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アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

「母と暮せば」吉永小百合さんへ拍手とお願い

2015年12月22日 | 映画

  

 山田洋次監督の最新作「母と暮せば」(吉永小百合主演)を観ました。
 吉永さんはこの作品に「運命的な出会いを感じる」と語ったことがありますが、観ている方にもそれが伝わってくるようでした。
 抑えた演技の中で、原爆・戦争への怒りと平和への祈りが重い光を放っていました。吉永さんの映画のひとつの集大成ではないでしょうか。若い二宮和也さん、黒木華さんの好演も光っていました。

 吉永さんは胎内被爆の女性を演じた「夢千代日記」をきっかけに、1986年から各地で原爆詩の朗読を続けています。また、「3・11」以後は原発を告発した詩の朗読も行なっています。「いつまでも『戦後』が続きますように」。吉永さんがよく口にする言葉です。

 そんな吉永さんが、この映画の公開直前に掲載された新聞インタビューで、こう述べています。

 「でも今、戦争が近くなっているような気がします。とても怖く、何か胸騒ぎのするような」(12月6日付中国新聞=共同)

 吉永さんの思いは、雑誌「世界」の最新(1月)号の座談会(山田監督、早野透桜美林大教授と)にいっそう鮮明に表れています。
 日本の原発について、こう述べています。

 「原発が五四基もつくられていく過程で、大きな声を出さなかったことに対し、私は恥じ入る気持があります」

 そして注目されるのが、次の発言です。

 「時間が経っても、忘れてはいけないことがあるということですよね。この先の世代の子どもたちには謝罪はどうこうとおっしゃっている方もいますけれども・・・」

 明らかに安倍首相(「戦後70年談話」)への批判です。
 戦争(安保)法案を強行し、原発を再稼働させ、侵略の歴史を「修正」しようとする安倍政権への厳しいまなざしが、この短い言葉に凝縮されています。

 人気・実力ともに文字通り日本を代表する女優(文化人)である吉永さんの、叡智と勇気にあふれた発言に大きな拍手を送ります。
 吉永さんにこの叡智と勇気を与えたのは、30年近く続けている原爆詩の朗読であり、その中で接し、知り合った多くの市井の市民ではないでしょうか。

 そんな吉永さんに、そんな吉永さんだからこそ、要望・お願いがあります。

 吉永さんは広島の被爆詩人・栗原貞子(1913~2005)の「生ましめんかな」を、「大変難しい」と言いながらよく朗読しています。被爆直後の惨状の中での新たな生命の誕生(出産)を詠んだ感動的な詩です。
 吉永さんに、同じ栗原貞子の「ヒロシマというとき」をぜひ朗読していただきたいのです。

<ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
<ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
<ヒロシマ>といいえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
<ヒロシマ>といえば
血と炎のこだまが 返って来るのだ 
 (中略)
<ヒロシマ>といえば
<ああ ヒロシマ>と やさしいこたえがかえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を きよめなければならない

 「ヒロシマというとき」は、15年戦争の日本の加害責任を被爆者の立場から告発した、希有な詩なのです。(全文はこちらを参照ください。http://home.hiroshima-u.ac.jp/bngkkn/database/KURIHARA/hiroshimatoiutoki.html

 「夢千代日記」以来、吉永さんは原爆・戦争の悲惨さを告発し、平和の尊さを訴え続けてきました。そんな吉永さんだからこそ、原爆・戦争の被害だけでなく、日本の戦争・植民地支配の加害責任へも視点を向け、告発していただきたい。そんな作品にも出演していただきたい。
 それはきっと、吉永さんの「こころ」にも沿うことだと思います。
 


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映画「野火」と「日本のいちばん長い日」

2015年08月25日 | 映画

    

 「敗戦70年」のこの夏、2つの「戦争映画」が同時期に公開されました。
 塚本晋也監督「野火」(大岡昇平原作)と原田眞人監督「日本のいちばん長い日」(半藤一利原作)です。多くの点で対照的なこの2つの作品で、映画が戦争を描くということ、戦争の歴史を継承することの意味をあらためて考えさせられました。

 「野火」は塚本監督が10年前の戦争体験者からの聞き取りをもとに自主制作したもの。主演を自ら演じたほか、他の出演者もけっして著名なスターではありません。
 一方、「日本の・・・」は大手映画会社の制作・配給で、出演者も役所広司、本木雅弘、松坂桃李など人気スターを並べました。この違いは作品の質に大きく影響しています。

 「野火」は大戦末期のフィリピン・レイテ島を舞台に、ひたすら逃げ回る敗残兵の恐怖と狂気、米軍による猛烈な攻撃を再現します。これでもかと血が流れ、肉片が飛び散り、人体が破壊されていきます。飢餓の極限に追い込まれた兵士たちの欲望はやがて仲間の人肉へ・・・。目を覆いたくなるような場面の連続で、気分が悪くなりそうです。

 実はそれこそがこの映画の狙いです。塚本監督は、「戦場では人は物になってしまう。そこに絶対に大義はない。ヒロイズムもなければメロドラマさえない」「若い中高生のトラウマになるというか、(戦争に)近づきたくないと本能的に体の中に刻まれてくれれば」(7月28日付琉球新報)と語っています。

 「日本の・・・」は「玉音放送」に至るまでの阿南惟幾陸軍大臣(役所)に焦点をあてながら、主題はあくまでも昭和天皇(本木=写真はNHKから)の「聖断」です。天皇の「慈愛」を示すエピソード(おそらく原田監督の創作)もまじえながら、全編昭和天皇(天皇制)賛美に貫かれています。ラスト近くで鈴木貫太郎首相(山崎努)が「日本のご皇室は絶対に滅びない」と述べ、阿南が「私もそう信じております」と応えるところに、この映画の主張が凝縮されているようでした。
 ポツダム宣言受諾に際して日本が「国体護持」(天皇制維持)にこだわったことはよく描かれていますが、そこに批判的な視点はありません。天皇裕仁が終戦を引き延ばした責任にはまったく触れていません。天皇が拒絶した終戦の上奏(1945年2月)を行った近衛文麿がまったく登場しないのは象徴的です。

 どちらの映画が先の戦争の「真実」に迫っているかは明白です。その違いは何を示しているでしょうか。
 「野火」の舞台は最前線の戦場であり、そこにいるのは末端の兵士(庶民)です。対して「日本の・・・」の舞台は東京・皇居であり、登場人物は文字通り国家権力のトップたち。あまりにも対照的です。「日本の・・・」において昭和天皇、阿南陸相はまさに「ヒーロー」なのです。
 この対照は、戦争の真実がどちらにあるのかをはっきり示しています。人間を破壊する戦争の真実は、戦場にあるのです。東京ではありません。このことは、国会で審議中の戦争法案を考えるうえで、貴重なヒントを与えているのではないでしょうか。

 もう1つ。「日本の・・・」を見て考えさせられたことがあります。
 原田監督は制作の意図をこう語っています。「日本は秘密保護法のころからおかしくなっている。その根っこに何があるのか描いておきたかった」「憲法をいじっていいのか」「歴史に背を向ける若者に、それでいいのかと問いたい」(8月7日NHKラジオ深夜便)。
 きわめて正当な意見です。この限りでは、原田監督も安倍政権に批判的であり、おそらく戦争法案にも反対ではないでしょうか。その監督が、戦争自体は否定しながら、最大の戦争責任者である昭和天皇を手放しで美化し、天皇制の存続を期待する。「戦争責任」の捉え方の難しさ、“草の根天皇制”の根深さをあらためて見る思いです。

 原田監督は「昭和天皇を主役の1人として描ける時代になった」と映画における「天皇タブー」の緩和を歓迎しています。それには同感です。しかし、それだけにどういう視点で「昭和天皇」を描くのかがこれまで以上に問われることになります。歴史の真実と映画の関係が試されます。それを誤れば、間違った「昭和天皇」像が甘美な「ヒロイズム」とともに流布されることになります。「日本の・・・」は皮肉にも、その危険性を示す例になったのではないでしょうか。


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