アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

朝鮮学校差別の最高裁決定と安倍政権

2019年08月31日 | 朝鮮半島・在日コリアン差別と日本

      

 高校無償化制度から朝鮮学校を排除している明白な差別・人権侵害を、最高裁が追認しました。東京と大阪の裁判で「敗訴」した朝鮮学校生徒・卒業生ら原告が行っていた上告を、いずれも27日付で棄却したのです。
 明白な憲法違反を最高裁が追認し、政権(安倍政権)に迎合する。日本の司法の腐敗・退廃が端的に表れており、絶対に許すことはできません。

 決定文書はA4判1枚で、棄却のまともな「理由」の説明もないきわめて杜撰で不誠実なもの。生徒たちの涙の訴えが土足で踏みにじられました。

 原告弁護団は28日、「最高裁決定は、行政による違法な行為を是正するという司法府の役割を放棄したもの。…高校無償化法は、『家庭の状況にかかわらず、すべての意志ある高校生等が安心して勉学に打ち込める社会をつくる』ことを目的とするもの…弁護団は高校無償化法の趣旨・目的にのっとり、一日も早く、朝鮮学校を就学支援金制度の対象にすることを求めます」というコメントを発表しました。

 30日には文科省前で、原告・支援者らで緊急抗議集会・路上会見が行われました。

 今回の最高裁の上告棄却は、韓国に対する安倍政権の傍若無人な振る舞いと決して無関係ではありません。

 上告は棄却されたものの、「本訴訟の過程では下村博文文科相(当時)が、高校無償化の趣旨・目的に反して、『拉致問題等があり国民の理解が得られない』との政治的外交的理由から、朝鮮学校指定のための根拠規定をあえて削除して、不指定処分を行った事実経過(2012年12月28日の下村記者会見―引用者)が明らかになりました」(弁護団コメント)。

 高校無償化からの朝鮮学校排除は、安倍政権が朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)に対する「政治的外交的」敵対・思惑から、政治とは無関係な朝鮮学校生徒の教育権・人権を蹂躙しているところに問題の本質があります。

 それは韓国に対し、「元徴用工(強制動員)」問題の「政治的外交的」思惑から、「輸出規制」「ホワイト国からの排除」という経済的報復を強行した安倍政権の手法と相似形です。

 そして重要なのは、朝鮮学校差別も「元徴用工」問題も、その根源は日本の朝鮮植民地支配であり、いまだに謝罪さえしていない日本に責任があるにもかかわらず、安倍首相にはその認識がまったくないことです。安倍首相は「徴用工問題は歴史問題ではない」と言い放っています。そこに問題の元凶があることを改めて銘記する必要があります。

 高校無償化問題の裁判は、愛知、広島、九州で引き続きたたかわれます。今回の最高裁決定に強く抗議するとともに、これらのたたかいに連帯・支援し、朝鮮学校・在日朝鮮人に対する差別を1日も早くなくしていくことは、私たち日本人の責任です。

 


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「8・29」は忘れてならない歴史の日

2019年08月29日 | 天皇・天皇制

     

 きょう8月29日は何の日か、と聞かれて答えられる日本人が何人いるでしょうか。

 「1910年6月、寺内正毅(当時陸軍相、長州出身―引用者)を3代目『統監』(朝鮮統監府―同)に任命した日本は、『不穏』な動きを封じ朝鮮とういう国そのものを完全に消滅させるための『併合』計画に着手した。同年8月22日、憲兵、警察に戦闘準備をさせ王宮と政府の重要部署を包囲し、総理大臣李完用をして『韓日併合条約』に調印させた。日本と親日売国奴は朝鮮人民の反抗を恐れ、『条約』を1週間ものあいだ秘密に付し、新聞を停刊、愛国団体を解散させ、反日運動家を検挙するなどして、8月29日にいたって、その事実をやっと公表した」(金昌宣著『加害と被害の論理』朝鮮青年社1992年)

 「8・29」は「日韓併合条約」が公表され、日本が朝鮮半島の植民地支配を“正式に”開始した日。韓国・朝鮮の人たちにとってはまさに「屈辱の日」なのです(写真左は「併合条約」が強行された当時の朝鮮王宮=景福宮)。

  なにげなく使っている「併合」という言葉にも意味があります。

 「『併合』という言葉がどういう理由でもちいられたのか、当時の…倉知鉄吉外務省政務局長は、後にこういっています。…『韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となる』という意味を明確にすると同時に、その『言葉の調子があまり過激にならないような文字を選ぼう』と思い、いろいろ苦心し…『併合』という文字を閣議決定の文書にもちいた…。『併合』とは『韓国が全然廃絶に帰して帝国領土の一部となる』ということだったのです」(中塚明著『これだけは知っておきたい日本と韓国・朝鮮の歴史』高文研2002年)

 すぐ想起されるのが、「琉球処分」(1879年)です。「処分」も「併合」も帝国日本が琉球、韓国・朝鮮を「廃絶」して「帝国領土の一部」にする意図を持つ言葉だったのです。

 「日韓併合条約」は第1条で、「韓国皇帝陛下は韓国全部に関する一切の統治権を完全かつ永久に日本国皇帝陛下に譲与す」とし、第2条で、「日本国皇帝陛下は前条にかかげたる譲与を受諾しかつ全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」としています。
 韓国側が統治権を「譲与」し日本はそれを「承諾」するという姑息な形式の「条約」を、日本は軍隊・警察の武力の中で強行したのです。
 この「譲与」「受諾」の主体が、「韓国皇帝」と「日本国皇帝」=天皇であったことに留意する必要があります。

 この日(1910年8月29日)、天皇睦仁(明治天皇)は「韓国併合の詔書」を出しました。その中でこう述べています。「民衆ハ直接朕ガ綏撫(すいぶ=いたわること―引用者)ノ下ニ立チテ其ノ康福ヲ増進スヘシ…」。こうして「朝鮮人は天皇の赤子として位置づけられました」(宮田節子氏『日朝関係史を考える』青木書店1989年所収)。
 「日本の36年間にわたる朝鮮支配(1910~45年―引用者)の基本方針は、『同化政策』とよばれるものです。つまり朝鮮人を日本人化することに最終のねらいがあったわけです。その根拠になったものは…明治天皇が出した『韓国併合の詔書』です」(宮田氏、前掲書)

 1945年8月15日まで続いた日本による朝鮮植民地支配の基本方針は、朝鮮を「廃絶」し、朝鮮人を日本人に「同化」させることであり、その根拠になったのが天皇睦仁の「詔書」だったわけです。
 日本による朝鮮植民地支配は、文字通り天皇の名による、天皇の言葉に基づいた、天皇制国家の暴挙・蛮行でした。この事実を、今に生きる私たち日本人は肝に銘じる必要があるのではないでしょうか。


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天皇はなぜ靖国神社を参拝しないのか

2019年08月27日 | 天皇・天皇制

     

 「靖国神社が昨秋、当時の天皇陛下(現上皇さま)に2019年の神社創立150年に合わせた参拝を求める極めて異例の『行幸要請』を宮内庁に行い、断わられていたことが13日、靖国神社や宮内庁への取材で分かった」
 14日の地方各紙はこの共同配信記事(表記はそのまま)を1面で大きく報じました。「8・15」前日の配信・掲載はきわめて政治的です。

  天皇が靖国神社を参拝したのは1975年の裕仁が最後で、以後行われていません。上皇明仁は皇太子時代に5回参拝していますが、天皇としては参拝していません。今後、徳仁天皇も参拝しないでしょう。

 靖国神社(前身は東京招魂社、1879年に改称)は1869年、明治天皇が戊辰戦争の明治新政府側戦死者などを祀るために建てたもので、慰霊・顕彰の中心は天皇です。日清戦争以降、天皇制国家が侵略戦争推進の精神的支柱にしたことは周知の通り。その天皇が参拝しない(拒否している)のですから、存在自体の危機と言わねばなりません。

 なぜ天皇は靖国神社を参拝しないのでしょうか。

 「78年のA級戦犯合祀が『不参拝』の契機となったことが側近のメモなどで明らかになっている」(14日付共同配信記事)というのが通説です。
 ではなぜ、A級戦犯が合祀されると天皇が参拝しなくなるのでしょうか。

 首相や閣僚の靖国参拝は中国はじめ諸外国から批判をあびる。天皇はその比ではない、その批判を避けるためだと考えてきました。それも間違いではないでしょうが、他にも理由があるのではないでしょうか。

 「A級戦犯」とは言うまでもなく東京裁判(極東国際軍事裁判、1946~48年)において有罪になった25人(絞首刑・東条英機ら7人、終身刑16人、禁固刑2人)のことです。では天皇裕仁にとって東京裁判とは何だったでしょうか。

  「東京裁判については、アメリカ側が一方的に日本を裁いたというイメージが日本社会の中にかなり定着していると思います。しかしそれはちょっと違うのではないか、日米合作の側面があるのではないかというのが、私たち日本史研究者が長年やってきたことです。日米が協力し合いながら、すべての責任を軍部に、特に陸軍に押し付け、そして天皇を免責する―そういった側面があるわけです」(吉田裕一橋大特任教授『日本人の歴史認識と東京裁判』岩波ブックレット2019年)

 「東京裁判は日米合作の政治裁判といってよかった。裁判がまだ準備段階にあったころ、舞台裏では天皇とその側近たちが戦争犯罪の責任を負うべき人物の選定に協力し、影響力を行使していた。…裕仁の官僚たちは、ひと握りの軍閥に侵略の責任を負わせる一方で、天皇と側近はまったくだまされていたという印象を与えるべく尋問に協力し、供述書を提供した」(ハーバート・ビックス『昭和天皇(下)』講談社学術文庫2005年)

 裕仁はアメリカ(マッカーサーら)と共謀して、戦争責任を東条ら軍閥(特に陸軍)のA級戦犯に押し付け、当時高まっていた「退位論」を退けて延命を図ったのです。その者たちを靖国に祀ることは自らが演出した東京裁判を否定するに等しく、さらに自らの戦争責任も再燃しかねない。裕仁とA級戦犯の関係はそういう関係です。A級戦犯が靖国神社に合祀されたことに裕仁が激怒し、以後参拝を取りやめたのはそのためではないでしょうか。明仁天皇が靖国に足を向けようとしなかったのも、そうした父・裕仁の戦争責任回避を引き継いでいたからではないでしょうか。

 凝視しなければならないのは、こうした天皇裕仁の戦争責任回避と日本人の関係です。

 「日本人が戦争犯罪の問題についてかくも早く忘れ去った主な原因は、裕仁その人に関係している。天皇が…法廷で尋問されることがなかった以上、日本の侵略戦争の正当性―アジア太平洋地域の国々への侵攻は解放のためだったという信念―は、かなりの説得力を持ったのである。結局のところ、多くの日本人は、戦争の遂行については天皇と共犯関係にあった。そして、国民は全体として、天皇が責任を負わないのだから、自分たちに責任を負う必要などあるわけがないと考えた」(ビックス前掲書) 

 戦争・植民地支配を遂行しながらその責任から逃避した裕仁(そして明仁)。その天皇との「共犯関係」。この言葉の意味を私たち日本人は正面から受け止める必要があるのではないでしょうか。


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広島・長崎で広がる“言論・表現の不自由”

2019年08月26日 | 国家と戦争

     

 広島市の松井一実市長が「8・6」平和式典会場周辺での集会・デモを規制しようとしている問題(8月5日のブログ参照)で、広島市は6日、式典参列者約4千人にアンケートをおこないました。
 「デモの音が聞こえたかどうかを尋ねた上で、式典への悪影響の有無を質問。今後の対応について『音量を規制するための措置を講ずる(例えば条例の制定)』『要請や話し合いを続ける』などから選択するよう求めた」(7日付中国新聞)ものです。

 この日、中国新聞の取材では、「8・6ヒロシマ大行動」実行委員会主催の集会(写真右)は、「原爆投下時刻の午前8時15分には黙とう」(8日付中国新聞)し、音は出していません。
 同実行委員会の中島健共同代表は、「アンケートは恣意的で安倍政権への批判を封じるためのものだ」(7日付中国新聞)と批判しています。
 市立大広島平和研究所の河上暁弘准教授(憲法学)も、「今回のアンケートには条例で規制した場合、表現の自由を損なう危険性があることへの言及はない。より中立性に配慮し、慎重に検討する必要がある」(8日付中国新聞)と指摘しています。

  広島市は「来年に開く平和記念式典に向け、厳粛な環境を確保するための検討を本格化させる。…条例の制定も視野に入れている」(8日付中国新聞)。情勢はまったく予断を許しません。

  一方、長崎でも深刻な事態が広がっています。

 16日付の琉球新報によれば、「長崎県の公立小中学校の平和教育で憲法や安全保障などの話題を敬遠する風潮が広がり、被爆者らが困惑している」といいます。以下、同記事から。

  長崎市内の小中学校で被爆体験を語っている森口貢さん(82)は、ことし5月、講話を頼まれた中学校の教員にくぎを刺された。「憲法について話すのは控えてほしい」。森口さんは「二度と戦争を起こさないために語っている。平和憲法に言及するのは当然だ」と抗議したが、講話は中止になった。
 同校の校長は取材にこう語った。「憲法は平和教育の範囲外。戦時中の悲惨な暮らしぶりを話してもらい、生徒に命の尊さを学ばせたかった」。森口さんによると、2、3年前から講話内容に注文を付ける学校が増えたという。

 別の女性被爆者(80)も「2年前に長崎市の中学校の講話で集団的自衛権に触れたら、校長が市教委に通報した」。

 「学校側が自主規制をしている」という長崎市内の小学校の男性教諭は、昨年、招こうとした被爆者について、当時の校長が「天皇制原発の話をする」として変更を迫ったという。

 長崎市だけではありません。23日のNHKニュース9によると、佐世保市教育委員会はこのほど、「原爆写真展」の後援を拒否しました。主な「理由」は、主催団体が核兵器禁止条約の国際署名活動を行っていること。「政治的中立を侵す」というのです。市教委の担当者は、「中立のため当たり前」と開き直っていました。

 「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」の中止で、あらためて「表現の不自由」が問題になっていますが、被爆地・広島と長崎でもそれが深刻な状況になっています。そこにあるのは、「被爆・平和」を「政治」から切り離そうとする力です。安倍長期政権の存在と無関係ではないでしょう。

 毎年8月になると「被爆・戦争の悲惨さ」が強調されます。広島の原爆資料館も悲惨さを強調するリニューアルが行われました。しかし、それを「政治」と結び付けない。むしろ切り離そうとする。先の長崎の校長の言葉が象徴的です。
 「政治」との分離は、「歴史」からの逃避に通じます。そこに侵略戦争・植民地支配の反省は生まれません。

 「平和」はそれを脅かす政治勢力・国家権力とたたかい、歴史から学ぶことなしには実現しません。だからこそ「表現の自由」が重要なのです。「戦争の悲惨さ」「命の尊さ」を政治的たたかいにつなげる思想と運動が焦眉の課題です。


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日曜日記64・安倍首相代弁した新藤義孝の暴言・河村たかしを慰めた玉城デニー

2019年08月25日 | 日記・エッセイ・コラム

☆安倍首相代弁した新藤義孝の暴言

 かつて安倍政権で総務相を務め、現在自民党の政調会長代理という要職にある新藤義孝が、今月16日のBSフジ「プライムニュース」に生出演し、「元徴用工問題」についてこう言った。
 「内地にいる日本人の方が厳しい状況にあった。『無理やり連れて行かれた』という言い方はやめた方がいい」(22日付中国新聞=共同配信)
 さらに、「(新藤は)韓国は歴史をねじ曲げて賠償を求めているとして上で、有効な対抗手段は『戦略的無視』だと訴えた」(同)

 日本の朝鮮植民地支配を真っ向から否定するこうした荒唐無稽の暴言が公然とテレビ番組で放たれる。安倍・自民党の異常さは際立っている。新藤は日本会議議連はじめ神道議連、靖国議連など主な右翼的議連にいずれも名を連ねている、いわば安倍晋三の子飼いだ。新藤の発言は安倍の心中を代弁したものと言っても過言ではない。

 しかも16日とはどういう日だったか。前日の15日、「光復節」の式典で韓国の文在寅大統領が、「日本が対話と協力の道へ向かうなら、われわれは喜んで手を結ぶ」と対話を呼びかけたばかりだ。新藤の暴言は文大統領の「呼びかけ」に後ろ足で砂を掛けたに等しい。

 新藤の暴言はたんなるバカな自民党議員の妄言ではすまされない。日本の政権党幹部、安倍側近の1人の公の発言だ。日本人として絶対に見過ごし許すことはできない。

☆河村たかしを慰めた玉城デニー

 見過ごせない発言といえば、玉城デニー沖縄県知事の次の発言もそうだ。
 玉城知事は今月20日、名古屋市を訪れ市役所内で河村たかし市長と面会した。そこでのやりとりだ。

 「河村市長が『最近はとんでもないことばかり起こるもんで、やけくそでよ。酒を飲まなやっとれんでよ』とぼやく場面も。愛知県で開催中の国際芸術祭『あいちトリエンナーレ』の企画展『表現の不自由展・その後』を巡る問題が念頭にあったようで、玉城知事が『沖縄で泡盛を傾けながら癒していただければいい』となだめた」(21日付琉球新報)

 たとえ外交辞令だとしても言っていいことと悪いことがある。「表現の不自由展・その後」が3日で中止されるという「とんでもないこと」の火付け役が河村自身であることは周知の事実だ。河村は「従軍慰安婦」(戦時性奴隷)をモチーフにした「少女像」に対し「日本人の心を踏みにじるものだ」と言って攻撃した。それが展示妨害を煽った。河村のこの暴言の背景には、「南京虐殺はなかった」などの持論・歴史修正主義がある。

 こうした河村に対し、日本の侵略戦争・植民地支配の責任を問う立場からはもちろん、「表現の自由」を守ろうとする広汎な人々から批判が巻き起こっている。その最中での名古屋市役所訪問であり対談だった。少なくとも「展示の中止は遺憾」の一言があってしかるべきだ。それを「泡盛で癒して」と慰めるとは…。泡盛も泣いているだろう。

 朝鮮半島と同じく日本の植民地とされた琉球。元「慰安婦」や元「徴用工」、その支援者らと手をつながねばならない沖縄。その知事のあまりにもお粗末すぎる姿だ。


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日韓GSOMIA破棄・情勢を「見誤っている」のはどちらか

2019年08月24日 | 安倍政権と日韓関係

     

 韓国政府が23日、GSOMIA(軍事情報包括保護協定)の破棄を正式に伝えたのに対し、安倍政権は「現下の地域の安全保障環境を完全に見誤った対応と言わざるをえない」(長嶺安政駐韓大使)と抗議しました。
 安倍政権だけでなく、日本のメディアも、「これまでの安保協力の積み重ねを崩してしまうのは誤りだ」(23日付毎日新聞社説)などと韓国政府を批判しています。

  「現下の地域の安全保障環境」を「見誤っている」のはいったいどちらでしょうか。

  同協定は、「日米韓3カ国が北朝鮮問題で連携する姿勢を内外に示す象徴的な枠組み」(同「毎日」社説)です。すなわち、日米軍事同盟(日米安保体制)と韓米軍事同盟というアメリカを頂点とする2つの軍事同盟の底辺(日本と韓国)を結んで、実質的に米日韓の3カ国軍事同盟とするのがGSOMIAです。それが破棄されるのですから、安倍政権が狼狽し、アメリカが批判のコメントを発表するはず。
 日米両政府は「安保環境を見誤っている」と韓国を批判して軍事同盟を維持することに懸命ですが、見誤っているのは彼ら、軍事同盟固執勢力の方です。

 朝鮮半島をめぐる「安保環境」は、昨年の韓国と朝鮮民主主義人民共和国の「南北会談」(2018年4月27日、板門店)と、朝鮮とアメリカの「朝米会談」(同6月12日、シンガポール)で劇的に変わりました。そのことを改めて想起する必要があります。

  「板門店宣言」はこううたっています。
 「南と北は、南北関係の全面的で画期的な改善と発展を実現することで、途絶えた民族の血脈をつなぎ、共同繁栄と自主統一の未来を早めていくだろう
 「南と北は、朝鮮半島で先鋭化した軍事的緊張状態を緩和し、戦争の危険を実質的に解消するため共同で努力していくだろう」(韓国側の発表による。2018年4月28日付共同配信記事) 

 そして「シンガポール共同声明」でも、「2018年4月27日の『板門店宣言』を再確認」(2018年6月13日付共同配信記事)したのです。

 「板門店宣言」は、韓米軍事同盟体制ではなく韓国と朝鮮の民族の共同こそが朝鮮半島・東アジアに平和と繁栄をもたらすことを確認し、そのための努力を約束し合ったのです。これこそが「現下の地域の安全保障環境」にほかなりません。GSOMIAの破棄は「見誤っている」どころか、まさにこの新たな「安保環境」に合致するものです。

  安倍政権は、なんとしても朝鮮半島をめぐる「安保情勢はきびしさを増している」(岩屋防衛相)と描きたいため、またぞろ朝鮮の「ミサイル発射」を挙げていますが、先の朝鮮の「飛行体発射」は「板門店宣言」「シンガポール共同声明」に反して米韓が合同軍事演習を強行したことに対する対抗措置にほかなりません。非がアメリカ・韓国側にあることは明白です。それをあたかも朝鮮が「挑発」しているかのように言うのは、原因と結果、加害者と被害者を逆転させるものと言わねばなりません。 

 文寅在政権がどこまで「板門店宣言」を意識してGSOMIA破棄を決定したかはともかく、結果としてそれが「板門店宣言」「シンガポール共同声明」に沿い、朝鮮半島・東アジアの平和へ向かうものであることは明らかです。

 私たち日本人は、日米両政府やメディアの反韓国・朝鮮キャンペーンに惑わされることなく、韓国のGSOMIA破棄を支持し、さらに軍事同盟のない東アジアをめざして、日米軍事同盟(安保条約体制)廃棄という私たち自身の責任を果たすべきです。それこそが歴史の進歩的変化に沿う道ではないでしょうか。


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「拝謁記」で本土メディアが無視した裕仁の本音

2019年08月22日 | 沖縄と天皇・天皇制

     

 前回のブログで、NHKは「拝謁記」を全文公開すべきだと書きましたが、19日、NHKはその一部だけを報道各社に公開し、各社はそれを大きく報じました。

 同じ情報源(公開された「拝謁記」の一部)でも、扱うメディアの視点によって紙面は大きく異なることを改めて痛感しました。
 21日付の本土各紙(放送も同様)は、「(戦争)反省といふ字を入れねば」という裕仁の発言を大きく見出しにとりました。しかし、沖縄の琉球新報は違いました。沖縄タイムスも翌21日付で新報に続きました。両紙が1面トップで大きく報じた裕仁の発言は、「一部の犠牲やむを得ぬ」です。

 琉球新報、沖縄タイムスが注目したのは「拝謁記」の次の個所でした。
 「基地の問題でもそれぞれの立場上より論ずれば一應尤(いちおうもっとも)と思ふ理由もあらうが全体の為二之がいいと分かれば一部の犠牲は巳(や)むを得ぬと考える事」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(1953年11月24日の発言)

  琉球新報は「一部の犠牲やむ得ぬ 昭和天皇 米軍基地で言及 53年、反対運動批判も」の見出しで、リードにこう書きました。
 「昭和天皇は1953年の拝謁で、基地の存在が国全体のためにいいとなれば一部の犠牲はやむを得ないとの認識を示していたことが分かった。専門家は、共産主義の脅威に対する防波堤として、米国による琉球諸島の軍事占領を望んだ47年の『天皇メッセージと同じ路線だ』と指摘。沖縄戦の戦争責任や沖縄の米国統治について『反省していたかは疑問だ』と述べた」

  朝日新聞、毎日新聞は記事中でも「拝謁記要旨」でも、この部分には触れていません。同じ共同通信を使っても中国新聞などは「要旨」の中で一部だけ載せていますが、記事にはしていません。同じネタ(裕仁の発言)であるにもかかわらず本土メディアと沖縄県紙で際立った違いが表れました。これはいったい何を意味しているでしょうか。

  米軍基地によって生じる「やむを得ぬ」「犠牲」を被る「一部」とはどこか。基地が集中している沖縄であることは明らかです。裕仁はそれを「沖縄の」とは言わず「一部の」と言ったのです。これが沖縄に「犠牲」を押し付ける発言であることは、沖縄のメディア、沖縄の人々にとっては鋭い痛みを伴って直感されます。だから琉球新報も沖縄タイムスも1面トップで大きく報じました。ところが本土紙(読売、産経は論外)はそれをスルーしました。裕仁の発言の意味が分からなかったのか、分かっていて無視したのか。いずれにしても、ここに沖縄の基地問題・沖縄差別に対する本土(メディア、市民)の鈍感性・差別性が象徴的に表れていると言えるのではないでしょうか。

  裕仁の「沖縄(天皇)メッセージ」(1947年9月)を世に知らしめた進藤栄一筑波大名誉教授はこう指摘しています。
 「『天皇メッセージ』は、天皇が進んで沖縄を米国に差し出す内容だった。『一部の犠牲はやむを得ない』という天皇の言葉にも表れているように、戦前から続く“捨て石”の発想は変わっていない」(20日付琉球新報)

 沖縄戦研究の第一人者・石原昌家沖縄国際大名誉教授は、「一部の犠牲」発言とともに裕仁が米軍基地反対運動に否定的な発言をしていることに着目し、こう述べています。
 「現在の米軍への思いやり予算や名護市辺野古の新基地建設の問題での政府の姿勢は、昭和天皇のこうした発言の意を酌んでいるかのようで、現在にもつながっている」(21日付沖縄タイムス)

 「拝謁記」には、戦争責任を回避する裕仁の弁解発言が多く含まれていますが、同時に裕仁の本音、実態も少なからず表れています(だからこそ全文を公開する必要があります)。「一部の犠牲」発言は、「本土防衛」(さらに言えば「国体」=天皇制護持)のために沖縄を犠牲にすることをなんとも思わない裕仁の本音・実像がかはっきり表れています。

 それを指摘するメディアが、犠牲の当事者である沖縄の県紙だけだというところに、今日の、いや戦前から一貫している日本のメディア・言論界の思考停止・体制順応・天皇タブーが如実に表れているのではないでしょうか。


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NHKは「拝謁記」を全文公開せよ

2019年08月20日 | 天皇・天皇制

     

 NHKが16日以来再三取り上げている「拝謁記」(田島道治初代宮内庁長官の記録)は、天皇裕仁の戦争責任・戦後責任についての“弁解記”と言っても過言ではないでしょう。これまで放送された主な内容は次の通りです。

① 自分(裕仁)は戦争を意図していなかったが、軍部が「下剋上」で勝手に動いた。

② 戦後、国民の前で「反省」後悔」という言葉を述べたかったが、首相の吉田茂が反対したため叶わなかった。

③ 戦後、憲法が変わり天皇は「君主」から「象徴」になったので、自分もそう変わろうと努めた。

 戦後の日本の政治の実情を見るにつけ、言いたい事がたくさんあったが、憲法上の制約から発言を抑えた。

⑤ 「侵略者(ソ連)」がいる以上、「改憲」して「再軍備」する必要があるが、「旧軍閥」の台頭はいやだ。そのことを首相・吉田に言いたかったが、憲法上言わなかった。

 このNHK報道に貫かれているのは、自分は一貫した平和主義者で、戦争責任は軍部・軍閥にあり、戦後も日本のことを考え続けたが、憲法上「象徴」としての制約を守って発言を自重してきた、という裕仁の弁明です。それにNHKアナウンサーと「識者」らのコメントを付けて裕仁美化を増幅しています。

 これが歴史的事実に反していることは明白です。
 戦争開始・遂行の最高責任が、国の統治者であり統帥権を持つ大元帥だった裕仁にあることは明白です。戦後の主権在民の憲法の下でも、裕仁は政府の頭越しにマッカーサーと11回も会談するなどアメリカと直接交渉を続け、天皇制維持と引き換えに沖縄を売り渡し(1947年9月「沖縄メッセージ」)、日米安保体制のレールを敷くなど、政治活動に狂奔してきました。軍事増強についても防衛庁長官(当時)に直接忠告する(1973年5月「増原防衛庁長官内奏事件」)など、公然と憲法を蹂躙してきたのが裕仁の実像です。

 ところが、4日目の19日になると、NHKにとってのネタ切れになったのか、興味深いことが紹介されました。それは裕仁が皇太子明仁の軍隊への「任官」を拒否し続けてきたということです(当時皇族は10歳になると任官する規則になっていたが、裕仁が反対し、明仁は任官しないまま11歳で敗戦を迎えた)。

 「国民」は徴兵して死地へ送り、植民地・朝鮮の人々を強制動員しておきながら、自分の息子は規則に反して「軍人」にすることを避け続けた。なんという身勝手な人間性でしょうか。NHKはそれを「親心」と美化して流しました。

 この報道では図らずも露呈したように、「拝謁記」には裕仁のさまざまな発言があるはずです。なにしろ「約5年間(1949年2月~53年12月)、613回、330時間以上」にわたる「拝謁」の記録です。NHKの報道は、その中からNHKが自社の視点(価値判断)で取捨選択・編集したごく一部であり、一面的・恣意的な裕仁像であることは明らかです。

  NHKは「拝謁記」の全文を公開すべきです。

 「拝謁記」は宮内庁長官(当時)と天皇の会話の記録であり、れっきとした公文書です。NHKが誰からどのような経緯でそれを手にしたかは問いませんが、入手しているなら自社の判断で直ちに全文公開すべきです。もし他者が所有しているのであれば、NHKはその所有者(取材源)に対し全文公開を進言すべきです(NHKには見せているのですからまさか拒否はしないでしょう)。それが報道機関、しかも「公共放送」を自認している者の責任・義務ではないでしょうか。

 「拝謁記」はその全体が公開され、裕仁の発言が全面的に明らかになってはじめて、「歴史的資料」といえるのではないでしょうか。


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「8・15」と天皇制<下>「深い反省」とは何か

2019年08月19日 | 戦争・天皇

     

 徳仁天皇が15日の全国戦没者追悼式で初めて述べた「言葉」は、昨年までの明仁天皇の引き写しでした。違いは、明仁天皇の「深い反省とともに」を「深い反省の上に立って」と言い換えたくらいで、メディアや「識者」はそれにさも深い意味があるように論評していますが、本質的な違いはありません。

 問題は、天皇の「深い反省」とはいったい何なのかということです。

 明仁天皇はこう述べました。「ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い…」。それを引き継いだ徳仁天皇は、「ここに過去を顧み、深い反省の上に立って、再び戦争の惨禍が繰り返されぬことを切に願い…」。短い一節ですが、これには2つの特徴があります。1つは、何に対して「深い反省」をするのかが分からないこと。もう1つは、「繰り返さない」という能動態ではなく受動態になっていることです。これにはどういう意図があるでしょうか。

 明仁天皇が「8・15」の式典で初めて「深い反省」を口にしたのは2015年です。その時は、「さきの大戦に対する深い反省」となっていました。それが、翌16年から「さきの大戦に対する」が削除されました。削除された理由はもちろん説明されていませんが、「さきの大戦に対する」と言えば「大戦」を遂行した者の責任・罪が想定されます。「大戦」遂行の最高責任者はもちろん天皇裕仁です。裕仁の行為に対する「反省」のニュアンスを完全に払しょくするために「さきの大戦に対する」を削除したと考えて間違いないでしょう。

 明仁(それを忠実に受け継いだ徳仁)天皇の「深い反省」が何を指しているのかは明確ではない、というよりあえて不明確にしていますが、確かなことは、天皇裕仁の戦争責任は「深い反省」の対象ではない、意識的に対象にしていないということです。

 明仁天皇は裕仁について、「昭和天皇のことに関しては…昭和の初めの平和を願いつつも、そのような方向に進まなかったことは、非常に深い痛みとして心に残っていることとお察ししております」(1993年12月20日の記者会見)、「今度の戦争については、昭和天皇のお考えとは違う方向に進んでいったということが言い得ると思いますし、その点で昭和天皇のお心は深く察せられるように思います」(1995年12月21日の記者会見)(いずれも宮内庁HPより)などと、一貫して「平和」を願っていた、戦争はその意に反して遂行されたという認識を持ち、それを公言してきました。「深い反省」の対象になりえないのは当然です。

 もう1つ、明仁天皇の「深い反省」の対象になっていないことが明白なのは、帝国日本の朝鮮植民地支配です。
 明仁の念頭にあるのはせいぜい「さきの大戦」であり、「戦陣に散り戦禍に倒れた人々」です。1910年の併合以来の朝鮮植民地支配の責任に対する認識は全くありません。“天皇の軍隊”の戦死者は「心から追悼」しても、強制徴集・強制動員されて犠牲になった朝鮮の人々を悼む思いは微塵もないのです。

 徳仁天皇は今後も毎年「8・15」の式典では明仁を引き継いで「深い反省」を口にするでしょう。メディアはそのたびに賛辞を送るでしょう。しかし、その「反省」からは肝心の天皇裕仁の戦争責任、帝国日本の植民地支配責任がすっぽり抜け落ちている、意図的に落とされていることを銘記する必要があります。

 


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日曜日記63・NHKの異常な天皇キャンペーン・坂本九さんと天皇裕仁

2019年08月18日 | 日記・エッセイ・コラム

☆NHKの異常な「天皇裕仁擁護」キャンペーン

 74回目の「8・15」に、NHKが天皇裕仁を擁護し天皇制を美化する異常なキャンペーンに乗り出している。
 15日夜のNスぺは「全貌二・二六事件」、翌16日夜のニュース7では「拝謁記」(戦後初代宮内庁長官・田島道治の記録)なる「新資料」が発見されたとの「ニュース」をトップ扱いし、17日夜の同じニュース7でも同じネタ(「拝謁記」)を繰り返しトップで扱い、さらに同日夜のNスぺでも特集した。どうやら18日以降もまだこれを扱うらしい。

 詳細な批判は別にするが、「全貌二・二六事件」は陸軍若手将校の「クーデター」を鎮圧したのは裕仁の決断だったとし、「拝謁記」は、裕仁が戦中は軍部の「下剋上」に悩み、戦後は政治への関与を避けながら「象徴天皇」の模索に苦悩した、というものだ。裕仁の戦争責任をあいまい(帳消し)にし、裕仁が戦後も政治に関与し続けてきた(「沖縄メッセージ」はその典型)憲法違反の事実を打ち消そうとするものだ。

 「8・15」前後にNHKが天皇制擁護の番組を組むのは珍しくないが、今年は例年以上の執念を感じる。それは明仁から徳仁に代替わりしたことと無関係ではないだろう。裕仁の孫が天皇になったのを機に、「天皇の戦争・植民地支配責任、戦後責任」を帳消しにし「新しい時代」へ向かおうとする思惑がうかがえる。それが安倍晋三の歴史修正主義、安倍政権の「令和キャンペー」と符合することは言うまでもない。

 しかし、安倍やNHKが隠そう、消そうとしているこの歴史こそ、日本人が知らねばならない、教訓にしなければならない最も重要な歴史だ。なきものにされるわけにはいかない。反動勢力の執念に負けてはいられない。

 ☆坂本九さんと天皇裕仁

 8月12日は日航機墜落事故から34年。この事故で亡くなった1人に歌手の坂本九さんがいた。ちなみに私が小学生の時に生まれて初めて買ったレコードは、九ちゃんの「サヨナラ東京」だった。

 九ちゃんを偲んで「ラジオ深夜便」で特集をしていた。その中で九ちゃんの初のヒット曲は1961年発売の「悲しき六十才(ムスターファ)」(作詞・青島幸男)だったと言っていた。
 この曲にはいわくがある。せっかくヒットしていたのに、放送禁止になったか、警告を受けただけだったかは記憶が定かでないが、とにかく圧力がかかったことを覚えている。子どもながらに、おかしなことがあるものだと思ったものだ。

 なぜ圧力がかかったのか。「悲しき六十才」というタイトル・歌詞が良くない、不謹慎だというのだ。その年「六十才」になったある人物の筋からのクレームだ。その人物とは誰あろう天皇裕仁だ。天皇がめでたい還暦を迎えたのに、「悲しき…」とは何事だ、というのだ。

 「表現の不自由」はもちろんアートだけではない。数々の歌も自由を抑圧され、放送禁止になってきた。朝鮮分断の悲劇を歌った「イムジン河」(フォーク・クルセイダーズ)もその1つだ。
 歌やアートに限らず、「表現の自由」を圧殺してきた(している)最大の敵が「天皇制」だった(である)ことも、忘れてはならない事実だ。


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