。なぜ広島だったのか。

「山陽鉄道が広島まで開通した。鉄道と宇品港が整備されていたのが広島が出兵基地になった理由である」(9月29日付中国新聞、連載「近代発 見果てぬ民主Ⅳ」

 朝鮮半島を植民地にした明治天皇制政府が、支配を確立するために行ったのが朝鮮銀行の設立(1902年)と鉄道の敷設でした。
 その両方で中心的役割を果たしたのが渋沢栄一。渋沢は朝鮮銀行が発行した紙幣の顔となり、朝鮮鉄道の代表におさまりました。渋沢は親友だった伊藤博文とともに朝鮮侵略・植民地支配の先頭に立ったのです。渋沢と鉄道の関係を示す資料は、ソウルの漢陽都城博物館に展示さています(写真右)。

 時代は下って、天皇裕仁が始めた太平洋戦争。開戦から1年後の1942年12月11日、裕仁は東条英機らを伴い、極秘裏に東京駅から「御召列車」に乗り込みました。「必勝祈願」に伊勢神宮へ向かうためです。

「天皇が乗る「御料車」の隣の車両には、簡易シェルターが設置され、いざとなれば天皇が避難できるようになっていた。御召列車の直前に走った「指導列車」には、外から見えないようにして高射機関砲と弾薬が搭載された」(原武史著『歴史のダイヤグラム 鉄道に見る日本近現代史』朝日新書2021年)

 その東京駅(写真左)の丸の内・中央口には、いまも「皇室専用貴賓出入口」があります。東京駅自体が、天皇の権威を誇示するものとして建設されたのです。
 東京駅の開業は1914年。その前身は「中央停車場」と呼ばれていました。

「中央停車場は、旧江戸城西の丸に建つ皇居と道路を通してつながることで、天皇のための駅として位置付けられた」「駅舎の中央部からは皇居に向かって、「行幸通り」と呼ばれる道路がまっすぐに延びている。こうした位置関係からも、東京駅が天皇のための玄関駅として建設されたことがよくわかる」「中央に皇室専用の出入口を有する東京駅丸の内駅舎こそ、植民地や「満州国」を含む帝国日本に君臨する天皇の威光を可視化する建築物となったのである」(原武史氏、前掲書)

 そして2021年。多くの反対を押し切って強行された東京五輪。気候のために北海道で行われたマラソンは、当初都内を走ることになっていました。そのコースは東京駅前から皇居へ向かうものでした。東京駅と皇居を結ぶ「行幸通り」を世界のマラソンランナーに走らせ、それを世界中に中継させようとしたのです。

 ここにも「東京五輪と天皇制」の隠れた関係、そして「東京駅」「行幸通り」を使って天皇(制)の威光を示そうとする時代錯誤の思惑があったのです。

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ウクライナ戦争「停戦協議拒否」の論理を考える

2022年10月27日 | 国家と戦争
  

 厳し冬を目前にしながら、ウクライナ戦争は停戦・終結へ向かう様相を見せていません。戦争を1日も早く終わらせるにはどうすればいいのか。

 ロシアは様々な思惑を持ちながらも、停戦協議を呼びかけています。これに対し、ウクライナ政府は、「プーチン大統領と交渉するのは不可能」と正式に決定(10月4日)。ゼレンスキー大統領は「プーチンとは交渉しない」として「徹底抗戦」を崩していません。それを支持する「世論」は少なくないとみられます。
 「停戦協議拒否」のこの主張がなぜ支持されるのでしょうか。

 それを考える1つのヒントが、「新しい時代の戦争のあり方」が「国家の戦争」から「個人の戦争」へ変わった、とする古谷修一・早稲田大教授(国際法)のインタビュー(18日付朝日新聞デジタル)です。関連する部分を抜粋します。

< 昔だったら、戦争には落としどころがありました。でも、今回はだれも、プーチン大統領とまともに交渉できません。プーチン氏は重大な戦争犯罪人です。「戦争犯罪人と交渉するのか」と問われる。

 これは「正義」と「平和」の相克ともいえるでしょう。これまでなら、「平和」を実現するために、清濁併せのんで妥協してきました。しかし、「正義」には妥協の余地がない。妥協は、犯罪者との交渉を意味しますから。そうなると、戦争もやめられません。

 戦争が「犯罪」と化した、あるいは戦争が「人権問題」と化した世界では、妥協が難しい。それを世論が許さないからです。
 戦争はかつて、政治的妥協を引き出すための方法の一つだった。今は、そのようなものではない。明確な人道問題なのです。だから妥協はできないし、落としどころも見つけにくい。

 例えば、「ウクライナはNATOに入りません」などという落としどころを考えたとしましょう。もしそれでゼレンスキー大統領が妥協したら、果たしてウクライナ国民が納得するでしょうか。問題の中心はもはや、ウクライナ東部がウクライナとロシアのどちらに帰属するかではなく、そこで起きた虐殺なのですから。

 それは、戦争が国レベルの関係ではなく、人間関係のレベルで語られるようになったとも言えます。「戦争の個人化」です。戦争が個人の話として議論されるために、国家の話として妥協するのも難しくなったのでしょう。>

 古谷氏は、「戦争の個人化」の背景にはSNS(スマホ)の普及があると言います。「戦争を、国と国との戦いという抽象的なレベルではなく、もっと身近なものとして受け止めるわけです」

 傾聴に値する主張だと思います。しかし、疑問・異論も禁じ得ません。

 第1に、ウクライナ戦争が「個人の戦争」の様相を濃くしているとしても、けっして「国家の戦争」でなくなっているわけではないことです。むしろ、「個人の戦争」「人権問題」を前面にだして「国家の戦争」であることを後景に押しやろうとする戦略が、「国家」によって遂行されているとも言えるのではないでしょうか。

 第2に、古谷氏が「新しい戦争」の根拠としている「SNS情報」自体が、「国家」によって管理・統制されていることです。

 そして最大の問題は、古谷氏の論理では、ウクライナ戦争の停戦・終結の糸口・方向性が見えてこないことです(事実、古谷氏はその点には答えられていない)。

 古谷氏は結論としてこう述べています。

「やや理想を込めて考えると、人権への価値観が今以上に共有され、市民同士の連帯感が生まれる世界にならないか。少なくとも、新たな世界に向けた枠組みやルールをつくらなければならないと、多くの人が思い始めているように感じます」

 これには同意します。しかし、同時に必要なのは、目の前の戦争を1日も早く停戦・終結させることです。

 引き続き考えたいと思います。そして、古谷氏だけでなく、いまこそ学者・知識人(とりわけ平和学、国際法、国際関係学など)の、停戦へ向けた主張・論及が切望されます。

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野田佳彦氏の安倍追悼演説、百害あって一利なし

2022年10月26日 | 日本の政治・社会・経済と民主主義
   

 国会の追悼演説など、ニュースで流れる所しか見ない(聞かない)人がほとんどでしょう。しかし、それは国会の議事録として歴史に残ります。ニュースで流れるわずかな部分の影響も無視できません。

 25日、衆院本会議場で行われた立憲民主党・野田佳彦氏(元首相)による安倍晋三氏に対する追悼演説は、たんなるエピソードの紹介を超えた、きわめて政治的な問題を含んでおり、けっして聞き流すことはできません。

 追悼演説は故人に対する美辞麗句であふれるのが常ですが、それにしてもあの安倍氏を野田氏が4回も「心優しい」と形容したのにはあきれました。それはひとまず置いて、無視できない問題を6点挙げます。

①安倍政治美化・その1 「拉致問題」

 野田氏は、「内閣官房副長官として北朝鮮による拉致問題の解決に向けて力を尽くされ」たと述べました。事実は、「拉致問題」を政治利用し、朝鮮民主主義人民共和国敵視を貫き、在日朝鮮人差別政策を続けたのが安倍氏です。

②安倍政治美化・その2 日米軍事同盟

 野田氏は、「特筆すべきは…2人の米国大統領と親密な関係を取り結んだこと」「日米同盟こそ日本外交の基軸であるという確信がなければ、こうした信頼関係は生まれなかった」と述べました。

 「日米同盟」とは「軍事同盟」です。安倍氏は対米従属の安保条約の下、軍隊(自衛隊)を大増強し、米軍との一体化を深化させ、トランプの言うまま米国製兵器を爆買いしました。

③安倍政治美化・その3 天皇制擁護の密室協議

 野田氏は、天皇明仁(当時)の「生前退位」をめぐって、「総理公邸の一室でひそかに」会い(2017年1月20日)、「政争の具にしてはならない」という点で「意見が一致した」ことを美談として紹介しました。

 天皇の「生前退位」は憲法にも皇室典範にも反する違憲・違法行為です。それを政治の争点にしないことを密室で協議・合意したことは重大です。それを美談として吹聴する憲法感覚は異常と言わねばなりません。

④銃撃を「テロ」と称して統一教会問題を隠ぺい

 野田氏は、安倍銃撃を繰り返し「暴挙」「暴力」「テロ」とよび、安倍氏を「民主主義」者と描きました。銃撃が「暴力」であることは確かでけっして肯定されるものではありません。しかし、安倍銃撃が政治的テロではないことは今や明白です。その動機は言うまでもなく、カルト集団・統一教会と安倍氏の深い関係です。

 その統一教会と自民党の関係、統一教会の謀略の実態を解明・追及しようとしているいま、安倍銃撃を「テロ」、安倍氏を「民主主義者」と描くことは統一教会問題を隠ぺいし、その追及に水を差すことにほかなりません。
 これが野田演説の最大の害悪といえるでしょう。

⑤安倍政治の評価を棚上げ

 野田氏は、「安倍晋三とはいったい何者であったのか…その答えは、長い時間をかけて、遠い未来の歴史の審判に委ねるしかない」と述べました。
 しかし、安倍政治の数々の悪政の評価はすでに明白です。野田演説は安倍政治に対する「審判」の棚上げを図るものです。

⑥弔意の強要、国家主義への包摂

 野田氏は、「どんなに政治的な立場や考えが違っていても、この時代を生きた日本人の心の中に、あなたの在りし日の存在感は、いま大きな空隙(くうげき)となって、とどまり続けています」「この国のために、重圧と孤独を長く背負(った)安倍晋三元内閣総理大臣」などと述べました。

 野田氏が個人的に安倍氏をどう評価しようが自由ですが、それを国会の演説で、「この時代を生きた日本人」に押しつけないでいただきたい。

 以上の①~④は安倍追悼に特有なものですが、⑤⑥は国会の追悼演説が持つ共通の問題点と言えるでしょう。これは「国葬」が持つ問題点と通底しています。

 国会における政治家の追悼演説は、「国権の最高機関」における仲間内の慰め合いにほかなりません。それによって政治家(元首相)の政治的評価が歪曲され、「弔意」が強要され、与野党のなれあい・国会の翼賛化が助長されます。

 「国葬」に法的根拠がないのと同様、国会の追悼演説はたんなる慣習・慣例にほかなりません。「国葬」同様、百害あって一利なし。悪しき慣習は廃止すべきです。

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「オール沖縄」とは何だったのか―新たな「民衆闘争」の構築を

2022年10月25日 | 沖縄と日米安保・米軍・自衛隊
   

 23日投開票の那覇市長選で「オール沖縄」が擁立した翁長雄治氏(故・翁長雄志前知事の二男)が、自民・公明推薦の知念覚氏に敗れたことで、県紙は、「オール沖縄 自壊」(24日付琉球新報)、「オール沖縄 退潮拍車も」(同、沖縄タイムス)と報じています。

 「オール沖縄」で那覇市長になった現職の城間幹子氏が知念氏支持に回ったことが勝敗の大きな分かれ目となり、同時に「オール沖縄の自壊」を印象付けました(写真左は知念氏と城間氏=朝日新聞デジタルより)。

 「オール沖縄」とは何だったのでしょうか。
 それは沖縄のみならず日本の政治史においても大きなテーマであり、さらに追究される必要があります。
 このブログでも、翁長前県政(2014年11月16日~18年8月8日=死去)を詳細に見てきました。ここではあらためて2つのことを強調したいと思います。

 1つは、「オール沖縄」は翁長前知事(写真右)が推進したというイメージがありますが、実は翁長氏が知事になる前からあり、それは本来、翁長氏が前面に立った「オール沖縄」とは違うものだったということです。

 2013年12月27日、翁長氏の前の仲井真弘多知事が県民を裏切って「辺野古埋め立て」を承認しました。当日、県庁ロビーで抗議集会が開かれ、沖縄平和運動センターの山城博治氏は、「保革を超えたオール沖縄という財産を知事はぶっ壊した」と怒りをあらわにしました(写真中)。

 当時、「オール沖縄」はどのようにとらえられていたか。『沖縄現代史』などの著書がある故・新崎盛暉沖縄大名誉教授は、こう指摘していました。

『オール沖縄』というのは、単に、政治的な保守・革新を超えて、という意味ではない。さまざまな多様性を持ち、内部矛盾を抱えながらも、抑止力とか、負担軽減とか、軍事的な地政学上の優位性とか、沖縄振興策という言葉の持つ欺瞞性を実感し始めた人たちが、社会の大多数を占めてきたということである。それは、沖縄戦を起点とする沖縄現代史の、民衆抵抗闘争史の集積の結果である」(2013年12月28日付沖縄タイムス)

 新崎氏が指摘した「抑止力とか、負担軽減とか、軍事的な地政学上の優位性とか、沖縄振興策という言葉の持つ欺瞞性」とは、日米安保条約に基づいて自民党政権が推し進めてきた沖縄政策そのものと言えるでしょう。
 その「欺瞞性」を、沖縄の人々が「保守・革新を超えて」実感し始めた。それは自民党政権・国家権力にとって大きな脅威でした。

 ところがその後、「オール沖縄」は新崎氏の指摘とは大きく異なるものとなっていきました。
 その目標は「辺野古新基地反対」の1点に集約され、日本共産党はじめ「オール沖縄」の革新勢力は肝心の日米安保(軍事同盟)への言及・批判を控えるようになりました。「保革を超えて」といいながら、実態は「革新」が「保守」に取り込まれたのです。その先頭に立ったのが翁長前知事でした。

 改めて強調しなければならない2つ目の問題は、「辺野古新基地反対」を唯一の目標として結集した「オール沖縄」であるにもかかわらず、翁長県政は、辺野古新基地阻止に逆行するものでしかなかったことです。

 そのことを示す典型的な問題は、翁長県政の最大の課題だった「辺野古埋め立て承認撤回」を、3年9カ月の任期中(存命中)ついに実行しなかったことです。

 翁長氏の死去後、保守・経済界は相次いで「オール沖縄」から離れていきました。今回の那覇市長選でも顕著になった「オール沖縄の自壊」とはこの現象にほかなりません。それは、保守(自民党支持勢力)にとって、「オール沖縄」は役割を終えたということです。

 紙幅の関係で結論を急ぎます。
 
 沖縄は新たな「民衆闘争」を構築すべきです。それは、多様性をもちながら、諸悪の根源である日米安保条約(軍事同盟)廃棄の旗を堅持し、それが多数派になることを目指す運動であるべきです。

 もちろん沖縄だけの問題ではありません。沖縄の「民衆闘争」と連帯しながら、「本土」も新たな「民衆闘争」をつくりあげねばなりません。それは日本にいる市民・民衆全体の最重要課題です。

 ご参考までに、このブログで直接「オール沖縄」をテーマに書いたものの日付を挙げます。
 ①2013・12・29②14・6・10③同12・18④15・12・15⑤同12・17⑥16・1・18⑦同4・30⑧同5・2⑨同5・3⑩同6・9⑪同・8・2⑫同11・24⑬17・1・14⑭同2・7⑮同3・28⑯同4・1⑰同8・13⑱18・4・10⑲同9・10⑳19・3・28⑳①同7・2⑳②21・1・19⑳③同11・6
 この中では、①③⑦⑱⑳⑳+②が比較的まとまっています。
 このほか、翁長県政当時書いた県政にかんするものはすべて「オール沖縄」の記録ともいえます。

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沖縄における天皇観の「変化」と戦後「同化教育」

2022年10月24日 | 沖縄と天皇・天皇制
  

 今回の徳仁天皇訪沖に際し、沖縄県民の天皇(制)観の「変化」が強調されました。
 「本土」のメディアには、「上皇ご夫妻の長年の努力もあって、沖縄の人たちの皇室への感情はかなり好転した」(河西秀哉・名古屋大准教授、23日付朝日新聞デジタル)という明仁天皇・美智子皇后(当時)美化があふれています。

 「本土」だけでなく沖縄のメディアも、「平成の時代を経て、県民の皇室イメージは大きく変化した」(21日付琉球新報)と報じています。NHKの「沖縄県民世論調査」では、「天皇は尊敬すべき存在か」との問いに「そう思う」と答えた県民は、2002年が30%だったのに対し、12年は51%に大幅増加したというデータもあります。

 世論調査の数字が額面通り受け止められないことは、天皇観に限ったことではありませんが、県民の天皇(制)への批判が減少していることは確かでしょう。その内容・要因はさらに調査・研究される必要があります。

 河西氏や琉球新報が強調するように、明仁天皇の「平成」時代が画期となったことも事実でしょう。それは「周辺の民」としての沖縄県民を「国民的統合」に包摂しようとする自民党政権と明仁天皇、それを後押しするメディアの合作によるものです(22日のブログ参照)。

 さらに、見過ごせないのは、沖縄の戦後教育とそれを担った教職員の問題です。

 沖縄タイムスは12日から、ジャーナリストの新川明氏(沖縄タイムス元編集局長・社長・会長)による連載「「復帰=再併合」50年 同化幻想の超克」を掲載しています(随時)。

 その中で新川氏は、屋良朝苗氏(のちの初代公選知事=写真右)が会長として率いた沖縄教職員会(1952年4月結成、のち沖縄教職員組合)について、こう書いています。

「同会は、屋良会長の強力なリーダーシップのもと、「日の丸掲揚」運動「日の丸購入」運動を展開、脱琉球=日本人化の機運を教育現場で琉球全域に広げる活動に専念、60年の「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)結成を主導して「復帰」運動の中核組織となる」(13日付沖縄タイムス)

 さらに新川氏は、「戦後沖縄における同化教育を先導したのは、台湾、朝鮮などかつての日本植民地から引き揚げてきた教師であった」とするアーキビスト・久部良和子氏の論稿(3月23日付琉球新報)から、次の部分を引用しています。

彼らは植民地で現地の人々に日本人教育(皇民化教育)を行ってきた指導者である。(略)植民地政策への反省もなく、今度は戦後沖縄の「日本人教育」を担っていくことになった

 私は、屋良氏をはじめ沖縄の教師たちは、戦後の「民主教育」を担ってきたと思っていたので、驚きでした。

 新川氏や久部良氏の指摘によれば、戦後沖縄で新たな「皇民化教育」ともいえる「同化教育」が、台湾・朝鮮で「皇民化教育」を推進してきた教師たちによって、「植民地政策への反省なく」行われてきたことになります。

 これはきわめて重大な問題です。沖縄で天皇(制)観が大きく変化したとすれば、自民党政権、天皇明仁、メディアの3者の合作に加え、そのベースに戦後沖縄の教師たちによる「同化教育」があったことになります。

 新川氏は「沖縄の同化教育における屋良朝苗研究の深化が望まれる」と指摘していますが、「屋良研究」に限らず、沖縄戦後教育の検証が必要です。それは日本の植民地支配の責任追究にとっても重要な問題です。



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日曜日記220・母が「一番きれいだったとき」

2022年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
  母が20日、亡くなった。96歳だった。
 死に目にはあえなかったが、穏やかな最期だったと、お世話になったグループホームの職員さんから聞いて、安心した。

 介護のために福山に帰って8年9カ月。ずっと前から覚悟はできていて、たんたんと受け止められるつもりだったが、そうはいかなかった。

 これで両親ともこの世にいなくなった。その意味が、ひしひしと迫る。
 次は自分の番だと思う。人生の時の流れを感じる。
 自分が母より先でなくてよかったと、ほっとする。

 敗戦の年が19歳。
 結婚してからずっと「専業主婦」だった。
 一般企業の「平社員」の妻。2人の男の子の母。
 4人家族で女性は母1人。化粧もあまりしていなかったように思う。
 平凡な人生だった。

 若いころはどんな生活だったのだろう。どんな夢があったのだろう。
 もっと聞いておけばよかった。
 そう思った時には、すでに認知症が進行していた。

 いろいろ苦労があったね。
 よくがんばったね。

 母に茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」を捧げる。
 のり子32歳(1958年)のときの詩だ(抜粋)。

  わたしが一番きれいだったとき
  まわりの人達が沢山死んだ
  工場で 海で 名もない島で
  わたしはおしゃれのきっかけを落してしまった

  わたしが一番きれいだったとき
  だれもやさしい贈物を捧げてはくれなかった
  男たちは挙手の礼しか知らなくて
  きれいな眼差だけを残し皆発っていった

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしの国は戦争で負けた
  そんな馬鹿なことってあるものか
  ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

  わたしが一番きれいだったとき
  わたしはとてもふしあわせ
  わたしはとてもとんちんかん
  わたしはめっぽうさびしかった

  だから決めた できれば長生きすることに

 茨木のり子は1926年6月12日生まれ。その20日あとに、母は生まれた。

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ミサイル基地化すすむ中の徳仁天皇沖縄訪問

2022年10月22日 | 沖縄と天皇・天皇制
   

 天皇徳仁はきょう22日、即位後初めて沖縄を訪れます。玉城デニー知事は早々に、「県民にとって大きな喜びになる。…心からお待ちしている」とのコメントを発表しました(9月30日付琉球新報)。天皇の沖縄訪問ははたして県民にとっての「喜び」でしょうか。
 
 天皇として沖縄に一度も足を踏み入れることができなかった裕仁に代わって、息子の明仁は皇太子時代から2019年の退位まで11回にわたって沖縄を訪問。裕仁の戦争責任、沖縄を基地の島としてアメリカに売り渡した「天皇メッセージ」((1947年9月)の事実を隠ぺいし、天皇(制)に対するイメージを変えることに懸命でした。

 その明仁天皇(当時)が最後に沖縄を訪れたのは2018年3月27日。日本の最西端・与那国島に初めて行きました(3月28日、写真中)。

 当時、安倍晋三政権はすでに「島しょ防衛」の名の下に、アメリカの対中国戦略に基づいて沖縄を前線基地化する構想を着々とすすめていました。
 その一環として、安倍政権・防衛省は、全国5つの陸自方面隊を一元的に指揮・監督する「陸上総隊」を新たに創設。同時に、「日本版海兵隊」といわれる「水陸機動団」を発足させました。それがまさに明仁天皇が沖縄を訪れた3月27日だったのです。

 天皇の行動(「公的行為」)計画を決めるのは言うまでもなく時の政権です。明仁の「与那国訪問」が安倍政権の「島しょ防衛」=沖縄前線基地化の戦略に沿ったものであったことは明白です。

 「象徴天皇制」の研究者・瀬畑源龍谷大准教授は、明仁の皇太子時代からの度重なる沖縄訪問の意味をこう指摘しています。

米軍基地問題など、「本土」に対する反発が強く残る沖縄は、国民統合の周縁にあって、「国民」として括られることに反発する人たちが数多く存在する。皇太子の活動は、その沖縄の人たちを「日本国民」として国家の中に統合する役割を、結果的に果たしてきた。皇太子のまなざしは、あくまでも「国民国家」の枠内に「国民」を統合する点が徹底されている」(瀬畑源「明仁天皇論」、『平成の天皇制とは何か』岩波書店2017年所収)

 天皇徳仁は即位以来、一貫して「上皇陛下(明仁)のこれまでの歩みに深く思いを致し…象徴としての責務を果たす」(2020年2月21日の記者会見)と明仁に倣うことを表明しています。

 徳仁天皇が今年5月15日の「沖縄復帰50周年記念式典」(写真左)のビデオメッセージで「命どぅ宝」の言葉を引用したことについて、「平成の天皇の路線を継承したいという志の表れ」(我部政明氏、21日付琉球新報)と高く評価する論調がありますが、それは「周縁」としての沖縄を「国民国家の枠内に統合」しようとする明仁路線の踏襲に他なりません。

 明仁の与那国訪問から4年。
 安倍政権とそれを踏襲した菅義偉政権、そして岸田文雄政権は、辺野古新基地建設を引き続き強行すると同時に、与那国、石垣、宮古などの自衛隊ミサイル基地化を急ピッチで進めています。
 米軍と自衛隊の一体化、自衛隊の太平洋方面への進出も急速に拡大しています。来月10日からは対中国を想定したかつてない規模と内容の日米実動共同軍事演習が行われます(21日のNHKニュース)。

 まさにこのタイミングで行われる徳仁天皇の「即位後初の沖縄訪問」が、こうした自民党政権の対米従属軍事戦略と一体不可分であることは明らかです。

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