アリの一言 

天皇制、朝鮮半島、沖縄の現実と歴史などから、
  人権・平和・民主主義・生き方を考える。
   

沖縄と東北

2012年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム

Dscn0123 沖縄に来る2日前に、福島で1日ボランティアをさせていただきました。沖縄へ行けばもう東北へ行くことはなくなるだろうと思い(千葉県にいましたから)、せめて最後にもう一度と。福島駅からそう遠くない花見山という桜の名所で、荒れた山の整備を手伝わせていただきました。
 すると先日、沖縄から岩手県の山田町へ出かけ、子どもたちに三線(戦後沖縄復興のシンボルになったカンカラ三線)を教えている「おでんそーれ」というグループがあることを知り、活動報告を聴きに行きました(24日)。那覇市内の病院スタッフのみなさんで副院長先生(写真中央)を中心にした10人前後のグループです。すでに2度訪れ、来年3月にも予定しているとか。那覇から岩手へ。グループで何度も。多忙な病院勤務のかたわら。ただ行くだけでなく子どもたちに三線を教える・・・なんとたいへんな、そしてなんと素晴らしい活動でしょう。沖縄へ行ったら東北へ行くことはなくなるだろうと考えた自分が恥ずかしくなりました。「おでんそーれ」とは岩手県方言の「おでんせ」(おいでください)と沖縄語の「めんそーれ」(ようこそ)を合体した造語だそうです。グループの心が表れています。
 そんな中、福島からたよりが届きました。NPO[花見山を守る会」では桜の苗木を寄贈(5000円)した人に代わって植樹・管理し、寄贈者の名前とメッセージを記したプレートを木に付けるという資金活動を行っています。”自分の桜”が福島の山にできるわけです。興味がある方はHPをご覧ください。ボランティアが縁で私も1口参加しました。苗木にを取り付けられた私のプレートの写真が送られてきたのです。花見山に行かれることがあったら”私の桜”を探してみてください。プレートにはこう書きました。「フクシマと沖縄が手を結び、日本から、世界から、あらゆる差別をなくしていきましょう」

<今日の注目記事>「沖縄タイムス」(29日付)から

 「『1フィート』理念継承へ 大田元知事が新研究所設立 沖縄戦フィルム常時上映」
 「住民を巻き込んだ凄惨な沖縄戦の実相を長年伝え、来春解散する『沖縄戦記録フィルム1フィート運動の会』の理念を引き継ごうと、会の顧問で元県知事の大田昌秀さん(87)が年明けに新たなNPO法人『沖縄国際平和研究所』を設立し、自身が収集した沖縄戦フィルムの常時上映を始める。鉄血勤皇隊として地上戦を生き延びた大田さんは『改憲や自衛隊の国防軍化が危惧される今、新しい伝承運動が必要』と意気込む」

 ※今日(29日)から来月3日まで帰省します(広島)ので、「私の沖縄日記」はお休みし、4日から再開します。これまで読んでいただいて、ほんとうにありがとうございました。また来年お会いしましょう。よいお年をお迎えください。


説明板・慰安婦・安倍首相

2012年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム

Gou 年内にどうしても行っておきたいところがありました。首里城公園です。沖縄といえば首里城というくらい観光の中心ですが、私の目的は正殿でも守礼門でもありません。説明板です。
 首里公園の地下には戦時中日本軍の総本山・第32軍司令部壕がありました。その前に設置されている説明板です。今年3月、沖縄県(仲井真保守県政)は当初あった説明文の案から「慰安婦」「住民虐殺」の文言を削除したのです。壕の中に従軍慰安婦がいたことは資料(たとえば第32軍参謀本部が出していた会報「球軍日々命令」)でも明白です。その削除は明らかに歴史の歪曲です。それをこの目で確かめてきました。確かに説明文に「慰安婦」の文字はありませんでした。でもよく読むと、「女性軍属と雑居していた」とか「女性たちの部屋」という文言は残っています。頭隠してなんとやら。さらに沖縄に来てから、この壕そのものを埋めてなくしてしまおうという動きがあると知って驚きました。とんでもないことです。
 沖縄でさえ従軍慰安婦、ひいては侵略戦争の歴史を否定しようとする動きがあるのは大変なことだと思っていましたが、その危惧を増幅させる事態が起こりました。今度の総選挙の結果です。以前NHKが従軍慰安婦問題を扱った番組を放送しようとしたとき、それに圧力をかけたのが当時の安倍自民党幹事長、いまの首相です。安倍氏こそ従軍慰安婦・侵略戦争の事実を隠ぺいし歴史の歪曲を図る張本人であり、こんどの内閣には下村文科相、麻生副首相など、同類が網羅されているのです。
 削除された説明板の奥にある壕の入り口に立ってこれからの日本を考えると、ほんとうに怖くなってきました。(写真は第32軍司令部壕とその前にある説明板)

<今日の注目記事>「沖縄タイムス」(28日付)から

 「慰安婦問題 扱い『検討』 官房長官 河野談話に言及」
 「菅義偉官房長官は27日の記者会見で、戦時中の従軍慰安婦問題をめぐり強制性と旧日本軍の関与を認めた1993年の河野洋平官房長官談話の扱いについて『学者や有識者の研究が行われている。そうした検討を重ねることが望ましい』と述べた」。このブログを書いたとたんにこのニュースです。その偶然、いいえ必然に、ほんとうに怖くなります。「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会の高里鈴代共同代表は『日本は河野談話で辛うじて軍関与と謝罪にたどり着いた。国際的にそれでも不十分と批判されているのに、後退するなどあり得ない』と批判した。・・・政権発足翌日の官房長官発言に高里さんは『早くも本質が出た』と指摘。『日本軍の行為の責任を取らず、美化しようとするのは歴史に逆行する』とくぎを刺した」


つながる「基地の町の女たち」

2012年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム

Firipin 「基地の町に生きる」というドキュメント映画の上映会がありました(24日)。米軍基地は全世界に737(実際は1000以上)あります。そのうち太平洋をとりまく沖縄、フィリピン、韓国、米テキサス州、ハワイ、グァム、プエルトリコの7国・地域の女性たちが基地被害の実態を告発します。性暴力の被害者となった沖縄の女性の話は見るのもつらいくらいでした。映画のあと講演した高里鈴代さん(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)の話で、性暴力とともに土壌の汚染被害が深刻な実態であることも知りました。
 でも基地の町の女性たちは黙ってはいません。フィリピンでは貧困のため性産業に従事せざるをえなかった女性たちが自主的な組織を作りクリーニングや雑貨業などで自立・更生をすすめています。その中心になっているアルマ・ブラウンさんが先日、日本の「女性人権活動奨励賞(松井やより賞)」を受賞したのを機に沖縄に招かれ、講演しました。かつて自身も性産業に従事していたアルマさんは米軍基地と女性の人身売買は一体であり性暴力は子どもに及ぶと力説しました。そうした女性たちを一人でも多く救い出そうとしているアルマさんの姿に人間の誇りを感じました。
 痛め続けられてきた「基地の町の女性たち」はいま各国・各地域で立ち上がり、そして国際的なネットワークをつくって、つながっています。アルマさんたちの自立組織の名前も「絆」です。
(写真左がアルマさん、右が高里さん=12月8日、沖縄キリスト教学院大学)

<今日の注目記事>「沖縄タイムス」(27日付)から

 「枯れ葉剤 米の追及可能 ジャーナリスト中村梧郎さん海外事情を紹介」
 「枯れ葉剤問題に詳しいフォトジャーナリスト、中村梧郎さんの講演会『米軍は沖縄で枯葉剤を使用した?』が26日名護市で開かれた。日本政府が沖縄での枯れ葉剤使用について米国を追及しないことに、『国民の生命に関わる重要な問題なのに米国には何も言えないという態度。国際的に見てもおかしい』と批判した」。沖縄での枯れ葉剤使用は高里さんも講演で強調した重大問題です。


父から娘たちへ・・・

2012年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム

Deigomusume 「御万人大行動」(23日)での”出会い”がもう一つ。
 集会が始まる前のアトラクションはプロの歌手が次々登場する贅沢な企画でした。その一つが4人姉妹グループの「でいご娘」(写真)です。琉球の衣装に髪型、三線、琉球音楽、美しい女性たち。「本土」から来たばかりの私はうっとりです。でも、会場で配られたチラシや歌の合間に語られた話から、華やかな演奏の裏にたいへんな物語があることが分かりました。
 でいご娘の代表曲は「艦砲ぬ喰ぇーぬくさー」。直訳すると艦砲の砲弾の食べ残しですが、戦争で受けた砲弾の傷はまだ残っているよ、という意味だとあとで知人に教えてもらいました。作詞作曲はお父さんの比嘉恒敏さん。恒敏さんは1944年長男と父親を学童疎開船「対馬丸」の撃沈で失い、さらに翌年出稼ぎ先の大阪で大空襲に遭い妻と二男を失いました。戦後再婚して生まれたのがでいご娘たちですが、沖縄復帰翌年の73年米兵の飲酒運転による事故で妻とともに56歳で他界。最後の作品となったのが「艦砲ぬ-」です。
 集会のあとCDを買いました。解説文によれば、比嘉さんが何度も推敲したのが5番の歌詞で、はじめは「また戦争にならないように世界の人々が友達になろう」という意味が書かれていたそうですが悩んだ末に、「恨んでも悔やんでも恨みきれない。これが子子孫孫への遺言だ」になったとか。
 きれいごとではすまない、すますことができない戦争への恨み。ゆったりした美しいメロディーが逆に無念さをかきたてます。娘たちはその父の心を歌い続けているのです。
 ”私は自分の息子や娘に何を引き継ぐことができるだろうか・・・”

<今日の注目記事>「沖縄タイムス」(26日付)から

 「オスプレイ 違反飛行6割超 日米合意さえ守られず」
 「県基地対策課は25日、オスプレイの飛行実態をめぐり、県と市町村が10月1日~11月30日に目視調査した結果を発表した。確認された517件のうち318件(61・5%)が運用ルールを定めた日米合同委員会合意に違反するとされた。これまでも指摘されてきた合意違反の常態化があらためてデータで裏付けられた」。さらに解説では「実際の割合はもっと多い可能性がある。・・・(日米合意は)オスプレイを強行配備するための『当座しのぎ』だったと言われても仕方ない」。


「沖縄のガンジー」

2012年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム

Dscn0104 23日の「怒りの御万人大行進」の開会集会で、ひときは大きな拍手で紹介され、壇上であいさつした複数の人がエールを送ったのが、伊江島から駆け付けた「伊江島土地を守る会」の人たち(写真)でした。
 伊江島は先日行った美ら海水族館から海越しに見える島だということは知っていましたが、なぜその「土地を守る会」の人たちがそんなに拍手を受けるのかわかりませんでした。
 それからパレードに移り、たまたま横になったのが「反戦地主会」ののぼりを持った男性でした。もちろん初対面ですが、聞いてみました。「伊江島土地を守る会」への拍手の意味を。70代と思われる男性は教えてくれました。「伊江島には、あはごんしょうこう、という人がいて、『沖縄のガンジー』と言われたサ」。初めて聞く名前です。どんな字を書くのか、のぼりを持つのを代わってメモ帳に書いてもらいました。阿波根昌鴻。「戦後アメリカが”銃剣とブルドーザー”で土地を強制的に取り上げたのがまず伊江島だった。伊江島は食べるものもない悲惨な状況になった。そのとき阿波根昌鴻はそのようすを知らせるため沖縄本島を”乞食行脚”して回った。それが”島ぐるみ闘争”に発展した。阿波根昌鴻はその後も反戦地主としてたたかった。非暴力でアメリカに抵抗したわけサ。」。だから「沖縄のガンジー」。男性は丁寧にそして親しみをもって私のしつこい質問に答えてくれました。そして最後に教えてくれました。「伊江島には阿波根昌鴻の『ヌチドゥタカラの家』(資料館)があるから行ってみるといいヨ」。「命どぅ宝」。人の命より尊いものはない。そういえば集会に集まったのぼりやゼッケンにもこの言葉がいくつも見られました。
 命を守る非暴力のたたかいほど強いものはない。脈々と流れ受け継がれる沖縄のたたかいの歴史と伝統を感じながら、男性と一緒に歩き続けました。

<今日の注目記事>「琉球新報」(25日付)から
 「見えない傷知って 元ひめゆり学徒24人が手記 『収容所から帰郷』に焦点」
 「ひめゆり平和祈念資料館(島袋淑子館長)はこのほど、資料集『生き残ったひめゆり学徒たち-収容所から帰郷へ』を発刊した」。これまでの展示や書籍がひめゆり学徒が陸軍病院へ動員された時から解散・収容されるまでの戦場体験が中心だったのに対し、「今回の資料集では収容所生活から家族に再会するまでの短い期間に焦点を当てた。島袋館長は『収容所に入ってからも亡くなった友人のことを考えていた。生きていても苦しみが続き、目に見えない傷があることを若い人に知ってほしい』と話している」。


怒・楽・望

2012年12月24日 | 日記・エッセイ・コラム

Dscn0112 宜野湾から冷たい風が吹き付け、沖縄にも冬が来るんだと実感した23日、オスプレイ配備反対・基地撤去の「怒りの御万人大行動(うまんちゅうパレード)」が行われました。沖縄に来て初めての集会・デモ参加。この日を待っていました。御万人とは「だれでもみんな」という意味だそうです。
 前半の集会は文字通り「怒り」の渦。衆議院選挙後の安倍自民党総裁などの発言が怒りの火に油を注ぎました。ところが後半のデモ(パレード)に移った途端、怒りは「楽しさ」と同居しました。県内の10を超えるミュージシャングループが趣旨に賛同してコラボ。参加者は10のグループに分かれ、その先頭にそれぞれのミュージシャングループがつき、歌いながら踊りながらのパレードなのです。長い長い沖縄のたたかいの中でも初めての試みとか。それが大成功です。参加者は一体になり、沿道からは共感の拍手・手拍子。閉会集会の場所でも音楽の輪は続き、あいさつした各団体の代表者からは「こんな楽しいデモは初めて」「つらい一年だったけど、来年に向けて新たな力が湧いてきた」。ミュージシャングループのまとめ役からも「やってよかった。くせになりそう」とみんな笑顔です。主催者発表で参加者は3000人と報道されていますが、それははじめの集会時の数で、パレード参加者は確実に膨らんでいました。私には2倍近くに見えました。隣で歩いた人も同じ感想でした。
 多くの人から同じ言葉が聞かれました。「私たちは必ず勝つ。なぜなら、勝つまでたたかうから」。積もり積もった「怒り」、そしてこれまでの苦労・たたかいがあってこその「楽しさ」と明日への「展望」・・・。一緒に手拍子をとり歌いながら、涙がにじんできました。

<今日の注目記事>「沖縄タイムス」(24日付)から

 「朗らかに”反骨ユンタ” 『きょうは純粋に楽しく』」
 この日のパレードに参加した女性歌手のciuco(しうこ)さんはオスプレイ配備前日の9月30日、警察官による強制排除の中、普天間飛行場ゲートの抗議の座り込みで最後まで車に立てこもりました。「警官が車体や窓ガラスをドンドンとたたく音。クーラーもつけられず、窓を少し開けただけの車内は、猛烈な暑さになった。追い詰められた状況で、ciucoさんは古謡の安里屋ユンタを歌った。現在、広く歌われているバージョンとは違い、首里の役人を振る竹富島女性を描いた歌詞だ。『偉い人の言いなりにはならない女性の反骨心を託した。絶対どくか、と』。車を取り巻く警官たちの間に、抵抗の歌声が凛として響いた。この日、ciucoさんはサウンドデモの先頭で、新旧バージョンを歌いながら歩いた。『きょうは、みんなとつながるための安里屋ユンタ。純粋に楽しかった』と笑顔を浮かべる」


性被害を実名で・・・

2012年12月23日 | 日記・エッセイ・コラム

Dscn0090_2 21日演劇「普天間」と重なったので残念ながら参加できなかったシンポジウムが那覇市内でありました。「『ワンストップ支援センター』設立を強く望む会」が主催した初のシンポジウムです。
 「ワンストップ支援センター」とは性犯罪被害者の相談から支援までを1カ所でおこなう支援センターです。高校生の時に米兵に襲われ必死で逃げた体験をもつ同会共同代表の金城葉子さんは「私は40年間、事件と一緒に生きてきた。誰でもすぐに訴えられる場所をつくりたい」(「琉球新報」)と訴えます。県も同趣旨のセンターをつくる計画がありますが、共同代表の田中真生さんは「どんなデータより当事者の声に耳を傾けることが大事。何を必要としているのか聞いてほしい」(「沖縄タイムス」)と要望します。
 実は半月前、「琉球新報」の連載で田中さんがとりあげられました。そこでは田中さんの当時小学5年生の娘さんが被害に遭い妊娠したことが載っていました。娘さんの名前は出ていなかったものの田中さんが実名を出せば娘さんも特定されます。性犯罪被害者の実名を出していいのか。私は記事を読んだ直後に新聞社にメールでただしました。すると琉球新報からすぐにていねいな返信があり、さらに翌日の連載の最後に長文の「おことわり」が掲載されました。私と同じ疑問が複数寄せられたようです。全文紹介します。
 「琉球新報では性暴力犯罪に関する報道は原則として、被害者が特定できないよう配慮してきました。今回、被害にあった娘の母親を実名で報道したのは、何の落ち度もない被害者が被害を隠さなければ暮らしていけない社会の在り方こそが、性暴力を助長させているとの信念で母親が実名報道を求めたためです。家族が何年もかけて苦しみながら話し合い、被害者側が実名で声を上げていくことこそ被害者の尊厳を保ち、こうした犯罪をなくすことになるとの結論を尊重しました。娘の意向も確認した上で、娘の実名は報道せず、母親は実名で報道することにしました」(「琉球新報」12月6日付)
 田中さん母娘の勇気に胸が詰まりました。そしてこの先娘さんになんの不利益も起こらないことを祈るばかりでした。
(写真は左から金城さんと田中さん-「琉球新報」より)


演劇「普天間」が語るもの

2012年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

Engeki 待ちに待った演劇「普天間」がついに那覇にやってきました(21日)。東京の青年劇場の公演です。2時間40分の舞台でしたが、時間を感じさせない迫力と感動でした。
 焦点の普天間基地移設問題をどう演劇化するのかという興味で行きましたが、いい意味で裏切られました。盛り込まれていたテーマは移設問題に限らず、米軍基地があるがゆえに沖縄が過去・現在抱える様々な根深い問題を提起しています。とくに女性暴行被害は主テーマといえるほどで、圧倒されました。
 それにもまして感動したのは、青年劇場の姿勢そのものです。「普天間」の初演は昨年9月。「3・11」で生き方、社会のあり方が問われていると感じた同劇団は原発と「沖縄」が同じ構造を持つと考え、もともと本土の人向けに作られたのが「普天間」です。それを地元沖縄で。その思いが「沖縄の皆様へ」というあいさつ文にこう書かれています。「沖縄を、普天間を全国の方々に知ってもらおうということでスタートしたこの作品を、沖縄の方々にご覧頂くこと自身、大それたこと、あるいは筋が違うのではないかという思いはもちろんあります。ただ、本土にいる演劇人が沖縄の現実から何を学び、何を描こうとしたのかをぜひ知っていただきたいという願いもあるのです。・・・皆様からの忌憚のないご意見、ご感想を伺い、また新たなスタートの源にしたいのです」。東京公演の半額近い入場料で、赤字覚悟での沖縄公演だったそうです。
 青年劇場の演劇人としての、人間としての魂が胸に迫ります。沖縄の観客はこの気持ちを正面から受け止め、一体化したのではないでしょうか。大きく長く続いた拍手がそれを示していたと思います。

<今日の注目記事>「沖縄タイムス」(22日付)から

 「『有権者だましだ』 名護市長」
 「自民党の安倍晋三総裁が米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を言明したことに、稲嶺進名護市長は21日、『党本部はもともと辺野古を考えながら衆院選でははっきりと示さなかった。有権者だましだ』と批判した。県外移設を訴えて当選した県選出議員の意見を聞く機会もないままの発言に『構造的な沖縄蔑視で、最も危惧していたことだ』と強調。『やっぱりか、とため息もでるが、われわれは黙ってはいられない。辺野古の陸にも海にも基地を造らせないという意思を貫き、政府に突きつけたい』と話した」


遺骨を掘る人

2012年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム

Dscn0082 沖縄に来たらぜひお会いしたいと思っていた人がいます。具志堅隆松さん。沖縄戦で犠牲になった人たちの遺骨を30年間、ひとりで、ボランティアで堀り続けている人です。
 私がはじめて具志堅さんを知ったのは昨年春の深夜ラジオのインタビューでした。話の内容のすさまじさと具志堅さんの人柄に引き付けられました。そして沖縄に来て直後、具志堅さんの著書『ぼくが遺骨を掘る人「ガマフヤー」になったわけ』が発売されました。なんだか縁を感じました。どうしてもお会いしたくて電話すると、お忙しい中、二つ返事で時間をとってくださいました。具志堅さんは遺骨を掘っているのは戦争で犠牲になった人たちの供養のためで、なんとか身元を調べて家族のもとへ返したいと熱っぽく語られました。仕事をもちながら休みの日に掘り続け、年に何回かは上京して直接政府や国会議員に陳情します。それらの費用はすべて自腹です。ラジオで聴いて、本を読んで、お会いして、尊敬の気持ちは深まるばかりです。私にもできることがあればぜひ手伝わせてくださいとお願いして別れました。多くの人に具志堅さんの活動、考え方を知っていただきたいです。ぜひこの本を読んでみてください。

<今日の注目記事>「琉球新報」(21日付)から

 「人骨入り袋 放置-戦没者の可能性も」
 「沖縄戦戦没者の遺骨とみられる人骨が入った土のう袋8袋が、糸満市摩文二の平和祈念公園内に置かれていたことが20日、分かった。・・・市当局者は『こうしたケースは初めてで、対応に苦慮している。善意で届けてくれたと思うので、ぜひ名乗り出てほしい』と呼び掛けている」。そして具志堅隆松さんの談話が載っています。「亡くなった人のために早く在るべきところに移してほしい。遺骨を届け出たことは、とても評価される行為で誰からも非難されることはない。気後れすることなく申し出てほしい」。具志堅さんのことを書こうと思っていた朝にこの記事。またまた縁を感じてしまいました。


沖縄と京都大学

2012年12月20日 | 日記・エッセイ・コラム

Kyoudai 沖縄に来て早々目についたチラシがありました。「京都大学沖縄講演会-ふたつのみやこの近代-京都と首里・那覇」です。ぜひ聴いてみたいと、15日、出かけました。京大が沖縄で公開講座を開くのは初めてだそうです。広い会場でしたが8割方うまっていて、関心の高さがうかがえました。
 沖縄と京大は昔から浅からぬ縁があることがわかりました。「沖縄学の父」といわれる伊波普猷(いはふゆう)も京大の前身の三高卒業。同期でのちに那覇市長となる照屋宏も京大卒。新しい那覇市役所庁舎が完成したばかりですが、元祖市役所といえる那覇区役所(1919年竣工)は京大の時計台と同じ設計者(武田五一京大工学部教授)。さらに戦前と戦後に那覇市長を務めた当間重剛も京大出身です。
 と、そこで講師の先生からふと漏れた言葉が耳に止まりました。「瀬長那覇市長追放の陰の人物ですね」。アメリカ支配に反対し「復帰闘争」の先頭に立った瀬長亀次郎を追放した陰の人物が当間重剛。戦前市長を辞任して「大政翼賛会」の県事務局長に就任した沖縄の保守の重鎮でした。京大のイメージが一気に暗くなりました。
 これからはいいイメージで京大が沖縄の発展にかかわっていけばいいなあと、京都で学生時代を過ごした者の一人として思いました。

<今日の注目記事>「琉球新報」(20日付)から
 

 「『提出 差別そのもの』-名護市長 信頼性も疑問視」
 防衛省が18日抜き打ち的に辺野古アセス補正書を提出したことについて、辺野古がある名護市の稲嶺進市長が19日、こう語ったといいます。「『丁寧に説明し、沖縄の理解を得る』と言いながら、内閣が死に体状態の時期に事務的な手続きだからと提出することは、(沖縄への)差別そのものが行動で表されたと言わざるを得ない」