5日夜のNHK・ETV特集(Eテレ)は、「原発事故・幻のシナリオ~埋もれた遮水壁計画~」と題し、東京電力福島原発事故(2011・3・11)の直後から進行していた知られざる事実を、当事者の証言で明らかにしました。キーワードは「地下水」。番組の概要はこうです。
< 事故から6日目、江口工(たくみ)氏は国交省から意見を求められた。江口氏は地下水に詳しい土木の専門家。チェルノブイリ原発(ウクライナ)事故の際も、アドバイザーを務めた。
江口氏は、「セメントで地下水の流れを止めなければならない」と遮水壁を早急に造ることを強く進言した。漏れ出た放射性物質で地下水が汚染され、それが海に流出するからだ。しかし、国交省は反応しなかった。
3月26日、再度江口氏ら地下工事の技術者が招集され、東電も含め、地下水対策の秘密会議が行われた。東電は、原発敷地内で1日1000㌧の地下水が流れており、それが建設当初からの悩みのタネだったと明かした。江口氏は「どうしてそんな所に原発を造ったのか」とあきれた。
アメリカも早い段階で地下水対策の重要性に気付いていた。過去の事故処理は「日々地下水とのたたかいの歴史だった」からだ。
土木に詳しい馬淵澄夫首相補佐官(民主党)も遮水壁の必要性に同意した。しかし、東電は経費が比較的安い浄化装置に固執し、遮水壁に難色を示した。約1000億円と見込まれる建設費が経営を圧迫するという理由からだ。担当大臣の海江田万里経産相(民主党)は東電に理解を示した。
馬淵は、東電経営陣は一貫して遮水壁に後ろ向きだと感じた。東電がやらないのなら国がやるべきだとも思ったが、踏み切れなかった、と言う。
馬淵は現地を視察し、あらためて遮水壁の必要性を痛感した。東電はしぶしぶ了承し、6月14日に記者会見で遮水壁の建設を発表することになった。
ところがその前日、東電と経産省が秘密裏に会談し、記者会見を行わないことにし、海江田はそれを了承した。
馬淵は6月27日、首相補佐官を辞した。東電は10月、遮水壁の建設を正式に放棄した。
遮水壁が造られたのはそれから6年後、2017年だった。その間、地下水は高濃度に汚染され続けた。
馬淵は、事故直後に遮水壁を造れなかったのは、「私を含め当時の政府の責任だ」とうなだれた(写真右)。>
専門家の強い進言にもかかわらず葬り去られた「遮水壁計画」。経営(企業利益)のためには汚染水対策は後回しにする東電の無責任体質、それを容認した国の責任が改めて浮き彫りになっいます。
最高裁(第2小法廷)は避難集団訴訟で、東電に13憶9000万円の損害賠償を命じましたが(2日付)、当然国の責任も認定しなければなりません。国と東電は共犯です。
菅義偉前政権は、地元漁協との約束を踏みにじって、来年にも汚染水を海に垂れ流す決定を行いました。とんでもないことです。国と東電による汚染水の垂れ流しをこれ以上許すことはできません。
※同番組は10日(金)午前0時からEテレで再放送される予定です。
東日本大震災から10年の11日、菅義偉首相とバイデン米大統領は共同メッセージを出しました。「日本国内の災害を巡り、首相が外国首脳と連名でメッセージを発出するのは極めて異例」(12日付共同配信)です。
この中で「3・11」直後に米軍が行った「トモダチ作戦」を誇示し、「両国の協力は、日米同盟という特別な絆と揺るぎない友情の証しとして、両国民の心に刻み続けるだろう」と述べています。
「トモダチ作戦」を指揮した米第7艦隊司令官・スコット・バンズスカーク中将(当時)は、共同通信のインタビューに答えて10年前を振り返り、「作戦は「日米同盟の強固さを示した」と語った。震災の悲劇を忘れず「作戦で培った友好を遺産として継承していくのが重要だ」と強調」(6日付共同配信)しました。
では、「トモダチ作戦」とはいったい何だったでしょうか。
菅直人首相(当時)が米オバマ大統領(同)に「支援」を要請したのは2011年3月17日です(写真左の中央が菅氏。写真左・中はNHK・WEBサイトより)。
しかし、米政府・米軍は「3・11」直後から早々に行動を開始していました。12日には米原子力規制委員会(NRC)の代表ら6人が来日、14日には米軍が航空機で放射能の測定を開始しています(石井康敬著『フクシマは核戦争の訓練場にされた』旬報社2017年)。
当時、管直人政権で対米交渉にあたっていた長島昭久衆院議員は、「事故発生から一週間ほど、米側は日本からの情報不足に相当いらだっていた」と証言しています(中日新聞社会部著『日米同盟と原発』東京新聞発行2013年)。
北沢俊美防衛相(当時)は11年6月30日、米軍に謝意を述べ、この日をもって「トモダチ作戦」は終了したとされています。ところが米軍は、在日米軍兵士・家族・基地関係者らを動員し、携帯型放射線量計(ドジメーター)を持たせて大規模なモニタリング調査を続行しました。しかしその実態・内容は明らかにされていません。
米政府・米軍は、日本政府の正式な要請がある前から勝手に調査を始め、「終了」後も独自に調査を継続したのです。なぜか。東電福島原発事故が、首都圏にも近い都市部での未曽有の原発事故であるうえ、チェルノブイリと違って自由に動き回って調査できる格好の機会だったからです。それは核戦争で想定される米本土への核攻撃、あるいは敵地への核攻撃後の上陸作戦にとってきわめて重要な「訓練場」だったのです。
米軍が被災地へ水・食料供給などの支援活動を行ったのは事実です。しかし、それは片面にすぎません。「トモダチ作戦」の実態は、「オモテの人道支援、ウラの放射線被曝データ収集」(石井康敬氏、前掲書)であり、後者に重点があったことは明らかです。
他国で勝手にデータ収集を行うこと自体が主権侵害ですが、その「ウラ」の面はまったく報道せず、「オモテ」だけを美談に仕立てた日本のメディアによって、「トモダチ作戦」は米政府・軍にとって被曝データ収集以外にも大きな収穫をもたらしました。それは、「日米の軍相互の関係が濃密かつ親密になった」こと、そして「3・11以来、防災訓練や避難訓練に自衛隊や米軍が参加するようになった」(石井氏、同)ことです。
バイデン政権はいま、日米安保体制(軍事同盟)に、オーストラリア、インドを加えた4カ国の連携枠組み(「クアッド」)で、中国包囲網を強化しようとしています。12日にはオンラインで4カ国首脳会議が行われました(写真右)
「トモダチ作戦」を指揮したバンバスカーク元司令官は上記インタビューで、中国を念頭に、「日米同盟は「地域の要だ」と述べた。クアッドの協力強化には共同訓練を重ねる必要があるとした。中国をにらみ、韓国やニュージーランドなどの参加も受け入れるべきだと提案」(6日付共同配信)しました。
「3・11」の「トモダチ作戦」は、アメリカの核戦略にとって重要な実験であり、米軍と自衛隊の一体化の強化によって日米安保体制をさらに危険な段階へすすめました。そしてそれが10年後のいま、「日米豪印」の軍事連携強化へとつながっていこうとしているのです。
NHKはじめメディア各社は「東日本大震災・東電福島原発事故から10年」の特集を組み、「復興」の様相を報じています。しかし、原発事故による変わることない放射能汚染の実態・被害にどれほど触れているでしょうか。10年目のフクシマの現実は、日本のマスメディア以外からつかむしかありません。
★汚染状態
< 日本政府が福島第一原発事故による放射性物質の汚染を除去したと発表した地域の85%で、依然として除染作業が行われていないという国際環境団体の分析が出た。
グリーンピースは福島第一原発事故発生10周年を控え、4日に発表した報告書「2011~2021福島放射性汚染の現実」でこのように明らかにし、日本政府に科学的基盤を無視した被害地域住民の帰還政策の中止を求めた。
同報告書は「福島の除染特別地域内にある7つの行政区域の汚染面積のうち85%で除染作業が進んでいないのは山林地域であるため」とし、「この地域は除染が不可能で、今後も福島を再汚染させる長期汚染源になるだろう」と指摘した。同報告書を作成したグリーンピースのショーン・バニー首席原子力専門家は「日本政府は福島の住民保護のため、科学基盤の分析を無視する帰還政策と除染プログラムを直ちに中止しなければならない」と述べた。
グリーンピースの気候変動エネルギー・キャンペーナー、チャン・マリ氏は「福島原発事故がもたらした放射性汚染被害は1世紀年以上にわたり解決されない人類の重荷」だとしたうえで、「日本政府は差し迫った汚染水の海洋放出を直ちに撤回しなければならない」と述べた。>
(3月5日付韓国・ハンギョレ新聞日本語電子版から抜粋)
★「避難者」
< 私は福島県の避難者の定義が「仮設住宅などに住んでいること」に疑問を感じ、県HPの「応急仮設住宅・借り上げ住宅・公営住宅の進捗状況」調べてみた。…データから見えてきたのは、避難者は減っているのではなく、減らされているのだということだ。
3・11が近づくと、避難者数は少なくなり、被災地は復興していると報道される。しかし、仮設住宅に住む避難区域の住民は、県が建てた災害復興住宅に移動すれば、自立したとして避難者の定義から外され、大熊町などは住民票を移転した時点で避難者でも住民でもなくなる。これで「復興」なのだろうか。懐かしい我が家に戻れない人々は、どこかに紛れ込まされて見えなくされているだけではないか。
県内の自主避難者はおそらくどこにも記録されていない。国や県は避難者を探し、現状を知ろうとしない。分かれば、救済しなくてはならないから。これが10年目の現実。何も終わっていない、何も始まっていない。>
(片岡輝美さん・会津放射能情報センター、「今、憲法を考える会・通信No58=2021年3月3日号から抜粋」
★甲状腺がん
< 山ほどあるフクシマの問題の中で、最近の事例を一つだけ報告。21・1・15「県民健康調査」検討委員会が開かれた。調査4巡目で、甲状腺がんないしその疑いがあると診断された患者は252人にもなってしまったこと。
今回特記すべきは、被曝の影響を否定する専門家の間で、学校での集団検査見直しへと大きく舵が切られたことだ。
いわく「本来見つけなくても良い甲状腺がんを見つけている(=過剰診断論)」「甲状腺がんの発見により、死亡やQOL(クオリティ・オブ・ライフ)低下を避けることができる利益はほとんどなく、特に甲状腺がんと診断される人たちにとっては、甚大な不利益をもたらす」…専門家と呼ばれる人たちの、全くもって奇妙な論理である。
どう考えたって早期発見早期治療は有益だし…子どもたちの(甲状腺がんの)ほとんどは学校の検査で見つかったのだから、これをなくするという議論はあり得ない。「専門家」はいったい何を考えているのか。>
(黒田節子さん・原発いらない福島の女たち、チェルノブイリ法日本版をつくる郡山の会、同前「通信」から抜粋)
被災地でのコミュニティ再生はもちろん重要です。しかしそのためにも、福島原発事故による放射能汚染、それによる人体・環境・生活への影響は10年経っても変わっていない、むしろある面では悪化している、という現実に目を向けることが何よりも重視されるべきではないでしょうか。その事実に立脚して、政府への異議申し立て、私たちの生き方を考えることが、今求められているのではないでしょうか。
黒田節子さんは上記報告をこう結んでいます。
<今までの価値観、イムズ、やり方では追いつかない世界に足を踏み入れてしまった私たち。オリンピックや(原発)再稼働、「復興」の掛け声等ずっと幻滅させられ続けの政治の中で、この私はどのように生きていけばいいのだろうか。私たちはそれでも前を向いてやっていけるだろうか。問われているのは、やはり一人一人でしかないように思う。>
先日、宮城県と福島県の被災地を訪れました。「3・11」直後にボランティアで2度、翌2012年に「観光」で2度行って以来です。以下、5年ぶりの東北被災地の雑感です。
◎広大な津波跡地に新たな問題…校長の判断で児童を屋上に避難させて助かった仙台市の荒浜小学校が「震災遺構」として今年4月30日から一般公開されていました(写真上左)。校舎の中は当時のまま遺されています。屋上に上がると、眼下に広い空き地が広がります。「集団移転」の跡地です。海岸から近いこの区域は居住が禁止され、跡地の使い方は未定とか。移転に最後まで反対していた人からは、「伊達政宗の時代から住んでいるのになぜ立ち退かねばならないのか」との声も出たといいます。住民の意見を十分聞くことなく市が勝手に決めてしまった、という不満もあるとか。住民がふるさとの土地を追われるのは、原発被災地だけではありませんでした。
◎語り・伝える努力と工夫…仙台駅から地下鉄で13分の荒井駅構内に「せんだい3・11メモリアル交流館」(市の委託事業)があります。常設の展示とともに、企画展があり、私が訪れたときは「それから、の声がきこえる」と題しさまざまな被災者の声を聴く企画がありました(7月2日まで)。
今年2、3月に30回のワークショップを実施し、自主的に集まった方がたの声を集めたもので、ダンスや絵画を採り入れて被災者が話しやすい状況をつくりました。6年たって、やっと「話せる」ようになった人も少なくないといいます。展示方法が奇抜です。キャンドル風の置物を耳に当てると証言者の声が聞こえたり、いすに座って机の本を取ると聞こえてきたり、ベッドに寝ころぶと聞こえたり(写真上中)。「ゆっくり聴いてほしい」(会場のボランティア)ための工夫です。
どうすれば被災体験を残すことができるのか、どうすればそれを伝えることができるのか。懸命な模索が続けられています。
◎「語り部バス」の決意…宿泊した南三陸のホテルは、宿泊客を対象に毎朝「語り部バス」を出し、約40分、被災地をめぐります。「3・11」当日、職員のえんどうみきさんが最期まで避難を呼びかけるマイクを握ったまま犠牲になった庁舎も含まれています(写真上右)。語り部の小野寺さん(ホテル従業員)は、「6年たって住民の間の格差がどんどん開いている」「出て行った若者たちは戻ってきてくれるだろうか」と顔を曇らせながら、最後にきっぱり言い切りました。「風化させないよう、語り部を続けていきます」
◎「黒い袋」が消えない原発被災地…南相馬を「被災地フクシマの旅」(NPO野馬土)の渡辺さんに車で案内していただきました。車窓から見えるのは黒い袋(フレコンバック)の山(写真下左)と何台ものクレーン車。「除染」した土のやり場がありません。「その上ため池の除染にはまったく手が付けられていません」と渡辺さん。この地域は農業用のため池が多く、その底に沈殿している放射性物質は除染の計画もないとか。知らなかった現地の実態です。
◎人影のない「避難指示解除区域」…浪江町は4月に「避難指示」が解除された地域ですが、平日の午後4時ごろだというのに、駅前の商店街には人影がまったくありませんでした(写真下中)。周辺を車で回りましたが、どこにも人の姿は見られませんでした。ゴーストタウンとはこのことでしょうか。
◎鉄道は地域の生活の柱…浪江駅の路線図を見ると、常磐線の浪江以南がいまも不通であることが一目瞭然でした(写真下右)。鉄道で相馬地域に行くには、仙台から東北本線と常磐線を乗り継いで南下するしかありません。地元の人が言いました。「相馬で結婚式を挙げる人はいなくなった。お客さんにわざわざ仙台経由で来てもらうくらいなら式は仙台で挙げる」。
南三陸のホテルがある地域の鉄道(気仙沼線)もまだ不通で、開通のメドも立っていませんでした。「語り部」の小野寺さんは「80年かけて通した鉄道です。80年かけても必ず開通させます」と力を込めていました。鉄道がいかに地域の生活の柱であるかをあらためて知りました。その鉄道を民間に売り渡した「国鉄民営化」の愚をいまさらながら痛感します。
◎民宿が軒並みつぶれた原因は?…宿泊した相馬市松川地域は「3・11」以降民宿が軒並み店じまいしたといいます。放射能の影響、観光資源の破壊などによる観光客の激減。「それだけではない」と泊まった旅館のご主人。「パートがいなくなったんです」。民宿のパートで働いていた地域の漁業のオクサンたちが来なくなったとか。「避難で?」「いいえ、補償金をもらって、働く必要がなくなったんです」。それは一つに断面でしょうが、事実は事実でしょう。通り一遍の報道ではけっして表に出ない事実でしょう。「補償問題」の複雑さの一端を聞かされた思いです。
「3・11」は途方もなく多くの、大きな問題を投げかけました。そして、今も投げかけ続けています。新しい問題も次々生まれています。
私にはとても捉えきれません。自分の無力と怠慢を痛感するばかりです。でも、これだけはと言い聞かせ直しました。「『3・11』を忘れない。『3・11』を自分に問い続ける」
「3・11」東日本大震災・東電福島原発事故から6年。
心に刺さった言葉を共有します。
☆<「記憶の風化」と言われますが、被災者にとって震災は終わっていません。記憶は今も蓄積させられているのに「風化」すると言うのはおかしい。
「忘れる」という言葉も違和感があります。そもそも震災や被災者の状況が十分知られているとは思えないから。メディアが伝える情報だけで知ったつもりの人が多いのではないでしょうか。何が起きたか現地でまず知り、考え、覚えてもらいたい。知りもしないで「忘れる」と言ってほしくありませんね。>
(リアス・アーク美術館学芸員 山内宏泰さん(45) 宮城県石巻市生まれ。気仙沼市にあるリアス・アーク美術館は同市と南三陸町が運営し、津波の記録と伝承に取り組む=8日付中国新聞)
☆<(水俣病の認定・訴訟を振り返り、福島原発事故についてー引用者)加害側による被害認定という不条理、被害の矮小化と潜在化、被害者に沈黙を強いる社会状況。同じ構図が再び繰り返されようとしていないか。
独政治学者ノイマンは、同調を求める社会的圧力によって孤立を恐れた少数派が沈黙を余儀なくされる過程を「沈黙のらせん」と呼ぶ。国民分断の様々な仕掛けとその帰結としての大多数の沈黙。それが結果的に、経済再生を最優先する巨大資本と利権がけん引する復興を容認していないか。>
(環境・平和研究会共同代表 鴫原(しぎはら)敦子さん 宮城県出身=7日付中国新聞・共同配信)
☆<福島第1原発の事故後、「見えない災禍」に多くの人が戸惑った。川野さん(川野里子さん=57 歌人・短歌評論家ー引用者)は、「見えない」のは放射性物質による汚染だけではないと指摘する。「避難するしないの違いで引き裂かれた住民の心や、責任の所在だってそう。私たちは見えなくされ、言葉を奪われ、沈黙に支配されている。人間の奥底から湧き上がる、愛や尊厳や信頼といったものの出口が閉ざされている」
「沈黙を突き破るには、ありとあらゆる方法が必要。…」(川野さんはー引用者)社会を覆う沈黙に、人間性で立ち向かう方策を探り続ける。>
(9日付中国新聞文化面、森田裕美記者)
被害者・少数派に「沈黙」を「強い」ながら、自らも「沈黙」する”多数派”。
「沈黙を突き破るには」……。
☆< 沖縄の痛みを わが痛みとし
フクシマの痛みを わが痛みとし
ヒロシマ・ナガサキの痛みを わが痛みとし
戦争で無駄に殺傷された万人の怨念を わが怨みとし
格差社会に潰される子供の貧困へ 手を差し伸べねば
わがことの民主主義には 到り着けない >
(詩人 堀場清子さん=86 広島市出身 が昨年発表した詩「ひとごと民主主義 わがことの民主主義」の結び=10日付中国新聞)
琉球新報(3月16、17、18日)に矢ケ崎克馬さん(琉球大名誉教授、写真)の「隠される内部被曝―福島原発事故の実相」が掲載されました。たいへん重要な内容なので、ポイントを紹介します。
★事実を歪曲する日本政府・・・①政府はモニタリングポストの値を正式汚染データとしているが、確認測定を行った結果(2011年秋)、発表データは実際の汚染の平均54%しか示していないことが明らかになった(写真中)。
②土壌の汚染は空間線量で示すべきだが、政府は臓器ごとに被曝線量を分割する「実効線量」(架空の線量)に置き換えるなどして実際の3割程度にしている。この背景には国際原子力産業集団の意図が働いている。
③悲しいことにすでに福島県の小児甲状腺がんは163人に広がっている。科学的見地からは紛れもなく放射線が起因と証明されているが、福島県健康調査検討委員会は「関連性は確認されていない」と言い続けている。
★チェルノブイリ原発事故(1986年、以下チ)対応との多くの違い・・・①放射能放出量は福島の方が2倍から4倍多い。チが100万kw1基の爆発に対し、福は4基、合計281万kwが関与。
②チは事故の7カ月後に石棺を構築して一切の放射性物質の漏えいを防止したが、福島は5年たつ今も空中・水中に放出し続けている。
③チは5年後に住民保護法ができ、年間5㍉シーベルト以上の区域では住居も生産も禁止された。健康対策、子どもの保養など、膨大な予算を国家が支出して住民を保護している。日本は年間20㍉シーベルト基準で住民帰還を強力に促している。チが居住を禁止している年間5㍉シーベルト以上の汚染域には100万人規模が生活を続けている。
④チでは汚染地に汚染のない食べ物を現物支給したが、福島では「食べて応援」の大合唱とともに、行政が子どもたちの給食に「地産地消」を断行させた。
★「風評被害」と農家の人権・・・「風評被害」とは、放射線被害を心の問題にはぐらかす手段の用語だ。「精神的ストレスが病気を生む」論理は、核時代を貫く犠牲隠しの手段である。
安全な食べ物を供給することが農業生産の使命である。健康を害する可能性のある放射能汚染された食べ物を、自らの意に反して生産させられるほど酷な人権侵害はない。
★「放射能公害」と認識し、全市民対象の早急な施策を・・・深刻な放射線公害が意図的に無視されている。日本市民は放射能公害として事態を認識すべきである。放射能公害から市民を守り、被害者を政府・行政の責任において速やかに保護する必要がある。
避難者だけでなく全市民を対象にした次の行政施策を提起する。①避難・移住の権利を認め国が保障する②健康被害の全国調査の速やかな実施③放射能に弱い人々を保護する予防医学的防護の実施④甲状腺検診の全国実施⑤放射性物資の移入移出を防止する⑥加害企業としての東電の社会的責任を明確にする
★<エピソード>内部被曝を隠すNHK・・・2011年7月2日のNHK「週刊ニュース深読み」に出演依頼があった。私(矢ケ崎氏)は日本の小児がんの死亡率が1945年の原爆投下後5年で3倍に跳ね上がっていることを示すデータをフリップにしてもらった。内部被曝の被害を世界で初めて明らかにしたデータである。
ところが当日スタジオに入ると私の足元にあるはずのフリップがない。近くの職員に「すぐ持ってきてください」と頼んだが、渡せないという返事。開始30秒前であり、私はそのまま番組に出演するしかなかった。後日、経緯を文書で説明するよう求めたが、応じてもらえなかった。
内部被曝と「風評被害」「食べて応援」と農家の「人権侵害」・・・たいへん考えさせられる問題です。
矢ケ崎さんは別のところでこうも言っています。
「肝心なことは政府や東電の規準に従順に従うとき、農民は基本的人権が破壊されることです。『食べて応援』と全国の消費者を内部被曝させる汚染拡大の道に引き込みます。被曝を受け入れて支援しようとすることは権力支配の下で犠牲を共有することとなります。命を大切にすることが共通の合言葉となった時、初めて汚染地内外で、全人格を貫く連帯が生まれます」(沖縄県民間教育研究所機関誌「共育者」2016年2月号)
「基地問題」にも通じる言葉として、かみしめたいと思います。
「3・11」東日本大震災・東電福島原発放射能汚染は、日本の政治、国民生活にとって大きな分岐点となりました。しかしそれは、けっして政治や国民生活だけではありません。
明仁天皇と美智子皇后は、「3・11」直後から精力的に活動しています。その言動は、単純に被災者への見舞・激励とは言えないきわめて重要な政治的意味を持っています。
「3・11」を契機に、天皇の「役割」、日本の天皇制の機能に大きな変化が生じようとしています。その実態を数回にわたって見ていきます。
◇
3月11日、天皇は政府主催の「東日本第震災5周年追悼式」(国立劇場)に出席し、「お言葉」を述べました(写真左、中)。天皇は震災以来毎年「追悼式」に出て同じように言葉をかけています。今回が5回目です。
ところが今年の「お言葉」には、過去4回にはなかった重要な「言葉」が盛り込まれていました。
「政府や全国の地方自治体と一緒になって、多数のボランティアが被災者のために支援活動を行いました。また、160を超える国・地域や多数の国際機関、また在日米軍が多大な支援に当たってくれたことも忘れることはできません」(宮内庁HPより)
救助活動へのねぎらいの言葉は毎年あります。「ボランティア」については過去2回、「諸外国の救援隊」についても3回触れています。しかし、「在日米軍」を名指しし、謝意を述べたのは、今年が初めてです。
在日米軍の「トモダチ作戦」と称した「支援活動」は、原発事故対策の演習の意味を持つとともに、「支援」に便乗して沖縄・普天間基地を「トモダチ作戦に決定的に重要」(在日海兵隊HP、2011年3月23日付朝日新聞)と強調するなど、在日米軍の「PR」(同朝日新聞)を狙った活動でした。
天皇が、これまで特に強調することがなかったこの在日米軍の行動を、今年の「追悼式典」で初めて取り上げたのは、なぜでしょうか。
私はこの背景には、昨年強行採決され、今月施行予定の「戦争(安保)法制」があると考えます。憲法違反の集団的自衛権行使によって米軍との一体化が今後さらに深まることと、天皇が「3・11」の「追悼式典」で初めて「在日米軍」の言葉を出して「感謝」したことは、けっして無関係ではないでしょう。
一方、天皇は「3・11」直後の2011年3月16日、テレビで「ビデオメッセージ」を流し、その中でこう述べました(写真右)。
「自衛隊、警察、消防、海上保安庁を始めとする国や地方自治体の人々・・・日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います」
天皇は2004年10月の中越地震後にも文書を出し、「救援活動」をねぎらいました。その時の順序は「消防、警察、自衛隊」です。それが「3・11」では自衛隊がトップになりました。
そのことに特別な意味はないと思うかもしれませんが、そうではありません。その「意味」を敏感に感じ取ったのは、当の自衛隊の幹部でした。
「天皇のビデオメッセージが一斉に放送された。夜、録画でそれを見た君塚(陸上自衛隊東北方面総監・君塚栄治氏―引用者)は、あっと思った。・・・自衛隊に真っ先に言及していただいた―。君塚は感動した。『今まで以上に自衛隊が頼りにされている、と感じました』」(2014年4月28日付朝日新聞)
「3・11」によって、在日米軍と自衛隊という日米の軍事組織と天皇の“距離”が縮まってきています。
天皇と自衛隊の親密化は、もちろん「言葉」の上だけではありません。(次回へ)
☆☆☆以前書いた「天皇・皇后訪比」についての計4回のブログ(1月23日、2月1日、2日、4日)に、乗松聡子氏(「ピース・フィロソフィー・センター」代表)が質量ともに大幅に肉付けしてくださったものが、共著の形で英文オンラインジャーナル『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』に掲載されました。乗松さんに深く感謝し、お知らせいたします。
http://apjjf.org/2016/05/Kihara.html
被災地・被災者には「5年目」の節目などなく、キャンペーンが終われば「通常」に戻るメディアにも違和感がありますが、私自身、日頃心にとめることが不十分なことを自戒しながら、書きます。
増加する震災関連死・孤独死、内部被曝の脅威、深刻な検査結果を示す子どもの甲状腺異常、深まる生活苦、地域コミュニティの崩壊、大幅に遅れている住宅・産業の復旧などなど、課題は文字通り山積していますが、ここでは、東京電力福島第1原発による放射能汚染からのいわゆる「自主避難者」について考えます。それは、原発・震災被害をめぐる国家権力と被害者、そして「一般市民」の関係を象徴的に示すものだと思うからです。
国が決めた「避難指示区域」以外の避難者が「自主避難者」と呼ばれています。「指定区域」の内と外で、同じ避難者でも賠償額をはじめ、補償・支援に大きな差別が、制度的につくられています。
その実態を、田並尚恵さん(川崎医療福祉大准教授)の論稿(8日付中国新聞)などからみます。
県外避難者を支援する制度の1つに災害救助法がありますが、それが「自主避難者」を対象にするかどうかは避難先の自治体の判断に任されており、「自主避難者」が受けられる支援はかなり限定的です。
「3・11」以後に成立した原発避難者特例法(2011年)は、対象を「避難指示区域」からの避難者に限定し、「自主避難者」は除外しました。
議員立法で成立した原発事故子ども被災者支援法(2012年)は、支援対象を「放射線量が一定の基準以上である地域」とし、「自主避難者」への支援の拡大が期待されましたが、実際に支援が拡大されたのはわずか33市町村にとどまりました。
昨年、国と福島県は県外避難者の支援方針を転換。福島県は「自主避難者」を対象にした仮設・借り上げ住宅の供与期間を来年3月末で打ち切ると発表しました。
さらに国は、来年3月末までに「避難指示」を解除する方針です。解除されれば避難者はすべて「自主避難者」とみなされ、支援は大幅に削減されます。
以上の実態は何を示しているでしょうか。
国は補償・支援制度に大きな差別を設け、さらに支援制度の打ち切りによって強制的に避難者を被災地域に「帰還」させようとしているのです。それは、2020年の東京五輪・パラリンピックなどへ向け、「復興」を装う国家戦略にほかなりません。
こうした国家戦略と両輪のように、市民レベルでは、避難者(子ども)が避難先でいじめ、差別に遭い、とくに「自主避難者」は元の居住地からも異端視され、みずからも故郷を「自主的に」離れたことに「うしろめたさ」を感じなければならない。
国家が被害者を差別し、それが市民同士の「反目・差別」を生む。これこそ「戦争賠償・恩給」や「公害補償」などでも使われている、国家権力による国民・民衆の分断支配の常套手段です。
それがいま、福島原発被害において実際に進行している事実を、私たちは凝視する必要があります。
「自主避難者」というと、なにか自分で勝手に避難している、という誤った印象を与えかねませんが、実際はまったく逆です。
「自主避難者」は、実態が未解明な放射線被害から子ども、家族を守るため、国策に抗い、多くの困難・差別とたたかいながら、健康と生活を守っている人たちです。それは、日本国憲法第11条の「基本的人権」、第22条の「居住・移転の自由」、第25条の「生存権」を守る先頭に立っている人たちです。
「自主避難者」とは、原発・放射能被害とのたたかい、憲法擁護のたたかいの最前線に立っている「先駆的避難者」である、と言えるのではないでしょうか。